2011/10/11

奇跡のリンゴ

奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録 (幻冬舎文庫)/幻冬舎
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リンゴ栽培には農薬は必要不可欠、
これは誰もが信じて疑わない常識であった。


しかし、その常識を覆したに男がいる。
「奇跡のリンゴ」で有名な、木村秋則氏である。



奥さんが農薬の影響によって体調を壊した事から
彼は無農薬栽培のリンゴを作ることを決意した。



当然、何度も何度も失敗を繰り返す。
虫は葉を食い、花や芽は季節外れに咲いてしまう。



それでも木村さんは諦めなかった。
明確な動機があったからだ。



しかしその情熱を試すかのように
一向に無農薬のリンゴは生まれなかった。



☞☞



約10年の歳月が経ったが、
それでも一向に成果が実らない。



次第に周囲の農家からも孤立、借金は増すばかり。
極貧の生活の中、子供たちは一つの消しゴムを切り分けて使った。



私財も底をつき、精神的にも物質的にも
限界となった木村さんは、ついに自殺を決意する。



妻を元気にしたい、という動機であったのに、
なんという残酷な現実だろうか。



ここまでは誰もがそう思うだろう。



☞ ☞



木村さんは祭りの後、1人山に向かう。
首をくくるロープを「とあるくるみの木」へ投げ入れた。


しかしロープは引っかからず地面に落ちる。
それを拾おうとした木村さん、そこで「あることに気付く」。



その自生したくるみの木は枯れることなく、
害虫も発生していない。



そこで疑問が起こった。



死ぬ寸前であったにも関わらず、「それ」は自然に湧きあがったのだ。



なぜ山の中の木は肥料も農薬も使ってないのに
こんなにも青々しく茂っているのか?



ハッとした木村さんはその土を手にとってみた。
そして自分の畑の土との決定的な違いを発見する。



「土だ、土が違ったんだ」



まるで天啓を受けたかのように、その足で畑へ向かい、
その後ついに「奇跡のリンゴ」が生まれた。




地獄の中に光明を見たとは、まさに事の事である。


☞☞



これが途中で常識に縛られたり、
知人たちの助言に従っていたとすれば、
奇跡のリンゴはこの世に存在しなかっただろう。



どんな分野であれ、ある専門性を特化すれば、
必然的に既存の知識によって「自縛自縄」となってしまい、
場合によっては「他縛他縄」となる。



帰納的形式知において成立する専門家達の業界が
タコつぼ化するのも、こういった事が理由である。



しかし、このように根拠も何もない所にこそ、
奇跡的な発見や常識を覆すアイデアが起る。





僕はこの話がとても好きだ。
その事実を経験したら、強くなれる気がする。







根幹を変えよう2





さて、理念の欠如とは、言うなれば
屋台骨の喪失を意味します。



思想哲学の拠り所がなくなってしまえば、
存在意義さえも消えてしまうでしょう。




それは原理主義とは違います。
とても似ているけれど、根本的な部分は異なっているのです。



理念共有は「個人尊重」があってこそ。



時代と共に変わる「日々新た」。
古いようで新しい、温故知新のロードマップが理念なのです。



☞ ☞




理念が原理主義となれば、
異質が入り込む隙間はありません。



現在「多様でフラットな職場」という
スローガンだけが、ひとり歩きをしているのですが、



多分、9割以上の組織は階層型のはずです。
肩書きをもった人に決定権がある以上、フラットではない。



その状態で異質を取り込もうとしても、
不整合を起こし、かえって混乱するでしょう。



「ではどうしたらいいのか?」
これについては企業ごとに違うのですが、



いきなり全てを変えてはいけません。
まずはモデル部署(チーム)を作ることです。



フラット化させたその部署は分社という概念、
そこには責任と権限を持たせることです。
(詳しくはお問い合わせのほど)




異質とは均質にならないからこそ異質、
単に、社外や中途を採用することではありません。




組織母体が1000名の中に異分子を
数十名いれたとしても、大河に一滴のしずくを
たらすようなもの、効果は期待できないでしょう。




生身の人間の集合体が組織である以上、
時間をかけて風土を作る以外、道はありません。




トップが近視眼的な不安に耐えきれず、
短期的な結果を求めはじめた途端、
それまでの努力は全て水泡に帰しますので、






理念によって、ぶれない軸を作ることが
最優先事項なんですね。




2011/10/03

それはパンのように

民主主義や自由の権利について
よく引用される言葉があります、


私はあなたの意見には反対だ、
しかしあなたがそれを主張する権利は命をかけても守る。


フランスの啓蒙主義の哲学者である
ヴォルテールが述べた、と言われます。




今回はそんな自己主張についての小話。












多様性に伴い、主義・主張は自我だと批判されています。
「それはあなたが勝手に思ってるだけでしょ」という事。


たしかに行きすぎた主張や権威を持った主観は
宗教的で危険な性質も持っていますが、



逆にそれがなければ我々はどこへ向かっていいのか
全く分からなくなります。



また、その先に「喜びや豊かさ」がなければ
誰もがそこへ向かおうと思いません。



問題はその主張の先にある「ビジョン」が
どれだけ価値を持っているか、それに尽きるのではないでしょうか。


また、その価値こそ主観を超えたものであって、
超える、ということは横軸ではなく縦軸。


つまりその言葉を裏付けする深さであり本質であり
政治家のマニフェストのような広く薄っぺらいものではないのです。


☞ ☞ ☞

人間とは挑戦と失敗によって得られるものがあります。
それは本物の喜びと「人格」です。



よって人格というのはパーソナル(個人・私的)ではなく、
何かしらの行為によって育まれれる後天的なもの、



よって私の思う魅力のある人とは両義的な経験から
鍛えられた精神性を得た方々の事です。



それは安楽や怠惰、そして平穏のどかな環境では
なかなか成熟できないものではないでしょうか、



苦しみや困難、孤独や絶望といった経験によって
精神性の年輪が深まり、人格と成る。そんな気がします。



人格は石のようにそこにある。というものではなく、
パンのように日々、作られるもの。



常に作られ、直され、新しいもの。
そんな動的なイメージがあります。



逆境が人に与える教訓ほど、麗しいものはない。
これはシェイクスピアの言葉です、



「苦や不」という概念はできれば避けて
取りたいのが心情ですが、



そこには「楽や喜」では決して手に入らないものが
手に入るんですね。