19世紀、ドイツの心理学者らは個々の性格を
分類した性格学を研究していました。彼らは現象へと
形成される過程を調べ種類(類型論)や
構造(層構造)、特質(特性論)を見出そうとしたのです。
ちなみにそれに東洋の四柱推命や密教の
宿曜を加え、体系化したのが
(懐かしの)動物占いと言われますね。
僕はコアラだそうな(゜-゜)ニテルカモ
僕が占いやタイプ別診断で
自分や相手を理解するのが苦手な理由は
「こういう人だと分かったら好きになる」
ではなく相手の分からない部分を感じた時に
グッと引き寄せられるから。僕は意外性ってやつに
惹かれてしまうんです。
良い意味で「こいつ、狂ってんな」と思うと
すごい興味が沸いてくる。もちろん本当に
おかしい人は拒絶しますけどね(笑)
🐨🐨🐨
個性に限らず何かを構築する場合、
徹底的に異質を「排除」する方法と徹底的に
「受容」する方法と二つあるんですが、前者の
排除すれば純化されるという理屈は僕は信じません。
むしろやせ細り、貧弱なものになってしまうんじゃないかしらん。
「自分らしさ」だってそう。これは違う、あれは
私らしくない、これは本当の望みじゃない・・と
「妥協した自分」を切り捨てて行けば、最終的に
自分自身も消えてしまうと思うのです。
それよりも妥協や我慢、抑圧といった
ネガティブなものを含め、束にした方が
よほど個性は豊かになります。
最近は「本当はどうしたいか?」と言う
問いがあまりにも純化され過ぎた結果、
逆に窮屈な自分になってる人が増えてる気がしますね。
🐨🐨
「これが私、私は私」というものは
例えるなら地球という大地に根差した
人類という木に生える日本人という枝から
出てくる葉っぱのようなもの。
その葉っぱの部分を上記のような心理学は
分析対象にしていますよね。例えばこの心とか
この身体とかいう「わたし」です。昨今の
個性とはその葉っぱがそれぞれ違うと言ってるわけでしょう。
しかし、その葉っぱを辿れば枝があり、
枝を辿れば幹があり、幹を辿れば根を張る土がある。
つまり個性、個性と言っているのは大きな
「ナニカ」から派生された小さな枝に生えた、
まあこの個性ですよね。
小林や岡はそんなものは個性ではなく単なる
特殊性だと言います。それは目鼻の違いと一緒で
どんな人間も違っているのだ、と。確かに
尖がった鼻を「これが私の個性だ」とは言いませんわな。
それでは「個性を尊ぶ」こともできません。そしてこの尊ぶ心は性格学では
絶対に得られない、僕はそう思ってます。
僕は相手がコアラだろうがラッコだろうが
別に気にしません。それよりもその人の歩む
生き様に個性を見ます。