2015/09/30

広がる、リゾーム・・・・・だから?





最近、画一化から脱却するチェーン展開が
(ようやく注目を集めているようです。




今、スーパーマーケットが大転換期を迎えた


ITmediaビジネスオンラインより引用




生き残りをかけて新たな戦略を模索  


経営統合などでライバル他社と手を組み、
規模を拡大して生き残りを図るスーパーがいる一方で、
独力でさらなるビジネス成長を遂げようとする企業もある。 







もう1つの動きが「脱チェーンストア」である。
米国発祥のチェーンストア経営モデルを取り込んだ
日本のスーパーは効率性や品ぞろえの
豊富さなどによって消費者の心をつかみ、
八百屋や肉屋といった既存の個人商店に取って代わった。



全国規模にスーパーが広がり淘汰が進んだ結果、
今やチェーンストアだらけになってしまい、
差別化が難しくなったのである。  



そうした中でアンチテーゼとして出てきたのが、
個人経営時代の手法を踏襲して業績を伸ばすスーパーである。



その代表例が東京・世田谷に本社を置く
食品スーパー、オオゼキだ。



同社は他のスーパーを引き離す経常利益率7.8%という
驚異的な数字を出している。その秘けつといえるのが、脱チェーンストアにある。  




同社は顧客を中心に据え、きめ細かい対応をする。
その裏には社内で職人を育成する仕組みがある。



通常のスーパーだと6~8割がパートタイム社員で、
ルールとマニュアルによって管理されている。



しかし、オオゼキは正社員が7割で、
一人一人が自分で考えてオペレーションしている。


人件費はかかり、場合によっては非効率な
やり方も散見されるが、結果としてそうした手法が
顧客の支持を集めているのである。  



チェーンストアという画一的なやり方だったり、
効率性ばかりを重視したりするのではなく、


人材に投資し、顧客に還元する攻めの経営が、
今の消費者に求められているのかもしれない。




~引用ここまで~




unreveのリゾーム概念が広がってるようです。
多分、来年にはもっと加速するでしょう。



ただ、そうなると今度はリゾーム概念が
消費されてしまう。その可能性は十分あります。
(すでに教育分野では消費されつつある)




そのためにあるのが、もう一歩先の「超克理論」。



この仕組みによって真似できない
モデルが作れたりしますので、



独自のチェーン展開を考えてる経営者の皆様、
ご興味があれば、お問合せくださいな(゜゜)と。




2015/09/29

否定し離れるか、それとも肯定し寄り添うか②





前回に続き二回目です。
一回目はこちら




人間万事塞翁が馬。
昔の人は、実にうまいことを言ったもんだ。



我々の(外部の)吉凶・禍福は常に
変転するものなので、予測することはできない、



所為はおかげに、おかげは所為になる
これは後から振り返って初めて、分かるもの。



部分(現在)を切り取り、禍福を決める
決定論者はいつの時代も一定数存在するが、



それは表層的、客観的出来事に対し、
一喜一憂したり、さも悟ったと思い込んでいるだけである。



なるほど、常に自分の頭とのおしゃべりを
やめない人からすれば、予想通りの結果であるが、



物事は直線と曲線という、相反する
二つが補完されることで形成されている以上、




それは一つの動きを切り取った「写真」にすぎないのだ。



これだけ見ても、何も分かりませんよね





前置きが長くなりましたので、
そろそろ本題へと。




☞☞☞





坂口安吾は著書「堕落論」において、
その自意識(堕落)の境地を描いているのだが、
安吾自身も現実(自我)を完全に肯定していたわけではない。



自我がどうしようもなく下らないのは
小林同様、十分に解っていた。



しかし、それと真剣に向き合うこともなく
人間社会は理解することなんかできない。



その自意識の「どうしようもなさ」から
作られているのが、近代のリアルな現実である以上、



その「どうしようもなさ」を真に理解することを
止めて(逃げて)しまえば、その知識にはなんら
価値がないと、安吾は確信していたのだ。


故に自ら堕落し底を眺める、と。
これが安吾の覚悟である。




だからこそ、自意識の摩擦から逃げた小林を
「教祖と変わらないではないか」と批判したのだろう。



まさにそれは、小林と坂口の前提、根幹の
決定的な違いである。




☞☞☞



シモーヌ・ヴェイユの「根を持つこと」とは、
魂の根源からくる生命的欲求であるとし、
アランはその魂は肉体を拒絶している「ナニカ」だと言っている。



小林も同様、肉体五感を伴った
「自意識の基礎」は、基礎として不十分だとした。



自我を中心とした葛藤をいくら深く掘り下げて
言葉に描いたところで、そんな文学は何の役も立たない、と。



小林は現実が観え過ぎていた結果、
現実を見下して(見限って)しまったのだろう。




小林は誤解や批判ついて
誤解されない人間など薬にも毒にもならず、
そういう人は、何か人間の条件において、
欠けているものがある人だ、と言っている。



「毒」になれないものなど「薬」になることもできない、と。




なるほど、我々一般大衆からすれば、
スピリチュアルやら宗教やらにハマっている人たちは
正常ではなく、異常な思想だと思うのだが、



それを盲信する信者からすれば
むしろ一般大衆こそ、狂っているという立場を変えないのは
似たようなものである。




しかし、単に盲信するのでは
バランスの喪失に他ならない。



オウムしかり、テロしかり、独裁政治しかり。
自意識は正気と狂気の間を彷徨ってしまい、
そのベクトルはメビウスの環よろしく反転する。



科学者や哲学者は発狂寸前で
宗教(形而上)へ向かう人が多いのだが、



それは鮮明な理論(正解)を求め、突き詰めた人が
もれなく陥る落とし穴である。




大事なのはそのどちらもを理解した上で
自らの個性によって決定された肯定的「意思」ではないだろうか。



まさに毒を喰らわば皿まで、である。








僕は今いる「あいだ」という位置を
結構気に入っている。



なぜなら、毒にも薬にもならない状態とは
毒も薬もいつでも選べる自分という、可能性の担保なのだから。



よって自我も自己も大肯定はしない。
各自めいめい、好きにすればいいだろう。



そのどちらからも眼を逸らしてしまえば
大事なものが得られることもないと思っているが、



真に大事なものは、意識的に掴もうと思わなくても
勝手に気付くものだという深い確信がある。




深海に素潜りする気はない。
浜辺で貝殻を拾うくらいで(今は)丁度いいのである。




超月!




昨日は満月。
しかもスーパーなムーンだったようですが、








僕からすれば、こんなもんです。





ベタ









これ、帽子かぶった子供に見えますね。
さっき気づきました。



コエ~(゜゜;)










からのパーティ笑






からの、一人月見








以上です。
ご清聴ありがとうございました





なんだ、この記事・・・・

2015/09/28

否定し離れるか、それとも肯定し寄り添うか①



人の考えや生き方の指針というものは
さほど変わることがない、



それは1000年前の問いと今の問いの
根幹が変わっていない、ということだろう。



つまり正解がないものに対する解釈の仕方が
時代と共に変わっているだけのことである。



一見、当たり前だったことが
実は不思議そのものだったのだと気付く。
よくあることだ。



それは解るという言葉が螺旋階段のように、
次々と上がってくる性質を持っているからに他ならない。



なるほど、九九を覚えた小学生と
相対性理論を完成させたアインシュタインの
口にする言葉は、どちらも同じ「解った」なのだ。




さて、僕はいったいどの階段から
「解った」と叫んでいるのだろう。



今日はそんなところから。。。。









現在、「形而上」と「現実」との折り合いであったり、
心と頭の折り合いが求められている。



僕はその違いを違いとして認める以外、
同居する道はないという考えだが、



どうもそれでは気が済まない人たちがいる。
程度の違いこそあれ、世の常だろう。



なるほど。彼らは絶望を経験したからこそ、
気が済まないのかもしれないし、



逆にまったく経験していないからこそ、
そう言ってるのかもしれないが、
はたして、どこまで解っているのだろうか。



まさか九九の時点で絶望したわけではあるまい。




☞☞




何事もそうだが、平和な快晴時には
誰もが美辞麗句を言えるものだ。




問題はその安定が崩れた時である。
個人の魂のようなものは、そこで露わになる。



小林秀雄と坂口安吾はが作品を出したのは戦時中、
空襲により、頭上に爆弾が落ちてくる時代の最中
自分との折り合いをつけた。



小林は自我(自意識)ではなく無私へ。
坂口は無私ではなく自我(自意識)へと向かったのだが、



それは否定し離れる側と、肯定し
寄り添う側との立場の絶対的な覚悟の違いである。



故に、その対立は永遠の水平線となる。
そこには理屈を抜きにする以外、理解する方法はない。



これが「解って」初めて、多様は多様として
棲み分けることができるのではないだろうか。



☞☞



こういった折り合いが求められてきたのは
明治以降、国家主義へ偏在してくにつれ、
ますます強くなっていった。



それは(弥栄モデルで言う)「揺り戻し」。
国家主義(一)の反発である、近代的自我(多)である。



そんなアンチテーゼのまま、自己を内面的に
掘り下げる「自意識」など、表面上の摩擦や衝突しか起こらない。



なるほど、多分に小林が感じたのは
そんな自我の不完全性だったのだろう。



「わたし!」と「わたし!」が前提である以上、
いくら衝突したとしても、そこには何も出てこない。
故に、早々に見限ったのだ。



半面、安吾はその「わたし」の衝突こそ、
現実の生活であり、その衝突した体験の中には、
小林が見落とした豊かな可能性が秘められているのだ、と言う。



(フィクション・ノンフィクション含め)
あらゆる物語はそこから派生しているのであって、
そんな人生ドラマを描くことが近代文学であるが、



ここに果たして、豊かな可能性というものは
あるのだろうか。




☞☞



小林は自分が信じる道を選んだ。
自我なんてものは、どれだけ深く追及したところで
自分にも他人にも折り合いが付くものではない。



現実の生活(自我)と戦うことはせず、
そのまま肯定したほうが良い、と。



小林は「生活」と「創作」を分離させたのだ。



モーツアルト、ゴッホ、本居。
小林は過去の天才と呼ばれた芸術家や思想家と
同一化(無私)しているが、



それは彼らが見る「まなざし」そのものとなることで
その世界へと没頭していく創作への態度である。






長くなったので、次回に続きます(゜゜)



2015/09/26

お祭り日記




こんにちわ


















祭りでござるな








・・・・・てなわけで
(言いたかっただけ)







先日、太宰府で行われた
神幸式大祭にいってきましたぜ(´▽`*)






ちなみに上の鎧は戦国武将グッツ専門店
武将館」さんにあります。







こんなやつとか売ってて、面白いお店です。











奥には太宰府ならではの





いますぐ黒田官兵衛~






結構リアル(笑)






駅からすぐなので、観光の際は
立ち寄られてみてはいかがでしょうか(´▽`)




☞☞☞





出たのが遅い時間だったので、
そそくさと目的地に向かいます。









今回は、菅原道真公の御霊を慰め、
五穀豊穰の祈りを込める神事なので、
出店みたいなのは出ないんですよね。






そんな中、売ってあるのが




提灯!





これ持って、管内を歩きます。
風情ありますな~。




太宰府観光経済課さん、ぐっじょぶ!
良いアイデアだと思います(´▽`)





ロウソクってとこも良いね






今日は風もなく、千灯明も大丈夫でしょう。













☞☞


というわけで、目的地に到着。





太鼓橋に灯された千本のロウソクを明かりにして、
心字池水上の舞台で巫女たちが神楽を舞います。





なんとか間に合った(;・∀・)





前回のように、時間と同時に外灯がすべて消え、
向こうから少しずつ明かりが灯されてきましたよ~。







感動したのが、ずっと朧月だったのが
開始と同時に・・・・








お月さん出とる!







月明りとロウソクだけで、
こんなにも明るくなりました♪






そして、水上の舞台では神楽が。







風がないので、綺麗に池に映ってますね。










実に幻想的でした。








明日の朝が早いので
今日はこれにてご免( ー`дー´)









また来年お会いしましょう~


2015/09/23

たまたま、なんとなく作られたもの



以前の僕は自分の人生は自分が全て
創造している、できると思っていたんですが、
今は全然そう思ってません。


もちろん、創造はしている。
しかし全てではないな、と。


例えば、今こうしてブログを書いているんですが、
書き出した行為は予め予定されていたものではなく、
偶然、たまたま、なんとなくです。


見ている読者の方もそうじゃないでしょうか。
少なくとも数時間前はこれを読むという
選択肢は頭になかったと思います。
あったら、すごく嬉しいけど(笑)



そんな僅か数時間前の行為であっても、
決定し、予定しないのが「日常」である以上、
自らの意思ですべてを創造してるとは言えない。
そう思ったんですな(゜゜)


意識的活動ってね、ホント僅かなもんですよ。






もちろん大枠ではある程度の予定は
コントロールできる。しかし狭義で考えれば
それは確実ではない。


その証拠に何かをするつもりだったけれど、
やらなかった時の方が日常の大半を占めますよね。


気分が乗らないからやめることあるし、
急に電話やメールが入って、後回しになったり。
逆にちょっと見るつもりが、芋ずる式に
何時間も集中して見てしまった、という時だってある。
それは習慣や怠惰が原因ではないでしょう。



そんな偶然の累積である「未来」は
その流れにおいて限定された「ある具体性」を持った
「いち環境」だといえるんじゃないかしらん。



曖昧な精神によって作られた環境を
我々は必然のものとして受け止め
その切り取った代替え不可能性において、
必然性を持った可能性が、世界に応対している。
こういった「自ら」の意識と「自ずから」という
無意識が複雑に入り組むことが人生である以上、
万能感だけでなくある種の(信仰的)無能感を、感じてしまいますね。



☞☞


多分に、自意識を超えた所に
抗えないナニカの流れがある。



例えばリチャード・ドーキンスが作った造語「ミーム」は、
別名「模倣子」、精神のやりとりのことで、
氏はそんな、我々の心の奥に浸透した
ミームが文化であったり、歴史を作ってきたのだと言います。



まさに歴史創造の種子。
遺伝子にとても似ていますよね。
遺伝子内のパターンで自分の姿形、
血液型や髪、肌の色などが決まるように、
ミームによって行動のパターンが決まる以上、
自分以外が「決定権」を持っている、と。



なるほど、自分の力では肌や髪の色を
自由に変えることができないように、
自分が所有していることと自分の完全な
管理下であることはイコールではないのでしょう。
ちなみに「優れたミーム」は人の心や習慣を
変えてどんどん広がって行くけれど、
優れたミーム=優れた考えじゃない、と言います。



面白いね。
そんな歴史を動かしてきたミームは
我々をどこに連れていくというのだろう。




秋の夜長、その妄想は
抗いつつ、流されていきます。






2015/09/22

9月22日、つぶやき





極論かもしれないが、
人間関係というものは信頼ありき、
信じ合えなければ必ず終わりを迎えるだろう。



それは物質面ではなく精神的な支え合いであり、
他人の痛みを感じる心があるかどうかの違いである。



他人の不幸は蜜の味がする人は
その痛みを感じていないからに他ならない。



では悪党の不幸かどうか。
天罰よろしく、胸が晴れるではないか、と。



無論、僕も腹の中でざまあみろと舌を出すだろう。



しかし、その悪党というものの定義が
単に自分にとって都合の悪いものだけならば、
また話は変わってくる。



ここに内省の本来がある。




つまり内省とは、見る対象のことではない。
それを見る自分自身の「まなざし」そのものである。



そのまなざしを疑うことなく、自己正当性を
押し付けるならば、この世界は四面楚歌の
不自由な世界に映るのは間違いない。




自他の間に存在する距離と、その加減を忘れない配慮。
これが信頼や自由に通じるのではないだろうか。









我々が話す言葉も同様、話す本人が
まず信頼されなくては、その言葉に力はない。



どれだけ内容があろうが、感情が動くような
メッセージを発信しようが、その信頼の担保は
本人の生き様であり、あり方である。



なるほど、言葉とお金が似ていると言われるのは、
そのどちらもが「信用」によって成立し、それが
増殖しながら「流通」する性質だからだろう。




見れば、今の言葉は流通と増殖だけである。
インターネットを見れば、そこには肝心な部分である
発信者との(への)信用関係がない。




それは匿名性によるものだろうか、
それとも上記のような正当性のまなざしのせいだろうか。




いや、多分にその理由はもっと違うところにある。
多分、それこそが現代の根幹であり欠陥なのだろう。






2015/09/20

平和ボケって、ダメなのかな




以前、政治は祭りであった。
ここで言う祭りとは奉仕のことを指す。



祭事と政事は奉仕する対象が違うだけであり、
どちらも奉仕事(まつり)であることには変わらない。
本居宣長は、古事記からそれを見出した。



祭事では神に奉仕し、政治(政事)は
天皇に奉仕する。しかし神も天皇も直接的に
何かをするわけではないということだ。



そこで祭り上げる者(今でいう安倍)が
その実務を行う。古来、この国はそんな二重構造の
統治国家である。



これは株式会社も同じ構造。
株主は直接、経営に手を出すことはないが、
経営者を解雇できることから、最上位に位置するといえるだろう。



この構造はあらゆる分野の土台になっている。
企業だけでなく、学校(学問)や軍隊もまた同様だ。



いわば問答無用の「構造体系」であるが、
それは権力という満ち足りることを知らない
怪物を作ってしまいがちである。



僕はここにリゾームという一石を投じている。
それは脱構造ではなく、反構造でもないのだが、



上記のような怪物たちからすれば
脱構造であり、反構造であると言えるだろう。




さて、ブログでは政治のことはあまり
触れないようにしようと思っていたのだが、
今回少しだけ触れてみたいと思う。









先日、安保法が成立したようだ。
各新聞を一通り見たが、内容の二極化から
メディア構造が手に取るようにわかる。



読売と朝日と産経は賛成派、
これら三社の記事は(いつもそうだが)、
非常に恣意的な書き方をしているので、
見るだけで悪寒がする。



かといって、他紙が良いとも言えない。
これは自民より民主が良いと言えないのと同じことだ。



そもそもが不正(選挙)である以上、
この国の政治はショーであり、パフォーマンスである。



いくらデモをやろうと、選挙で信を問おうと、
結果が我々の意図する方向に向かうことはないだろう。



雑草を抜いたとしても、根が残ればまた生える。
異常なものが異常であることには変わらない。



「民主主義なら選挙(多数決)で決めよ」
それが民意だという意見は一見ごもっともだが、



こちとらその制度自体、そもそもの前提が
民意の外で作られているのだ、と言っているのだ。



☞☞☞



さて、見れば集団的自衛権を行使した国は
もれなく動乱やテロ、戦争が起こっている。



ベトナムしかり、ニカラグアしかり。
ハンガリー動乱やプラハの春も同様である。



これは国民を助けるために作られたものではない。
権力者を擁護する為、権力者が自ら作ったものである。



この背景は長くなるので割愛するが、
やがて「徴兵制も仕方ない」と言い始める可能性が高い。



法を変えたのも、そのための口実である。
変えてしまえば、きっかけなどいくらでも作れるのだ。





なぜ、これほどまでにグローバル化(統一)を
盲信してしまうのだろうか。



レヴィ・ストロースは、多様な文化が
混合すれば純粋な種としての生存能力が
低下するので、多様な文化の「間」の距離を取った
全体最適としての多様性こそ、重要だと説いている。




端的に言えば日本は日本の伝統文化、
アメリカはアメリカの伝統文化を維持しながら、
共存するという「統合」への道である。




和すれど同じる必要などない。
僕がやってる事業のレーゾン・デートルもここにある。




☞☞



よく、失われた20年というが、
失われたものとは、いったい何だろうか。



経済だろうか?国益だろうか?
否、本質的に失われたのは我々の精神である。




それは以前書いたように切実の切実さ。




それを喰らい、死にかけた歴史があるからこそ、
我々は直接食べることなく、それが「毒キノコ」だと
認識することができていた。



どんな理由であれ、社会背景であれ食べない。
ここに問答など無用なのではないだろうか。




平和ボケ、良いではないか。
戦争狂いより、100倍ましではないか。




理想論が批判される理由は
そこへ向かう具体案が示されないからであるが、



逆を言えば、それがあれば良いだけの話である。



2015/09/18

思想は呑んでも呑まれるな!



書を読まずして、何故三年も心法を練るか。
書の真意を知らんが為である。


それほどよく古典の価値は信じられていた
事を思わなければ、彼等の言う心法という
言葉の意味合はわからない。


彼等は古典を研究する新しい方法を
思いついたのではない。心法を練るとは、
古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。


仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、
徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、
宣長は「古事記」をという風に、


学問界の豪傑達は、みな己れに従って
古典への信を新たにする道を行った。


彼等に、仕事の上での恣意を
許さなかったものは、彼等の信であった。


無私を得んとする努力であった。
この努力に、言わば中身を洞にして了った
今日の学問上の客観主義を当てるのは、勝手な誤解である。 



小林秀雄 「本居宣長」より





こんばんわ、坂口です(゜゜)
食欲、読書、芸術の季節ですね。




読書と言えば、これだけ情報が溢れているにも
関わらず、我々はさらに知識を吸収しようと
本を手に取り、ネットを検索します。




これって考えたら凄いですよね。
「何かを知ること」とは金銭欲と同様、
底が抜けてるんじゃないかしらん。




ただ、なんでもかんでも知ればいいって
もんじゃない、




なぜならそれは「手段」だから。




もちろん、小説のように読むこと自体が
目的になっているものもありますが、



端的に言えば、読書とは他人から
何かを考えてもらうことでもありますからね。




今日はそんなところから。。。









さて、ショーペンハウワーの著書「読書について」は、
まさにそのマイナス面を書いてます。



例えば、多読な人間は勤勉ではなく、
次第に自分の頭で考えることができなくなるのだ、と。



故に「いかに本(情報)から離れられるか」が
大事だと言います(僕の回帰論と同じですね)。




これは現代病理といえるでしょう。



学ぶことが目的となっている人にとっては、
耳が痛いでしょうが、学びは必ずその先に目的があります。



その目的を達成するのはあくまでも
「自分」である以上、学びとはその素材の一つに過ぎないのです。



ブログでも読書でもなんでもそうですが、
何かを読む行為とは、他人の考えた結果の
後追いをやっているだけであって、



今までの画一化、大量生産の時代であれば
そんな共通の正解を守ればよかったのですが、
これから必要となるのがこの「プロセス(主体的経験)」ではないでしょうか。



現在、合理・効率が重視されているため、
こういった「過程」をすっとばしたものが
重宝されているんですが、



過程をしっかり踏んでいる人と、そうでない人は
圧倒的に厚みが違う、話してみれば明らかです。



例えば、プロセスなく、他人の言葉に埋め尽くされた
人は簡単に断言してますね。



「ああすれば、こうなる」。
「これはこう、それはそう」と、容易く言い切ってしまう。



ただ、それはあらかじめ用意されたいた
「正解(っぽいもの)」を右から左に流しているだけ。



だからこそ、そこに疑問符など起こらず、
ハッキリと言い切れるんですね。



逆にきちんと考えた人は、流動性(編集)を是とします。
「正解など用意されていない、だからそれを作るのだ」、と。



しかも「その正解すら」いつか変わると思ってる。




まさに流れ(拍子)の中、即興的に変えることだけが
正解だと分かっているのでしょう。




日に新たに。
この精神、心構えが日本流です。




☞☞



ショーペンハウワーは他にも
「悪書は読むな、天才の作品を熟読せよ」と言ってます。



なるほど、小林が人から「何から読み始めればいいか」
と聞かれた際、トルストイから読めと言っていたのも
こういった理由からでしょう。




なぜなら精神とは科学のように
日進月歩のものではなく、居座っているものを
捕まえるようなものだから。



例えば、いくら時代が進歩したとしても、2千年以上前に
書かれた「論語」を超えるものが出てこないように、
それは進歩とは違うところにあるんだと思います。



よって時代が古かろうが、精神は古びてない。
むしろ、今だからこそ輝くものだってあります。



逆もまた然り。
昨今の「最新」など、サイエンスで十分です。








我々は咀嚼がないままの状態で特定の人が
書いたものを読み続ければ、その書き手の
考えや、思想に必ず影響を受けます。



好むと好まざるとにかかわりなく、そうなってしまう。



これを共感と呼ぶ方もいるのですが
どうして、結構危険なものですよ。



なぜならそれは見るのではなく「見入る」。
見入るとは「魅入る」ことと同義です。



見入ってしまえば、影が響く。
あり方そのものが変わる可能性があるんですね。
(プロパガンダなど、まさにそう)



本来、そういった他人の思想を
知る事とは、本来の自分(根幹)を理解する為。



他人という鏡を使わなければわからない。
そのための「素材」なんですね。




サイズの合わない服を着た時、
なんとなく感じる着心地の悪さは
誰もが経験したことがあるでしょう、




読書もまた、他人との差異、「違和感」こそ
注目すべき部分じゃないでしょうか。




もちろん、似たようなタチの人が
書いたものは共感するのですが、





言ってる事を全部、共感してるのなら、
まず魅入ってるといえますので、そこはご注意をば(゜゜)




2015/09/17

ご紹介




クックパッド開発者のブログに
組織構成のことが細かく書いてました。




調整の心得




調整の概念が素晴らしかったのでシェアします(´▽`)

2015/09/16

こぴーろぼっと







この間、生まれて初めて
アカスリに行ってきたんですがね、





予想以上に荒かったですわ。
消しゴムに消される文字の気分。









これで顔とかこすられた日にゃー、
顔のパーツ全部、無くなっちゃいますわ。









まあ、おかげで全身が
ピカピカになったんですけどね。













あっ、









失礼。挨拶が遅れました。











改めましてこんばんわ。


























坂口です





















えっ、誰かわからないって?















んなわけあるかい
ちょいちょい自撮りアップしとるがなwwwww











えっ、ホンマにわからん?










しゃーないな、
じゃあ、ブログのプロフィール画像と
同じポーズとったるがな。











ええか、よー見とけよ








・・・・・・・ほっ!














んんん・・・・









むほっ!!




はっ!!











ギリギギリギギ・・・・・・・











いたいいたいいたいいたい












痛いわー!やめやアホ!!!










痛(つ)ー。










2015/09/15

お祭り日記~後編~




お祭り日記後編です(´▽`)







とまあ、本堂までの道のりが予想以上に長いので
本道を逸れて、出店を回ることに。












ほんと、多種多様な屋台ばかり。



本格的なカフェの屋台もあるんですよ(゜゜)





いつも出てる激安の天然石アクセサリー屋さん!






やっぱ怪しー(´▽`)





そういや、このお祭りは
「新生姜」が売りなんですが、




これだけの屋台の中、
2つくらいしか出てませんでしたね。



確かに、若者は買わないですよね。。。





ちなみに僕は、
いつものやつを購入。



冷やしパナポ!





うきー(≧▽≦)







あと、鰻で有名な柳川の店が
「鰻巻き寿司」売ってたんで、それも買ってみました。




せいろ蒸しのご飯を使ってる
豪華な巻き寿司です。






これ、普通に売ってても買うレベル。







ぬっ、なんか新しいの出とる!







馬肉と赤牛と黒豚のソーセージだと!?





なるほど、熊本から出店してるようです。



一番気になった馬肉を買ってみました。




馬し(≧▽≦)!






「馬並みに大きいわ~」
と、エロトーク全開で歩いてたら









もっとすごいヤツおった









これは・・・・(; ・`д・´)特注?








たぶんあれだ。





ガンダム用だ。






☞☞




というわけで、小腹を満たして
メインストリートに戻ったんですが、
いっこうに人が減る気配なし。










いつもは20分くらいで着くのに、
一時間以上かかりました(゜゜)




よーやく本宮へ到着






ただ、そこからの参拝がまた長い(泣)






よーやく参拝終了~(´▽`)
かれこれ2時間以上かかりました。






帰りに肉男になる予定でしたが、
その気力もなく、





この日は近場にある
スーパー銭湯に行って終了です。













というわけで皆様、





また来年お会いしましょ~。。。。








疲れた。。。m(__)m