2015/11/30

地域密着店のキーワードは○○重視





今まで小売市場の主役だった
大手スーパーが不振となっている一方、
独自の取り組みを行う地域密着店舗が
消費者に受け入れられていますね(゜゜)



以前お伝えしたスーパーオオゼキさんしかり、
愛知県で5店舗運営している別名
奇跡のスーパー」サンヨネさんしかり。




共通するのはやはり「安心安全」への配慮や
各従業員の主体性です。



ノウハウではなく「心構え」が大事だということ。
それを作ってるのが「風土」であり
根幹にある「理念」なんですね。



例えばサンヨネさんを見ると、理念を
実に上手に具体的な形(コンテンツ)にしています。



無農薬の野菜販売や化学調味料を使わない
カレールなどのPB販売がそう。
これが地元の住民の手堅い信頼を得ているのです。



驚くことに、セールでもないのに
開店から約20分程度で駐車場が埋まるとか。



当たり前のことを、当たり前にやってるところが
きちんと評価される時流ですから、当然でしょう。



こりゃ「当たり前が分からない」大手は
勝てないなと、一人ニヤリ顔ですわ(笑)



伊丹十三 監督 「スーパーの女」





さて、こういった地域密着店はもれなく
現場担当者の権限付与が大きいのも特徴です。



各自が自己責任で判断し、仕入れから陳列まで
任されているので、主体性が必然的に育まれる、と。



独立に伴い、大手のチェーンをいくつか経験したのですが、
この部分も大手は(ほぼ)不可能だと思いますね。



地域密着店とは「現場重視」。
これが最大のキーワードと言っても過言ではありません。



☞☞



さて、大半の大手組織がこういった
現場重視ができないのは、構造といういよりも
場が作り出す空気によって、視線が顧客に向かないからでしょう。



いくら「お客様の為に」とクレドを唱和しても、
自己保身にベクトルが向いてしまえば馬の耳になんとやら、です。



どこも内輪争いばかりやってましたからね(゜゜)



(失礼)また、合理性やリスク回避を追求した結果
仕事が「作業」になってしまっている。これも
現場という「場」を分かっていない証拠です。



監査部署ができている以上、
店長も口出しできず、机上の空論に付き合わされ、



その結果、どんどん現場と乖離する、と。
過去の誰かが作ったそのガチガチの体系を
誰も変えようと思わないんですね。



なかには上司と戦う店長もいますけど、
頽廃が根深いところは大体、この構図です。



☞☞



小売りだけに限らず、こういったケースは
あらゆる業態、あらゆる規模に当てはまるかと思います。



不思議ですね(゜゜)
逆を言えば、それがボトルネックだということ。




一度作ってしまうとなかなか壊せません。
フランチャイズ本部もそう、最初が肝心ですよ。








「後記」


僕が知ってる創業者さんは
全員、毎日現場に足を運んでいますが、



それは顧客のニーズを知るためだけではない。
多分に、現場という「場の空気」を
肌感覚で感じるためではないでしょうか。




逆にサラリーマン社長や二代目は
そういったことをしない人が多い、



これも共通してて面白いですね。



2015/11/29

自然派生で起こる守破離




個人であっても法人であっても
独自性というものを得るためには



自己の本質的な欲求を見極め、
それに素直に従えばいいと毎回書いていますが、



端的に言えば「好きなことをやる」に尽きます。
対象との同一化はそこから始まるのです。



それは衝動に任せた自分の自意識を
「これが心の声だ」と正当化するものではない。



なぜなら好きという感覚的なものには、
論理的かつ本質的な部分が隠されているから。
むしろ逆に衝動を抑える時もあるでしょう。




というわけで、今日は守破離の概念を
現代風(笑)にご案内してみようと思います。




多分に、読者の中にはカラオケが好きな方が
結構いらっしゃると思いますので、




今回、それを使ってみますか(゜゜)フム








さて、好きなアーティストの曲を歌うときって
「歌い方」が似てきますよね。



本人の歌(リズム)を自分で体現したいという
欲求がある以上、それは自然なことでしょう。



バンドを始める時だってそうです。
いきなりオリジナルを歌うのではなく、
コピーバンドから入るところが大半ですから。
(ちなみに僕の時代はBOOWYが登竜門と言われてました)



いわばアートは模倣ありき。たくさんの専門書を読み
観念的解釈で頭を一杯にするよりも、



まず「真似る」ことが最短のスタートなのです。



ゴッホが模写した「種撒く人」



ミレーの「種撒く人」




もちろん、あらゆるアートの根幹は
激流のように現れた構想が形になったものである以上、



完全なオリジナルを「作らないと仕方ない」
という天才も稀にいます。




「自分は音楽家だから思想や感情を
音を使ってしか表現できない」といった
モーツァルトのように、



独特の解釈は独自の形式を
直接的に必要とするでしょうからね。
一種の宿命でもあります。




ただ、僕のような凡人はやはり
真似るべき「型」がなくては作れない。



故に最初は感性から派生した「好き」から
対象と同一化しようと試みるのです。



これが守破離の「守」。
明確な理由なんてない、けど「真似たい」。




この根幹には必ず「同一化したい」という
感性からの派生(好き)があります。




逆に、嫌いなものは真似たくないもの。




なるほど、宇宙に引力と斥力があるように、
我々もまた、引き寄せながら引き離していると言えますね。




☞☞




ただ、その人自身の個性を消すほどの、
模倣は(失礼な話)コピー、感動はしません。



なぜならそれは「守」で完結しているから。
美空ひばりさんの歌を完璧に歌えたとしても
本人ほどの感動は起こりませんよね。



個性然り、その人だけにしかできない「型」がある、と。




大事なのは、真似れば真似るほど
「浮き彫りになってくるじぶん」から
派生したものを一つの「型」にすること。



これが正しい守からの破。



型を破って「(自分の)型に着く」のです。




「後記」



独創と新奇性を追いかけるのに疲れ、
要求する形式が複雑になればなるほど、
我々の感性はその濫用に耐えることができません。



結果、その志向性が自壊作用を起こようになると
今度は逆に純粋でシンプルな形式を求めるようになります。



では純粋でシンプルな形式(型)とは何か?
還るべき原点はどこか?




それが内部からの声、内部派生です。





2015/11/28

シカさんの手紙




野口英世の母である野口シカさんが
息子に会いたい一心で書いた手紙があります。



以前のシカさんは学問を習っておらず、
文字が全く書けませんでしたが、



息子に一目会いたいという一心から、
囲炉裏の灰に字を書く練習をして
この手紙を書いたのです。




おまイの。しせ(出世)には。みなたまけました。
わたしもよろこんでおりまする。



なかたのかんのんさまに。
さまにねん(毎年)。



よこもり(夜篭り)を。いたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。


いぼし(地名)。
ほわ(には)こまりをりますか。



おまいか。きたならば。もしわけかてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。


わたしも。こころぼそくありまする。
ドカはやく。きてくだされ。



かねを。もろた。こトたれにもきかせません。
それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。


はやくきてくたされ。


はやくきてくたされ



はやくきてくたされ。


はやくきてくたされ。




シカさんの心細さが「はやくきてくたされ」を
4回も繰り返されている事から伺えますね。



これを見て心が打たれたのは、
今の気持ちを率直に「自分の言葉」で
表現しているからでしょう。




心の底から湧いてきた言葉と言うのは
綺麗な文章よりも心に響きます(゜゜)




☞☞



ちなみに僕もブログを書き始めた当初は
書くのが上手いとはいえませんでした。



まあ、今でもそうですけどね(笑)
だいぶマシになったほうなんですよ。



もっと上手く表現できるようになりたい。
頭の中にある概念を少しでも形にしたい。




多分に、僕もまた自分の言葉で
伝えたいのかもしれませんね(゜゜)




そんなわけで、囲炉裏の灰ではなく
ブログの中で練習してますが、




かれこれ5年ほど続いてます。
慣れると結構、楽しいもんですよ。










2015/11/27

これで組織はダメになる~ツリーからリゾームへの展開を~



こんばんわ。


あまりにも寒すぎて、コンビニで
肉まんを買ってしまった坂口です(゜゜)



使い食いカイロ





来月半ばには北海道入りなんですが、
飛行機とか、ちょっと心配ですね。




皆様も暖かくして、風邪など引かないように~(^^)/




☞☞




そういや、第二次世界大戦時のCIAの秘密資料で
敵国内のスパイが、組織の生産性を落とすために
作ったマニュアルがあるみたいですね(゜゜)




CIAのスパイマニュアルに学ぶ「会社をダメにする11の行動様式」





画像もこちらのサイトより





これがその一部のようです。
ちょっと引用してみましょう。


~引用ここから~



・「注意深さ」を促す。スピーディーに
物事を進めると先々問題が発生するので
賢明な判断をすべき、と「道理をわきまえた人」の振りをする 



・可能な限り案件は委員会で検討。
委員会はなるべく大きくすることとする。
最低でも5人以上 



・何事も指揮命令系統を厳格に守る。
意思決定を早めるための「抜け道」を決して許さない 



・会社内での組織的位置付けにこだわる。
これからしようとすることが、本当にその組織の
権限内なのか、より上層部の決断を仰がなくてよいのか、
といった疑問点を常に指摘する 



・前回の会議で決まったことを蒸し返して再討議を促す 


・文書は細かな言葉尻にこだわる 


・重要でないものの完璧な仕上がりにこだわる 


・重要な業務があっても会議を実施する 


・なるべくペーパーワークを増やす 


・業務の承認手続きをなるべく複雑にする。


・一人で承認できる事項でも3人の承認を必須にする 


・全ての規則を厳格に適用する


~引用終了~




しーあいえーの野郎め(笑)





つか、実に面白いですね。
これって、役所とか企業がやってる
「正しい仕事」そのものじゃないですか。



ツリー型って、どこもそうですよね。
整然たる秩序を形成しているように見えて、
単に無責任と依存体質を増長している、と。




ただ、一番最初の「注意深さを促す」
については、程度の差はあれ必要でしょう。
(そうじゃないと、アベノミクスまで肯定される)




後は間違いないですね。
こんなことやってたらそりゃ仕事なんて
楽しくなくなりますわ。



☞☞☞



表面上のツリー体系より大事なのは
部署の垣根を超えたところで派生している繋がりです。



「ここから先はうちの仕事」とか
ライン引きするもんじゃない。
本部と加盟店の関係性だってそうですよ。




いーですね、
リゾーム組織の幕開けって感じがしました(´▽`)











「後記」


クライアントの顧問さんがコラムを寄稿してます。
ペットで起業したい方は参考までにどぞ(^^)





点と線と面、円を見る点




こんにちわ、坂口です(゜゜)




今日は和の哲学について、
僕の語彙力では限界があるので
サイコロを使って簡単に説明してみます(笑)










目の前に、大きなサイコロがあると
想像してください。自分より大きい、バカでかいサイコロです。





大きすぎて、面しか見えないやつ。





イメージできました?




あっ、君のはちょっと小さい。
そうそう、それくらい(笑)





じゃあ、その正面に我々が立った場合、
目の前には、何が見えるでしょうか。





近すぎて数字すら見えないって?
じゃあ、ちょっと後ろに下がって、ほらほら。





何か見えてきましたね。
「①」の面かもしれないし、「③」かもしれないけど、




その位置からでは複数の数字は見れない、
そうじゃないですか。





では、「①」の反対の方向に立っている人は
何が見えているでしょうか。




「⑥」ですよね。
向こうからすれば、それしか見えません。





彼らはどちらも正しい。





しかし、お互い「サイコロの構造」は
知らないわけです。





そして、やれ「世界は①だ!」、「違う⑥だ!」と
言い争ってる、と。












どの面も数字はバラバラ、
しかし、両面を足せば、合計は7。
これもまた、分からない。




なぜならこの「合計7」という数字は
どこにもないから。




けれど、サイコロはその合計数⑦によって成立しています。
(あくまでも一般的な六面サイコロとした場合ね)




側面もあれば裏も底もある
サイコロを一度に「見る」ことはできませんわな。





では、この面をどんどん増やしていくとどうなるか。











まだまだ、歪な形ですね。
もっと増やして増やして。。。。。










はい、











100面体の出来上がり。
(クリックするとアマゾンで買えます(笑))









点から面思考の先にある円環思考。
一つのサイコロを形成する100の面(点)です。






和の哲学を図で説明する際、
このサイコロを使うと便利ですな(゜゜)








ちなみに一面ダイスは表と裏が一つになった
メビウス構造になってます。




ある一定の場所にいけば、クルリと反転する。
お馴染み、メビウスの環です。







ちなみに、これは持ってません(笑)






2015/11/25

自由自在②~矛盾なんてない~





こんばんわ、坂口です(゜゜)
前回に続き、二回目です。




さて、このテーマは同じことを
言葉や例を変えながらお伝えしていますが、



もっと深く理解したいという方に
今回、過去記事を掲載しました。



多分、参考になるかと思います(笑)



退化への道


たまたま、なんとなく作られたもの



直観的という事



対話篇~回帰~




てなわけで「矛盾なんてない」、
始まりはじまり~








さて、今も昔も極楽浄土(彼岸)の到達は
永遠のテーマ、人生のゴールになってますね。



世界は苦しみに溢れてるから
とっとと抜け出したいのでしょうが、



悟るためにとても苦労している人を見ると、
なんだか本末転倒のような気がしてしまいます。



ちなみに仏陀もまた、悟るために様々な
苦行を繰り返していたようで、



(ざっくり話すと)
結果「苦行では悟れない」と思った仏陀は
菩薩樹の下で瞑想に入り、49日後に
悟ることができた、と言われていますね。




しかしなぜ、苦行中に悟れなかったのに
座禅瞑想で悟れたのでしょうか。



(ここからはあくまでも個人的推測ですが)
それは対象を掴もうとする「じぶん(自意識)」が
あったからではないでしょうか。



自意識は主観(観察者)を生み出します。
この時点ですでに対象と「分離」してしまうのです。



菩提樹の下で瞑想に入っている間、
悪魔たちが悟りを妨害してきたと言いますが、



実はこの悪魔の正体は「自意識」だった。
個人的にそう思っています。



☞☞☞



調伏(降魔成道)した相手とは
求め続ける「わたし自身」だと仮定すると、



問いもなく、悟ってやろうという意識もなく、
立ち向かう自己が消えることが、悟りかもしれません。



経験してないから断言できませんけどね(゜゜)
ただそうであれば、悟りは一瞬の出来事だったと思います。



弟子に教えているということは、教えを説く
「わたし」が現れている証拠でもありますからね。



失礼、こんなこと素人が書いてたら敵作りますな。






閑話休題
そうなると、自意識は常に敵を作り出している、
悩みの創造者(発生源)と言えるでしょう。



故に、我執となる煩悩を取り除き
四苦八苦から解放(解脱)されなさい、と。



これが仏教の目的でしょうが、
僕は人間にとって飢餓感(悩み)は
大事な生命の糧、捨てるものじゃないと思ってます。



だってそうでしょう。
飢餓感(空腹)を知らないという事は、
満たされること(満足)も同時に分からないじゃないですか。



「永遠の自由に満たされてたまま、生きていきたい!」
これって「不幸になりたい」と言ってるようなものです。



だとすれば、どっちも必要でしょう。
食欲と同様、不足と充足が交互に来るのは
自然な流れであって、循環の一形態ですから。



一つの流れにすれば矛盾は起こらない。
この視点を持つことが「自由自在」です。



☞☞



禅は内なる無分別(無心)と外の分別(自意識)を
同時に持つことを「無分別の分別」と呼びますが、



上記もまた、そういった分別されたものを
分けずに一つにする概念(無分別)だと思ってます。



誰だって根源的な「飢え」があります。
それは我執として手放すものではない。



なぜならそれは「個性」の発見に繋がると
思っているからです。



大半の人が当たり前だと思うところに、
なぜか自分だけ違和感がある。



それってまさに未表現に対する「飢餓感」でしょう。



そこから出発し、表現、具現化
することを仕事にしてる人を見て、
我々は天職とか使命があると思っているのでは。







それは自分だけが知ってます。



てんじょーてんげ、唯我を独尊に仕上げること。



(中心軸にはしないけど)
これが、僕なりの自我肯定です。






「お詫び」


編集途中のまま、ブログをアップしてたようです。
乱雑な記事、失礼しました|д゚)









自由自在①~矛盾なんてない~





こんばんわ、坂口です(゜゜)
なんかアメブロとこっちの往復が疲れてきました。
(5日ぼーず)




てなわけで、雑記も併せてこちらに書きますので、
今後ともよろしくお願いしますね(笑)




では、テーマに移りますか。
今回は禅について。




とりあえず、退会せずに放置しときますわ。





さて、禅は非表現的な体験の哲学とも言えますが、
端的に言えば矛盾を極め、内在させるものだと言えます。



没頭によって対象と同一し(無住心)
心を空っぽの状態にする(無生心)とは、



「どこにも存在しつつ、どこにも存在しない」という
矛盾を矛盾と思わない自己(悟性的自由)を獲得すること。



文献を研究するだけの学者と違って、
かれらは実践ありきなんですね。



「生きるとは何か」を書いている文献を探すよりも、
「実際に生きている自分」を観察すればいいじゃないか、と。


なるほど。
求道者ほど自己の根源に迫るのは、このためでしょう。



☞☞☞



さて、「矛盾なのに矛盾ではない」という
もはや言葉として成立していないものの理解こそ、
禅(即非)なんですが、



以前動画でお伝えしたように、
磁石を使って簡単に説明することができます。



(分かりきったことですが)
磁石のN極がN極として定義するためには
相反する対象であるS極(非N極)が必要ですよね。




暑さがあって初めて寒さ(その逆)が分かる。
逆もまたしかり、それは同時に派生しています。



つまり「N極」は「S極」があって(あるからこそ)
存在できるということ。



そうなると
N極の中には「S極」があると言えますよね。
その証拠に、N極だけにすると必ずS極が生まれます。



もしN極がそれだけで存在できるのであれば、
S極が出てくるわけがない、



N極はこの矛盾があるからこそ、N極たらしめてる。
コインもまたしかり、裏表合わせて一枚です。



矛盾は論理的整合性を求めれば出てきますが、
こういった「間の概念」で考えると、何の矛盾も起きませんよね。



そんな矛盾の先にあるものを
僕は超克と呼んでいますが、



実は誰だって「超克」してるんです。








無限に円周する円(実在)の中心に属する。
まさに実在そのものである、と考えてます。



その場所は矛盾が矛盾なく成立している。



例えば冒頭に書いたような没頭・没我とは、
自我的な欲求でありながら、同時に自我を亡失していますよね。



なぜならその対象と同化したいという
自意識によって、自意識を失うのだから。



さらに自意識を失うことによって
その対象自体を自分のものにしてしまおうという
自意識もまたある。




片面ではどうやっても解けないですね。
故にだからこそです。




自意識も自己も合一して一。
我々は全体性(一)を具現しながらもなお、
個別性を保っているということ。




以前書いたように非二元(ノンデュアリティ)が
絶対だと言えないのは、この「個別性」を
置き去りにして、全体性から語っているからに他ならない。






つまり・・・・






ん、長くなりましたね。
続きは次回にします(゜゜)





2015/11/24

ブラックボックスからクリアボックスへ





こんにちわ、坂口です(゜゜)
この間、スーパーマーケットチェーンの
成城石井についてこんな記事がありました。




高いのに選ばれる、成城石井の経営戦略
(クリックでページに飛びます)



食品に対する人々のニーズは、
「ただ食べられるもの」から
「安心して食べられるものへとシフトしてきている。


食料不足問題もありはするものの、
基本的に我々は食料に困ることはない。
お金さえあれば基本的に。


その中で人々が自然と求めるようになるのもの。
それはやはりお金じゃない、


ブランドに対する透明性なのだと原昭彦は語っている。


~U-NOTE記事より一部引用~




安心・安全・健康が重要な
キーワードとなっている現在、



ブランドに対する透明性は今後ますます
要求されていくでしょうね。




この「透明性」とは倫理性の担保。
今回はそれをテーマにしてみようと思います。








「この会社の商品なら間違いない」


「おたくの作ったものなら安心だ」



そう言っていただける存在になりたいですよね(^^)
顧客から信用を得る事は、最高のブランディングです。



昨今、こういった信頼を支える倫理性が
崩れてしまった背景から、消費者は企業に対し
「安心感」を強く求めています。



最近はネットで大手企業やコンビニの
食料品が丸裸にされているのを目にしますが、



逆を言えば、それだけ企業に対し
「不信」だということでしょう。



これもまた、一つの情報




もちろん中にはヒステリックに叫ぶ消費者もいますし、
完全を目指せば何も食べれなくなるのも事実ですが、



unreveは、この「安心感」こそビジネスの根幹であり
最大の経営戦略だと思ってます。



顧客と仲良くなろうが、ネットで繋がろうが、
リピーター戦略をしようがバズを起こそうが



宗教チックなカリスマ経営者になろうが(しつこい)
売ってる商品が詐欺まがいであれば、結果は明らか。



上記は手段を超える事はありません。
手段は持続性を持たないのです。



それはやがて消費される。
商品しかり、人物、企画しかりです。



だからといって否定はしません。
逆を言えば、カリスマ経営者が
「まともな商品」を売れば、最強でしょうしね(笑)



unreveは透明性、倫理性を支えている
出発点こそ感性(あり方)であるということから、



根幹(リゾーム)から派生したものから
組み立てるのが正しい順番ではないか、と思っています。




☞☞


こういった感じるものを明らかにするために
必要なのが自己の哲学です。



哲学と書けば難しく感じるのですが、
自覚的にあるべき姿を問い続けること。



もちろん、理念(志向性)は永遠に
明確になることはありませんが、
それによって浮き彫りになるのです。



結果「具体的な計画(手段)」が
立てやすくなり、



計画が立てば行動に移しやすくなる。
PDCAで言う「プラン→ドゥ→アクション」ですね。



「動画・弥栄モデル」でも説明したように、
円環回帰(感性派生→問い→志向性)という
一つの流れ、拍子があるということを、心得ておくといいでしょう。










「後記」



ちなみにこの流れ(拍子)は表現されながら
微妙なユレ(揺らぎ)があります。



リゾーム派生の組織論において
ここが一番大きな特徴と言っていいでしょう。



いわば存在の揺らぎを感じとる
場所にある「共通の感性」なんですが、




そのうち記事にしたいと思います。



2015/11/23

所感



テロをきっかけに
世界がキナ臭くなってきた。
そう感じている方は少なくないだろう。


夫婦喧嘩は犬も喰わぬが、人類誕生以来
懲りずにドンパチやっているところを見ると、


我々にはそれを好んで喰おうとする
精神があると言っても過言ではない。



今まで水面下に隠れていたものが
「待ってました」とばかりに一斉に
噴き出したかのような今回の展開だが、



これについて言及する気はない。
事後でいくらでも明らかになるだろう。




注目しているのは「どこで手打ちにするのか」。
それだけである。



☞☞☞



恣意的な流れは、例え派生元が小さくても、
時として激流になる事がよくある。



そして一度激流になってしまえば、
抗うことができなくなるほど強烈な
イデオロギーが生まれる場合もあるだろう。



冷静に考えると「ありえない」ようなことでも
調子に乗せ、看過される。



個人的にそれが一番怖い。
こんな時は境界線へと逃げ込むのが一番良い。



実にうまい




争いの根幹は単なるナワバリ、シマ争いである。



誰だって居場所がなければ心地は悪い。
生きるには安全領域は必要なのは当然だ。
(だから僕は鎖国を肯定する)



故に、それを一方的に邪魔されれば
必死に抵抗もするだろう。



動物だって命をかけてでも守るじゃないか。
「心地」が生存欲求に直結している以上、
それは「ごく普通の反応」である。




ただ、我々は畜生か?
そうじゃないだろう。



否、実際はそうなのかもしれない。



☞☞



こうは書いているけれど、
同時に「書いて一体何になる」という気持ちも起きている。



後は知らぬ、好きにすればいい。
そんな無責任な自分が今の世界を肯定している。



人情の機微に通じた戦時中の先人たちは
一体どんな気持ちだったのだろうか。



絶対的に否定しながらも、希望を見出し
その環境を受け入れたのだろうか。




もしかして、いつの時代も環境というものは
「居心地が悪い」ものであって、



そこから心地よい居場所を作ることを
我々は強制的に課せられているのではないだろうか。







泥水が濃ければ濃いほど、大輪の花を
咲かせる蓮は、仏教の象徴でもある。



なるほど、
決して綺麗とは呼べない泥水に根を張りながら、
ぷかり、ぷかりと水面に浮かんでいる。








眼の下に大虚庵の落款と伊年の円印が
仲良く並んでいる。


己を失わずに他人と協力する幸福、
和して同じない友情の幸福、そんな事を、考える。



この歌巻の表現しているものは、
極まるところ、幸福というものの秘密ではないだろうか。



この考えは、光の様に僕を照らしたが、すぐ消えた。
恐らくそれは、僕の不幸を照らし出したが為である。



幸福は、己れを主張しようともしないし、
他人を挑発しようともしない。



言わば、無言の智慧であろうが、
そういうものも亦、大思想であると考える事が、
現代では、何んと難しい事になったか。




~「モオツァルト、無常という事」より~





2015/11/22

包みこむように



免疫の世界ではただ単に体内に
侵入してきた異質を攻撃するのではなく、
逆に「受け入れる」ということもやっています。



不思議ですね(゜゜)
(何かは分からないけど)ある一定条件下では、
自己ではない(非自己)の存在を認めるわけです。



そんな免疫系の寛容のメカニズムについては、
未だ明確に解明されていないのですが、


ともかく、我々の生命を維持するための免疫反応が
逆に機能することがある、というのは間違いないようですね。



なるほど、実に人間的といえる「許し」が
我々の無意識下でも行われている、と。




これまた人間くさい言い方をすれば、
最終的には愛であるのかもしれません。




今日はそんなところから。







俗なるもの、異質なもの。


基本、そういったものを我々は
「排除」したいと考えます。



もちろん、それはある意味正しい。
しかし免疫よろしく、全部が全部
そうだとは思えないんですね。


リゾーム概念は対立概念であるツリーを
避けるためのものではなく包括する概念ですが



それは陰陽や聖俗、そして思想の右左や裏表も含め、
その存在が肉薄した境界線の中で見出されるもの。



つまり対立概念がないものの発見とは
組織に呼吸させることと同義であって、



その鮮度が絶えないからこそ、動的平衡が
保てるのだと思っています。



また、それと同じように
「自己と場所の両方の呼吸を合わせる」。



顕在化されたものだけではなく
潜在化されたものを「察する」ことも必要でしょう。



そういったものが文化となれば、
この業界はとても素晴らしいものになる。
個人的にそう思っています。



☞☞



とは言え、議論を重ねても
なかなか意見は一致しないもの。
なぜならその前提(根幹)は各個人で異なるのですから。



マルクスが失敗したように、経済は
道徳(教義)で縛れるものではない。
神の見えざる手の如く、普遍のルールは作れません。



そこで冒頭にある免疫構造です。
免疫系の最大の特徴とは、一義的ではないこと。



王様のような存在が各機関へ
命令を出している(統一)のではなく、



各機関が自主自律的に機能し、内外部環境と
うまく関係性を保とうと働くことで、生命は維持されているのです。



以前書いた多田富雄氏のスーパーシステムとは
部分ではなく関係に本質を見出したのですが、
こういったことでしょう。



集中からの統一型ではなく、分散からの統合型。
unreveが自己組織化(個店主義)を
提唱しているのは、こういった理由があるんですね(゜゜)





「後記」


余談ですが、愛や喜びといったポジティブな
感情が免疫を上げる反面、怒りといった
ネガティブな感情は免疫力を下げることが
ずいぶん前に分かってからというもの、



世間ではポジティブ思考が歓迎され、
これだけの自己啓発の類が蔓延したのですが、
これは共生(包む)ではない、破綻していると言えます。



そもそも、どんな時でもネガティブにならない
人間になろうと思うこと自体、間違ってます。



本来はその「ネガティブ」を肯定すること。
抑圧(排除)ではなく、許すことが大事ですね。



2015/11/20

二刀流で行くか。





今回から、実験的に「Blogger」さんを公式ブログ、
その他の日常的な記事を「ameba」に書くことにしました(゜゜)








こちらから見れます








ただ、分けるのがしんどくなったら
元に戻しますけどね(´▽`)







リゾーム派生は「常識で」考えず、「常識を」考える。





こんばんわ、坂口です(゜゜)
今週末は説明会なので今日はリハーサルです(笑)



あっ、もしこれ見られている経営者さんで
新規ビジネスを始めたいという方いらっしゃれば
22日、こちらの会場にてお待ちしております ^^) _旦~~



ちなみに最近、イベント出店が続いたおかげで
中には入荷待ちの商品も出てますね~。
(特に水素水はブームからか、すごい売れ行き)



引き続き以下の場所でイベントやってますので、
みなさんもお立ち寄りくださいね~(´▽`)



・11/20(金)-11/23(月) イオン伊都  
10:00~19:00  

・11/21(土)-11/23(月) フォレオ博多 
10:00~17:00  

・11/27(金)-11/29(日) マリナタウン 
10:00~19:00 




お知らせはこれくらいにして、
今日のテーマに入りますかね。









さて、当事務所でやってるFC経営支援は
「考え方」の土台ではなく、「感じ方」の土台をお伝えしてます。



それが「在り方」。ご存じの理念であり、
志向性であり、感性(内部)派生。



成熟期において、確実に時代は変わりました。
今までの理論や理屈などで利益を出すといった
機械的な経営ではなくなったのでしょう。




そして、これからは経営に質的なシフトが起こる(起きている)。



それは「血の通った利益」や、温かみやぬくもりがある
生きた経営、つまり有機的な時代へのシフトです。



それは今までの理性派生(資本主義原理)の
常識からでは理解すること難しいもの。



そこでテーマにあるように
「常識の方を」考えることをお勧めしてるんですね。




☞☞☞



こういった有機的な概念で大事なのが
理念であり、情熱といった「想い」なんですが、



「利他的に生きよ」とか
「感謝の心を持て」という類ではありません。



なぜならそれは感性派生ではなく単なる「教義」。
全部、相手の自由を奪います。



本来はそんな自縛自縄な観念ではなく、
もっと寛大で、伸び伸びとしたもの、



そこから派生したものが他の人が真似できない
「○○流」になるんですね。



☞☞


教義的なものはどれだけやっても
「○○風(ふう)」にしかならない。
(オマージュとコピーの違い)



本来の「流れ(派生)」にするには、自らの感性や
個性に合わせたものを付加することが重要です。




これがリゾーム派生の
「拍子・揺らぎ・遊び」の概念になります(゜゜)





2015/11/19

裸の特異点③~真理は矛盾の向こう側に~



こんばんわ、坂口です(゜゜)
前回に続き、三回目となります。
(一回目はこちら
(二回目はこちら




さて、これまで場と間(境界線)の
概念について書いてきました。



日々お伝えしているようにそれは二項の統合。
「どっちでもあり、どっちでもない」という
矛盾したものが(揺らぎながら)一つになった状態ですが、



量子の世界もまた、観測されるまで
決定されていないという「矛盾領域」ということです。



例えば真空は、あらゆる素粒子が無限にひしめいた
状態だと言われ、「ディラックの海」と呼ばれています。



なるほど、波がなくとも海は存在してる、と。
そしてこの海もまた同じように万物創造の母胎なのでしょう。



波=物質 海=真空



真空は何もない状態(無)ではなく、粒子と反粒子が
生まれては消える(対生成、対消滅)を繰り返す場所。



これが真空の揺らぎであって、
「ある、ない」と言う決定論の枠の外にあります。



だって「有と無」が永遠に決まってないんですから。
「決める」という概念は意味がないんですね。





この帽子、単色の色で言えますか?




旧来の科学者たちはそんな
非決定論(矛盾律)を嫌います。



全ては物理現象の他に原因などない
(物理的領域の因果的閉包性)のだ、と。



物事は物理法則に従って進むのであって、
リンゴは下に落ちるように「ああすれば、こうなる」、
そう言い切りたいのです。



しかし、特異点とは物理的領域の因果的閉包性が
破れた状態に他ならないんですね。



そして自然現象(自然派生)は必然的に「特異点」が現れる。



我々はその自然現象そのものである以上、
因果を破ることができる存在だと仮定できます。



なぜなら(厳密には断言できないけれど)
自由意志を持っているから。




腹が減っても食べないこともできるし、
自らの意思によって死ぬこともできる。


これらは因果関係を超越していると言えますよね。



☞☞



さて、こういった概念は旧来の
世界観とは全く違うもの、
以前は物質主義、「見えるもの」で決定されていました。



ここから出発したのが第1話に書いた
条件付き因果的閉包性、



法則であり、理論体系であり、
ノウハウということです。



しかし、上記の概念ではそんな理論体系が通用しない。



量子力学によって、今まで支配していた法則に
決定的な欠点が見つかってしまったわけです。



当然、旧来の科学者たちは認めたくない。
アインシュタインも「神様はサイコロを振らない」とし、
何か隠れた変数が「ある」はずだと定義しましたが、



ベルの不等式によって、その理論は崩壊しました。
(彼は良い意味で疑ってたように見えますが)



とは言え、僕は理系ではないので(笑)個人的には
量子力学自体が完璧と思ってるわけではなく、
「矛盾の同一」が完璧(に一番近い)と考えてまして、



矛盾を認めると言う事は、逆に因果的閉包性が
破られたからといって閉包性を否定するものではなく、
それもまた容認する(統合)ということだと思ってます。



これが量子力学など知ってても
引き寄せや願望達成が不可能な理由かもしれません。



奇跡は起きることもあるし 起こらないときもある。
願いは叶うかもしれないし、叶わないかもしれない。
霊は見えるかもしれないし、見えないかもしれない。
魂は輪廻するかもしれないし、しないかもしれない。



そんな、どちらも断言できない世界からこそ、
自分の個別的な経験世界こそ大事であって。



人事を尽くし、天命を待つというのも
こう言った態度ではないかと。






長くなりましたのでそろそろ締めますか(゜゜)




このように、矛盾がない無矛盾的な理論が
完全だと思われがちなんですが、僕はそうは思いません。



端的に言えば矛盾と真っ向から直面する
思考態度こそ、完全(に一番近い)という考えです。



それをしない状態が「曖昧」であり「中途半端」でしょう。



なぜならその態度は矛盾を恐れ、
問題を途中で放棄しているのですから。




2015/11/18

裸の特異点②~真理は矛盾のすぐ傍に~




こんばんわ、坂口です(゜゜)
前回に続き、二回目となります。
(一回目はこちら




以前書いた即非や色即是空とは
まさに矛盾の極み、



そんな常に揺らぐ境界線を軸とすることを、
このブログではお伝えしてます。




オタクの趣味ですが、今日もお付き合い下さいな。







さて、量子力学は全く同じ条件下でも結果が
異なること(波動関数)を発見しました。



エヴェレットの多世界解釈では
観測者によって宇宙が複数に分岐され、
そのどれもが現実になるというものです。



つまり一元でありながら多元的な世界。
まさに三浦梅園の一即多、 多即一の共存(同時)世界だと言えます。



故に、量子の世界では偶然から必然が生まれ、
カオス(混沌)からコスモス(秩序)が生まれる、と。



小林秀雄はここに注目しました。
著書「直観を磨くもの」で湯川秀樹氏に、
問いを立てたのは、ここだったのでしょう。
(湯川秀樹は量子力学で日本初のノーベル賞受賞者)



その後、岡潔との出会いによって
矛盾がないことは究極的に「感情」の問題であって、



現代数学はこの「感情」を納得させることが
できていないと説明した時、初めて小林は
「わかりました」と口にしたのです。








無から有が生成されるように、
善悪・陰陽など、相反する二項はこういった
偶然性から生まれたもの。




よって意味などない、
否、あると言えばあるのです。
(確率的で考えれば、必然もまた起こる)



ここで観測者の存在がとても重要となります。
何の意味を持たない「真っ白なキャンパス」から
我々(観測者)はどう成すのか。



これが本来の自由(自らに由る)だと
個人的に思ってます。



ちなみにこれは二年ほど前、アメブロで
「同じ石に躓かない為の処世術」という
テーマで第7話にまとめたんですが、



ブログ移行の際、
丸ごと消えてるようですね(=_=)モウ、カキタクナイ




☞☞


閑話休題
さて、そんな世界は意味などないと
虚無主義(ニヒリズム)に陥ってしまう人がいるのですが、



我々はただ生きている(存在)しているだけではなく、
誰もが必ず何かに対し、問いを持っています。




ハイデガーは著書「存在と時間」において、
我々は他の動植物と違って、「存在してる」と自ら
問える立場である(現存在(dasein))と言います。



それに対して明確な正解は知らないけれど、
各自めいめい認識している(存在了解)のです。



そもそもこの「問い」というのは
知りたい対象が分からなければ問いの立てようがありません。



そりゃそうです。
「何を知りたいか」を知らないんですから。



そして、知ろうとしているということは、
絶対的な正解もまた、知らないという事。




当たり前ですが、正解を知っててなお
問い続ける人はいません。「つまり何となく知ってる状態」です。



我々はそんなハッキリとしない
「朧げな解」を知覚しているんですね。




ん。長くなりましたな(゜゜)
続きは次回。






2015/11/17

フランチャイズは最適な拡大を目指せ



先日、内閣府は7~9月期の
国民所得統計1次速報を発表したが、
GDPは前期比マイナス0.2%となった。



2四半期連続のマイナスであることから、
政府目標のGDP1%以上の成長は不可能だろう。



中国経済の穴も大きく開いてきたので
企業側も設備投資を抑えているし、
個人の消費も回復する気配はない。



一般的には増税によって個人消費が
減退していると言われているが、
個人的にはそれだけではない気がする。



例えばブログ村のカテゴリーには
「ミニマリスト(持たない暮らし)」が
新たに加えられたと聞いた。



どうやら若い世代を中心にこういった
「余計なものを限りなく減らしていこう」という
生き方が共感を生んでいるようだ。



(これはちと極端な気もするが)
今の若い世代の多くは、SNSがある為、
外見や持ち物で見栄を張ったり、
表現しなくてもよくなったのだろう。



なるほど、一時期は大半の人が
ヴィトンやシャネルの小物を持っていたが、
今はあまり見ることがない。



車だってそうだ。僕の時代は高級セダンや
スポーツカーはステータスだったけど、
今の男性は軽に乗ることにためらいはない気がする。



現在、政府は個人消費を上げ、
景気の好循環を作りたいようだが、



そもそもこの「個人消費」というものの
前提が変わっているのではないだろうか。







僕はやがて企業もそうなると断言する。
即ち「自分(自社)最適」へのシフトである。




自然派生的に拡大するのは良いだろう。
全然悪い事ではない、むしろ自然な流れだ。



しかし「拡大ありき」での拡大など、
単なる背伸びであって、上記のような
ヴィトンの財布となんら変わりはない。
(もちろん、本当に欲しい人は別だけど)




当事務所がやってるFC展開は、
基本こういった「拡大ツール」であるが、
こちらのコンセプトは拡大ではなく継承、



本部がどれだけ大きくなるかは、その種が持つ
ポテンシャル次第であって、耕し手側ではない。



以前は資金と誇張営業さえあれば、
ガラクタ商売であっても拡大できていたが、
これからはあっという間に大量閉鎖となるだろう。



どこぞの焼き牛丼屋しかり、フィットネスクラブしかり。
一気に跳ね上がり、一気に衰退する運命となる。




身の丈に合わせた成長を目指すこと。
内部をしっかりと整える事、
肥大化を「成長」と正当化しないこと。




うちの事務所がやっているのは
ごくごく当たり前のことなのだ。




2015/11/16

裸の特異点①




水は100℃を超えると沸騰し蒸気になり、
0℃になると凍るのは小学生でも分かりますが、



ものごとは「ああすれば、こうなる」といった
簡単なものではありませんよね。



そう思う人は別にオカルティズムだけではない。
我々の持つ、ごく自然な解釈です。



奇跡は起こるし、常識で考えられないことが起こる。



つまり「ああすれば、こうならない」ことが
たくさんある、と。



例えばこれが科学的な根拠があることを
絶対条件だとするならば、
霊魂や予言などは「絶対ありえない」と言えるでしょう。




それは絶対ないとは言い切れない。
もちろん、絶対あるとも言い切れません。



僕はそれに答えることはできないし、答る気もない。
語れるのはあくまでも「内部会話」であり、モノローグ(独白)だけです。




なぜなら、こういった命題は個人において
信仰するだけのものであって、
万人に説明できるほど、完全ではないから。



これが二極(宗教と科学)の盲信から離れる
一番簡単な方法だと思ってます。






今日はそんなところから。






さて余談ですが、釈迦やカントはこういった命題は
「問いの立て方次第でどうにでもなる」と答えてます。



あると言えばある、ないと言えばない。
出発点こそ違えど、演繹である以上いくらでも理論化できる、と。



しかし本来は一義的、絶対的な正解ではないから
答えることはできない、そう言っているのでしょう。



これはオカルトに限ったものではなく、
ビジネスでもこういったノウハウがよくネタにされています。



引き寄せや神頼みだってまさにそうですね。
偶然と必然はあらゆる分野で議論されている。



端的に言えば、「多義的な問い」に対する
「絶対的な解」を導くこと、まさに「統一理論」への希求ですが、



言い切れる絶対的な解、必然、
運命決定論、真理などはどこまで言い切れるのでしょうか。









(ちょっと深堀りして)そもそもの前提として書けば、
この問い自体、立てられません。



なぜなら因果律が成立するものは
時空間の「枠内」だけ、条件ありきなんですね。



例えば僕は10年後の世界を知ることができないし、
違う場所に同時に存在することはできません。



明日から外人になることも出来ないし
羽も生えないので空も飛べない(笑)



こういったものは「絶対」だと言えますよね。



つまり時間と空間という「条件下」において
絶対だと言い切れるものは幾らでも存在するのですが、




その「条件」が常に普遍だと誰も言い切れない。
そうじゃないですか。



極端な例で言えば、宇宙の法則が変われば
太陽は西から昇るかもしれないし、個人が分離し、
違う場所に存在できるかもしれません。




宇宙人が開発したビームを浴びれば
羽の生えた外人になるかもしれない(笑)



もちろん馬鹿げた話ではあるんですが
「それは絶対ありえない」と、誰も証明できませんよね。



繰り返しですが、現在の決定論というものは
地球という時空間に存在する人間が設定した「枠内」、
に限定された「絶対」でしょう。




☞☞



我々は(なぜか)人智を超えたものを
空想することができる生き物、



これによって
非常識な問いは常に生産されています。



逆を言えば、そのような問いを切り捨てることによって
近代のアカデミズムや理論体系は構築されている、と。



いわば切り捨て「分ける」ことが、科学ということですが、
仮にこれらを「分けない」とするとどうなるでしょうか。



そう、出てくるのは「矛盾」や「無秩序」であって
「無意味」です。



当然、そんな理論を超越してしまう領域を取り込めば、
今まで積み上げた論理は全てガラクタになってしまいますよね。



秩序は崩壊し、無秩序に向かいます。
これがサイエニストだけでなく、安定を求める
我々が最も恐れるもの。



だから「意味の設定」は我々に必要だと
「思わないといけない」。



なるほど、
この世に生まれたのも何かの経験であり
学びであり過去世のカルマであると。




ただ、それは時間軸と空間の二つが消えると
途端に意味が成立しない、非常に脆い論理では?




☞☞


研究者は矛盾や裸の特異点を禁忌しますが、
まさにその特異点が「崩壊の素材」だからだと言えるでしょう。




偶然、たまたま。
つまり「コントロールできないもの」。





しかし、僕はここに実在を見ます。





ん、長くなりましたな。
次回に続きます(゜゜)



肉男降臨ならず、からのラーメンショー




下に、参ります。





ドアが、閉まります。








一階です。
ドアが、開きます。









ティーン。









あっ、どーもこんばんわ。肉男です。







えー、自己紹介がどんどんやっつけ的になってる気がするんですが、とりあえず飽きるまでやろうと思いますやらせてくださいこれ書いてるの夜中2時近いし。





( ・ω・)y-゚゚゚イップク






さて、今週から「ラーメンショー2015」が
福岡で開催されてるので、いってきましたぜ(´▽`)




昨年は10万人を超える来客数だったこのイベント。
今年はどんなお店が出てるか、楽しみです。





ただ本当はこれ、夕飯で考えてまして、
お昼は肉本に載ってた「かがみ」さんで
ローストビーフ丼を食べる予定だったんです。






これはランチでしか食べれない





だから最初そっちに行ったんですが、
まさかの「クローズ 18時から」(゜゜)ガーン




スマホで調べてみると
「しばらくの間、ランチは休業」とのこと。




肉って決めたら肉以外ありえないんですが、
今回はしぶしぶ予定変更、というわけです。




☞☞☞





さて、開催場所は市役所のふれあい広場。



大丸のクリスマスツリーが飾ってる通路を抜けると









やっとります!





この日は日曜日とあって、
たくさんの人でにぎわってましたね。



ちなみにこのラーメンショー、
第一幕と二幕に分かれてまして、




合計12日間あるという、ロングランな
イベントなんですよ~(゜゜)






なるほど、ブースエリアを見ると
全国各地の人気ラーメン店が集結してます。






ここは現金ではなく、チケットを買うことで
どこのお店でも購入できるというシステムです。


こんな時は統一価格が良いですね。





さて、どこで買おうか(゜゜)マヨウ





熟考の結果、
がちんこらーめん道 柊(ひいらぎ)」さんへ。




テレビ番組「ガチンコラーメン道」を
リアルタイムで観てた世代ですからね(笑)





待つこと約30分、豚骨醤油ラーメンの登場です。




串に刺さったチャーシューがインパクトあります。





なるほど




☞☞




食べたのが夕方4時過ぎだったので、
なかなかお腹が空いてきません。




次第に日も暮れ、この間点灯式があった
警固公園のイルミネーションが福岡の街を彩ります。













あー














何を一人ロマンティックになってるんだ、俺






今年も、しんぐるべーる・・・・(ノД`)・゜・。