2013/12/08

偉大なる解放者へ

このブログを書いている時、
ネルソン・マンデラ氏が亡くなりました、95歳だったそうです。



映画を見た人なら分かるでしょうが、
彼は信念の人であり、その人生は私達に勇気を与えてくれます。


今日はそんな偉大な指導者の小話。



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ネルソン・マンデラ氏は差別の法律である
アパルトヘイトの撲滅運動に生涯をささげた人物です。


今でこそ、黒人と白人は平等ですが、
昔は法律によって差別されていたのです。



住む場所も、医療も、公共施設も、
さらにはトイレまで違っていました。



それが理不尽だと思うのは当然の事です、
マンデラ氏はその法律を無くそうと働きかけます。


しかしその運動が政治への反逆だとして逮捕、
なんと27年もの間、投獄されます。


想像できるでしょうか?
何も悪くない、正しい事をやってて約30年間
家族や友人と離れ離れになり、一人牢獄に入れられるのを。



普通の人ならその恨み、消えるものではありません。
しかしマンデラ氏はそうではなかったのです。


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ようやく釈放されたマンデラ氏、
70歳となっていました。



それでも彼は諦めませんでした、
まさに信念の人というべきでしょう。



当時の大統領であったデクラーク氏に対し、
マンデラ氏はこう言ったといいます。


「異なる人種・集団が1つの国家に同じ忠誠心と愛を捧げるという、全世界にとっての輝かしい見本がここにある。国が抱える問題に一緒に取り組んでいきましょう」。



この器の広さ、寛大さが心を動かしたのでしょう。
やがてデクラーク氏と共に、アパルトヘイト撲滅を勧めます。



1993年にはノーベル平和賞を受賞、
そして翌年には南アフリカ初の全人種参加の大統領選挙により
初の黒人大統領となったのです。



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大統領に就任したマンデラ氏は
白人に対し、何も復讐しなかったといいます。



約30年の時間を奪い、牢獄で生活されられていたのに。
そして大統領と言う、最高権力を持ったにも関わらずに、です。



その後、権力に執着することなくわずか一期で退任。
退任後は様々な基金・財団を作り、子供や若者達の支援をしたのです。



まさに国の指導者の見本ではないですか。
日本の政治家達よ、利権に走る己の恥を知り、
その襟を正しなさい。



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人間は何に人生を賭けるか、それに尽きます。
それはやっている内容の大小ではありません。


家庭でもいい、仕事でも良い。
何でも良いから「情熱を注げるもの」を探してみませんか。



不埒な動機でない限り、
その情熱は人生を豊かにすると思っています^^




偉大なる指導者であるマンデラ氏のご冥福をお祈りします。
最後に私の好きな氏の言葉を。








門がいかに狭かろうと いかなる罰に苦しめられようと
私が我が運命の支配者 私が我が魂の指揮官なのだ。







2013/11/25

美意識と葉隠

今日は11月25日、
そういやあの事件はこの日に起こった。


今から43年前の1970年、知る人ぞ知る楯の会事件。
三島由紀夫は当時45歳であった。


もし生きていたとするなら現在88歳、
この豊かで貧しい時代を見て、三島は何を思うだろう。



今日はそんな小話。



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三島の文学の根幹は葉隠の思想。
日本、及び日本人の衰退に向けられた警告でもある。


武士道といふは死ぬ事と見付けたり。
二つ二つの場にて早く死ぬほうに片付くばかりなり。


三島はそこに人間(日本人)の気高い精神性を見た。


哲学は死への予行練習と言われるが
葉隠には存在理由と、その証明があるというのだ。



僕は未だにそれが人間の理想なのかどうか
分からない。



氏の言う
「本物の美は人々を沈黙させる」というのは理解できるけれど。


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戦後、アメリカに諂い、西洋思想へ向かう日本が、
三島の観念の中に存在する美しく強い日本と大きくかけ離れていく。



それが耐えがたいものだったのだろう。
そんな国粋思想はあの「金閣寺」以降、さらに加速していく。


矛盾、それがとにかく耐えきれなかったのかもしれない。



感性が鋭い人ほど、その鬱憤を何かに昇華させていた。
偉人の伝記を見れば、大抵感性の蛇口が壊れているのが分かる。


三島由紀夫にも同じ事が言える。
個人的な意見だが、文学による昇華だけをやってほしかった。



理由や思想はどうあれど、形而上を持ち出し
死んでしまうという結果自体、どうやっても覆らないからだ。


ただ、生前のあの異常な量の作品からすれば
三島には、それが不可能だったということも分かる。



内部を昇華する為には、ロゴスだけでは足りなかったのだろう。




三島が予想した無機質で空虚な経済大国論は
もしかしたら三島自身、それを否定していたのかもしれない。






こんな私にだれがしたとでもいいましょうか。
何者かがこうさせてしまったのです。私もこんなにはなりたくなかった。



2013/11/21

情理を兼ね、情理を尽くす。

こんばんわ、坂口です^^



今月も気付けば21日。
あっという間に終わりそうですね。




老い易く、成り難し。
昔の人は、実に上手く言ったもんだ。



とまあ、オッサンの呟きはこれくらにして(笑)
今日は練成講座の一部を
資料を元に、ご案内しようかなと思います。




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さて、unreveでは理念を重視していますが、
それを支える根幹は感性であり情緒です。



エモーショナルと言うよりも真心、
そんな経営をうちの方では「情の型」と呼んでまして、



逆に理念なんていらないよ、
経営はシステムであり方程式だよ。
って言う人を「理の型」と定義しています。




理の型の傾向が強い人は、
「やりたい・やりたくない」ではなく、



「売れる・売れない」という手段(結果)が目的なんですね。




必要なものを事前にリサーチし、
「市場」から、「短期的」に、「獲物」を、
「効率よく見つける」ことが最大の目的ですので、
「売りたいもの」よりも「売れるもの」を優先する、と。



もちろん、独立一本で食べていくには、
早いキャッシュフローが必要なので、
その理論を選択するのは正しいのですが、
今のように「集める」という概念が
非常に難しくなっている時代では
博打のようなものになる可能性があるんですね。




なぜならそこには感性、「動機」がない。
「これを広げていきたい」という原動力が
「売れないと」継続的に起こらないのです。



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反面、情の型は耕す場所を決めるまでに
けっこうな時間がかかる場合がありますが、
いったん「ここだ!」と決まったら黙々と
未開拓地を耕し、地道に育てて行くことができます。



つまり短期的な成功と言うよりも
「着実に実をつける」ことを目指しているということです。



そんな情の型のやってることは
理の型から見ると、あまり好きになれません。
(逆もまた然り)



個人の感情に左右されるし、
キャッシュに直結しない「無駄」がある、



それじゃボランティアじゃないか、
慈善活動じゃないか、自己満足じゃないか、と(笑)



それより市場を見よ、効率を上げよ、
システム化せよ、と合理的に進めたがるのです。



繰り返しになるんですが、これはある意味正しい。
というか、かなり正しい(笑)



正しいけど、持続可能な事業の根幹は
「情」からの派生ですから避けて通れないんですね。
仮に避けて成功したとしても、途中で必ず
「やりたいという気持ち」が必要になってきます。



これは経験しなくても分かりますよね。
やりたくないことをやってる社長なんて、
「雇われ」となんら変わりませんから。





不自由な成功者





コンサルとクライアントのミスマッチの多くも
こういった「情の型」に「理の型」が教えてしまうことが原因です。



心のフラストレーションを抱えてても、
未消化の問題であっても「手段」を優先させる、
これが後々大きな問題になってしまうのです。



もちろん、情の型のコンサルが
すべて正しいわけじゃない。




だからこそ、テーマの様に「情理を尽くす」ことが必要なんですね。




個人の「らしさ」を最大限に活かし、
想いを大事にしながらも、その想いが
「居着く」ことのないよう、情と理をバランス良く、兼ね備える、と。




この「情理を尽くすこと」こそ、
まさに二項の統合であり、加減です。





2013/11/05

キプロスと国家と器



キプロスの経常収支対GDP比の推移を
見るとずっと赤字、破綻する典型的な例ですね。
企業が赤字で倒産するように、結局は
国家の存続も金次第ということです。


デフォルトで国家の概念が消える・・
では、この共同体である「国家」とは一体なんでしょう?


国家の代表と言えば都市国家の走りであるアテネ、
すなわち現在のギリシャであり、イタリアであり、イギリスであり、アメリカです。


しかし国家の代表であるこれら全ての国が
どういう訳か、もれなく破綻状態にあるわけです。


破綻したらどうなるのでしょう?
見ればソビエトは破綻し消滅しましたが
ロシアとして今なお存続していますよね。


つまり破綻したのはあくまでも
「概念としての国家」という器であって、
そこに住む人や町(中身)が消えると言うことではないのです。


例えコップが割れたとしても中身
「水そのもの」が消えないように、
国家が消えることで実在的な存在が現れる、と。
つまり実態経済が現れてきます。


なるほど、ギリシャは完全に破綻状態にありながら、
高級車であるポルシェを一番多く保有する国でもあり、
裏経済(地下経済)は表経済を遥かに上回ってますね。


マネーロンダリング、資金洗浄、表に出てこない資金。


それをスイスを抜いて世界一の金融センターである、
シンガポールに逃避させている最大の国の一つが
実はギリシャなのです。



イタリアしかり、ロンドンしかり。
ニューヨークのウォール街しかり。
ぜー・・・んぶ、シンガポールを拠点にしてます。
裏経済は国家とは裏腹に健在(?)なんですね。


つまり概念としての器はすでに崩壊寸前だけれど、
実在経済はそうじゃない。なぜなら共同体(器)ではないから。


故に表社会(国家)が消滅する時代においては、
このマネーロンダリングが実在経済となるので、
今の格差社会とは比べ物にならない、
「超格差社会」が到来するということです。


「銀行は不倒だ」と言われた神話は崩壊しました。
銀行とは国家の心臓部、それが今や停止する時代です。


これを他人事だと思うでしょうか。
しかしこの「超格差社会」はやがて日本にも向かうでしょう。


景気は悪いけど物価が高い。
まさにスタグフレーション。



そしてアベノミクスとは、スタグフレーションのトリガーです。



2013/10/14

神の天秤、人は限度を知らず



最近ようやく国家の品格を呼んだのですが
非常に極端な意見のように感じました。


確かに日本は情緒の国ではありますが
それだけと言う訳ではなく能の伝承(花伝書)など、
論理体系化されたものがたくさんあります。


例えば禅宗は不立文字、教義的ではありませんが、
禅問答は言語体系化されているように。



それと同様、近代は論理一辺倒で人間的な
感情を抑えるような理不尽な扱いをされていましたが、
偏ったバランスは「どちらにせよ」自然に、
中空均衡(ゆりもどし)の原理が働くのであって、


感情側が同じように理不尽な感情面を
正当化するのであれば同じ穴のなんとやら、でしょう。


つまり極へ向かえば毒となる、と。


坂口安吾はそれを見抜き、看破しました。
綺麗事を言い過ぎるお前らは結局のところ
美名・美徳に隠れ、特別な存在だと
思いたがってるだけじゃないか、と。


なるほど、言い得て妙です。
まあ氏の選んだ生き方は僕にはできませんがね。


☞ ☞


思考のない感情(直感)だけでは動物的衝動であって、
感情のない思考(論理)では機械と同じです。


それらは常に主導権を争っている。


故に、だからこそ、
我々人間は悩む事を永遠に止めないのですが、
本来の主導権は「時と場合」で変わるもの、


そんな移り行く「時と場合」を貫く学問が
平和な秩序で支えられることは間違いないでしょうね。



原子バクダンを発見するのは
学問じゃないのです。子供の遊びです。

これをコントロールし、適度に利用し、
戦争などせず、平和な秩序を考え、
そういう限度を発見するのが、学問なんです。  


自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。
はじめからまず、限度を知っていることが必要なのだ。


2013/10/08

幾何学的なナニカ



ピタゴラスが発見した三平方の定理のように
幾何学には少数の公理形から
全てを演繹するような合理的精神がある。



アテネにアカデメイアを創設したプラトンは、
神々が人間の魂の中に幾何学のイメージとして現れるとされ、
実際に神々を図形で表していたようだ。



プラトンは図形と言わず「イデア」と呼んでいた。
イデアとは真理であるが、もともとは「見られるもの」からきている。



つまりイデアとは「姿」や「形」を意味する。
見えないものを「見られるもの」として図形に示したのだ。








プラトンやピタゴラスが神秘的な対称性に
感動したもの、それが正立体である。



すべての面が同一の正多角形から
できている立体を正立体であるが、



調べれば世界には正立体が正四面体、
正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の
合計五つしかない。



ケプラーは惑星が六しかないのは
惑星を含んだ各天球殻の間に五の正立体が
入るからだという抽象的(ある種幻想的)な結論を立てた。



ケプラーは神と宇宙とが関わる
デザインをそこに見出したのだろうが、
現在においても神の尻尾は未だに掴めていない。



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余談だが、プトレマイオス1世はユークリッド原論で
有名なユークリッドから幾何学を学んでいた際、
「もっと簡単に学ぶ方法はないのか」と訪ねた。




そこでユークリッドは「幾何学に王道なし」と答えた、
ここから「学問に王道なし」といった言葉が生まれたようだ。



プラトンが作ったアカメデイアの入り口には
「幾何学を知らぬ者くぐるべからず」と書かれていた。




王道(近道)はなく、幾何学を知らないと
学ぶ資格すら無い、と。




狭き門である。
しかし、真理探究にはそんな面もあるのかもしれない。



2013/10/07

原理衝突と窶し(やつし)

男性原理と女性原理のような異なる二項は
あらゆる分野においてその派生・構造が違います。


芸術分野ではバロック芸術がそれに近いでしょう。
ルネサンス期、秩序と運動の矛盾を超越しようとする運動がありました。



ルネサンス芸術が「永遠(常)」であるならば、
バロックとは「変化(無常)」という、アンチテーゼ。



バロック、ゴシック建築などを見れば、
それがよく分かります。







当時は、ヨーロッパでは宗教戦争の対立闘争が起こり、
国家や社会が分裂していました。



そんな混乱の中、頑強な秩序構造に対抗しながら調和するという
独特な心情的表現を現したのが「バロック」。



この2つを対比すれば、動的で変化する人間の感情と、
静的で固定する理性と秩序の激しいせめぎ合いが分かります、
これも原理同士衝突ですね。



ただ、バロックは二項同体に向かっているようでもあります。
バロック芸術は美しいのはこの為でしょう。



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男性原理は「作る」、女性原理は「生む」。
インフォーマルが馴染みやすいのはそんな理由からかもしれません。



ただ、男性原理が秩序・構造主義ではあるけれど
それ(秩序)を解体する動きも起きています。



例えば江戸の町人文化である「窶し(やつし)」。
この概念は実に深く、面白いものです。



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窶しとは、高貴な身分の人物が
あえて落ちぶれた様子を演じることで重層性や伝承性を高めるもの。


小野小町が江戸の娘に姿を変えるのも、
水戸黄門の水戸光圀が町人として旅をするのも「窶し」です。



裸の大将も、星の王子様NYに行くも、
ハウルの動く城もそう。


つまり窶しとはそのギャップによって
記憶に残すという工夫と言えますね。



現代で言えば、北野武氏は「窶し」。
「フォーマル」をあえて崩すという芸風だと感じています。



国際的に活躍する監督であり、
下町育ちのお笑い芸人でもある。



つまり「窶しにより固定観念を俗化させる」、
これは堅い言葉で書くと「転換による認識操作」でしょう。



高貴で近寄りがたいものを身近な「俗」にする行為、
かの石川淳は江戸の庶民にはそんな才能があった、と言います。



俗化する(固定観念を操作する)とは柔軟に捉えると言う事。
確固とした秩序に対立するものでなく「調和」に近い、



これは「ガチガチの秩序なんてやってらんないよ」という、
ちょっとした大衆の抵抗なのかもしれません。

今のお笑いはそこまで深くない、
芸風が、まるで「意図的な」大量生産のようです。


☞ ☞


マルチチュード である我々は
外圧的な強制力である秩序を嫌います。



教育のシステムが行き過ぎたからこそ
草の根運動であるオルタナティブが生まれ、



経済システムが行き過ぎているからこそ
ノマドが生まれる、これは必然の流れかもしれません。




☞ ☞


近代、西洋の文化が流入することで
理性(論理)と精神性(慣性)の原理衝突が
この国に起こり、西洋原理が優勢になっていました。



しかし今はそうじゃない、
どうも揺り戻しが起こってる。



リゾーム派生のフランチャイズはそれを見越したもの、
バロック的ともいえる「秩序との調和」です。



反対勢力では意味がありません。
リゾームとは役割を理解し、「同時に存在させる」事。



無法地帯でもカオスでも野放図でもない、
言わば「良い所どり」なんですよ^^


2013/09/09

考える事に終わりはなく。。。



科学が横軸の水平なら、哲学は
垂直の高さを知る学問だろう。
我々の人生観、世界観は高さによって深みが出る。



私が心酔する池田晶子氏も同じような考えだった。
彼女は自己練磨のない「あるがまま」を嫌悪した。
著書には以下のように書かれている。



「人が、「人間」の語を使用して、「人間らしい」「人間的な」
「人間として」等と述べる時、それはいかなる意味なのか。


だいたいにおいて、それは「優しい」「思いやりのある」
「さまざまな感情を内包する」といったような意味であるらしい。


けれども、これらのすべては、語「人間」のあくまでも属性(認識)である。
その列挙である。それらの属性を担っているところの当の「人間」、
この主語の何であるかは、一言たりとも述べられてはいないのだ。


なお厄介なことに、この語を使用してそれについて述べるのは、
常にすべてが「人間」である。


それで、各人勝手に好きな意味を込めて、
この語を使用することになる。


相田みつをの「人間だもの」はその好例である。
失敗だってするさ、人間だもの。


要するに、何だっていいのである。「人間だもの」。
私は、この種の自己正当化に、たまらなく不潔なものを覚える。


相田に限らない。聞いていると多くの人が、
この語のこの種の用い方をする(だから相田は人気がある)。


「感情豊か」の意では、肯定的にこの語を用いていた人が、
自身の感情的な振舞については、「人間ですからねえ」と逃げを打つ。


時と場合によってどうとでもなる、この恣意性が、気に入らない。


~考える日々3より~




今のように正解を求める時代において
「自分で考える」ことのハードルは非常に高い。



多くが自分を考えるということを知らない。
考え方を知らないのではない、
「考える」とは、どういうことなのかさえ知らないのだ。



悩んでいる人の大半はそう、
何となく考えているフリをするが
実際は闇雲のまま落ち込んでいるだけだろう。



それじゃあ単なる自己陶酔の延長である。
考えるとはそんなことじゃない。




☞ ☞ ☞




我々はもっと
「why」を問い、考えてみるべきだ。




今の医学が「なぜ生きるのか」を問わず、
ただ長く生きる為の技術が進歩してしまった結果
人間の根源性は徐々に薄れて行ったように、
考えを放棄した先にあるのはロクでもない世界なのだから。



我々がそれを常に考え
自覚的に生きる以外、世界は変わらない。



仮に「なぜ」が無く、理由(原因)なき
存在だとしても、なぜ理由(原因)がないのかを考えたい。




無論、それを知る術は皆無だと
知ってはいるけれど、僕はそういう生き方しかできない。





2013/08/19

良品に国境なし



人間の努力は、いつの場合でも
最良の結果を生むとは限らない。


なぜかといえば努力それ自体は、
まったく意志を持たない一つのモーションなのである。


たとえば、いくらモーションがよくても、
必ずしもストライクだとは限らないのである。


投手のコントロールの良さがあって
モーションも生きるのである。




これは本田宗一郎の言葉、
ちょっとしたセリフの端々に、
氏が天才技術者と呼ばれた所以を見て取れる。



この時代は一生懸命が美徳だと尊ばれたが、
宗一郎はただの一生懸命には何も価値がないと、
時代の価値観に迎合しなかった。



それらが価値を持つためには、
正しい理論に基づくことが前提条件だ、と。



今日はそんな天才技術者の小話。



☞ ☞ ☞


高等小学校卒業後、
自動車修理工場のアート商会に
丁稚奉公として入った宗一郎。



6年後、「暖簾分け」を受け、故郷である浜松で独立。
暖簾分けができたのは、宗一郎ただ1人だけだった。



宗一郎は大衆はデザインを自分で考案しないが、
優れたものを理解し選び出す力を持っていると考えた。



故に技術より思想を先行させ、思想によって技術を研磨していったのである。



金をいくら注ぎ込んでも変わらないもの、それが宗一郎の言う思想である。


☞☞



もちろん、それだけでは
ただの孤独な芸術思想になってしまう。



宗一郎はデザインには模倣性と
独創性の二つがあって、その模倣性を
利用したデザインによって流行が生まれると考えた。



個性的なことだけを最優先するデザインでは、
コロコロとデザインを変えるだけのものであって、
それはただの独断だというのだ。



これには全く異論がない。
思想は尖っていいがクリエイティブだけのビジネスは成り立たない。



つまり冒頭でいう「モーションが良くてもストライクにはならない」
ということだ。









そんな宗一郎は創業者の一番大事な仕事は
何かと聞かれた際、
「次の世代に経営の基本をきちんと残す事」とした。



基本というのは在り方、つまり「精神の型」である。
その「型」をきちんと残すとは「マニュアルの構築」ではない。
以前書いた文楽のように、「なぜ」、「何の為に」を
徹底的に浸透させることである。




それが有名な「ワイガヤ」の原型なのだろう。



金なんかなくたって、心が豊かで、誰にも迷惑をかけずに、
好きなことをやっていけたら、これが一番幸せな人生なんだろうな。



俺は若いころから好きなこととなると無我夢中になった。
だって、嫌いなことを無理してやったって仕方がないだろう。



人間「得手に帆あげて」生きるのが一番良いからね。
ただし、俺が好きなことばかりやってこれたのも、
会社でも家庭でもいいパートナーがいたからなんだ。



芸術でも技術でも、いい仕事をするには、
女のことが分かってないとダメなんじゃないかな。



2013/08/13

レーゾン・デートル

こんばんわ、坂口です。
台風の影響で今日は一日オフでした。


幸い、被害はありませんでしたが
他の地域において何事もない事を、願っております。



さて、今日は
共同体論についての回帰的考察です。








共同体組織については古今東西
様々な意見がありますけど、



他者の欲求を強制する近代のシステムには
個人の喪失感による虚しさがあります。




ゲゼルシャフトからゲマインシャフトに
なった、というような共同体の変化ではなく、
各人のアイデンティティが確立できない。



言わば我々が生きて行くために必要な
本質的なものの喪失が起こったわけです。


その本質的なものこそ、個人の
「生きる道の発見」、レーゾン・デートルでしょう。



端的に書けばそれは「かけがえのない存在」
の証明性の不在ということ。



そしてその「かけがいのなさ」とは代替不可能、
そうじゃないですか。



☞ ☞




普通に考えれば、自分は世界に
たった一人しかいません。


別に生物学的なことを並べなくとも、
僕は世界に唯一無二な存在なんですが、



その唯一無二性、というか
その必要性が近代では見いだせない。



近代の必要性とは、間違った恒常性から
派生する偽物であって、



入替え可能、交換可能な存在にしてしまう
暗黙の強制的カテゴライズにすぎません。



システムなのでつい当たり前に感じ
分かりにくいのですが、社会に溢れてますよ。



例えば、僕が病気になったとしましょう、
ちょっと風邪を引いてしまった、と。



この状態ではまだ、体調が悪い僕、
つまり「病体であるいち個人」なんですが、



医療システムの中に組み込まれたら
僕は病院に入ってから、出るまでの間、
いち「患者」となってしまいます。




看護師からも、処方箋を出す人からも
全員から「風邪引いたタイプ」で取り扱われる。



個人名ではなく、何某という「患者」、
これは生徒もそうだし、消費者もそう。
これが近代システムの恒常性です。



つまりシステムに組み込まれた時点で
個人から「操作対象」になってますよね。


「あの患者さんにあの薬を出しといて」と。
一見、当たり前の光景ですが、



「あの車にオイル差しといて」と
なんら変わらないじゃないですか。



これってね、虚しいでしょう。
科学は人を交換可能にしてしまい
寂しいものにしてしまうんですわ。




☞ ☞




現在、多様とか個性を尊重する
流れですが、



多くの人が個性を発揮できない。
なぜなら「すでに患者にされてる状態」で、
唯一無二性を出さないといけないからです。



それは自律的なものでも自己決定的なものでもなく、
さらに今のシステムをさらに発展させ、支援してしまう。



社会は代替可能な個人を求めます。
可能でなければ、社会は機能しないからです。



つまり、今の我々は代替の可能性と
不可能性を同時に重ねた存在であり、




集団的な帰属がなければ守れない
自己同一性は、主体を「代替可能」としています。



道具的存在と、唯一無二の個人。
この二層のバランスの不和こそ、
今のシステムの欠陥であり、



それにより相互理解や絆、冒頭に書いた
「かけがえのなさ」が崩壊しつつあるのかも
しれません。




だから僕は理論で加盟店を
「操作対象」にすることを避ける。




今必要なのは破壊でも、脱却でもない、



言わば常識を疑い「仕切り直し」をする
時期ではないかと思うのです。






2013/08/12

本質は語れず




こんばんわ、坂口です^^
みなさん、七草粥、食べました?



ちなみに僕は生れて数回しか食べてませんが、
普通のお粥はかなり好きです(笑)




さてさて、今日は
ちょっとお堅いテーマになりますが、
興味のある方はご覧ください。






現象の奥には「見えない」が存在(実在)している。
僕はそう思っています




つまり「有るものが見えず」、
逆に「無いものが見える」ということです。



例えば、今使ってるパソコンなんてそう、



パソコンが動いているようですが、
実際動かしているのは、見えない「電気」ですよね。



スマホもそう、動いているのは
バッテリーであって、電気です。



それと同じ様に、我々の身体は実在ではなく、
身体を動かしている「エネルギー」が実在でしょう。



コップの本質はコップの形をした
ガラス(最終的には素粒子)。



つまり、ガラスの形を変えたのが
コップであり、窓であり、花瓶ですよね。




「お煎餅」を砕いたら、
最終的には粉になりますが、



粉々に砕いた煎餅と、
砕く前のお煎餅は別物だと言えません。



それは状態が「移行」しただけなんですから。






どれも同じ




つまり「煎餅」や「花瓶」は、それ自体の
本質ではないということです。



こう書くと「粉とかガラスは
目に見えるだろ」と思うでしょうが、



それをさらに細かくすれば、
最終的には不安定な素粒子になりますよね。



つまり「確定できない状態」になる、と。



「だいじなものは目にみえない」。
星の王子様は、良い事いいましたな(笑)



☞ ☞



こういった本質的実在は、生まれもしなければ
消えて無くなることもありません。



逆を言えば生成する、消滅するものは、
実在しない証拠だと言えるでしょう。




「作り」、「名前」をつけるからこそ、
生成するのであって、同時に消滅する。




生まれてきた以上、やがて死ぬわけです(笑)



☞☞



形式化(現象)はすべて、
この「消滅」の運命から逃れられません。



つまり「有る」と言うのは本質が、
様々な形を現わしているということ。




ここに、世界の意味がある気がしますね。



非の概念についての考察

非についての断片的考察。



アーサー・ケストラーは
ギリシア語のホルス(全体)に
粒子を意味する語尾オン(部分)をつけ、
「ホロン」という概念を提案している。



著書は「ホロン革命 JANUS(ヤヌス)」、
ヤヌスとはギリシャ神の2つの顔をもつ神のこと。



ヤヌスとは、内面と外面を同時に見る事が
出来たことから、機能の両方の性格を持つ存在を指す。



ホロン(ヤヌス)は「純粋な部分」も
「純粋な全体」も存在しているのではなく、


全てが交じり合い、部分と全体を
併せ持った「全体子」となっているというのだ。



なるほど、仏教哲学も部分と全体の
無分別である「不一不二」を説いている。



裏も表も中間もなく、相互の縁起によって
構成されるという概念、まさに「統合知」と言えるだろう。




今日はそんなところから。





歴史を振り返って観れば
我々はこの概念結合ができずにいる。



どこでも対立するものを悪と定義し、
争ってるのは、何も中東あたりに限ったことではない。



社内でも学校でも家庭でも、
規模の差はあれ、似たようなことを
やっているということは、




不和は集団には必ず
存在するものだと言えるだろう。




そこでこの「ホロン」の出番である。
そんな集団の不和を解決する概念ではないだろうか。



ルードヴィヒ・フォン・ベルタランフィの
「一般システム理論」でも触れたが、
生命全ては「開放システム」である。



一方閉鎖型ではなく相互開放型、
これが生命(あるいは社会)を構成しているのだ。



集団のなかの個人は自らの「部分性」のために
自己の「全体性」を放棄しているのだが、
実はその部分は全体である「ヤヌス」なのである。




自意識の追究とは冒頭にある「純粋な部分」、
弥栄よろしくやがて振り戻しが起こるだろうが、



急アクセルの蛇行運転を楽しむ人は
あまり多くないのではないだろうか。
(それを体験というのなら勝手にすればいいけど)




世間は戦う相手じゃない。
かといって、べったりと引っ付くものでもない。



ヤマアラシのジレンマよろしく
ある一定の「距離」さえ保てばいいのだろう。
これが「反」ではなく「非」の概念である。





2013/08/08

善悪過ぎれば・・・・





「度を過ぎた徳は害をなす」
これは伊達家の家法(壁書)の中にあるものです。





仁過ぐれば弱くなる、義過ぐれば 固くなる

礼過ぐればへつらいとなる、智過ぐれば嘘をつき、

信過ぐれば損をする





こういった「分度」は、加減の定義として
度々お伝えしていますが、これがなかなか体現が難しい。





なぜなら経験によって得るものである以上、
知識として頭に入れただけでは分からないから。





僕自身、「人としての正しさ」に対し、
それが独善的なものなのか、ネグリの説く公共善なのか、
未だに分からない場合があります。





絶対的な価値なのか、相対的な価値なのか。
それは抽象度を上げれば上げるほど曖昧になる。



☞☞




上げれば上げた分、良いというものではない。
(スピリチュアルに傾倒すれば、現実逃避してしまうのと同じように)



よって、それが不可知論にならないためには
「根と翼」を同時に持たなくてはいけないのではないでしょうか。




例えば、商人は片手に崇高な理念を持ちながら、
もう片方にはソロバンをはじかないといけないように。




☞ ☞




善悪すぎれば同じ環の中。
人間は善悪二元論を同時に備えた
「境界線(間)」として生まれています。





よって境界線を広げる(超克する)寛容とは、正しい精神と言えますね。


2013/07/29

動機の所在①




今日はFCだけでなく、人事部門の方も一番の悩み所であるテーマ、
「動機づけとモチベーション」について。




今までの人事考課の理論が通用しない時代となった、
簡単に書けば「アメムチ型」の管理である。



社員の業務に「点数」をつけ、
その点数に応じた「報酬」をつけ、
そうでなければ「ペナルティ」を与える。



この論理が十分な効果があったのは昔の話、
今はそこに「安定した報酬」はない。



例えばこれが経済成長時代では
結果に応じて「インセンティブ」を与えることができた。



給与や役職なども、成長に応じて比例していた。
加えて、社員の物質的な欲望がまだ高かった。



マイホームや高級車、ブランド品など、
この時代では、お金は幸福を測る最大のパラメータだった為、
社員は報酬を手に入れようと必死に頑張ることができたのだ。



しかし業界全体を見ればどうだろう。
多くの業界が衰退期に入っているのではないだろうか。



今では勢いのあるベンチャーでも、多くが数年で頭打ちとなる。
そんな状態では高報酬は約束できない。



与えられた報酬に満足できないとどうなるか?
当然モチベーションは著しく低下してしまう。



さらにこの国は、成熟期に入り、
物質的充足より心の充足を重要視している。



つまり、モノが売れない時代で
成長と報酬が比例しないのに加え、



我々の物質的な満足から精神的な満足への
シフトによって、働く意欲が起きないのだ。



そんな中、欧米的な「ニンジン論理」を
盲信した経営者と人事コンサル達は、
時代の変化に対応するのではなく、一番簡単な方法をとっている



それが「より厳しいアメ、より厳しいムチ」。
まさに北風と太陽の論理であるが、



根幹を無視した教育は
短期的には効果があるが、衰退は目に見えている。




☞☞




専門用語でいうなら、アメムチ理論は「外発的報酬」であり、
私が提唱しているのは「内発的報酬」である。



内部とはあくまでも自発的、
アンチコントロールの領域である。



動機づけの手法や論理は、マズローからマグレガーのx・y理論、
ミハイ・チクセントミハイのフロー理論やハーズバーグの二要因理論、
ブルーム、ポーター&ローラーの期待理論など様々であるが、



一通り調べた結果、理論自体は納得できるがスッキリしなかった、
そのどれもが研究であって、実践的ではない。




僕が理論ありきの西洋式ではなく、
日本流から出発しているのは、こういった理由からでもある。






2013/07/22

朝の唄

近代日本画家である伊藤若沖は、
対象を細かく描きながら、自己の創造性と
融合させていることから、奇想の画家と呼ばれた。



そんな伊藤の作品である
「動植綵絵(どうしょくさいえ)」の中に、
秋塘群雀図(しゅうとうぐんじゃくず)というものがある。








七十以上の雀が、稲穂が実る秋の時期、
一斉に飛び立っている、躍動感のある作品だ。



ふと見れば、そんな雀の中に
一羽だけ「白い雀」が描かれている。



白い雀は言わば「異質」である。
醜いアヒルの子なのだ。




人間からすれば、差別の対象である。
大衆という枠からはみ出した、特異な存在なのだから。



しかし、その白い雀は群れから
離れることはない。



それどころか、他の雀たちと、
何ら変わらないかのように一緒に飛び立ち、
同じ方向を目指しているのだ。



つまり、選ばれたリーダーとして
率先しているのでもない。



なるほど、
白い雀とは特別な存在なんかじゃない、
そんなもの、我々の目鼻立ちと変わらないのだ。





目指す方向へと無心で飛べ。


この絵を見ると、そんな意図が感じられる。


2013/07/09

恋すれば盲目に



利口な人間はなかなか恋ができない、
なぜなら恋とは理屈抜きに落ちるもの、盲目になるものだから。



ども、坂口です。
誰が言ったか分かりませんが、確かにそうですね^^



かのアインシュタインは物理と女性に恋をして、
相対性理論を発見したといいます。



大学でミレヴァ・マリッチと出会って恋に落ちたアインシュタイン、
結婚後は数学が弱いアインシュタインの代わりに、
リーマン幾何学を使う証明を手伝っています。



後に離婚しましたが、恩を感じていたのか
ノーベル物理学賞の賞金を、すべてミレヴァに贈ったといいます。



まあアインシュタインは家庭に入るタイプではなく、
やっつけ的な家庭生活のようでしたが・・







このように(?)、盲目的に恋をし、夢中になった人にのみ、
自然は誰でも知ることができない真実を打ち明けるのかもしれません。



頭の良い人は、その頭の良さからか、先の見えない、
不可解、不可能な事には手を出しません。



なぜなら自分の頭脳や知恵を過信するあまり、
理屈が先に来てしまう。



頭の回転が速く、見通しがききすぎるがあまり、
悲観的になり、早くから諦めてしまいがちなのです。




下手すれば自分の考えに一致しない事実を見て、
「そんなはずはない、向こうが絶対に間違ってる」とまで決めつけたり。




利口な人ほど恋ができないのでしょうね。




☞ ☞



反面、(良い意味で)頭の悪い人は不可能だと言われてるものでも、
一生懸命に取り組み、結果糸口を掴んだりするものです。



そもそも乗り越えられない壁なんてないのであって、
必要なのは、地道に一歩づつ、楽観的に歩く事だけです。





全くの0から立ち上げる時、すでにライバルが先を行っている時、
あまりにも高い壁のように感じ、踏み出せない人がいますが、




たくさんの情報で、下手に賢くなりすぎているのであって
本来、それができない理由にはなりません。




頭の良さなんて関係ない。
理屈や知識なんかより、直感や情熱の方が100倍大事です。





耳を澄ませば、「好きな事をしましょう」と
ゴーストが囁いているかもしれませんよ(笑)



~暖簾分けフランチャイズを全国に~グッさんの一期一会ブログ


2013/06/25

即非と加減

unreveの間の概念とは
鈴木大拙の言う「即非」に近い。




「どっちつかず」という言葉は
一般的に優柔不断的な意味で使われるが、
即非は、それを「どっちもどっち」を説く。



どっちも自分であり、且つ
どっちもが断定できる自分ではない。



そんな矛盾の統合した理論が
即非なのだが、実はすこぶる日本流なのだ。



例えば「手前」と言う言葉がある。
「手前どもは・・・」という謙った時に使われるが、



喧嘩する時には「テメェ、この野郎」と
立場が逆になってしまう。



「貴様」と言う言葉も思えば変だ。
罵る相手に「あなたさま(貴様)」と書く。



己もそうだし、「ジブン」もそう。
つまり、日本流は主客がコロコロ変わるもの、



否、常に主客を「行き来」するのだ。
これは「I am 」を使う欧米人には分からない。



近代自我は、こういった自己と他者の
「間」という三人称概念から、一人称へのシフトである。



これが対立の根幹であり、多様性を
阻害していることは間違いない。


☞ ☞



加減の定義は即非的である。
対極二項が交わった所に、実体(真理)がある。



人間は善悪の混じった「状態」である。
宗教はそこに、スパッと線を引き、
白黒つけてしまうが、



本来、我々は境界線が実体である。
常に揺れ動き、葛藤する存在なのだ。



☞ ☞


世界は天秤のごとく揺れ動く側面があるが、
面の思考でとらえれば、メビウスの環である。










対立概念は、白と黒のように、別の所に
あるようだが、そうではない。




独善が悪に変わるように、
一極の先に向かうと、クルリと反転する。



つまり二項は同じ環の中にある、と。
ウロボロスの咥えているのは己の尻尾なのだ。





真理は矛盾の中から掴むもの、
いわんや思想をや。



2013/06/09

根幹を成すもの




「報道の自由は、民主主義を支える根幹」。




この「根幹に関わるもの」はよく使われますね。
社会の根幹、国家の根幹に関わるものだ、と。



基礎を成す「柱(屋台骨)」とも言いますし、
それがなければ、我々は飛ぶことも、
降り立つ事もできないことから陸とも言えるでしょう。



つまり秩序を維持する為の基本姿勢が
「根幹」なんですね。









さて、報道の自由が民主主義の根幹である、
という意見は確かにそうでしょう。



言論統制など、民主主義ではない。
当たり前のことです。



ただ、自由それ自体があらゆる根幹だ、
という意見に対しては僕はちょっと疑問が起こります。




時として個人を苦しめるもの。
それが自由でもあります。




「自由にならなければいけない」
と、逆に不自由になってる人もいますからね。



☞ ☞




自由をどこまでも渇望し、
そこへと向かう志向性を保ちながらも、



それと同時に「そうならないだろう」と
諦めを自覚した状態で起こる行為。



見れば、大小の共同体(イエ・ムラ・クニ)は
自然とそんな形に収束されています。



なるほど、それは単なる自由ではなく、
それを諦めた所による放棄でもない。



柳田国男の世間的・社会的自然が
「やさしい束縛」を持っていると
いうのは、まさにこういったことでしょう。



なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。
始めからなぜ自然に抵抗したのかと思った。


彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔の中に、
純一無難に平和な生命を見出した。


その生命の裏にも表にも、欲得はなかった。
自己を圧迫する道徳はなかった。


雲のやうな自由と水の如き自然とがあった。



夏目漱石「それから」より。




それは自然回帰でもなければ、
自然放棄でもない「内部」の状態変化です。




☞ ☞



誰しも主義があり、価値観がある。
それはその人個人の「陸」でもあります。



唯物主義だろうが、現世主義だろうが、
はたまた最近のスピリチュアルに傾倒しようが、



それを徹底するなら、立派な一つの人生。
誰も批判する資格はありません。



ただ、共同体における自然派生は
意識的な「ほどほどの人為的、不自由さ」が含まれます。



しかし、それによって共同体はむしろ
無意識的な秩序が現れる。



その意識こそ、慣習や古くから伝わる
「特定の個人の意思」ではないものであって、





これが日本流の根幹ではないか、と感じています。







2013/06/05

凹と凸



「らしさ」とは気質であったり、価値観、
場合によってはシンボルにもなります。



その「らしさ」とは中間値からの偏在ですが、
これは違いが「良い意味」で認知されるということです。


「この店らしいな」とか、「あの人らしいな」という
「らしさ」。



今日は「僕らしい小話」でも笑



☞ ☞



さて、東洋文化と西洋文化の違いを
動物性文化と植物系文化や
農耕型と狩人型などに分けられていますが、



芳賀綏氏は分かりやすく
「凹型文化と凸型文化」と言っています。



凸型の特徴は攻撃的、支配的な気質とされ、
文化圏はユーラシア大陸、南北アメリカや西欧先進国などがそう。



反面、凹型の文化は共生や共存、調和の気質。
日本や東南アジア、南アフリカなどは凹型の文化のようです。



そう考えるとなるほど、ですな。
日本でも同じような気質に分けれます。



氏によれば、それは環境が
原因で分かれたといいます。



例えば、乾燥した荒れ地に住む凸型の人間にとって、
自然とはまさに人間を苦しめるものだった。



水も不足しているので作物は育たない、
よって、生きて行く為には、牧畜を手段とします。



野生動物を家畜として「支配」し、飼い慣らす。
森を開拓し牧草地にするのも、生きる為の手段だったんですね。



それがやがて国家権力となり市民にまで及び、
「革命」によって、その支配や管理体制に抵抗していった、と。


☞☞



では、凹型民族の環境はどうだったかというと、
乾燥のない湿地帯(モンスーン)、つまり水が豊富ということ。



なるほど、植物もよく育つ環境ですね、
農耕が出来たのも雨季があったからこそですね。



よって自然は征服するのではなく、共存対象、
凹型の先祖は、そんな自然の恵みに感謝していたんです。



また、農耕によって自然だけでなく、他人との調和も
大事にされてきました。



その調和は洗練され、空気を読めるようになり、
「察する」という、超能力のような伝心術が生まれたのでしょう。



お互い様、という言葉も共生・共存に欠かせない
潤滑油のような思想は、こういった歴史背景があるんですね。



☞ ☞ ☞



さて、そうは言っても良い事ばかりではありません、
共生も行き過ぎれば、当然害悪となります。



例えば農耕は一人では出来ませんので、
従事する個人の「個」を抑えなくてはいけない。



それにより、主体性の欠如や排他的な
性質も生まれたのではないでしょうか。
「和」が「迎合」となることで、粘着的気質となったのです。




このように、歴史は凹凸の主導権争いが繰り返され、
なかなか「□」になることができません。





だからどちらも内包することで「超克する」、
unreveの加減の定義です。







2013/05/13

老化する会社

現在、イノベーションによる変革が叫ばれていますね。
スティーブ・ジョブスにまではならなくとも、
ビジネスをやろうと考えている方は一度は聞いたことがあるはず



「新たなる価値を創造せよ」。
うーん、なんとも大変な時代です(;^_^A




短期的にただ売って儲ける、というやり方なら
そこまで考えないかもしれませんが、多くが店舗を構えた継続前提の商売。




「このまま続くだろうか・・・・?」
このクエスチョンを経営者は永遠に問い続けるのです。



さて、コンサルタントである細谷功氏の著書に
「会社の老化は止められない」というものがあります。




会社の老化は止められない――未来を開くための組織不可逆論/亜紀書房

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この本で書かれている事を簡単に書くと
「会社だって、人間と同じで年をとるんだよ」って事です。



これを熱力学では「不可逆性」と言って、
時計の針は戻せないように、一定の方向へ変化することはあっても
自然に逆方向へは戻らない性質を表しています。




無秩序から自然に秩序へは向かわないという
エントロピーと同じ意味合いですね。





市場の成長曲線を見ても分かるように、
会社も生まれた時から老化の一途を辿るのは自然の流れ。



ブームは繰り返されるといいますが、
いきなり若返るなんてないんですね。






~暖簾分けフランチャイズを全国に~グッさんの一期一会ブログ

こんなおじいちゃんになりたい(笑)





さて、その老化は人間を見れば分かるように、
完全に止めることはできませんが



よりよい年を取る為には一度「リセット」する必要がある、
それが著書のテーマです。




そしてそのリセットの役割を担うのが「イノベーター」、

「新しい考えを持った人材」の事です。




ただ、こうも書かれています。

「老化した組織においては、起業家精神を持ったイノベーターは存在しても活用されないばかりか、「異端児」として迫害され、行き着く先は牙を抜かれた普通の人になって埋没していくか、別の職場を探して外に出るかのいずれかである。



それを見て「やっぱりね」、と思いました。
やはり保守と改革は水と油、混ざることはないのです。



イノベーター気質の方は会社員生活を諦めましょう(笑)




イノベーターの持つ創造性は2タイプに分かれます。
既存の秩序の維持に貢献するタイプが1つ、



そして、逆に今の秩序を一度リセットして、
新たな秩序を生み出す。この2つのタイプです。



例えば私のようなコンサルタントの場合も上記に分かれます。
集客を専門とするコンサルタントでも既存の維持(リピーター)に特化している人もいれば、



全く新しい集客(メニュー改定や店内改装)などで
新規客に特化したコンサルタントもいるようです。




新たな秩序の創造という活動は
既存の秩序にとらわれない事でもあるので、




既存の秩序から見れば「無秩序な活動」でもあります。
私のキャッチコピーでもある「無秩序のデザイン」とは、こういった理由からです。




創造性が社会的に価値のあるものとなるためには、
脳内の無秩序の中から「秩序」として表現する為のシミュレーションを繰り返し行う必要があります。




でないと絵にかいた餅、「机上の空論」で終わってしまいます。
これを実際と乖離なく行えることで初めて「価値あるイノベーション」となるのです。





2013/05/10

顧客満足と言う名の顧客傲慢



今月より4Kテレビの新製品が発表され、
各メーカー、需要を期待しているといわれてますね。
4kテレビとは、フルハイビジョンの4倍の画素数の映像。
つまり、今よりもっと綺麗に見えるテレビです。



・・・・・消費者は欲しがるのでしょうか?
僕だけでしょうか、全く興味がありません。
(そもそもテレビ自体、何年もまともに見てない)



テレビ離れの現在で、いくらハード(テレビ)の性能を上げようが、
肝心のソフト(番組)自体に興味が無いなら同じ結果な気がします。



メーカーそれぞれが多大な広告費を使い、
マーケティングにあたるでしょう。
電通や博報堂あたりの広告代理店は芸能人を起用し、
綺麗なCMを作るでしょう。



それで消費者は購買意欲を喚起され、
消費に向かうと思ってるのであれば・・・・・



家電メーカーは危険ですね。



今回はそんな「顧客目線」のお話し、
あくまでも個人的な意見です。



これは3k




僕の知り合いがスーパーの店長をやっているのですが、
最近の顧客のクレームの多さに困っているようです。



中にはありえないクレームを出す顧客がいるとの事。
多いですね、モンスタークレーマー。


ただ、今の顧客目線にさせてしまったのは、
売り手である企業の方にも原因があるんじゃなかろうか。
お客様をとにかく満足させよう、感動させようと
神様みたいに扱ってしまったもんだから、
顧客はそれが「当たり前の状態」になったんですね。



つまりその満足に慣れてしまった、と。
サービス精神は両刃の剣なんです。
やればやるほど良いわけではありません。



なぜならその顧客満足向上の繰り返しによって、
顧客自身の満足感がコントロールできなくなってくるから。




例えば、2つの箱の内、どちらか一つを貰えるとして、
あなたが選んだ方に100万円が入っていたとします。



普通なら大喜びですよね。




では、もう一つの箱の中には1000万円入っていたらどうでしょう?



不思議とすごくがっかりしませんか(笑)
満足感なんて、相対世界の産物ですから、そんなもんなんです。




つまり、以前なら素晴らしいサービスで
あるはずの感覚が当たり前になり、さらに
過剰なサービスが出ることで全く満足を感じないようになってる。



結果、普通の基準も高くなり
ちょっとでも下がればすぐにクレームを出し
店員の態度次第で火のついたようになる、と。



「お前、何様や」と言いたくもなりますわ(笑)
正直、そこまでして買ってもらいたくもないですね。







以前有名なコンサルタントが
「顧客は120%満足して初めて口コミをする」
なんて書いたもんだから、こぞって120%満足させた。



で、大半がやった結果「120%が100%」になってしまった、と。



無料オファーなんて今は何の魅力もないですよね、
もはや駅前の無料ティッシュ程度の価値になってるんです。


その環境は同業者同士のサービス合戦の結果でしょう。
つまりその人が変わったのではなく、環境が変わったから人も変わったのです。




映画の「es」と同じ原理ですね。

es[エス] [DVD]/モーリッツ・ブライプトロイ,クリスティアン・ベッケル,ユストゥス・フォン・ドーナニー
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この映画は実際にあった話を元に作られていまして
擬似刑務所で20人の男を「看守」と「囚人」に分け、
それぞれ与えられた役になり切ってもらい、2週間生活させるという実験をしたんです。



最初は何事もなく、和やかな雰囲気だったのが、
その与えられた役割を演じているうちに、次第に関係性が変わって行きます。


なんと模擬的であったはずの看守と囚人の間に
「上下関係」が生まれ、囚人は看守に服従し
看守は虐待を始めたわけです。



ここまで書くと、ちとオーバーですけどね(笑)
ただ、おかしな主従関係を作ってしまえれば
顧客自身、分からなくなってしまうのは確かです。


顧客は神様じゃないし、
売り手は卑屈にならなくていい。
無理なサービスは毎回やらなくていい。
そこでたとえ感動したとしても、それを基本にしてはいけない。



なぜなら、商売の原点とは売り手も
買い手も「ありがとう」と言える、
双方の価値交換であるはずです。



だからこそ近江商人の「3方良し」は
「我よし、人よし、世間よし」という素晴らしい行動指針です。



「全てはお客様の為」と言ってますが、
従業員が苦しさを伴ってしまっては、ただの自己満足であり偽善ですよ。





2013/05/08

作る自分、作られる自分



今日は超個人的思想リーフについて。
長いのでお暇な方だけどうぞ。









さて、皆さんは、1から10まで自分の意志で
生きている、っていう実感はありますか?



ちなみに僕の場合、半分。
個性やら性格やら長所短所が
全部自分で作れる、って思えないんです。



たとえばこれが企業理念の場合であれば、
「それって創るもんだよね」って言えるんですが、


人生そのものは設計図通りには行かない。
場合によってはとんでもないものが出来ちゃう。



いくら素晴らしい設計書でも、
作り手は僕だけじゃない。




これが「先天性」とか「生まれもった性格」
って言われるように、生まれたときから
変わらないものだけなら、話は別でしょうが、



社会性とか、マナーのように」
「自分以外によって創られた自分」だってある。



フランスの哲学者で幸福論を唱えたアランは
実に上手い事言いましたわ。



「そこに根拠があるにせよ、ないにせよ、
我々は必ずその影響を受ける」と。



占いが当たる、当たらないは関係ないんです。
人は必ず影響されてる、ってこと。



☞ ☞




そうなると「自分の意志で創る」っていうのは、
どこか限定的になってきますわな。



だってそうでしょ、どれが生まれつきで、
どれが生まれつきじゃないか、



どこまでが自分の意志で創って、
どこまでが他人の言葉で創られて、
どこまでが社会の意志で創られたのか
いまいち、分からないじゃないですか。



よく「習慣で人は変わる」って言いますけどね、
これも正しいようで、よく分からない。



だって、習慣っていうのは意志だけじゃなく
上記のような環境にも依存しているわけでしょ。



ってことは「習慣で変えさせられてる」
場合だってある。




当然、その環境を変えることは出来る。
しかし、それが常に意識できるかは分からないんです。



だからこそ、世間の空気でしょう。
いつの間にか、変わってたりするんです。

これは意志とか理性では全く説明できない、
流れってやつじゃないでしょうか。



そして、その流れの原因は何か?っていうと、
「何となく」っていう感情の集合体なんですよ。



これって、めちゃくちゃファジーじゃないですか。
まさに神の見えざる手ですわ。





だからもう、流れに合わせる自己を創るしかない。




☞ ☞




今は個性の時代です。
多様でありのままの自分を表現する時代、



しかし、細かく突き詰めていくと
大前提として存在しなくちゃいけない
この「自分」が定義できない。



フワフワしてるし、コロコロ変わる。
変わりたくないけど変わってしまうものって
沢山あります。




乱暴な分け方すると半分なんですよ。
半分は借り物でどうにもならない。



それを自己中心(リーフ)って呼んでいます。
雑草って、好き好んでアスファルトに咲いてないでしょ、と。




自我と場所、その境界線でフワフワしている。
そんな相互影響を受けているのが人間であって、




そこから出来る事って言えば、
とりあえず、そんな自分を認めて創っていくことだけ。




その部分に関しては、自由なんじゃないですかね。




2013/04/22

一期一会

こんばんわ、坂口です^^
週末ですね。




さて、この間若者たちの集まる
パーティーに呼ばれた際の出来事。





打ち解けて仲良くなっていくと、
「ライン交換しましょーよ」とか、
「フェイスブックやってますか」とか言われます。




なるほど~電話番号じゃないと、
これくらいのノリで聞けるんだよな~。




ただ、僕はアイフォン歴が
けっこう長いくせに、





ラインはおろか、アプリを
一度も取ったことがないという、
化石人間ぎゃーとるずです(笑)





「ラインやってないんですよね」
というと、






「えっ、ガラケーですか?」と。
それくらい、ありえないようです。




結局、携帯番号の交換を
してもらったんですが、





今年はまず、
ラインを始めようかなと思います。。。。f^_^;




てなわけで、
今日のテーマに入りますか。




☞ ☞




意識的にか、無意識的にか、
あるいは、その両方か。




現在は、出会いや絆というものが
とても心地の良い言葉となっています。




確かに、ネットでの関係性が
ある意味「飽和(開放)」した反動か、




無縁社会の中、出会い(縁)
と言うものの形態が変わっているようです。




ネット内(偶然性)の出会いでも
実際に会い、繋がる(必然性)が
容易にできるようになりました。




反面、その必然性の容易性によって、
我々人間のキャパシティを
超えているようにも感じます。




昨年の末に書いた多逢聖因縁尋機妙のように、
本来、人との良縁とは、実に機妙。
素晴らしい良縁である場合もあれば、



それとは逆に恨みつらみ妬みを
買うだけの悪縁である時もあります。




さらに、そんな切り難い
悪縁だったのが、やがて
良縁(腐れ縁)になることもあるでしょう。




そんな様々な縁が交差し、
その関係性によって、自己となるのでしょうね。



活人剣、剣禅一致である柳生家は
それを家訓にもしています。




☞ ☞




この一期一会とは、本来「茶道」の
基本である、もてなし、しつらえ。
その精神性の本来は、「余情残心」です。



つまり、主客の関係性の
在り方(残心)が、一期一会の根幹なんですね。



これは武道の場合、
「最後まで油断するな」といった、
慢心による戒めの言葉なんですが、




茶道の余情残心は、
違う意味で使われていまして、
商人道にも派生しています。




主(もてなす側)と客(もてなされる側)との間にある
心(関係性)の状態だと言えるでしょう。



主は至誠を尽くし、客をもてなし、
しつらえ、裏表のない真心を客へと伝えるのです。



道家は、こういった「見えない精神」は
完成する事のない未完の美(理念)であるとしました。



それだけ客との関わり方を大事にしていたのですね。




客が見えなくなるまで見送り、見送った後は、
その貴重な出会いを一人自己と向き合い内省し、
反面、もてなされた側も、その感動を一人、観念する。





「実に良い出会いだった」。



そこでようやく相互の「異心」が「伝心」し、
一見さん(一期)が馴染み(縁)になるのでしょう。



そこには合理も損得も一切ない、
完全な身の丈の至誠の向き合いがあります。




僕は、これが一期、一会の
極意じゃないかな、と思ってます。




若い時には面倒なものでしょうが、
心に留めておきたい言葉ではないでしょうか^^

2013/03/31

夜桜あはれ

「さまざまのこと思ひ出す桜かな」
かの有名な芭蕉の句です。



この間、ちょうどオフの日が
一心行の桜の満開日だと言う事で、熊本まで見に行きました^^










日本は古来より、桜を観賞するのを好みます、
遡れば万葉集や日本書紀にも桜は特別なものだったようですね。



つまり1000年以上も前から、桜は美の極みとして
それぞれの時代の人々を魅了してきたのですが、



その魅力とは桜の持つ、その儚さと潔さにあるのではないでしょうか。


満開と同時にサッと散っていき、来年にはまた新しい花を咲かせる、



そんな「無常観」は日本が持つ独自の美意識に通じていると思ってます。



西洋は「永遠」を追求するその姿勢に美を感じますが、
この国は逆に、移ろいゆくものに美を感じます。


この世に永遠なんてものは存在せず、
光と影は常に寄り添い、変化しているのだと
無意識的に感じているのでしょう。


小林秀雄は「世界は進化しているのではなく変化しているのだ」
と言いましたが、確かにそうかもしれませんね。



☞☞


小林秀雄が晩年まで没頭した、
本居宣長の思想「もののあはれ」の「あはれ」は、
哀れではなく深く心に感じる言葉、



喜びだけでなく悲しみもある、
まさに奥底の感情全てが含まれているのです



それは我々の感覚より先行して存在している、「ナニカ」から派生しているんでしょうね。



20代の頃には全く分からなかったものが
最近分かってくる・・・いやはや、年を取った証拠です笑



2013/03/20

行動と行為の違い②

こんばんわ、坂口です。
前回に続き、2回目です。




さて、これはビジネスだけに限らず、
人間のあらゆる活動原理に当てはまると思っています。



結婚を焦っていないけど、周りから言われ婚活する、
テストで良い点を取らないと怒られるので勉強する、



仲間外れにならないように、FBで「いいね」を押す、
書きたくない内容だけど、集客の為にブログを書く、


誘われたから行きたくないセミナーに通う、
読みたくない本を読む・・・etc



これらの行動原理はある種の破壊性を伴います。
結果を求めるあまり、あなたの「感応」を抑圧・否定しているんですね。



肯定(自覚)ありきの破壊なら問題ないのですが、
否定ありきの破壊であれば、それは無意識の抑圧となる。



例えば、遅刻癖のある人の言い訳は芸術的ですよね(笑)
同じように、ビックリする所から「やれない材料」を見つけ出します。



これは自分の「根っこ」が否定しているんです。
この状態でやっても、無理してますからどうせ続きません。



やりたくない」事を無理矢理「やっている」と、
こういった慢性的な不安から抜け出せなくなります。



一度「根こそぎ」リセット(破壊)するか、
本来のやりたい事に回帰(創造)するか、どちらかしかないんですな。




こいうったありのままの「感応行為」を目的としたものが
リゾーム派生概念でもあります。


リゾームの意味って「根っこ」ですからね。




☞ ☞




行為とは感応によるものです。
やりたいからやる。これだけです。



そこには善も悪もないし、打算や損得感情もない。
他人の目も気にならないし、評価も必要ない。
未来の不安もないし、過去からの執着もない。



さらに言えば、利他的な「与える」と言う概念すら、ない。


そもそも、与える、受け取るというのは、
本質的に奪うことと、同じ環の中にあります。



人間だれもがサイババのように、
0から無限に作り出せる能力がある(?)なら話は別ですが、




あらゆるものは循環形態を取っていて、
取る、取られるを繰り返していますので、次元は同じ、



ただ、その方向が変わってるだけです。




反面、感応行為とは瞬間から瞬間へと
自然に湧き出て来るものです。




そんな現瞬間(今ここ)に対する感応行為は創造的です、
直感(ピンときたら動く)、感じるままに反応する。



それで上手く行かなくても、
好きでやってるから、結果なんて関係ないんですね。



感応で動いている人を他人が見れば
すごい「努力している」ように映るのですが、
実際本人からしてみれば、まったく苦ではない。



そんな目指すものではなく、達成するものでもない
ありのままの状態へと「戻す」。



当然、ビジネスでは営利(リスク)が含まれますから、
幼稚園のような「遊び」にならない(あそび≠遊び)ような場を作る、




脱マネジメントという加減の定義を持ってきているのは
こういった理由からです。



☞ ☞



長くなりましたね、
そろそろまとめます。




というわけで、
誰もが感応的自由のもとに生まれにもかかわらず、
束縛の中で死んで行きます。




社会性が入り込んで来た時点で、
規則やルールや掟や道徳という「外律」が作られるからです。



それに雁字搦めになってしまう前に、
心の声を取り戻すのが、リゾームの概念です。




最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
何かの役に立てれば、幸いです^^


2013/03/19

リゾーム派生 方法序説「理」


フランチャイズを始め、何か物事をスタートする時は
なんでもそうなんですが、大事なのは正しい軸を作り、
あとはそれをひたすら肯定することです。





一番ダメなのは、コロコロ変わる無難な答え。
経験上、ほとんどの確率で断念します。





そもそも、否定や批判は誰でも出来ます。
不安の材料なんて、そこらじゅうに転がっているのですから。







反面、肯定は違います。
本質を知らなければできません。





だから100人中99人が反対や否定する中で、
本質を知っている人だけが肯定できるのです。





自分にも、他人にも、ビジネスにも・・・







週末なので、今日はマニアックな
日本流フランチャイズ方法序説「理」について。





☞ ☞ ☞









さて、僕の提唱する方法序説なんですが、
特に大事にしているが、度々書いている理念(軸)です。









理念の主軸は、縦軸と横軸、対立する二項を
回帰(メグリ)することによって、作りだすもの。





ちなみに、これは古神道では
三十字の理と、言われます。







オカルトみたいですか(笑)
まあ、気にせず進みます。







この理とは、男(縦軸)と女(横軸)によって
子(産土力)が生まれるように、陰陽の対極の
組み合わせがエネルギーを生み出す原理です。





この理、日常を見れば、
たくさんあるのが分かります。







例えば、有機物である「お米」を
無機物である「お椀」に入れますよね。







この状態で陰陽(プラスとマイナス)の組み合わせが生まれ、
中にあるものは「中性」状態になる、と言われます。







中性とは、純粋なエネルギーです、
食べ物は器に入れると美味しく感じるのではなく、
実際、美味しいんですよ。




☞ ☞





話を戻します。
unreveの主軸(理念)の構成とは、
こういった意味の対立二項の統合です。







ここで多くの人が「一面」だけしか見ようとしません。
頭のどこかに「もう一つの面」を出さずに、隠しているのです。







人によって「プラス面(自己抑圧)」だったり
「マイナス面(自己欺瞞)」だったりするのですが、





それが「本当の自分(本質的な正しさ)」だと
思っているんですね。





しかし、それは勘違い、
ありのままの本質とは、「両面」の先にあります。





☞ ☞



その「ありのまま」の認識をするのを
「ゲシュタルト」と言います。





これはよく騙し絵で例えられるんですが、
我々は、2つを同時に捉えることができないのです。





有名な「ルビンの壷」、この絵は壷でもあり、
顔でもあるのですが、同時には見れません。












それは、見えないもう一つが「ない」というわけではなく、
見方によって「ない」が「ある」に「成る」のです。





ゲシュタルト(全体性の統合)はこのプロセス。
全体像として認識する、ということです。





この世界だって、安定しているように見えますが、
実際は観察によって日々「決定されている」とも言えます。





これは我々が「観察者」だからこそ、分かるもの。
主軸とは、この観察者(メタ)視点の事です。





日々プラスになったりマイナスになったりする人や
決断ができないで前に勧めない人は、





「今日はこっちの絵が正しい、明日はこっちの絵が正しい」と言っているのです。







これを永遠と繰り返しても答えは出ません、
答えが「両方」である以上、無限ループに陥ってしまいます。







この事実を知ることが前提の否定、
リゾームで言う「根っこ」の入れ変えであり、
志向性(理念)の決定であり、







冒頭に書いた「本質的な肯定」です。





☞ ☞







松下電器は当初、競争が激化する業界において
常に何が正しいかを考え、淡々とその道を歩いたといいます。





創業者、松下幸之助が説く経営理念は
単なる個人の拡張や利害欲求だけではなく、




人生観から俯瞰し、社会観、国家観、世界観、
さらに自然の摂理と言う所から芽生えるものだとしました。





そんな精神は、論理やテクニックや盲信ではなく
もっとラディカルな部分から派生していると思います。







FC展開に関し、理念が明確でない方は
一度、この概念から作ってみてはいかがでしょう^^











【後記】



ゲシュタルトが出たので、最後に有名な一節を。






私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。





私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。    





そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。    





もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。    





出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。








行動と行為の違い

こんばんわ、unreveの坂口です^^


今日は何もせずにぼー・・・・・っとしてました。
僕の「ぼー・・・っと」は、そりゃあもう達人のレベルです、
ええ、完全なる空気の一部です。



下手すると鼻に綿詰められるレベルです。
って、死んでないっちゅーねんヾ(・ω・;)オイオイ



そう言えば、何も行動しない人を見て、
「まず動け、行動しろ!」というコーチやコンサルがいるのですが、



人間が動く原理には、2つあります。
一つは「行動」、もうひとつは「行為」です。


「ん?一緒じゃん」と思うでしょうが、
全然意味が違います、行動原理と行為の原理は全く正反対の性質です。



なぜなら、行動は思考からくる破壊(自我)原理であって、
行為とは「感応」からくる創造(自己)原理なんですね。



行動すればするほど、逆に苦しくなる場合がありませんか。
あれは外部強制からくる一種の自己破壊なんです。




今日はそんな小話でも。



☞ ☞ ☞




みなさん、例えば全然お腹が空いていないのに
何かを食べ続けてる人を見た際、ちょっと暴力的に映りませんか?




僕は「食べ物を破壊している」ように見えます。
事実、いらないものを消費しているんですからね。



しかし、こういった人は結構いるものです。



欲しいものが無いのにもかかわらず、
街へ出て、買い物を続ける人、



これといった用途もなく、情報を詰め込んでいる人、
不要な物で囲まれたごみ屋敷、



愛のないたくさんの愛人、死ぬ間際に達成した一億の預金、
親しくないけどSNSで繋がっている数百人の友達・・・・




落ち着きのない心、欠けたものを埋めようとする心、
それは過去から運んで来た落ち着きのなさを、現在へ注ぎ込んでいるのです。







行動とは、場合によっては自己の「悪習慣」を止めれますが、
これが常態化すると暴走してしまいます。




しかも、壊しっぱなしで創造しないのですから、
当事者意識も生まれませんよね。



内面的に落ち着かない為に起きる反応というのは、
状況否定から来る一種の強迫観念です。



よって、行動したあらゆる意味の背景には、
欠如感を埋める為の口実が必ずセットになっています。



繰り返しますが、これによって惰性を無くし(破壊)、
その後、感応行為を取るのであれば、問題ないのですが、




惰性ではなく「本来の自分」も誤って破壊してしまうと、
その後はずっと、自己破壊のままです。



僕は腰が重いクライアントさんを見て、それが
「本来望まない事」なのか、「惰性からくる否定」なのかを判断しています。




ん、長くなりましたな。
眠たくなったので、次回に続きます笑


メグリ、メグル



さて、僕は回帰論という仰々しいものを
経営哲学として取り入れているのですが、


端的に書けば、対立項を
同義(補完)関係として捉えるというものです。



「メグリ、メグル」仕組み。



最近、やっとサイトが完成して時間があるので、
そんな個人的な小話でも。


波紋と螺旋とフィボナッチ: 数理の眼鏡でみえてくる生命の形の神秘/学研メディカル秀潤社
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こういった分野に興味を持ったのは
今から約10年以上前の事。



神道あたりの本を読んでいた際、
始めも無ければ終わりも無いという
「弥栄(いやさか)の理」を知りました。
(日月神示にもありますよね、個人的にはちょっと苦手ですけど)



そんな無始無終の概念は、昨年の出雲・伊勢神宮で
行われた遷宮と同じものでしょう。



こういった螺旋状に「メグル」ものはたくさんあって、
例えば遺伝子や素粒子もそうですし、風や海の流れ(渦)もそう。



四季や干支だって一つの周期が終わり、
そこからまた「メグリ、メグル」。



たとえその速度が速くとも回転運動である以上、
戻って来る(回帰)のです。



回帰論とはその繰り返される状態であって
その繰り返し運動(思考)は創造性(志向性)を
持っているのだと考えています。


☞☞



ちなみに聖書では世界(宇宙)が創造主によって
作られた、と言われていますね。



つまり明確な始まりがあるということ。



ただそうなると、その創造主がどうやって生まれ、
そしていつから存在しているのか、という疑問や、
その神は一体誰が作ったのかという疑問が出てきます。



マトリョーシカ人形で例えるなら、
「一番大きな人形を作ったのは誰か」、と言う命題。



そして「なぜ、それを作ったのか」
今でもそれは根本的に矛盾のまま、
哲学が引き受けています。



個人的には、こういった絶対性というものが
存在しないというわけではなく、



人間にはそれを掴む(定義する)ことは
できないのではないかと思うのです。



だからこそ、絶対は無限性と有限性を
内包した「ナニカ」である、と。



☞☞


近代科学は、光の絶対性を支持していましたが、
光の速度自体、有限(光速=秒速30万キロ)です。



そうなると光の絶対性は無条件ではなく、
条件つきになってしまいますよね。



絶対が無条件である以上、光の速度は
無限大(∞)でなくてはいけない。



仮にそうでないのなら、宇宙は秒速30万キロに限定された 
条件つき絶対性でしか説明できないという証拠です。 



ニュートリノが光よりも早いと発表されたとしても、
その速度が秒速40万になったとしても有限でしょう。



どうも、この「有限性の絶対」を
信仰する事がなかったんですね(笑)




しかし「始まりもなく、終わりもない」という
円環螺旋は時空間の干渉を受けない。



春を始まりとしているのは人間ですからね。
そんな自然の中にこそ、実体がある気がします。




2013/03/18

トリアーデ



詩人、茨木のり子氏の73歳の作品に、
「倚りかからず」というものがあります。




倚りかからず (ちくま文庫)/筑摩書房


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もはや できあいの思想には倚りかかりたくない 

もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない



もはや できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや いかなる権威にも倚りかかりたくない





ながく生きて、心底学んだのはそれぐらい





じぶんの耳目、じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合のことやある





倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ









強い女性、誰にも依らない生き方。



彼女はそれを目指したのでしょう、
以下の詩にも、そんな強い意志が表れています。



自分の感受性くらい/花神社


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ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな




みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを、友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか





苛立つのを 近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし





初心消えかかるのを暮しのせいにはするな

そもそもが、ひよわな志にすぎなかった





駄目なことの一切を 時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄







自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ











うー・・・・・ん、



池田晶子氏もそうですが、
人に頼らない生き方を選んだ女性は確かに美しく、
本質的な真善美を掴んでいます。



ただ、誰でも彼女らのように強くは生きれない。
それは決して、惰性からではない場合もあるでしょう。




もちろんわかる、非常にわかる。




ですけど・・・・という感じです。




☞ ☞ ☞





僕自身「自立と自律が大事ですよ」
と言っていますが、
その持論を、誰でも彼でも押しつけたくはありません。





食材をどんなに細かく切り刻んだとしても、
食べやすく調理したとしても、



本人が咀嚼しないなら、喉を通らないじゃないですか。




スプーンで口まで持って行こうと、
口の中に入れようと、「食べる意志」がないと意味がない。



その「意志」だけはどうにもできない。
否、「どうにかしようとしてはいけない」と思うんです。



彼女らのように凛とした生き方は
美しくはあるけれど、



そう思っている人がいれば、
どうしてもそう思えない人がいる、



僕はこれ、良い事だと思うんです。
良いと言うより、仕方がない。



もちろん、近にいるとカチンときますけどね(笑)
それが反面教師ってやつでしょう。




2013/03/07

フロー三昧

以前、動機について記事にしたのですが 、
今年に入ってずいぶんと認知度が上がってる気がする。



「好きレベル」から「ハマるレベル」へ。
これってなかなかどうして、再現性が難しい。


ただ夢中、ただ無心。


今までの人生で2度ほど、経験したけれど記憶は朧。
説明しようにも、何となくの感覚しか分からない。


ただ、明日はどうなるかとか、この国がどうだとか、
顧客がどう思ってるかとか、 お金がどうだとか、一切頭になかった。



時間の概念もあやふや、
なるほど、だから夢中なのだろう。



そんな直覚を仏教では「三昧」と呼ぶ。
フローもまた、同じような状態である。


何かに対し、無我夢中になっている際、
人間には自ずと働く知がある、それが三昧だ。


この状態においては「我」が発生していない、
ただ、意識がなくなるのではなく、我が対象に埋没しているのだ。




つまり主客未分の境地だと言える。


この対象の移入による「主客一体」の状態で
人間が認識しているものこそが、真の「現実(実体)」だと言われる。



これは建前のない動物の生き方であり、
あらゆる哲学者が「美」の象徴にしている。


それ以外の状態では、前回カントを例にしたように、
必ず思考のフィルターにかけられ、現象となる。


つまり、ありのままの現実を見るためには
フィルターが邪魔であって、逆を言えば我々は本来それが出来るのだ。


創造と三昧を同一化してはいけない。
創造とは客観的世界に存在しないものを生み出す事であり、


三昧とは「すでに存在しているものの潜在性を取り戻す」事。



そして直観による行為を伴った時に初めて、
根源的倫理と呼べるものがあるのだ。


2013/03/05

XY、そしてZを超えて





モチベーションアップの手法はいくつかあって、
大半は西洋から生まれましたが、
その中にXY理論というものがあります。



提唱者はダグラス・マグレガー、
性善説と性悪説のようなものです。



x論は「人間は強制しなければ自ら進んで仕事をしない」とし、
Y論は「人間は本来、仕事を進んでやりたがる」と。



XとY、どちらも正しく、どちらも間違っています。
その両方を持ち、どちら側にも流れるのが人間ですからね。



今日はそんな小話でも。








さて、ウィリアム・オオウチ氏は
相容れないXとYに対し、Z理論(セオリーZ)を提唱しました。



氏は日本企業文化を「J型」、
アメリカ企業を「A型」とし、



日本経営「J型」とは、X理論と
Y理論の両方のメリットを取り入れている、といいます。



それは終身雇用や能力主義ではなく、
専門性に偏らない人事。


さらに集団責任や、職場だけに限らない
内外的な関わり等だと言います。
(J型の特質は他にもあるようです)




こういった細かなことが
二項の調和には必要な素材なんでしょうね。



☞ ☞



ただ、Z論が上記のような条件が
必要である以上、終身雇用が崩れた現在、
どうやって回復するか。



多分、非雇用者と企業の関係は
数年で変わってくるでしょうが、
肝心の信頼関係は戻らない。




下手すれば賃金(外部報酬)だけが
高くなって、内部は全く変わらないかもしれません。




僕は復古論ではなく、やりがい(内部報酬)と
それに見合った賃金(外部報酬)のバランスこそ、
必要だと思ってます。




独立採算のFCもプリンシパル・エージェンシーと
考えるのではなく、根幹の部分を考えてみませんか。





2013/02/13

アフォーダンスについて色々と。。。

今日はアフォーダンスについて。


アフォーダンスは「○○ができる」という
アフォードが語源で、 アメリカの知覚心理学者である
ジェームス・ギブソン氏が作った造語です。
 (ミームーみたいなもんですね)



アフォーダンス理論からすると、 
僕らは目や耳で感じているようで、
実は感じていないと言います。


目で確認していないし聞いて確認しているのではなく、
○○だろうと認知させられている、と。



つまり、モノ自体がそれをどうやって
扱えばいいのか メッセージを対象者に与えている、というのです。




例えば椅子があったとして、
僕がその椅子を初めてみたとします。
(仮にですよ)



「おっ、なんか木でできた作り物がある」。


「何本かの棒で板が支えられてる」。



まあ、そんな感じに思うでしょうね(笑)
しかし、アフォーダンスによれば、
僕が椅子の使い方を知らなくても、それを見れば座るというのです。




つまり「椅子自体」が「僕に」使い方を教えた、と。
誰からも教えられていないけれど、何となくそう思った。



これって面白いですね。
自動ドアのボタンを初めて見たとしても、
我々はつい、押してしまうようですから。



この「なんとなく・つい」ってやつは、
まさに「自分にとって意味のある情報」を
無意識的・身体的に掴もうとしているわけでしょう。




つまり「自分の持つ情報以外」でも、
我々は意味を感じる事ができるんですね。



☞ ☞




よく市場の声(ニーズ)を掴め、と言いますが、
このアフォーダンスのように、見えないものもあるわけです。



マニュアルだってそう、ブラッシュアップした答えこそ
唯一の道であるように言う人もいるでしょうが、
本来、自分流は自然派生的に見つけ出しています。



例えば人ごみの中を歩いててもうまくすり抜けれるのは
まさに「すり抜ける道すじ」がその人にアフォーダンスされているからでしょう、




これをもっと活用することをお勧めします^^
最後に、僕がアフォーダンスの達人だと思ってる
スティーブ・ジョブス氏の有名セリフでも。




美しい女性を口説こうと思った時、
ライバルの男がバラの花を一〇本贈ったら
君は一五本贈るかい? 


そう思った時点で君の負けだ。
その女性が本当に何を望んでいるのか、見きわめることが重要なんだ










2013/02/12

中空均衡構造




河合隼雄氏は日本の文化構造を
「中空構造」と定義しました。


それは、西洋の統合・統一理論とは異なり、
対立する原理の共存が前提としてあるのです。



二項を対立させ、勝ち負けによる
排除を行うのではなく、調和といった均衡点を探すというもの。



歴史を遡ればアマテラスとスサノオといった、
この国の古事記のよる神話構造も中空均衡といった
構造で描かれています。




八百万の神に中心はない、
ツクヨミ がいわゆる「均衡点」なのです。




日本は対立するあらゆる問題を解決するに当たり、
極論である統一論理ではなく、
やじろべえのような安定しない軸を中心とした
均衡モデルを展開している民族性があるのです。



中心が空であるということは、中心は「有且無」である
不安定な状態であり、相対的です。


これはまさに仏教の色即是空と同じ原理、
対立する原理は情況で変化し、それに伴い均衡点が変化するというもの。



相対立するものや矛盾するものを排除せず、共存するという「状態」を重視し、
原理を持ちだし、正解を導き出すといった考えではないんですね。



☞☞


日本人が意見を持たず、決定する事が
できないと言われているのはそんな歴史的背景から。




「正解はたった一つ」という考え方が
西洋の考え方ですが、この国は「複数の正解を持つ」と。




ビジネスだけに限らず人生において
真に大事なものはたいてい答えがありません。
それを問う事自体(プロセス)に意味が内包しているのです。



つまり「問い続ける」事が答えであり、
時と共にその関わり方は変化する、



まさに「中空均衡構造」はあらゆる場面において
相似的役割を果たすものではないでしょうか。



場を創造する、これがoffice unreveの提唱する「リゾーム式FC」の骨子です。

2013/02/07

饗宴



美意識というものがある、
今では廃れてしまった概念だが。



「恋愛とは美しいものに心惹かれること」、
これはプラトンの言葉であるが、



それは自己の中にある無意識的な「欠けたもの」を
対象に見出し、それを得たいという根源的な欲求なのだろう。




そんな、より完全なものに近づこうとする本能。
これがエロスというわけだ。





今日はそんなエッチな小話(違うか)




☞☞




我々が原理原則に忠実に従いたいと願うのは
我々がこういった「美」に心惹かれるからだろう。




そうなると原理(理性)は美の表象だと言われそうだが
あくまでも「理性的」ということだ。
(これはゲーテを引用するまでもない)





では理性的な美、とは一体なんだろう。




「潔し(いさぎよし)」というのも美意識である、
自決とはそんな美意識の忠義心から生まれたのだろう。
(半分は理解できるが)




生きようとするがゆえに、死を覚悟する、
なるほど、武士の嗜みとはそんなものなのだろう。




☞ ☞



僕はそんな強要は好きじゃない。
よって、馴染みや心地を重視する。




住み心地、夢見心地、居心地、履き心地、
着心地、人心地、生きた心地、呑み心地など、




日常でも頻繁に使われているこの心地であるが、
源氏物語(平安時代)にも、その言葉は使われている。



そんな約1000年の時を超えた言語であるから、
その発声自体にさえ、何かしらの心地良さを感じる。




(詳しく記述は割愛するが)
言葉には少なからず言霊という波が起きてるのだろう。
いやはや、仮名(神名(かむな))とは面白い。





知ることを知る大切さは、この歳になって分かるものだ。







閑話休題

そんなわけで心地の概念は概ね、そんなところだが、
これ以上は語る事ができない。




それは美を正確に語れないのと同じである、
そもそも、男の美学や美意識とは語るものではない。




逆を言えば、こうやってブログに書いている時点で
独りよがりの美意識にすぎないのだろう・・・・南無三、なむさん、と笑


2013/01/24

今を生き抜く力3

坂口です、こんばんわ。
今日から大寒ですね、寒い寒いあせる





この寒さを超えれば春ですね、





さて、山形市には「鶴岡食文化産業創造センター」
という地域団体があります。



市の職員である
鶴岡食文化創造都市推進協議会 が昨年から進め、



「食」から「職」の創造をテーマとした、
雇用の拡大を目指しています。
(ホームページはこちら


「人づくり」と「事業づくり」を柱にされたこのセンター、
食文化を支える為の人材育成や、

鶴岡市の食文化を盛り上げるため、
食と異分野との連携による新しいビジネスやイベントなどを開催しています。



山形の食文化継承がメインなのですが、
ビジネスの要素も取り入れてますので今後、楽しみですね^^



鶴岡食文化創造都市推進協議のみなさん




ここ福岡でも、福岡県庁がフランチャイズを
展開支援するという全国初の試みがスタートしています。



今後、各地方行政の横断的な連携が
もっと増えてくるでしょうね。



☞ ☞ ☞



さて、その鶴岡食文化創造センターでは
来月セミナーを予定していまして、



その講師として、クライアントである
ハンズバーガーの髙橋社長が講演されますo(^▽^)o


他にも地元で活躍されている各経営者さまが、
「店舗継続」や「新規立ち上げ」についてリアルな声をお届けしますよ♪


詳細は以下のようになっていますので
近隣の皆様、ぜひこの機会をお見逃しなく!



■講座
「飲食店経営者に学ぶ、独立開業の道」


■日時
2月17日(月)・2月19日(水)
14:00~16:00(質疑応答あり)




■定員
各30名(申し込み多数の場合は選考にて)


■参加費
無料


■対象者
・飲食店新規立ち上げをお考えの方、
・飲食店従事者・経営者の方



参加ご希望の方は電話かメール、
こちら をダウンロードしてファックスでお知らせ下さい♪



※担当の今野さん、
丁寧なメール対応、ありがとうございました!



☞ ☞ ☞



ちなみにブログのテーマである「今を生き抜く力」、
実はクライアントさんの商品に対する思いなんです。


それは「今この瞬間」を生きるという
生命力そのもの。



既製品や機械化や進み、
合理的な食事提供が溢れ、


偽装問題や某企業の農薬混入事件など、
最近の食に対する不安が多い中、



作り手の心のこもったものを食べれば、
無意識的な部分では、きっと感じるものがあると思います。



この思いを全国へ広げていきますので、
一緒にやって頂ける方のご連絡、お待ちしています^^


※ハンズバーガーは宮城・福島・岩手の方限定で
加盟条件を大幅に変えてます。



飲食店だけでなく、他にも志の高い経営者達が
あなたの独立を支援しますよ♪



「中小企業の力を合わせて復興するぞ!」という方は
office unreveの公式ホームページ も、ぜひ一緒にご覧ください!





~PS~



帰る途中、牛タン食べてないことに気付き、
お昼を食べたばかりなのに、牛タン屋さんに行ってから帰りました(笑)



「タン先」「タン中」「タン元」「タンサガリ」が
全部入ってますアップ


美味し( ̄▽+ ̄*)ハライッペ






2013/01/23

遷宮とパラダイムシフトとエントロピー

ども。unreveのグッさんです^^

今、雪を見ながらブログ書いてます。




こう書くと、なんだかカッコいい感じですが。









こんな感じデス(笑)

ハア・・・春はまだですかね。





☞☞



さて、今年は伊勢神宮と出雲大社の遷宮が同じという

珍しい年でもあります。



遷宮(せんぐう)とは簡単に書くと「新築移転」、

修理とか新築する時、一時的に神体を移動します。




定期的に遷宮することを式年遷宮といい、

この行事で古いもの全てを取り壊し、また新しいものに変える、といったものです。




ちなみに寛文7年、出雲大社は朱塗りの旧本殿から、

白木の新本殿へ。



この遷宮により出雲大社からは仏教色が取り払われ、

また、周辺の地域でも仏教施設が取り除かれてます。




そこから出雲大社周辺が

「神道之地」と呼ばれるようになったんですね。




つまり「思想ごと変えちゃおうよ」と。

考えたら一大行事ですね。






さて我が国には、このように破壊と再生を繰り返しながら

永続的に世界が続く、弥栄(いさかや)の概念があります。




宇宙には始まりもなく、終わりもない。

ただただ弥栄に栄えていくのみ、と。




元来、日本人には「終焉」といった言葉がなかったんですね^^

「終わりが無い」という事が終わりの答えだ、と。




ただ、その流れの中には大きな転換期があって、

それが巷で言われる「パラダイムシフト」なのかもしれませんね。





冒頭の遷宮だけに限らず、

今は大きな「転換期」だというのは間違いないです。




昨年の冬至はマヤ歴で終焉だと言われてましたが、

人類滅亡ではありませんでした。




そのせいでネットを始め各国でも一時パニックになったり

買占めが起こりました。

(ノアの箱舟みたいなやつも売りだされてましたね)




若い世代の中には逆にそれを望んでたり。

言いかえると破壊の後の再生を期待していたのかもしれません。





個人的にはマヤ歴って、世界の「転換期」を指していると思うんです。

遷宮のように「ガラリと全く変わる時代の節目」である、と。





オカルティズムに傾倒するわけではないのですが、

新しい時代、すでにシフトしているのではないでしょうか。





だとすれば、これからの時代の変化、

とっても楽しみじゃないですか^^?




完全な利他へのシフトとは思えませんが、

今年は今までの非常識が、常識になる気がしてならないんですね。




ただ、おかしな思想や説法が蔓延っている感は拭えません、

自分の目も養わないといけないな、と改めて感じます。




次回、これについて、

個人的な考察を書こうと思います^^


2013/01/14

シェイクスピアとマニュアル

人間は泣きながらこの世に生まれてくる。
阿呆ばかりの世に生まれたことを悲しんでな
」。


これはw・シェイクスピアの言葉であるらしい。
いやはや、なんとも豪胆な。


シェイクスピアと言えば、ご存じ世界一有名な劇作家。
ロミオとジュリエットやハムレット、リア王なんて誰もが知っている名作である。


私は劇場で見たことはないが、
映画大全集は持ってるんだなぁ(笑)



作品の全てがドキッとするくらい人間の内面を表現しているので、
個人的には心理学者や哲学者に近い気がする。


全ての人間が持つ原罪である猜疑や嫉妬、
マクベスはこれを鮮明に描き出した。


喜劇と史劇と悲劇・・・。
今回はそんなシェイクスピアにまつわる小話。


☞ ☞ ☞


シェイクスピアは活字を使わなかったらしい。
台本は個人のパートだけ与えられ、全体の物語を読むことができかった。


当然、観客も作品を見る事ができない。
つまりは耳でしかその舞台は体験できないものだったのだ。


実際の舞台と俳優のセリフを覚えながら各自、
一連の物語を再構成するしか、方法はなかった。


よって観客を始め、俳優たちそれぞれも、
各々が自由にその世界を感じたのである。


よってシェイクスピアの舞台そのものは
一義ではなく、多様な物語なのだ。











何と不親切な・・と思うだろうか?
私はそうは思わない、むしろ逆にこれこそが醍醐味である。



我々がその一部始終を目にできるような俯瞰的な視点とは
逆を言えばそのリアルな「場」から切り離された傍観者でもある。


そして客観的な場に居座れない代わりに、
我々は常に参加し、受け入れ、相互に影響を与えあうことができる。


内側から眺める視点、これがunreveの「場の創造」なのだ。


文字(テキスト)が存在すれば途端に内部から外部となる。
まるで台本を読む傍観者のように。



つまり全員が参加するには「文字」が邪魔なのだ。



岡目八目は立ち位置として重要だと書いたが、
その視点を自由に変える事ができるのが前提としてある。


☞ ☞ ☞

シェイクスピアの演劇は没後、その「曖昧さ」から
数学者からなる王立協会によって批判された。


それは数学者やプロテスタント(カルヴァン派)が求める
「万人共有」の対立概念だったからだ。


17世紀は「多様から一義へ」変わって行った時代ともいえる。


シェイクスピアの没後、世界中の人々が作品を共有した。
印刷技術とは、世界で初めての大量生産した「知の共有」である。


つまり今ある活字本とは、均質にして反復可能であり、
編集によって多くの人々が共通する意味を持てる、という
「再現性を売る商品」なのだ。



否、持てると勘違いさせてしまう商品なのである。



☞ ☞ ☞


フランシス・ベーコンは言語が個人の偏見(イドラ)によって
作られているとし、


デカルトは観念を正確に伝えうる言語以外の記号を考えた、
言語が記号である以上、解釈は一つではないのだ。


フランチャイズのマニュアルも当然「イドラ」である。
その台本を俯瞰しても捉える「フィルタ」が違うのは当然だ。



我々は自己完結、つまり「勝手に納得(解釈)」してしまう。
(解読と解釈の違いは前回書いた)



シェイクスピアはそれを危惧して、
あえて台本を書かなかったのかもしれない。
多様な捉え方そのものに価値を置いた気がしてならない。



つまり受け手が多様である以上、
一つの台本を作ったとしても、その解釈は多様のままなのだ。


unreveは「参加型マニュアル」を推進している。
それは本部と加盟店によるフラットな編集作業だ。



イノベーションが求められる時代において、
既存の閉鎖的になりつつある専門性や、俯瞰的マネジメントは台本である。



台本に当てはめ、再現し、大量に作る。
それはもう通用しない。



現在、時代を先読みする地図はない。
管理する設計書もない。



今はコンパスだけが頼りなのだ。
それは関係性の中から生まれる気がしてならない。

平和のノウハウ

さて、僕は最近全くテレビを見ないので
流行りの歌もアーティストも分からない
という、残念なやつなんですが(笑)



このところお気に入りが
「世界の終わり」でして。



歌詞の意味を問わないものが
多い中、すてきな歌詞書くなぁ、
と思いました。



「天使と悪魔」っていう曲の中に
「大人vs大人の正解、不正解のバトル」
って部分があるんですが、



確かに、大人って理性の塊だよね、
って感じたんです。



今日はそんなところからの小話でも。







さて、昔の僕もそうだったんですが、
矛盾する対立二項は統一したいものです。



矛盾して悩んだり葛藤したりするより、
科学みたく、スパっと断言したほうが
確かにスッキリします。



ただ、ずいぶん前にそれは止めまして、
統一ではなく回帰による統合、
超克的な組織構造論にシフトしました。



統一とは意図的に同じ状態を
作りだす画一化であり、



統合とは相互矛盾し、バラバラなものが
一つになる、調和的なもの、
似ているようで全く違います。



☞ ☞ ☞



ちなみに物理学は統一したがりますな。
例えば、素粒子を一本のヒモに統一したら、
そのヒモが5本に増えてしまった。



真実が5つあると困るもんだから、
11次元の膜で統一したのがM理論なんですが、
それでもパラドックスは消えてません。




なぜ矛盾が消えないか、
それはこの1400グラムの脳が
理性で考えてしまうからですわ。



だからさっきの歌詞の様な
「正解、不正解のバトル」になる。



それじゃあ部分の正しさが
全体にとって悪になる、ってことで、
両成敗式目が慣習化されてたんです。



これができたの、世界で日本だけ。
我々の文化は平和のノウハウを持っています。



☞ ☞



子供を見れば、正解を求めないし、
比べることもありません。



ただ、自分ができたことを
親に褒めて欲しいわけです。



比べ出すのは小学校くらいですな、
ちょうど理性が強くなる頃です。


誰々ちゃんの家は大きいだの、
誰々くんのお小遣は多いだの。



僕もよく言われてましたわ。
「他所は他所、うちはうち!」ってね(笑)



ここからなんとなく記憶が
ハッキリしてきませんか?
これは理性が働いているからでしょう。




☞ ☞



身近な統一理論は他にもあって、
歴史上、最も古いと言われる
西洋宗教なんて、まさにそうですな。




キリスト教、ユダヤ教、イスラム教。
それぞれが唯一無二の神を譲らない、と。



それじゃあさっきのヒモ理論みたいに
真実がいくつもある、って話になってしまう。



だから互いに仲が悪いんですな。
ただ、根の部分はまったく同根なんですがね。



フロイトだって世間の心理を
個人の心理に当てはめてるわけでしょう、



小林秀雄から怒られそうですが、
社会の心理が個人の心理のはずがない。
それならベルクソンの方がまだ分かる。




成功哲学のマーフィーもそう。
無意識を意識でコントロールできる、
と思っている。



つまり意識で統一するって事でしょ、
そんなもん、不自然かつ危険極まりない。



寝ている時は無意識なわけです。
その時、呼吸や心臓は勝手にやってくれてます。



逆を言えば、我々は「無意識」がないと
おちおち寝ることすら出来やしないわけです。



だから陰陽両面を陽で統一するんじゃなくて、
陰陽を統合する生き方は自然だと思うんです。



☞ ☞



そんなわけで、僕は原理主義が
どうしても苦手なんですが、



それすらも、極端になれば
「反原理主義」という原理を持ってしまう。
これじゃあミイラ取りがなんとやら、です。



ほどほどが一番ですな。
原理は太陽と一緒で、長い間見るもんじゃない。



客観的整合性がある原理は
あるかもしれないし、無いかもしれない。



しかしそれは理性では分からない、
逆に、故に、だからこそ、



我々は大いなる原理の存在みたいなものを
感じる事ができるんでしょう。





【後記】

とはいえ、僕の定義では
どうしても存在の悪、というものがありまして。


例えばそれは白痴のムシュイキン侯爵のような
純粋な存在だったりします。



純粋なものは美しいとは限らない、と。
まあ、この辺は難しいですね・・・