2015/11/13

イヤよイヤよも、好きのうちってね。



どーも坂口です(゜゜)
この間、ツイッターでこんなことを呟いてみました。








対象(モノ)の好き嫌いは(原発みたいに)
よほどのモノじゃないと批判されないけど、



個人の思想から出てくる「好き嫌い」は
なんか殺気じみてますな。
ネットが炎上する根幹はだいたいこれです。



多分に、それは対象と「自己同一化」してしまう
我々の無意識的な働きによるものでしょう。



つまり「好き、共感する、尊敬する」など、
他人に対する好意によって自分と他人の
境界線が曖昧になってくる、と。



好きじゃないとしても無意識的な「他者」との
交流、同一化があるのかもしれません。



もしかすると「一緒でありたい!」というのは
魂(?)が本来持っている欲求じゃないかしらん。








これがツイッターで書いたトマトとか、
猫とかだとそうはならない。



いくら好きでも「ディズニーランドと同一化したい
なんて、思わないわけだ。



ただオタクはね、そういった
自己同一化が激しいんですよ。
マニアもそう、熱心なおっかけもそう。




だからちょっとでも予想と反する
行動でもやった日にゃ~



「ギー!こんなの○○じゃなーーーーい!!」
とキレる(笑)



それって嫌いからの拒絶じゃなくて
「同一化欲求との差異」に苦しんでるだけ、



つまり「同じでいたい・同じだよね」という
前提が崩れたことによる、心地の悪さ(分離)でしょう。



拒絶しているのは実は自分の同化的志向性だった、と。



母親と子、夫婦などの関係が悪化するのは
ここに根幹にあるように感じますね。
(特に母親は自分で産んでるわけだし)



表面だけで判断し、アドバイスをする人は
「自分らしさ(分離)」を前面に出せと言ってるようですが、
それが簡単にできれば苦労はない。



問題はそれ以前にあるんじゃないかな。
あくまでも個人的な考察ですが。



☞☞


閑話休題
歴史上、主語が曖昧だったからか、
自我がもともと薄かったからかわかりませんが、



今はこういった無意識的な自己同一欲求からの
意識的自我分離を繰り返しているように感じます。



さらに言えば、徐々に「自己同一化」しやすい
場が形成されているような気がしないでもない。



確かに陰険・陰湿さは未だ消えないけど、
震災以降、ずいぶんと変わった様に感じます。



ここに僕は「日本の流れ」を重ね見たりしますね。







そんな物と自己同一化できるということは、
その対象側を基準にして捉えることができるということで、



調べれば、何かを熱心に研究する人は必ず
こういった同一化が起こってるようです。



歴史上の天才と言える人たちは
この同一性が極限まで高められたのではないかと。



ベートーベンは音楽と同一化し、
ゴッホは描く対象と同一化し、
バフェットは株の流れと同一化した。



なるほど、自己同一の志向性は
可能性に向かい、客観的志向性は
限界性へと向かうのでしょう。



だから「得意な人」よりも「好きな人」のほうが
同化しやすく、偉業を達成する可能性が高いのではないでしょうか。




「他者の目が気になる」人ほど、
「同化したい人」なのかもしれませんね。




「後記」



僕は理由なく好きなものは
もれなく「自己同一化」が起こってると思います。



この状態は「じぶん」というものが
とても曖昧になる。まさに対象への没頭でしょう。



例えば最近あまり見ないんですが、
子供って「よだれ」垂らしてますよね(笑)



あれは自他の区別ができない幼少期ほどよく起こる。



ジーッと眺めているのは没頭してる証拠、
だから顔の筋肉が弛緩し、よだれが出るわけです。



大人になるとそういったことは次第に
少なくなるんですが、



そうできる対象は「好き」の中にある。
これは間違いないと言っていいですね。





( ̄¬ ̄)



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