どーも坂口です(゜゜)
この間、ツイッターでこんなことを呟いてみました。
対象(モノ)の好き嫌いは(原発みたいに)
よほどのモノじゃないと批判されないけど、
個人の思想から出てくる「好き嫌い」は
なんか殺気じみてますな。
ネットが炎上する根幹はだいたいこれです。
多分に、それは対象と「自己同一化」してしまう
我々の無意識的な働きによるものでしょう。
つまり「好き、共感する、尊敬する」など、
他人に対する好意によって自分と他人の
境界線が曖昧になってくる、と。
好きじゃないとしても無意識的な「他者」との
交流、同一化があるのかもしれません。
もしかすると「一緒でありたい!」というのは
魂(?)が本来持っている欲求じゃないかしらん。
これがツイッターで書いたトマトとか、
猫とかだとそうはならない。
いくら好きでも「ディズニーランドと同一化したい」
なんて、思わないわけだ。
ただオタクはね、そういった
自己同一化が激しいんですよ。
マニアもそう、熱心なおっかけもそう。
だからちょっとでも予想と反する
行動でもやった日にゃ~
「ギー!こんなの○○じゃなーーーーい!!」
とキレる(笑)
それって嫌いからの拒絶じゃなくて
「同一化欲求との差異」に苦しんでるだけ、
つまり「同じでいたい・同じだよね」という
前提が崩れたことによる、心地の悪さ(分離)でしょう。
拒絶しているのは実は自分の同化的志向性だった、と。
母親と子、夫婦などの関係が悪化するのは
ここに根幹にあるように感じますね。
(特に母親は自分で産んでるわけだし)
表面だけで判断し、アドバイスをする人は
「自分らしさ(分離)」を前面に出せと言ってるようですが、
それが簡単にできれば苦労はない。
問題はそれ以前にあるんじゃないかな。
あくまでも個人的な考察ですが。
☞☞
閑話休題
歴史上、主語が曖昧だったからか、
自我がもともと薄かったからかわかりませんが、
今はこういった無意識的な自己同一欲求からの
意識的自我分離を繰り返しているように感じます。
さらに言えば、徐々に「自己同一化」しやすい
場が形成されているような気がしないでもない。
確かに陰険・陰湿さは未だ消えないけど、
震災以降、ずいぶんと変わった様に感じます。
ここに僕は「日本の流れ」を重ね見たりしますね。
☞
そんな物と自己同一化できるということは、
その対象側を基準にして捉えることができるということで、
調べれば、何かを熱心に研究する人は必ず
こういった同一化が起こってるようです。
歴史上の天才と言える人たちは
この同一性が極限まで高められたのではないかと。
ベートーベンは音楽と同一化し、
ゴッホは描く対象と同一化し、
バフェットは株の流れと同一化した。
なるほど、自己同一の志向性は
可能性に向かい、客観的志向性は
限界性へと向かうのでしょう。
だから「得意な人」よりも「好きな人」のほうが
同化しやすく、偉業を達成する可能性が高いのではないでしょうか。
「他者の目が気になる」人ほど、
「同化したい人」なのかもしれませんね。
「後記」
僕は理由なく好きなものは
もれなく「自己同一化」が起こってると思います。
この状態は「じぶん」というものが
とても曖昧になる。まさに対象への没頭でしょう。
例えば最近あまり見ないんですが、
子供って「よだれ」垂らしてますよね(笑)
あれは自他の区別ができない幼少期ほどよく起こる。
ジーッと眺めているのは没頭してる証拠、
だから顔の筋肉が弛緩し、よだれが出るわけです。
大人になるとそういったことは次第に
少なくなるんですが、
そうできる対象は「好き」の中にある。
これは間違いないと言っていいですね。
( ̄¬ ̄)
マニアもそう、熱心なおっかけもそう。
だからちょっとでも予想と反する
行動でもやった日にゃ~
「ギー!こんなの○○じゃなーーーーい!!」
とキレる(笑)
それって嫌いからの拒絶じゃなくて
「同一化欲求との差異」に苦しんでるだけ、
つまり「同じでいたい・同じだよね」という
前提が崩れたことによる、心地の悪さ(分離)でしょう。
拒絶しているのは実は自分の同化的志向性だった、と。
母親と子、夫婦などの関係が悪化するのは
ここに根幹にあるように感じますね。
(特に母親は自分で産んでるわけだし)
表面だけで判断し、アドバイスをする人は
「自分らしさ(分離)」を前面に出せと言ってるようですが、
それが簡単にできれば苦労はない。
問題はそれ以前にあるんじゃないかな。
あくまでも個人的な考察ですが。
☞☞
閑話休題
歴史上、主語が曖昧だったからか、
自我がもともと薄かったからかわかりませんが、
今はこういった無意識的な自己同一欲求からの
意識的自我分離を繰り返しているように感じます。
さらに言えば、徐々に「自己同一化」しやすい
場が形成されているような気がしないでもない。
確かに陰険・陰湿さは未だ消えないけど、
震災以降、ずいぶんと変わった様に感じます。
ここに僕は「日本の流れ」を重ね見たりしますね。
☞
そんな物と自己同一化できるということは、
その対象側を基準にして捉えることができるということで、
調べれば、何かを熱心に研究する人は必ず
こういった同一化が起こってるようです。
歴史上の天才と言える人たちは
この同一性が極限まで高められたのではないかと。
ベートーベンは音楽と同一化し、
ゴッホは描く対象と同一化し、
バフェットは株の流れと同一化した。
なるほど、自己同一の志向性は
可能性に向かい、客観的志向性は
限界性へと向かうのでしょう。
だから「得意な人」よりも「好きな人」のほうが
同化しやすく、偉業を達成する可能性が高いのではないでしょうか。
「他者の目が気になる」人ほど、
「同化したい人」なのかもしれませんね。
「後記」
僕は理由なく好きなものは
もれなく「自己同一化」が起こってると思います。
この状態は「じぶん」というものが
とても曖昧になる。まさに対象への没頭でしょう。
例えば最近あまり見ないんですが、
子供って「よだれ」垂らしてますよね(笑)
あれは自他の区別ができない幼少期ほどよく起こる。
ジーッと眺めているのは没頭してる証拠、
だから顔の筋肉が弛緩し、よだれが出るわけです。
大人になるとそういったことは次第に
少なくなるんですが、
そうできる対象は「好き」の中にある。
これは間違いないと言っていいですね。
( ̄¬ ̄)
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