思想というものは自己のバックボーンとして
支える役割を果たすが、最初はとても脆いものだ。
とくに若い時は本来のじぶんというものを
つい、メッキで包んでしまう。
そういう僕も、若い頃はピカピカに飾り立てていた。
それがメッキであるとは思いもせずに。
やがてポロポロと剥がれ、鉛の塊が現れてくる。
こんなの自分じゃない、自分じゃない。
しかし、これこそが本来のじぶんなのだ。
それを丸ごと受け止めて初めて、
僕は出発点に立てた気がする。
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それができなければ、また新しい
メッキで覆ってしまってただろう。
それは鉛であるじぶんの否定である。
故に、矛盾した自己はふいに顔を出してしまう。
矛盾というものが本来であることを
肯定しなければ、思想は破綻してしまうのだ。
多分に、一貫性と矛盾との調和からしか
思想はできないのではないだろうか。
揺らいたままの自己の状態を
維持できる流動的なバランスの加減、
まさに背骨(バックボーン)そのものではないか。
思えば、前も悪も固定された存在である。
どちらも完全で絶対な「非寛容な一」だ。
永遠に固定されたものはこの世界には存在しない。
よって、時代と共に、善悪は反転を繰り返しているのだろう。
なるほど、地獄への道は
常に、善意でしきつめられている。
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ブレない思想と言うものは
メッキを剥がし、剥き出しになったじぶんを知る事。
それは矛盾したもの。
綺麗で汚く、強固だが脆い。
しかし、これこそが調和の本質ではないだろうか。
そこで初めて、自分は常にブレる存在だという、
ブレない思想が生まれるのだ。
不純物の入った鉛の自分に、もっと寛容になればいい。
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