2012/11/20

道化のいる場所




文化人類学者である山口昌男は文化構造について
「道化論」という概念を提唱しました。


「道化」とは神話において、神や王のような
絶対者の言葉をひっくり返す異質な存在、
混沌と秩序の境界を明確に劃するものであり
自由の境界線にいるトリックスターとも言えます。


内部と外部が反転する「どちらでもない場所」に存在し、
秩序(外部)の中に潜む痴愚性や、愚かな現実性を露わにするもの。



だからでしょうか、道化であるジョーカーは
カードゲームでは「最強」でありながら
「最悪」の役割を持っています。


ピカソが道化師を好んで描いたていたのは、
なにかしら共感するものがあったのかもしれません。







世界で対立する二項には道化の位置、
境界線が必ずある、個人的にそう思ってます。
そのどちらにも属さない仲介者である
「異質者」が存在し、二項を調和・統合しているのだ、と。



N極とS極を分ける「あいだ」しかり。
「N極」のアイデンティティが確認されるためには
「S極」が必要であり、「N極とS極」の
仲介者である「境界線」はどちらにも属さない異質、


道化は極端を嫌う。



いとも容易く、ひっくり返す。



不思議な現象ですが、多分にそういう原理なんでしょう。



✍✍✍


我々は生きている以上、必ず他者(彼ら)と出会います。
同化する為ではなく、他者との差異を知り、調和する為に。



そんな多義と一義は表裏一体、切り離せないもの、
かのチャップリンは、笑いと哀しみは表裏一体、
分かち難いものであることを演じました。




もしかすると彼は「境界線」を演じていたのかもしれませんね。




2012/11/13

両成敗



運命と宿命、偶然と必然。
長い事生きていると、上記について考える事はよくある。



ライプニッツは可能世界において
根拠律(必然性)と矛盾律(偶然性)を分けて考え、
カントはそれは理性では解けないアンチノミーとした。


さて、あなたはどちらを信じるだろうか。



例えば、男性と女性が互いに惹かれ、愛情を持つ、
というものは、自然の必然的法則である。



しかし、どの男性とどの女性が巡り合うかということは、
運命的出会いという表現があるように、自然の偶然的法則である。



よって、自然の必然性は内的に偶然性が含まれる。
我々が何を選ぶかは、まさに我々に委ねられるが、
運ばれてくるもの自体には委ねるしかない。



このことから、科学が森羅万象を
完全に予知する時代は決して訪れないと断言できる。



逆に科学が進歩すればするほど、驚きや賛嘆、
さらには畏怖としての「生命の神秘」を覚えるだろう。



今日はたまたま、そんな小話をしようか、と(笑)






☞☞






さて、西洋の自我はものごとを判断するとき
「どっちか一方を選ぶ」傾向がある。



西洋宗教はそこから絶対性、必然性を目指した。
それが唯一無二の一神教、である。



例えば、キリスト、イスラムなどの一神教において、
我々人間の本性は「悪」である、と定義される。



なるほど、悪であるから善いことをしなければ
我々迷える子羊は天国には行けないとする教義と、



善い行いをしようがしまいが、神によって天へ行けるものは
すでに決まっている、という教義がある。



まあ、いずれにしても人間の本性は
前提条件では悪である、ということだ。



よって、聖書の御言葉に従うのみ、
そんな完全な外律型が西洋宗教の特徴だといえよう。



つまり絶対(悪))から絶対(善)へのシフトが
神を信仰することにより、可能となるのだ。




こういった原理主義は理性を外部に委ねているため、
いち人間の説得なんて、通用しない。



逆を言えば、だからこそ大義名分が成り立つのだ。
まさに蛙を睨む蛇のごとく、である。


現在、「この国の為」という幻想によって
ありえない大義が発動されているのだが、


これでは原理主義と全く変わらないのではないだろうか。





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話は逸れたが、西洋のそれと比べ、
日本の精神性はそれとはちょっと異なる。



それは対立二項のどちらか一方を選択するのではなく、
矛盾したそれを統一しようとする超克的意識である。



曖昧な態度とは、こういった精神性の
発達が未熟な状態とも言えるが、特質なのだ。



自分だけでなく他人も含めた「どっちも」を選ぶ、
人間の意味は「ヒューマン(人)」ではなく、世間である。


つまり我だけではなく非我への配慮があるのだ。
これはこの国ならではの「美点」であろう。



例えばあの大震災において、
暴動や略奪はほとんど起きなかった。




海外メディアは賞賛しているのだが、
当の日本人からすれば、ごく自然な「行為」である。



そしてこれが加減を間違えると
個人を認めないムラ社会となり「汚点」となるのだが、



本来、この国は個人と集団を両立できる
一段高い精神性を持っているのを忘れてはいけない。



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近江商人の3方良ししかり、お互い様の精神しかり、
また、日本には室町時代に作られた「喧嘩両成敗式目」がある。



両成敗とはつまり「争う」という事自体をやった以上、
互いの言い分はどうあれ、どちらもルール違反とみなされる。


今のガザ地区のような復讐の連鎖は
この制度からすれば、お互いが悪だ、と言う事だ。


当然、不公平になる場合もあるし
先に手を出した方が悪い、という場合もあるが、



我々の本質は清濁併吞、善悪は揺れ動くものである。
その善悪の境界線は、常に必然と偶然によって変動する以上、


場合によっては立場が逆になる場合だってある。
これを仏教では「縁起」・「因縁」と呼んだ。



何が起こるか分からないが、そこから何かを成すのだ。



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過去の慣習法によって身に付いた必然性は
ホメオスターシス的な恒常性を持ち、マスキングされ、アドレスを持つ。



世界はそんな「必然的」による選択と、
そのアドレスから派生した主観によって構築される。


言うまでもなく、現実とは選択の連続である。
我々は選択と対応によって現実(運命)を作り上げている。



宗教の説くように宿命的な流れにただ流されているのではなく、
その流れから、能動的に、主体的に対応しているのだ。




何処からともなくやって来る偶然的現実(実在)に対し、
我々がそれを必然的現実に再変換していると言える。


働く意味はあるのか?


最近、ネットで炎上するのは
多様化に伴い、共感力が足りないからと言われます。



共感できない相手を攻撃しないと、
自己のアイデンティティが保てないのだ、と。
時代・性別を超えた共通テキストの不在、とでも
言うべきものでしょうか。



でも、それがないのは昔からですよね
「近頃の若者は・・・」というのは今も昔も使ってますわ(笑)



イデオロギーから自由になりつつある現代、
そんな所から、今日は労働と共感についての小話を。



☞ ☞



さて、フリーター増加が社会問題となり、
「働くことの意味がわからない」という悩みを抱えた人が増えました。



現在の「働く意味」というものは、多分に
順調に働いている人だけしか分からない。



言わば成功している時にしか、
その意味は通用しないのではないでしょうか。



なぜなら現在の労働とは
不自由で不寛容なものが多いですからね。



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一説では、働くことの本質は
「贈与すること」だともいわれます。



それが仕組みとして稼働してないから
現在はボランティアとしてみなされてるのだけれど、
これで共同体が成立するなら最高じゃないですか。



個人的に、人間は本来優しく、
相手の幸せを願う気持ちを無条件に備えていると思うんです。







結婚式に出席した方なら分かるでしょうが、
あの場は全員が幸せです。



結婚するのは友人や知人であり、
自分の幸せには全く、関与していませんが、



「あなたが幸せなのは、私達にとっても幸せ」という、
原理的に解けない場が、そこには発生していますよね^^



もちろん、人間は営利や損得によって
社会が形成されたのは構成要因としては間違いない。



しかし、その根底にはこういった
「無条件に相手の幸せを願う心」があったはず。



そして、これが共同体を結びつけるものであった、と
個人的に思っています。



「働くことの意味がわからない」という悩みは、
もしかすると、こういったものが失われているからかもしれませんね。




2012/11/12

加速する現代を眺める

年を取ると時の流れは早い、
とくに現代の社会ではことさら早く感じる。



社会人となって仕事をしている方も同じ気持ちだろう。
「もう?」と言いたいくらい、一年は過ぎる。




それは仕事というものが「未来予測」に基づいているからかもしれない。


以前、プロジェクトの語源が「前方へ投げる」という意味だと記事に書いた。
しかし、考えてみればビジネスそのものが前方である「プロ」で作られている。


例えば商売においては購買の見込みを予測する。
この「見込み」とはプロスペクトだ。


そして見込みに対し、計画する。
計画はそう、プロジェクトである。


販促するのはプロモーションであり、生産することはプロデュース、
そして契約とは約束、プロミスである。


結果、利益(プロフィット)が生まれ、
企業はさらなる進展(プログレス)をする。



商売の一連の流れを西洋の言葉で訳せば、
なるほど、仕事とはまさにプロプロプロ。
「前へ前へ」の時間に支配された連続行為であることが分かる。



文明は前進することで飛躍的に進化した。
ただ、前向きと「待てない事」は同じではない。



しかし前のめりな「プロ」は待つことを拒絶する。
現代人は、「待てない病」になりがちだ。



コマーシャルなんて見てられない、
手紙から携帯メールになり、
さらにレスポンスの早いLINEが浸透している。



これらはそこまで影響は(今のところ)ないが、
深刻なケースもある、それは「子育て」である。



今は待てないのか何なのか、子供がちょっとでも親が思うイメージと
異なった行動をしただけで、恐ろしく過敏になってしまってる。



すぐに育児書やらなんやらを持ち出して軌道修正に入ろうとする。
さらには「前もって」予想できるように、先に手を打つ始末である。



不安前提、これでは先に神経がまいってしまう。
これも以前書いたように、子供とは本来自然であるからコントロールできない。



だからといって「0・100思想」で在りのままに育てても上手く行かない。
子供は宝であるが、王様ではない、ここを勘違いしてはいけない。



子供であれ大人であれ、人間の本質は同じだ。
色んな場面にぶつかった結果、考え、学び、育つ。



これが待てないのだ。
予想できないものに対し、楽しみに待てないのだ。




待てない社会は必然的に
「待ってくれない社会」を引っ張ってくるのだが、




マイペースな僕からすれば、
これがどうにも息苦しく感じてしまう。




個人的に「プロ」以外のビジネス用語で
やっていける社会が望ましい。







根幹を変えよう






さて、リゾームを構築するには理念は必須ですが、
その理念は絶対命法でこそあるけれど、



内部派生である以上、教義化した時点で
閉鎖的な組織構造を作ってしまいます。




教義化すれば、必然的に純血主義となります。
それがもたらす閉鎖性はトレードオフとなる。



もっと閉じたり開いたりするには
どうしたら良いか。




例えば、アレグザンダーのセミラティス構造の
パターン数は実に253、だからこそ
ナラティブ構造であるといえるのですが、




この微妙なサジ加減を知ること、
やはり個人のバランス加減が大事なんでしょうね。



☞☞



数年前、理念を愚直に守らせている
管理職がいる現場を見たことがありますが、
ちょっと異様なものを感じたのです。



それは均質性というか、同質性というか、
まるで、恣意的な「一枚岩」のようにも見えました。




その現場には、なんというか
「楽しさ」を感じることができなかった。



楽しさというと誤解がありますが、
言わば、個人の積極的な「意思」です。



それは管理・抑圧されればされるほど、
得難いものだな、とその時に感じたんですね。







レールを敷いて、「さあ、自由に走って下さい」
というのは自由ではありません。



なぜならそれは、レールという条件があって
初めて意味を成しているのに過ぎないからです。



その背景には、相変わらずの排除の理論があり、
全体主義があり、画一化の意図が感じられます。



まず、この大前提・本音の部分を破壊しなくては
真の意味で多様な組織は作ることができない。



現在、それが破壊できないからこそ、
組織は変化と固定のジレンマに陥っているのであって、




ここをいかに変えるか?というと
やはり理念の共有になる、と。



つまり厳密的・原理的・純血主義的な
ものにしない為にやるべきことは、




理念ではなく、その対象を見ている
「あなたのフィルター」の認識なのです。





長くなったので続きます。



2012/11/11

習い・稽古・工夫

暗黙知についての考察。


実際の所、形式化できない部分である「暗黙知」を
言葉で表現するのは、大変難しい。


なぜなら、それを5感覚で認識・判断し、行動するまでの
理論体系を表現する為には言葉による論理では非常に甘く、


さらにその認識には、事実から乖離した各人の思い込みや
バイアスが大小差はあれ、多少なりとも含まれているからです。


そもそも実際に起きている事実をそっくりそのまま
言語化し、記述すること自体が不可能であるのは言うまでもありません。


それをいかに伝えるか、
歴史上の「求道者」を紐解けば、その知の結晶を借りる事ができます。



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新陰流では形(型)の事を「勢法」というそうです、
つまり、形稽古と呼ばれるものは、「かたち」自体を学ぶのではなく、
その動きの中にある武術の理論を学ぶ方法だというのです。 


「形」をひたすら稽古する事で動きの本質を学び、
それを習得し、最終的には自由・自在に動ける身体を追求する、


まさに「守破離」の精神ですね、
あらゆる道において、最終的な到着点は「自由」なのでしょう。



勢法にもう少し触れますと、そこには心身の姿勢「身構え」や
手足の働きを練る事「手足」、


そして太刀筋を使い覚える事「太刀」の三点に重きを置き、
勢法を実践することで、間積り・拍子を体で覚えます。


それは言わば「感覚的な心持ち」を経験する事であり、
日々の「習い・稽古・工夫」は欠かせないのはその為です。


最終的に「自分の技が絶対に正しい」と思えるまで・・・・。
そこへ至るにはやはり、実践による経験則が必要なのでしょう。


つまり端的に語る事が不可能な働きである以上、
観念のうちにあるのではなく、行為そのものの中から掴むのです。


☞ ☞ ☞



摂理と書くと大げさでしょうが、
(彼らは)その自然の摂理に従うことを目指したように感じます。


それは、生存価値の善悪や正誤に左右されるものではなく、
その価値は、続けること自体にある。


また、見えないそれら「心の型枠」を
ギリギリまで論理的に表し、示すことが
暗黙知を見つめる人の役割かもしれませんね。



これも偏に心の時代だからこそ・・・
オタクならではの楽しみでもあります^^



2012/11/07

In-der-Welt-sein

こんばんわ、unreveの坂口です。
今日はそんな趣味の分野から一冊、
ハイデガーについて書いてみます。



☞ ☞ ☞




人間は、楽しいことや、嬉しい事が
ずーっと続いていたとしても「なんとなくの不安」を抱えています。


インナーチャイルドを癒そうと、
豊かでワクワクで素敵なパートナーがいて
好きな仕事で成功している人生であろうとも、です。


それはなぜでしょう。
そんな「何となくの不安」を考えた哲学者が、
マルティン・ハイデガーです。








死へむかって開かれた自由のみが、 
現存在に端的な目標を与える 




ハイデガーの未完の著「存在と時間」の一説、
これは我々がどうやって本来的な生に立ち戻り、
人生を送れるかについて書かれています。
(実際はもっとたくさんありますが、省略して・・・)



「いつかは死ぬだろうが、それは明日ではない」
そんな気持ちで、私達は生きています。
これが何となくの不安の正体なんですね。



慢性的な不安は、死を直視していないから
起こっているのです。



不思議だと思いませんか。
 「死」は全ての生物に必ず訪れるもの、
この世界で唯一、絶対と呼べるものですが、


それを我々は考えているのを日々、
避けているのですから。



☞☞


確かに「それを考えてどうなるの?」と
言いたくもありますし、 そもそも
「どうやって考えるの?」という気持ちもあるでしょう。



しかし、それをやって初めて、
人間は孤独であり、 同時に
自由でもあることを知ることができるのです。



「死にむかって開かれた自由」、
まさにそれを 認識することで、我々は
世俗的な気遣いや苦労から解放され、


 「私はこの人生を使い、何を成すべきか」を
 自分自身によって委ねられる。



それこそが本来的な生き方であり、
可能性が開かれた世界だ、というのです。


それを端的に書けば、
人生という映画の役者から逃げられない
人間の宿命そのものを俯瞰し、裸の自己と出会うもの。



我々人間が、投げ出されている存在(形式的指標)であり、
それだけが存在(ある)しているのだ、という視点の変化です。


調和と同一の違い

人類学とは他者性を自己に取り込む学問、
言わば「出会いの学問」と言える。


自然人類学を始め、文化・言語・社会・宗教・経済と
様々な生態の角度から自己を刷新する学問だろう。



それは哲学が受け持つ存在性の探求などとは違った意味での
ラディカルなポピュリズムを知ることができる。


個人の自由と、それを抑える社会性との葛藤、
権威による抵抗や二項対立を中和・統一する「ナニカ」。



それはベルクソンの「笑い」や、
今年亡くなった山口昌男の「道化」として表現された。



閉ざされた集団による「笑い」には、他者への優越性が内包され、
道化は笑いによって日常の秩序から抜け出す役目を果す。



つまり内部と外部が反転する境界線であり、
秩序(外部)の中に潜む痴愚性、その愚かな現実性をあらわにするのだ。



それはひとえに「機械的役割」なのだろうか。



サーカス芸人であるピエロは、生涯をさまよい、旅を続ける。
土地に縛られない自由人である。



冷徹な批判者であり自由の境界線にいるトリックスター、
大きな権力(秩序)に向かい、敗北しながらも笑いを求める。



神や王のような絶対者の言葉をひっくり返す異質な存在だ。
パブロ・ピカソが道化師を描いたていたのは、
なにかしら共感するものがあったのだろう。






さて、個人的には「二項対立」と無縁になりつつある、
二項同士の「反」の先には何も見つからないと分かったのだ。



「我ら」のアイデンティティが確認されるためには
「彼ら」は必要であり、



「我らと彼ら」の仲介者である「ナニカ」が
どちらにも属さない異質であるのは当然のことなのだ。



相手を責める、他者の意見を持論でひっくり返す。
これは正しさの戦いでありミクロ的な宗教の始まりである。



同じ意見を集め、共感し合う。とても大事な事だが、
個人の主観(我ら)である以上、必ず宗教的な要素を含んでいる。



私は共感や繋がりは必要であるが、
主観に対する完全な一致は不可能であり誤りだと思っている。



中心における「秩序」は「排除の原則」の上に成り立つ。
よって強烈な共感には危険な思想を孕んでいるのだが、
それが一番共同体を強く結びつけるものでもある。



その両義性、混沌と秩序の境界を明確に劃する異人が道化なのだ。
チャップリンは笑いと哀しみは表裏一体、分かち難いものであることを演じた。



我々は生きている以上、必ず他者(彼ら)と出会う。
同化する為ではなく、他者との差異を知り、調和する為に。



なぜなら「我らと彼ら」は切り離せないのだ。


☞ ☞ ☞

100年続く企業はある、200年続いている企業もあるだろう。
しかしさらに長い間、例えば1000年続いている共同体はあるだろうか?


西洋ではそれが「宗教」にあたる。
宗教は共同体を永続させる「システム」でもあるのだ。



しかし宗教は共同体の差異を認めない。
その絶対的な基準を共有する事によって、同化させる。



ただ、人間は絶対的な良識・道徳・正義を必要としてはいるが、
それに従うことをも拒むようにできている。



多様と一義、我々はどちらにも染まれないのだ。



では、宗教以外で千年続くような共同体は存在しないのだろうか。
否、調べればここ日本にはあるのだ。



大阪の宮大工である金剛組(578年創業)
池坊華道会(生花教授・京都府・587年創業)、



他にも旅館を経営する西山温泉慶雲舘や古まん、
善吾楼などは全て創業以来、千年を超える。



金剛組の578年創業なんて、今から1400年以上前。
古墳時代の創業だ。



世界最古の企業は全てこの日本にある、
これは誇れる部分ではないだろうか。



☞ ☞ ☞



この国の仕事には神道的な精神性がある、
それは中空構造であり「我ら」も「彼ら」もない。



論理的整合性ではなく、美的な調和感覚。
無為の中空とはどちらにも属さず、異質なのだ。



第三者がいるだけで、二者の関係は相対的となる。
それは世界の監視者であり、変化のバランスを受け持っている。



そのフラクタル構造を模したのがunreveの三位一体構造だ。



☞ ☞ ☞


継承とは拡大ではない。
また、宗教や思想のように絶対性を繋げるものではない。



私のフランチャイズは和魂を継承する事、
ここが他社と大きく違う部分だ。

2012/11/06

濃霧と無風

どれだったか忘れましたが、
以前読んだ本の中にこんな言葉がありました。



「船乗りは暴風や時化(しけ)を怖がってたら三流だ」


「じゃあ、一流の船乗りが一番恐れるものってのは何だい?」



「決まってるだろ、それはな・・・・濃霧と無風だ」



うろ覚えですが、確かそんな内容でした。








例えば、北の海の濃霧での航海は
氷山や流氷に衝突する危険があります。


また、無風海域に迷いこめば、船自体が動きませんので
照りつける日差しにやられ、干からびてしまいます。


これが航海時代、もっとも恐れていたものです。
今でこそ、レーダーや蒸気船の開発でその危険は克服されましたが、



経営において、この「不透明と無流動」を
克服できていない所が多いのではないでしょうか。


テーマに書いた一番怖いもの、
それは経営の「濃霧と無風状態」です。



☞ ☞ ☞



ある意味、物価の乱高下や同じサービスの増加は
嵐や時化のようなものです。



それよりも、見通しが立たない「不透明」さと、
それに伴う売買の先細りといった「無流動」は始末が悪いもの。



何だか知らぬ間に、徐々に売上が落ちている。
なぜだろう、理由が分からない。



理由が分からないから手を打てない、
仮に手を打とうとしても徒手空拳で推進力がない。


経営には先を見通すレーダーもなければ、
お店が勝手にお客を連れてくるような蒸気機関もないのです。



☞ ☞ ☞



地方の商店街の多くは無流動化から抜け出せません。
シャッター通りが増え、新しい店舗が入らず、
入ったとしても、人の流れ自体がない。



そこには先を読み、明確なビジョンを見せる人がいません、
「不透明性」だからこそ、流動が起きないのです。




成熟期に当たる今の経済社会を巧みに生きるには
まず成熟社会がどんなものか、美化も卑下もなく知っておく必要がありますね。



2012/11/05

自己組織化と散逸構造





エントロピー増大則とは、世界は常に秩序から
混沌に向かっており、新しい秩序は生まれないといったもの。



ただそうなると、世界は常に壊れ続けるだけであり
宇宙すべての秩序はいつか消滅し、無意味世界となるだろう。



「世界(宇宙)はやがて静止する運命なのだろうか・・・?」



それに異を唱えたのが科学者である
イリヤ・プリゴジンである。



氏は「逆エントロピー」である無秩序から
秩序の事象転換が生じるという非平衡熱力学を提唱した。



無秩序(カオス)状態では決定論でない
選択が無限に連鎖することで、外部へエントロピ-を
流出させ、もう一つの秩序を作りだすことができる、と。



氏は、その構造を内部でエネルギーを
消費(散逸)させることから散逸構造論と名付けた。



この革命的な発見により、
宇宙は無秩序の海にならないという事が分かったのだ。



☞☞☞



ちなみに散逸構造では超局所的に小さな秩序を作る
可能性となる「ゆらぎ」が起こるという。



一見、その小さなゆらぎはほんの僅かな影響だが
「確実に」周囲に影響を及ぼすことができるのだ。



その小さな影響は、さらに周囲に影響を与え、
それがまた影響を与え・・・・と、連鎖的な反応を起こし、



そんな僅かな秩序を中心とした波及が
全体の構造に影響を与え、さらにその影響された周囲は、
中心である「最初の秩序」を強化するように働く。



これが「ポジティブ・フィードバックによる自己組織化」、
突如として大きな秩序が生まれる前には
小さな「変異」が生まれている、ということだろう。



これはミクロの世界においても
同じ現象になるのではないだろうか。
(塩沢由典氏も経済は散逸構造だと言っている)





最初は小さな産声かもしれないけれど、
それが時代の舵を切る可能性かもしれないのだ。





2012/10/17

現象と経験

僕は経済学など、人間の行為を数字で測るなんて
ナンセンスだし、ある意味冒涜だと感じているのですが、


現象哲学者であるフッサールもまた、
そういった考えの人だったようです。


そもそも、あらゆる学問には「人間らしさ」が大前提にあって、
それをより良く、豊かにすることが目的のはず。


今はそれとは逆で、数字や論理に人間が支配(説明)され
その人間らしさが失われようとしている気がします。



それは科学の進歩、すなわち帰納的手法によって
「絶対的な客観性」こそが正しい、と信じられてきたからでしょう。


客観性とは万人が納得する根拠である以上、
その証明性には数字が一番有効なのですが、


そもそも数字自体も人間が作ったもの。
僕らの価値は年収では測れないし、能力も数字では出せません、
人の美しさだって、決してランキングで比較できない。


今日はそんな「現象」についての小話でも。







現象学とは、経験世界における「本質」を追及するもの。
現象学が心理学の基礎になっているのも
こういった対象が科学では明らかにできない、という理由からでしょう。


よって「正当性」や「真理」は、自らの主観的な経験から
離れた客観性を持つものだ、という常識に対し、フッサールは
「それは間違ってる」と言います。


本質とは思考の限界や領域を越えた所にあり、
それは直観的な所へ行き着くのだ、と。


客観性は全くないけれど「見えてしまう」
何だか分からないけれど「そう感じてしまう」


そんな自分からすれば疑う事ができないもの、
すなわち自己の中心からくる直観的経験こそが、
全ての学問のコアにある、と。



そんな概念の本質を明らかにすることを
現象学では「解明」と言われます。



☞ ☞ ☞


見えないものなら何でもいいです。
例えば「彼女を愛している」でも
「心地がいい」でも「こりゃ美味い!」でもいい。


そして、そんな概念対象として捉えているものが
一体「何をもとに構成されているか?」これが解明の手法です。



以前書いたハイデガーは形而上に、ヘーゲルは精神に
その本質を置いたのですが、フッサールはそこに目を向けず、
あくまでも形而下(認識)の立場から離れませんでした。
(フッサールが新デカルト主義と言われるのはこのせい)



カントに近いのですが、もっと広義ですね。
失敗こそあれ、現象学的還元を始め、間主観や他我、 エポケーなど
フッサールは独自の単語を使ってそれを掴もうとしています。



これも偏にかれの「本質に対するあくなき追求」によるもの、
かれは世界が数値化・数式化されるのを何よりも嫌悪したのです。



それは我々のなかで物象化されていない
「答え」を純粋に探そうとしすぎて、行き着いた結果かもしれませんね。



面影とシステム

unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます。


今日は「守破離」の守(型)について。
僕がご支援しているFCで起業したいと思われてる方に
参考になれば幸いです。



☞☞



さて、unreveの目指す型とは主観の認識、
つまり演繹的な「おもかげ」です。


能の大成者、世阿弥が観阿弥の口述を記録したという
風姿花伝は、この「おもかげ」を型としています。


例えば、同じ種類の木であっても、その枝葉は全て違うように、
同じ植物であっても、その根の張りようが異なるように。


同一ではなく表出する形象を「真似ぶ」こと。
それはまさに帰納的テキストではなく主観から来る認識によるものです。


☞ ☞ ☞


小さい頃、近所のお巡りさんに憧れた少年が
警察官を目指そうとした際、必ずそのお巡りさんの「おもかげ」があります。


母親が台所に立って料理をしている姿もそう、
自分が母親になった際、その「おもかげ」を見るでしょう。


尊敬できた上司や先輩がいた方なら分かるでしょうが、
学んだのは「やり方」ではなく、生き方や考えの方ではないでしょうか。


そんなおもかげ、名残。
記憶によって心に「象(かたど)られた」ものは
他者に説明できるものではなく、自分だけのもの。



それはデジタルでシステマティックな「コピー」と違い、
目に見える肉体的なものの奥にあるものの「再帰」です。


言葉ではなく構造でもない、これがunreveの目指す
日本流の普遍化、「型」です。



☞☞



西洋は言語的構成体(テクスト)による普遍化を目指します。
機械生産的なものには再現性はあれど、それはオリジナルの消失を意味します、


マニュアルに原本という概念はないですよね。
僕の家にあるパソコンの取り扱い説明書は
あなたの家にある説明書と同じ仕様です。


動く原理や壊れる原因は全く同じ。
閉鎖されたシステムは、逆にそうでないといけません。



昔のテレビのように、
本体を叩けば映る、だと困りますよね(笑)


成功されている経営者とお会いした際、
成功した方法(正解)とその説明はそれぞれ違いました。


しかし(全て該当するかは分かりませんが)、
それぞれに共通したパターン(型)はとても類似していた。


そんな抽象概念から言語としてすくいだしたものが
編集・対話・場・間・拍子・ゆらぎ・・・といった、非線形・非構造です。


非線形・非構造を、螺旋的に上がるように「構造化」する。
そんな矛盾を統合させたのが日本の継承にはあるような気がします。


それは決して累積された素因から判断できるものではなく、
また、還元・分析できるものでもない。


だから過去の文学者は進化ではなく、変化と呼んだのでしょう。
リゾーム派生も無理矢理言語化してますが、そもそも言葉にすること自体がナンセンスです。


本当の価値(知価)とは、同じモノサシで測れない。
だからこそ独自、僕はそう思います。



ただ。僕の知ってる女性の考えるシステム化は、
愛があるから好きなんですけどね(^∇^)



閑話休題。
そんなわけで、継承の守、型とは
方法の先にある「オモカゲ」を掴むものなんですね。




みなさんに学ぶべき型はありますか?


2012/10/16

柔らかな束縛




リゾームは非線形、複雑系を踏まえた
ビジネスモデル。





それは資本主義の土台が理論操作可能な
ヒエラルキーから、理論では操作不可能な経済へと
パラダイム転換が生じているという予測から発案したものです。





散逸や自己組織化、創発などは、
閉鎖型では生まれません、
感情などを内包した生命的システムのみ、と言えます。





もちろん、感情だけでは片手落ちであって
大事なのは理論と感情を繋ぎ、一つのループとする事。
ミクロ・マクロ・ループは日本ならではの概念です。



そんな性質を持った複雑系経済に
対応するためには、どうすればよいのでしょうか。




今日はそんな小話を。





複雑さの帰結―複雑系経済学試論/NTT出版


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そもそも複雑系とは、理論が通用しない事から
意図的に設計、構築、管理ができません。


どのように構築され、管理できるのかなど、
正確に予測できないのです。





なぜなら我々個人が管理されず、自由に織りなす
行為(状態)が生みだすものである以上





階層を作り、上が作ったルールで管理しようとした途端、
閉鎖系となる。エントロピーよろしく崩壊するのです。



そこに管理の手が入る以上、必ず抑圧が生まれる。
よって組織においては適度な自由を個人が掴む必要があります。



ニュアンス的には「柔らかな束縛」とでも言うのでしょうか。



☞ ☞



内に外に開かれる。
フレキシブルな企業、風通しの良い企業、





止まることなく流れ、常に前向き、クリエイティブ。
自らを楽しめる人材が集まり、交流し、
そこから新しい発見が生まれていく・・・・



これは言葉にするのは容易いのですが、
いざ実行するとなると別問題です。





閉鎖系である管理社会に馴染みすぎた我々にとっては
開放系に憧れこそあるけれど、理解しずらいのです。



加減を掴まない自由は「放任」と同義である以上、
自己組織化を生みだすことはないでしょう。



下手すれば、とんでもない結果を迎える可能性もある。



☞ ☞




そこでリゾームの概念の登場です。
それは「管理」でも「放任」でもない第三の道です。



清水博氏は「動的なリズムが場の形態を形成する」と言ってます。




リズムとは中村雄二郎のリズム論、
unreveのいう拍子です。




まさに、秩序は動的な勢いの繰り返しなんですね。



生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理 (中公新書)/中央公論社


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例えばプレゼン会議という「場」で、
個人がプレゼンを行う場合が近い。





クライアントがそれを見ている。
そこにはパワーポントや動画など、場としてのシステムがある。





プレゼン側は、あらかじめテーマやシナリオ
必要な情報を与えられているけれど、





いったん話しだすと、あとはもうその場の雰囲気で
臨機応変に演じるわけです。





つまり、大まかな筋という拘束条件のもとで、
大ざっぱに決められるのですが、





具体的にはプレゼンターとクライアントの相互関係によって、
選択されたり、再構築しながら進行させていくでしょう。





それは、全体として一つの筋を生成的に自己組織しながら
展開していく、故に場違いな発言はできません。




まsない自己生産しながら自己組織に組み込んでいくという、
意味のある操作情報がある、これが「場の動的なリズム」です。





ただ、そこに至る前段階が必要なのですが
それは時間がある時にでも。







☞ ☞ ☞



長くなったのでまとめます。



システムは外部によって画一化されますので
閉鎖系となります、それでは相転移は生まれない。



自立や自律は「自覚」によって生まれます。
それが内部から起こるまで、待たなくてはいけない。



近代は、その自立性を急ぐあまり、
結果として個(自我)の成長となりましたが、



本来の日本は仏教を基礎とし、
「場の文化」を生み出した経験をもつ、世界でも珍しい国。




その自覚さえあれば複雑系の経済はこの国にとって
歓迎すべきものとなる気がするのですが、皆さんはどう思われますか^^?


2012/10/15

ホモ・ルーデンス



「遊びの文化」を最初に生みだしたのが、
ご存じギリシャやローマ帝国。この時代の労働は、
制度によって全て奴隷がやっていた為、
市民や政治家達は、やることがなさすぎたのが背景にあります。


歴代皇帝はどんどん記念日を作り続け、
しまいには1年の半分が休日となってしまった、と。
そんな快楽都市、ローマではありあまる余暇
(あそび)をどうにかしようと試みた結果、
あれほどの哲学や文学、芸術や娯楽が生まれたようです。


言わば、ローマ文化は莫大な富による
「あそび」によって作られたんですね。
それは後に「西洋文明」として引き継がれていきます。






剣闘士が戦う闘技場や、競馬場や大浴場など、
皇帝は「パンとサーカス」を国民に提供しました。
※パンとサーカス・・・・・食料と娯楽の事


まさに地上のユートピアのようですが、諸行無常の世界、
当然、それが長く続くわけがありません。栄華を極めた
ローマ帝国は、やがて内部腐敗を起こし、衰退から滅亡へと向かいました。


惰性と堕落は加減を超えた「楽」から派生します。
このパターン(拍子)は時代や場所を問わず、変わらない。



僕はこれを「毎日遠足効果」と呼んでいます。
毎日やってたら飽きるだろ、ってね。


☞ ☞


こう書くと良くないイメージになっちゃうけど
この時代のあそびは以前の記事で書いた
「行動と行為」でいう「行動」の方、本来は
人間の本性に沿った自然に派生する感応行為でしょう。


見れば日本はそれが分かってたようで
平安時代の歌謡集「梁塵秘抄」を見ると
そんな、あそびの歌を詠んでいますね。


遊びをせんとや生まれけん
戯れせんとや生まれけん


遊ぶ子供の声聞けば
わが身さえこそゆるがるれ。


(遊女の罪悪感を綴ったという解釈もありますが)
自然のままに、楽しい事をやるのに対しては、
何の罪悪感もないんですよ。



☞ ☞


遊びの文化を研究したヨハン・ホイジンガは、
遊びが大衆化し、陳腐化するのは危険だとしました。
大衆化されることによって、軽薄さと衰弱を生みだすと感じたのです。


当時はヒトラーがヨーロッパ侵攻を狙ってた時代。
ゆとりも余暇も遊びもないファシズムを見て、
危険だと思ったのでしょう。その経験をもとにヨハンは
「ホモ・ルーデンス」という作品を書き上げています。


ホモ・ルーデンスのルーデンスとは遊びです。
ホモ・サピエンスは「人間は理性があるから人間」、
ホモ・ファーベルは「人間は物を作るから人間」。



つまりホモ・ルーデンスは
人間は遊びをするから人間なんだよ
という彼の主張なんですね。


人間と動物の違いを一つ挙げるとするならば、
生存欲求だけで動く動物とは違い我々は踊り、
絵を描き、歌う。


物語を書き、それを読み、新しい概念を作る。
そういった生存と関係のないことこそ、
人を人たらしめているのではないでしょうか。




正論居士



正論居士(せいろんこじ)という言葉がある。


居士とは気質を指し、意見に対し
反論するだけで対案を示さない人の事。
あくまでも他人事とし、主体的に取り組もうとしない、と。



自分の意見を絶対としている為、
対話は全く生産性を持たない。
重箱の隅をつつく事が自分の能力だと勘違いしている。



当然、納得させる事は難しくなり、
タイミングが遅れ、失敗しまったら
「やっぱり、私の思った通りだ」とさらに過信してしまう。



私が支援する際、必ずお断りするのがこのタイプである。
使う労力が半端ではないのだ。



もし○○の場合は?○○がもし起きたら?
もし○○であるとするなら?・・・・etc



仮説に「if」を付けたらどんな些細な事でも
取り上げられる。これは当人に危機感が
ないのではない。あるからこそ、なおタチが悪いのだ。



ただ当たり前の話だが、先の見えない
事業を始める際、根拠なんてものはない。
その状態で根拠を求めるのだから、
必然的に事業は水平線のままである。





何にでもそうだが、何かをやる際、
どうしても避けられないものがある。
それが予測と予想における差異、不確実性である。



当たるも八卦、当たらぬも八卦でやるのではない。
どんなに努力を尽くしても、精度を上げたとしても、
あらゆる将来の予測には不確実性が含まれている。




この不確実性というものを嫌うならば、何もしない事だ。






コムニタス

些細なことでも怒ってしまい、感情を抑えられず、
感情がコロコロ変わって自分でも疲れる。


周囲に理解してもらいたいが、なかなか理解してもらえず、
見捨てられることを極度に恐れ、なりふりかまわない努力をする。


そんな人を境界性人格障害(境界例)と言うらしい、
現代病の一種である。


さて、ネットを見ればこの境界例に近い心性を持っていると
思わずにはいられないサイトが数多く存在する、なぜだろう?



象徴人類学者ヴィクター・ターナーの説く
「コムニタス」という概念がある。


それは通過儀礼といった人間関係における在り方であり、
身分や地位財産男女の性別や階級とは違い、
非構造である環境において、自由で平等な相互関係を指す。



ネットの「完全なる表現の自由」はコムニタスとも考えられる為、
境界例のコムニタスへの希求はきわめて強いのだ。


慢性的な空虚感。そして感情の不安定さや絶望感。
これらを癒し、自己を支えているのがコムニタスであるネットなのかもしれない。



☞ ☞ ☞



このような、コムニタスと境界例を関連づけたのは
心理士を実質的に生みだした河合隼雄である。



境界例には構造的なものに対する徹底的な弱さと、
コムニタス的関係様式への絶対的希求があるとしている。


組織の一員として存在することができず、
コムニタスの様な自由で制約のない世界でしか、自己を保てないのだろう。



しかしコムニタスではアイデンティティは確立できない気がする、
重要なのは先にある「場」ではなく、その環境に身を置く自己の認識ではないだろうか。



私は独立する以前、組織の中間管理職として働いてきた、
当然組織は不条理なことも多いし、管理によるストレスも大きかった。



それでもこうやって健康でいられるのは理由がある。
ここでヒエラルキーを否定してはいるが、悪い所ばかりではなかったのだ。



毎年飲み会や旅行などの行事をまとめる幹事をやっていた。
仕事ではゴタゴタの多い職場であったが、飲み会ではガラリと変わり仲が良い、
これを見るのが楽しくもあった。


QC活動でメンバーと白熱しつつ、最終的に素晴らしい賞を頂いたのも、
衝突した上司が一番信頼できる人になったのも、ある意味「立場の差異」があったおかげだ。



結局何が言いたいかというと、我々の関係性とは「安心した土台」がなければ
脆弱なままなのである。



例えばコムニタスでは自由でこそある反面、社会的身分も役割もない。
つまり安定した土台自体がないのである。



よって常に生身がさらされ、互いに傷つきやすい関係であり
それはやがて、争いのタネとなる。



つまりコムニタスの状態のままでは、維持する事が困難なのだ。



仮にコムニタス的だった集団があったとしても、やがて「秩序」が起きる。
プリコジンの言うように、開放系の我々が無秩序に集まってたとしても、
散逸構造でいう「新しい秩序」が生まれるのだ。



これは実にもどかしい選択である。
つまり自由性は「常に変化し、脱皮することで保たれる」という事だ。



固定した瞬間、秩序が生まれる。
それは安定こそあるけれど、階層的な構造が必然的に同時発生するのだ。


聖人君主のような人格論からかもしれないし、ディベートの結果かもしれないし、
おかしな民主主義のような多数決かもしれない。


このように、自由な環境であっても
決断する時において我々は、この自由(自らに由る)を崩壊させるのだ。


しかしリアル社会と違い、ネットでは都合のいい一元論が通用する。
だからこそ境界例の多くはコムニタスとして帰依しているのだろう。



☞ ☞ ☞



ただし、これは非適応的な信念である。
非適応的な信念(思いこみ)と現実はリンクしない。


しないというより、認識で「我々が非適応になる」のであって、
逆に自由でも愛され、守られている人だっている。



それはその人が特別ではない。
その人の認識が「適応的」なだけなのだ。



時代は我々の認識を変える。
変わった認識が感情を決定し、決定した感情の集合体が時代を変える、
すなわち「多即一」、これが「場の創造」である。



コムニタスは場の創造が困難だ。
常に孤独で戦う為、認識が不安定となる。



それが可能なのは一部の芸術家や天才といったものだ。
彼らはどれだけ批判されても、一人で確固たる世界認識を創造する。



そして、その世界認識にやがて世間が追いつくのだ。
カフカ、宮沢賢治しかり、ゴッホ、アボガドロ、ロバチェフスキーしかり。



☞ ☞



リゾームが派生する場合において、
これらの概念は重要である。




なぜならリゾームは単純にやればコムニタスである。
それでは責任の所在も動機も意味もない、ただの遊び場である。




では何が必要か?
もしかしたら来月分かるかもしれないんだなぁ(笑)

見えすぎるのも考えもの




坂口安吾が出したブルーノ・タウトと
同名著書「日本文化私観」では



真の模倣とは発見であり、インスピレーションは、
多くの模倣の精神から出発し発見によって結実する、とあります。



そこには必然性も決定的な素因もない。



昔から日本に行われていたことが、
昔から行われていたという理由によって、
日本本来のものだとは言えない、と。



故に、タウトが愛した桂離宮が高尚であり、
東照宮が低俗だというものではなく、



「ミカタ」を変えてしまえば
どっちもどっちだというのです。



なるほど、安吾は物事が見えすぎていたのでしょう。



☞☞


さて、氏は近代文化を「芸道、地に堕つ」と
以下のように批判しています。



近頃は劇も映画も一夜づくりの安物ばかりで、
さながら文化は夜の街の暗さと共に明治時代へ逆戻りだ。


蚊取線香は蚊が落ちぬ。きかない売薬。火のつかぬマッチ。
しかし、これは商人のやること。芸は違う。



芸人にはカタギがあって、権門富貴も屈する能あたわず、
芸道一途いちずの良心に生きるがゆえに、芸をも自らをも高くした。


芸は蚊取線香と違う。
けれども昨今の日本文化は全く蚊の落ちない蚊取線香だ。


どんなヤクザな仕事でも請ける。
二昔前の書生劇でも大入り満員だというので、
劇も映画も明治の壮士芝居である。



職人芸人の良心などはくそくらえ、
影もとどめぬ。文化の破局、地獄である。


かくては日本は、戦争に勝っても文化的には
敗北せざるを得ないだろう。


即ち、戦争の終ると共に欧米文化は日本に汎濫し
日本文化はたちまち場末へ追いやられる。


芸人にカタギがなくては浮かぶ瀬がない。芸の魂は代用品では間に合わぬ。






芸道とは能楽や世阿弥、歌舞伎や人形浄瑠璃の他、
華・茶・武術など、あらゆる道を総称したもので、



その真意は、芸術思想と倫理思想とが交叉する
思想領域を切り開くことです。



世阿弥が利己的な精神なく修行することによって
その功徳が生まれ、極め尽くすことが寿福であると
説いているように、「前提」が全てを決定するのです。



なるほど、芸道のための自己練磨ではなく
自己利益(寿福)の為の芸道であれば、廃れてしまう。



安吾は目的を取り違えれば本質を
見失ってしまうことを、芸道に例えたのでしょう。



☞☞



本質主義とは余計なものや無駄なものを削ぎ落とし、
誤魔化しのないシンプルなものを目指す者ですが、
氏はまさにその道から逸れることはありませんでした。




今の時代にいるならばどんな作品を書いたでしょうか。
少なくとも、アフォリズム的なものは書かないでしょうね。




2012/10/11

花鳥風月



こんばんわ、坂口です。
9月も後半に入りましたね。




ビジネスに励むのもいいですが、
せっかくの秋です。




ちょっと時間を作って、
花鳥風月を楽しんでみませんか?










さて、僕らがモヤモヤした時って
お酒を飲んだり、カラオケで歌ったりと、
発散の方法は色々あると思います。





現代は、和み、とか癒し、といったものを
「意識的に」作ってるんですが、




一時的には解決できても、
なんだかこう、心からスッキリしなくないですか?




まるで慢性的に蓄積されてる、っていうか。
僕はこれって、理性の限界やと思うんです。





つまり「あたま」って万能じゃないな、って。





☞ ☞



アメリカなんかは意識の国ですから、
薬だったり、音楽だったり、香りなど、
あらゆる解決方法が存在します。





日本でも、α波がどうだとか、
エンドルフィンがどうだとか、
物質・数値化しているようですが、





実際のところ、どうでしょうな。
あまりハッピーじゃないような気がします。





僕はそれより、自然の景色を眺めたほうが
よっぽど安上がりで癒される、という考えです。




放っておけばどうにかなるさって(笑)
最近、その傾向が強いですね。





☞ ☞





養老孟司氏は自然の定義を
人間が作ったものではない、としています。



逆を言えば、作れない。
それが自然と意識の違いだっていうんです。




昔これ聞いた時にですね、
なんというか、すごく納得したんですよ。





エントロピーで考えてもそう。
意識は秩序を作るけれど、
その分の無秩序がどこかで生まれてるな、と。




ヒーラーの癒しの言葉だって立派な意識ですよ、
そこにはどうしても意図が入ってる。




だからいくらブロックを外そうと、
思考の書き換えをしようと、
潜在意識を書き変えようと、




それら全ては僕らの意識がやってる、と。
これって、逃れられないですよね。




ってことは、その意識的な癒しは
どこかで無秩序的な荒びが生まれてる、と。



だから、人の作ったメソッド(秩序)って
どことなく、危うい感じがするんです。





☞ ☞



以前、潜在意識にアプローチする
成功哲学の内容とか見てみましたが、




よくよく考えたら、意識できないからこそ
潜在無意識であって、



これを意識的に表層化しちゃうと
逆に危険だな、って思いました。




北風と太陽よろしく、問題を
解決しようとすればするほど、大きくなる。




旅人のマントっていう問題を意識的に
解決するために、風で吹き飛ばそうとしてるでしょ。




どっこい本人は抵抗するわけです。
あとはもう、力比べですわ。




その結果が顕著に出ているのが、
自殺率や鬱病や癌じゃないかしらん。




これら病理はGDPが高い国ほど多い。
普通に考えたら逆にならないとおかしい。






不思議だけれど、成長した豊かな先進国ほど
人って生きにくくなってるんです。





そういった「わけのわからないもの」って
最近、あちこちで見かけませんか。





☞ ☞



日本って本来はテーマにある
花鳥風月を上手に取り入れた国です。



意識を意識で解決する
っていうやり方をちょっとだけ置いといて、





ぼーっと野生を眺める時間とか、
無意識で「ついやっちゃう事」とか、
それを大事にしたいな、って思ってます。







ノープラン、ノーリターン。
ドントシンク、フィールってね(笑)


質を高める時代



デフレである現在、製品を安くするために、
様々な企業努力が行われる・・・・と言われますが、
企業の中にはコスト削減を
「製品の質を下げる努力」とイコールにしている所があります。



これが例えば構成要素ごとに検証し、
入り数(企画)を変え、安くするのはいいでしょう。
(6個入りを5個入りにしたりとか)



しかしこれが商品そのもの、
つまり製品の構成要素を安価やものにしたり、
補強すべき部分を安価なもので対応するのは、
ただの「劣化商品」を作っているにすぎません。



それをいかにも劣化していないように
外見を飾り立てる、というものをコスト削減だと思っている。



なるほど、これだけ劣化品が増えたのも、納得できます。









当然、それらは短期間で壊れたり、使えなくなりますが、
それを安いから買ったのであれば怒りもありません。



「まあ安物だし、いっか」と。



その考え方は、あらゆる側面において、
「使い捨ての発想になっている」のに気付きません。



製品に対する信頼なんてないけれど、
なぜか、安さを提供する企業には不思議な信頼がある。



否、「あった」というべきでしょうか。




本来、この国は「質」を高める文化であって、
低質なものは体感的に嫌う。そうじゃないですか



☞ ☞



もちろん、最初から「使い捨て」を目的とした
商品であれば、問題ありません。




しかし体内に入れる食事は、言わば一生ものですし、
家などは本来資産であって、耐久消費財ではない。




物を大事にし、大切に使う、という感情は
我々が持つ、基本的な感情、




信頼と保証は似てて異なります。
それは無形と有形の違いではなく、姿勢の問題です。



2012/10/10

間違った学び



ちょうど300年前に出た思想本に「弁道」・「弁明」というものがある。
著者は荻生徂徠、伊藤仁斎と同じく古学派である。




荻生徂徠の思想のバックボーンは孔子、儒教である。
しかし儒教を体系化した朱子学は全く役に立たない空論であると喝破した。





それは伊藤仁斎も同じである。
それほどまでに批判された学問、それが朱子学である。







荻生徂徠の時代はその朱子学が公式学問である江戸時代、
よってその思想は当然、正反対となった。






反進歩・反発展・反成長。
反都市化・反市場経済・反啓蒙・反自由・反民主主義。







政治、経済、世間と
見事なまでに対立した学問が荻生の古学思想といえる。







朱子学は馴染みのある言葉だが、あまり知られていない。
調べれば「自己中心的な合理主義思想」だと言う事が分かるだろう。







朱子学が生まれた時代は中国が侵略された時代であり、
その反発から生まれた学問でもある。





よってその根底にはゆがんだ
自国愛を捉えることができる、



我が文化こそ絶対という、
排他的精神から朱子学は生まれたのかもしれない。




☞ ☞ ☞





朱子学にもう少しだけ触れてみよう。
朱子学は体系化を目指した合理的思考によって作られる。





宇宙万物の究極の根源に「太極」という原理を作り、
この太極は陰と陽に分かれる、とした。





陰陽の変化によって水火木金土の五行が発生し、
春夏秋冬などの現象が形作られる、と。



問題はここからである。
朱子学が説明しやすく、実践が困難な原因でもある。



☞ ☞



太極とは宇宙万物を超越した究極の「理」であり、
あらゆる存在には「理」があるとした。



そこには「気」も一緒に内在しているという。
つまり「理と気の混合」が人間だとしたのだ。





誰もが潜在的に「理」を持っているけど、
それを邪魔する「気」もある、と。





それは「気質」であり、個人によって違うというのだ。
※ここからは話半分で聞いてもらいたい。




朱子学では、その気から欲望が生まれるとした。
我々人間は、気によって情念や欲望が起こり、



欲望によって本質的「理」が曇っている、としたのだ。
朱子学によれば、悪が発生する場所は「気」である。




長年の読者の方なら、この辺りの定義から
「漢意」になってきているのが分かるだろう。




そう。
予想通り、そこから先の答えは「悪い気の排除」である。



朱子学で言う聖人は、与えられた気が濁っていない。



よって「理」が分かるとし、善悪の定義を
「気」の清濁の差であるとした。




それをキレイにする行為、
これすなわち「修行(苦行)」の始まりである。



☞ ☞



情念や欲望を抑え理を出す事、
それが「毒抜き」として広がったのだろう。



ぱっと見、自然な流れだが、
そこには恣意的な「意図」がある。




自然法則であった「理」と「気」の理論が、
「かくあるべし」という個人の思想になっているのだ。









このように朱子学とは、一つの原理(理)によって、
あらゆるものを理論体系化したものであり、
極めて合理主義的な思想である。




この「人間はこうあるべき」という
原理を絶対化しているので。
本来の我々が持つ多様性は否定されている。




個私はこれには賛同しない、
悪を認めるのではない、形而上の
「客観的絶対性」を認めないと言う事だ。





それは選択肢のない
「決定論」に従う事と同義である。




形式、硬直、理論、体系・・・
まさにマックス・ウェーバーの「理性の鉄檻」の世界である。



世の中に起きた事象をすべて説明する、という理性。
そこから生まれる体系化された無数の「教育・思想」。




私はそれが純粋に嫌いだ。
そこから逃げるという選択肢だけは捨てたくはない。



私の考える世の中とは変化そのものである。
予測不可能・説明不可能である。




そんな現実社会に全く役に立たない学問を
否定した伊東と荻生は、そこから独自の学問である古学を生みだしたのだ。




「後記」



ちなみに儒教は高い徳を持ち、品位ある生活こそが
人生最大の目的、という教義だ。



よって儒教信仰者は、高い徳を持ち、
世界の為にお金を使うことを正当化する、



故に、その目的を果たすには
どんな汚い儲け方をしてもかまわない、と解釈されている。



汚く儲けてきれいに使う、
つまり現世主義では不正や汚職を
正当化させてしまう欠点がある。



最近、これに近いセリフを経営者からよく聞く。
多分、それが儒教の影響とは本人は思っていないだろう。




今の経済競争を俯瞰すれば
個人派生の「宗教・思想の対立」なのである。



2012/10/08

大海へ接近する方法


フランチャイズ構築と書けば、
建築家のような仕事のようですが、
一番似ているのは農業かもしれません。



種をまいて育てるのが仕事であって、
そのオリジナリティ(独自性)とは
「見えないもの」から「見えるもの」を作ること。


よって種さえ選べば、あとは
自然に大きくなるのを見ているだけです。


なぜなら、大きくなる力は
むしろ「種子」の方にあるから。



農耕的、科学的、芸術的、
哲学的、宗教的・・・・
ビジネスの根幹は様々ですね。




今日はそんな小噺。




☞ ☞



現在、文化的、芸術的な概念と
ビジネスとを融合しようと、
実に多くの方が試みているようです。



素人ながら僕もやっているのですが、
その異質性のバランスが崩れると、
すぐに遊離的な概念となってしまいます。



素泳ぎで大海の沖を一生懸命
泳いだとしても、大海の流れに逆らえないように、



そこまでいけば、商売なのか、
芸術なのか、学術なのか、宗教なのか、
全く区別ができなくなる。




それで何度溺れたことか(笑)




海と陸とを分ける境界線の見極め、
渚より大海に接近しなくてはいけない、


この方法の確立が必要でした。











渚には、実質的な部分が
それこそ、たくさんあります。



手に触れる事ができる消費財や
耐久消費財、サービスがある。



反面、芸術はそうじゃない。
まさに大海へと飛び込むことで
流れそのものの表現です。



音楽・芸術・ダンスなども、
解放された表現の一つであって、



我々はそこに自然の本性を感じ
大きな感動を覚えるんじゃないでしょうか。



問題はそこにどうやって
現世的な利益を繋げるか。




これがきれいに結べないと
ボランティアか、心ない資本制になる。



この「結び方」さえ形式化すれば
スッキリするんだけど・・・と



つい漢意が出てしまう今日この頃(゜゜)





2012/09/27

起業家の妙

ども、FCオーガナイザーグッさんです^^





そう言えば、店舗の内装ががらっと変えました( ´ ▽ ` )ノ



【グッさんの、一期一会ブログ】



【グッさんの、一期一会ブログ】


良い感じになったと言われ、ちょっと嬉しいです。





あと洋風のアンティークショップで

ソファーを衝動買いしました。



【グッさんの、一期一会ブログ】



よく考えると、これはカップルシートですね(笑)

まあ、一人で優雅に座ってコーヒーを飲むもよしです^^






さて、co-gateでは独立希望者に向けて

「zoro one」というサービスを行っています。



zero one、つまり「0→1」にすることが目的です。

例えば既存の事業にはない、まったく新しいビジネスモデル。



これを約3カ月で体制を作り、キャッシュを得よう、という

発明に近い起業方法です。




もちろん僕はそれに対するアドバイスなんて出来ませんが、

環境を貸す事ができますし、コストを押さえたツール提供も可能です。




「いいアイデアが浮かんだかも・・」という人は

気軽にお越しくださいね^^




さて、人生においては正解はひとつではないように、

独立の方法も同じく、決まった答えなんてありません。




いろいろな解釈、いろいろなアプローチが新たな可能性を生みます。

とにかく、自分なりにやってみる事が大切。




それが僕の考えでもあります。





例えば10個、ビジネスに着手して、結果1つしか自分に合わないとしても

自分に合った1つが分かっただけいいじゃないですか。


後はその1つを大事に継続して行けばいいと思います。




ちなみに僕の本業はそれとは逆、フランチャイズの魅力を伝える仕事です。

起業の始めの一歩は優良なFC加盟が最適だと思うのですが、




自分の中に「これだ!」というアイデアがあるならば

無理にFCを検討しなくてもいい、と思っています。




大事なのは継続してやれるかどうか、

儲かってもやってて苦しいだけなら会社員と変わりません。




自由な選択肢、そして自由な発想。

これが起業家の妙ではないでしょうか。





さて、次回の「イマココ会
」はそんな独立の一側面、

「フランチャイズ加盟」について語ろうかな、と思っています^^





私が絶対的な自信をもって紹介できる全国のFC本部さんや

無料でできる代理店さんについての紹介と





「そもそも独立って何が大事なの?」という内面の部分も含め

お話しできればな~と思っています。





次回は盛りだくさんな内容でっせ♪






2012/09/11

加減の定義

時は江戸時代。
徳川家康が武将達を集め、食べ物についてこう尋ねたという。




「この世で一番おいしいものは何か」。






武将たちの答えはそれぞれ。
酒と答える者もいれば、好きな菓子や果物の名前を挙げたという。


当然、家康は不満である。


そこで家康は、側室である、英勝院(お梶)に
「なにが一番、美味しいと思うか」 とたずねた。



お梶はこう答えた、
「一番おいしいものは塩でございます」 と。



家康はさらに「では、一番まずいものは何か」と尋ねた所、
「一番まずいものも塩でございます」 と答えたそうだ。



家康は、お梶の聡明さに大変感心したという。







さて、今でも塩は「味の決め手」である。
つまりあらゆる味を活かす素材だ。



よって、お梶が言うように一番美味しいものに間違いない。



また、全ての味を殺すのも塩だろう。
よって塩は一番まずいものでもあるのだ。




つまり塩とは「美味しくも不味くもないもの」。
こう定義できる。



このように、塩とはサジ加減一つで変化する
一番分かりやすい食材なのだ。



塩とはあらゆる素材をまとめる「部分」である。
その加減を知ってこそ、本質(肉や魚)は活かされる。



火加減もそう、ゆで加減もそう。
あらゆるものは「加減」によってその持ち味が際立つのだ。




☞ ☞ ☞



料理に限らず一流ほど、素材にこだわる。




しかし、どんなによい素材を手に入れても、
加減がなければ、その素材を殺してしまうだろう。




活殺はその人次第、「加減覚の知」。
これがリゾームで一番難しい概念だ。









多様の妙

日本流FC、場の理論について。







古来、市場は「市庭」が語源であり、
以前の場は「庭」と書いていました。




道と道が交差するのを「辻」とも言い、
市場は、どちらのものでもない辻でも行われたのです。



それは隙間であり、空間であり誰もものでもないもの。
しかしその無である「空間」が有を作るのでしょう。




☞ ☞



ちなみに脳内で情報を伝達するニューロン同士も
繋がっているのではなく、そこには「隙間」があります。




それをシナプス間隙といい、隙間を超えて
伝達する物質を神経伝達物質と言います。



つまりそこでも「辻」や「庭」のように
交流が行わているんですね。







それによって伝わり方は微妙に変換される、と。



これは、我々がそれぞれ異なる感覚や思考を
持ってしまう理由でもあるのですが、



そんな2つの自己は協調的な働きによって、
整合性を持つのです。



なるほど、両極の自己の中心が
それぞれを中心として成立・整合するように
誘導し合うということでしょう。



行ってみれば、それは
「二つの視点による中心の創造」です。



それぞれが中心でありながらも、それが軸として働き
互いに誘導され、影響を受け、



結果、どちらもが自立と自律に働く、と。
交差によって「相互自立依存」が成立するのです。



これは海で例えるなら、
海面と深海の違いでもありますね。
海面も深海も一つの海を形成しています。



波しぶきを見て「これが海だ」とは言えないし、
深海を見て「これが海だ」とも言えませんよね。




☞☞



そんな異なる自己を中心(自律的に)決める。
これが場の形成です。



しかし近代的自意識では、まず
「自分」というものが存在していて、
その「自分」が、何それをする(している)と
考えるのですが、そうではない。




他者だけでなく、自他の「間」による
交流によって、我々は自ずと変化している。





不思議ですが、
多分に我々とはそういう存在なのでしょう。



2012/09/10

卒啄同時、相対を超えて




近年の自己啓発セミナーで
取り扱っている主張の核、それは「心」。


悩まない、楽になる、思い通りに行く、
重荷が取れる、平常心で生きられる・・・etc



論じ方は千差万別あれど、
それが「あなたの心」である以上、
今感じている気持を押し殺すものではない。



そもそも我々は喜怒哀楽という
プラスとマイナスの感情を持っています。



まるで磁石のようなものであって、
どちらか一方だけは選べないんですよね。



当然ですが、N極だけの磁石は存在しません。
(人工的なモノボールは抜きにして)



そんな矛盾した「二項」との
付き合い方さえ、理解すればいいのかもしれません。



☞ ☞


例えば、仏教はもともと絶対自力だったのですが、
親鸞が絶対他力である仏教を広めました。



ただ、それを突き詰めていくと
単なる他力、単なる自力ではないものが見えてくるようです。




自力はただの自力ではなくなり、
他力はただの他力ではない。



つまり自力と他力は同体として、一なのでしょう。




禅も自力といいますが、同じくこれも「自他力」で、
それを表現したものに卒啄同時があります。



それは雛鳥と親鳥との関係に
見立てたもの。



雛が卵から出ようとするとき、
雛は殻の中(内)から卵の殻を突き、音をたてます。



「コツコツコツ、コツコツコツ」。



「もう産まれるよ~」と言う合図、
これを「卒(そつ)」と言います。



そこで親鳥がすぐに外から
殻をくちばしで破ります。



「コツコツコツ、コツコツコツ」。



「今出してやるからね」という行為、
これを「啄(たく)」と言います。



この「卒」と「啄」が「同時に起こって」
卵の殻が割れ、生まれることができる、と。




どちらか一方が遅くても、
逆に早くても雛は死んでしまいます。



よって、そのタイミングは「同時」であることが条件、
故に禅の自力も他力であり、他力は自力なのでしょうね。












2012/09/04

ふたつの欲求

unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます^^



さて、我々が生きて行く上で、重要なものは何か?
と聞かれたら、多くの人が「自由と安定」と答えるでしょうね。


しかしそれがなかなか手に入らない(ノ_・。)


そんな単純な命題を解決するのに
なぜこんなにも苦労しているかというと、

自由と安定という、「ふたつの欲求」、
その性質が根本的に矛盾しているからなんですね。



今日はそんな二項同体の小話を。














さて自由とは、束縛から解放される事。


お金からの自由、労働からの自由、
の自由など、色々あります。



で、安定とは一体何じゃらほい?というと、
マズロー的に言えば、何らかの共同体に帰属する欲求です。



まさに「解放(自由)」と「安定」が矛盾し、
相容れない根本原因がここにあります。



なぜなら、何らかの共同体に帰属先を求めれば、
個人の自由をある程度放棄しなければいけません。


解放(自由)を取れば、不安定になり、
安定を取れば、自由は制限されるというジレンマ。


これが社会性の生き物である人間が持つ、
永遠の「悩み」です。



お互いがある程度譲り合い、我慢するからこそ
「現在の」共同体が成立するという前提がある以上、




お互いが衝動の赴くまま、自由にやれば
当然、共同体は崩壊します。



逆に、だからこそ人は権力者になりたがるのです。
権力を持ち、共同体の中で安定と自由が手に入りますからね。



さて、あなたはどっちを選びますか?
それとも、どっちも欲しいですか?



独立起業と会社員もそうですし、
結婚と独身だってそうですな笑



ただ、これを選択するのって、
まさに「自由」なんですね。



☞ ☞




エーリッヒ・フロムの著書「自由からの逃走」では、
我々は完全な自由よりも、国家の権威や、
世間大衆と同一化することを望む傾向があると言います。




言わば「特殊な縛り」に身を投げ出し、
犠牲になることで、安定と共同体に所属するのです。




歴史を紐解けば、これが原因で多くの争いが起こっている。



見方を変えるなら、全員が「自由であり、
安心もできる帰属先」を作れないんですね。



おたーく、な僕はそれをもう少し
突っ込んでみました笑





☞ ☞

そもそも、自由とはそれ自体に有効性はなく、
呼応する社会の義務によって初めて有効なものです。




共同体での義務の観念が権利の観念に先立つ以上、
その権利は義務に従属します。



例えば無人島で一人の場合、
自由の権利を主張する必要はありませんよね。



誰からも承認してもらう必要がないので、
それ自体の意味も価値も一切無くなるからです。



つまり、この「自由」や「安定」とは、
社会(他者)ありき、客体なくして主体は生まれないんですな。




そう考えると、自由であり、かつ安心もできる
帰属先が必要ということ。




これを教義という「外律」で教えようとするのが
宗教・国家のような「権威」なんですが、



止めときましょう、足元を掬われるだけです。




というわけで、みなさんも暇な時に考えてみませんか^^
暇つぶしには十分すぎるテーマだと思いますので。


2012/09/03

人と自然の統合的秩序



「合理化・効率化」というキーワードは
最高の口説き文句であるが、成熟期においては
そこからいったん、離れる必要がある。



そもそも私たちの発想とは、実はかなり縛られている。
縛られた環境とはすなわち「不自然」であるが、
この「不自然さ」こそが経済の秩序を生み出しているのだ。




秩序は自然的に作られたものと
人工的につくられたものがあるが、



僕はこれからは自然派生的な秩序と
人為的な秩序の統合が必要だと思っている。




ヒュームは、人間の意図的な設計のみで作られたわけではないが、
人間の影響は受けている、ということから、
秩序は「自然でも人工でもない第三の範疇(中庸の選択)だ」とした。



機械的な閉鎖システムとは違い、
その秩序概念とは選択の結果であり、
多様性の相互触発である。



問題はその相互性がどれだけフラットかつ、
アン・コントロールで触発されるかだろう。



多くのマネジャーはそういった要因や関連を
考慮に入れず、議論することもなかったのだが、



このような態度は選択か必修かという
問題に対する関心の薄さでもある。



口では弾力性に富んだ、自由度の高い
状態が望ましいとはいうが、
現実問題それほど柔軟にはできない。



マネジャーはある種の「センス」が必要なのだ。
バランス感覚のような「感性」ともいえる。



☞ ☞ ☞


構築的合理主義者は、制度の意味を理性を駆使し、
明示的に命題を演繹して人工的に作り上げる事だと信じている。




この考えこそが複雑なシステムを構成するための
最初の原理ともいえる。



我々のような開放系相互作用システムにおいて、
「体系と効率」は演繹として使えないということだ。



かといって帰納かといえばそうでもない。
言わば「アブダクション」に近い。




2012/09/02

押しつけ


ども、グッさんです^^
9月に入りましたね。




もうすぐ僕の一番好きな季節「秋」が来ます。
この時期にお店(兼事務所)を新しくオープン出来るって嬉しいことです。





てなわけで今回のテーマ。
あくまでも個人的な意見なので暇な方はどぞ^^





○○○





アメリカのカルフォルニアでは法律で「フォアグラ」を禁止しました。
ガチョウの飼育方法が動物愛護からすると許せない、と。





また、ニューヨークではビッグサイズのジュースを
映画館や飲食店で出すのを禁止する方針だそうです。



日本とアメリカのサイズ比較 ↓








スモールサイズは日本が300mlに対し、向こうは700ml、
ビッグサイズは1300ml、





ビッグサイズの禁止の理由は「肥満防止」とのこと。
ちょっと笑えてきますね。





一番小さいのが700mlrって、そもそもが間違ってるだろって(笑)





まあこんな感じで、アメリカ行政は昔から
食べ物を始め、色んな事に干渉し
自分たちの理屈を押し付けるクセがあります。




1900年初頭にはプロヒビジョン(禁酒法)で
お酒の製造、販売を禁止してますね。
クジラだってそう、シーシェパードが「捕鯨反対」とか
よくやってます。



そんな余計な干渉とは本来独善的なものであり、
暴力を内包しているというのが個人的な意見です。
(余計な干渉と言うところがポイント)



日本人を始め、どこの民族だって自分たちの
食料を過剰に奪い絶滅させるようなバカな真似は普通しません。
しかしアメリカの場合、クジラは食べないけど「鯨油」はガンガン採ります。




クジラを捕っては油を絞り、その後どうするかと言うと
そのまま海へ捨てているんです。






昔からクジラを食料とし、クジラの供養をしてた
日本から見ると「動物愛護」という大義名分が、
実に独善的な勝手主義だと映りますね。





ちなみにライオンやワニは凶暴ですが、
例え空腹で死にそうになっても仲間は絶対に襲わないそうです。




食べる時も空腹を満たす以上はしない。
反面、人間はカニバリズムの歴史もあるし、
必要以上の食料を作っては捨ててるし、
戦争では殺人が正当化されるという奇妙な習慣さえある。




その点に限れば、人間は動物以下ですよ。




○○




しかし、当然それだけじゃぁありません。
それだと、とっくの昔に滅んでいます。






我々には相手の心を感じることができる
能力がある、それが共感です。




喜びや悲しみを自分の事のように感じれる。
先日のオリンピックでは国民が喜びを共有しましたよね。




会社で支え合い、励まし合って組織を作るのも
共感能力のおかげだといえるでしょう。





このように、人間は「暴力と慈愛」の
両方がセットという清濁併吞、グレーな存在です。



この狭間(バランス)で自己が形成され、
社会、やがて国家となる。




善悪併呑なのはマクロ的に見ても
ミクロ的に見ても変わらないんです。





だからこのバランスが今後重要になるだろうと
個人的に予測してますが、







それを書くとニーチェのようになりたくないのでやめときます(笑)




ではでは。


2012/08/14

クロポトキンとパノプティコン



この間、友人と話していた際、
アメリカでは市民監視プログラムが暴露され、
最近アップルのIOSには監視用バックドアがある、
という流れからクロポトキンとパノプティコンの話題となった。


なるほど、まさに現代はパノプティコン。
故にクロポトキン思想が必要であるのは間違いない。



今日はそんな話。







クロポトキン思想とは端的に書くと相互扶助、
政府支配のないコミュニティー社会の形成である。
反的な、つまり意図的’|(人為的)な無政府は
自然崩壊ではない為、必ず誰かの思惑があるのだ。


つまり猿山のボスが変わるだけの事であり
やがてそのボスが新しい支配体系を形成す。
人工的な秩序とは「設計者」がいる証拠である。
その他律的なものを一切排除しなくてはならないのだ。


相互扶助が個人の思想と直結しなければ
永遠にヒエラルキーとアナーキーの振り子状態となる。
だからこそホッブス「リヴァイアサン」だが、
ロックから、その絶対権力を批判されたわけだ。


「人はキツネやイタチの被害を避けるため、
ライオンに喰われるのを選ぶほど愚かなのか」と。
恣意的なものは全て偽物。当然である。



そんなわけで僕は「相互扶助論」が
本来の秩序ではないか、と思ってるのだ。


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「クロポトキン思想は代案のあるアナーキズムだ」
それが友人の意見だった。それが空論ではないのは
歴史的経験則だからだろう。


しかし、僕はそれに容易に賛同できなかった。
なぜなら今の国家構造、「根幹」では無理なのだ。


「無政府」とは、あらゆる機関を民営化
することである。それならば小泉は
間違ってないとなるが、あれはぶっとんだアナーキズムである。



カントよろしく理念によって守られていないのだ。
まさに平和学(予備6条・確定3条)である。




雪が消えれば

ソニーの創業者である井深大氏は
経営理念を大事に語った人の一人です。



氏は教育の重要性を語り、
企業理念にもそれが如実に表れています。

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一、不当なる儲け主義を廃し、あくまで内容の充実、
実質的な活動に重点を置き、いたずらに規模の大を追わず。


一、経営規模としては、むしろ小なるを望み、
大経営企業の大経営なるがために進み得ざる分野に、
技術の進路と経営活動を期する。


一、極力製品の選択に努め、技術上の困難はむしろ
これを歓迎、量の多少に関せず最も社会的に利用度の
高い高級技術製品を対象とす。


また、単に電気、機械等の形式的分類は避け、
その両者を統合せるがごとき、他社の追随を絶対許さざる境地に独自なる製品化を行う。





これら経営方針の一部を見れば、
創業者の言葉は時代を超えても錆びないことが分かります。



古臭い信念と言うのは大いに結構、
ただ、それを否定される筋合はない。




僕がやっているフランチャイズはあくまでも手段、
目的はこの国の失われた精神性を取り戻す事です。





最後に井深氏の著書の一節を。



国会議論で、おもしろい問答がありおましたな、


「総理、雪が消えたら何になると思いますか?」

「水になる」


「いや、雪が消えたら春になるのです」


知識の詰め込み教育だけでは、
春になるという答えが出ません。


弱いは強い、強いは弱い




unreveが構築するFCは既存の縦割りFCと比べ、
限りなくフラットに近い連携を理想としています。




「連携、連帯」などと、口では簡単に言えますが、
これほど難しいものはありません。



ただ、これからは人と人との繋がり方次第で
ビジネスは大きく変わってくるのは間違いありません。



今日はそんなunreveの組織論、について。



☞ ☞ ☞



経営者だけに限らず、我々人間が
この「連携」を求めている時代というのはどんな時でしょう。



それは困っている時、
もしくは現状を変えたいという時ではないでしょうか。



そして現在それを強く求めているのはどこか、といえば、
企業の9割以上を占める中小企業です。




自社が潤っていれば連携を真剣に考えることはありません。
連携の必要性は自分の弱さを自覚したときにしか分かりませんから。



逆を言えば、その位置だからこそ
わかるものもあるのではないでしょうか。



☞☞




弱者ってそもそも何でしょう、
僕は横断的に本部を構築してるせいか、疑問に思います。



FCの本部には、「弱い加盟店を助ける、支える」
という面は確かにあるけれど、


加盟店が本部を支えることもあるのです。



そんな力関係の逆転や矛盾を説明するのは難しく、
とくに損得一義である経営の世界では理解されにくいもの。



「加盟店が指示通り動かない」
「いや、本部の指導がおかしい」



不毛な主導権争い、そんなFCはゴロゴロしています
契約書と言うものは連携の証にはならない。



そんな状況において、その力関係の正しさを
証明する事に執着し、 肝心の目的や理念が
達成できないのであれば、本末転倒です。



度々書きますが、連携は簡単ではありません。
時には叱咤激励は必要ですし、耳を傾ける受容や傾聴も大事です。



そんな正解のないものを、あーでもない、
こーでもない、とやる事が出来るかどうか。




そのプロセスが重要なキーワードです^^


☞ ☞


強さを前面に打ち出し、人を動かすのは
仕事に対する自信の現れであって素晴らしいこと。



ただ、「自分だけでは限界がある」
そんな弱さを知る人もまた、強いと思います。



そして、矛盾する言葉なのですが、
弱さを知る人が「依存なく」集まれば、強い力になると思っています。



2012/08/13

7%のシステム言語を超えて



言葉自体が相手に与える影響はどれくらいかご存じだろうか、
実はたったの7%程度だと言われている。



「メラビアンの法則」で有名なアルバート・メラビアンは、
伝達に関する影響度を調べた結果、


言語7%、口調・早さなどの声のテンポが38%、
そして、身ぶり手ぶり(振る舞い)が55%という結果を出した。



つまり、相手に伝えるのはボディ・アクションが一番大事であり、
伝える(伝わる)という相互作用には「振る舞い」が大事なのだ。



世界最高のプレゼンテーターと言われたスティーブ・ジョブスも
これら「振る舞い」を上手に使っている。



☞☞☞




つまり伝道者は「最高の役者」であればあるほど、
その影響力は強い、というものだ。


「振る舞い」はビジネスだけに限らない、
ビジュアル情報によって我々は影響を受けやすい。



そして(逆説的だが)それをもう一度
「言語に練り上げる」、それが私がやっている事だ。



理由は一つ「感性に響かせる為」だ。


☞ ☞ ☞


感性のシステム構築とはなんだろう。
そもそもシステムとは何を指すのだろう。


あらゆる組織はシステムによって動いている、
そしてシステムは「静態・動態」の2つに分けられている。


以前記事に書いたように、静態とは「閉鎖システム」、
機械のように内部完結で外部との入出力がない。


反面動態とは「開放システム」であり、
我々人間は常に開かれ、外部と相互作用を繰り返す。



言わばシステムとは「部分間の結合」であり、
その相互作用を一段上から観た時、それを「システム」と呼ぶのだろう。



つまり結合や作用を行っている「部分」の視点からでは
そのシステム全体は理解できない、と言う事だ。



ちなみにシステムには「対義語がない」。
デジタルはシステムではない、対義であるアナログにもシステムはある。


つまりシステムは「静と動」のように対こそ成すが、
我々の世界のあらゆるものに存在する「全体枠」なのだ。


枠(システム)を理解する為に科学や化学、
哲学や心理学や脳科学や量子力学が生まれた。



しかしそれを知っても子供の無邪気さは説明できない。
私を科学で笑わせる事はできない。



理性は感性のほんの僅かな部分を説明しているだけ、
だからこそ感性に興味を持った。


前回書いたが私は「システム」という言葉が嫌いだ、
それより「仕組み」の方が体温を感じる。


「感性システム」というよりも
「感性が織りなす仕組み」を作りたいと思っている。




キアスムと顛倒の真理

非局所性とは、この宇宙における現象が、
離れた場所にあっても相互に絡み合い、影響し合っているという性質のこと。


非局所的な応答が起きるということは、
喩えて言うならば、ゴムひもの1点に力を加えると
他の全ての点に変形が起きる、というようなものである


我々の本質は突き詰めると非局在的な存在であり、
本来は物理次元の制限を受けない存在なのではないか?



今回はそんな小話


☞ ☞ ☞


キアスムという概念がある。
提唱者はモーリス・メルロ・ポンティ。



西田のように主体と客体を超えようとした現象学者であり、
生涯、関係性(関係化)について考えた哲学者である。



日本では中沢新一氏がキアスムを「交差」と定義し、
以下のように説明している。


社会というものはどこでも、具体的な人間の心のつながりでできている。
社会のなかの個人は、程度の違いはあっても、けっして孤立して存在していない。


さまざまな回路をとおして、人間同士の心のつながりを維持しようという方向に、
社会は働きをおこなおうとする。つまり、人間同士を分解するのではなく、


結びつける作用が、社会には内在しているのである。
このような社会の本質を交差(キアスム)構造としてとらえることができる



それは多様な人格の交差した状態である。
私の心とあなたの心には、何らかのつながりが発生している状態があるというのだ。


これすなわち「縁」だろう。



異なる対象でも根源的なところでは共通、交差する点がある、と。



この交差点が無数の人との「関係性=縁」によって
複雑に絡み合っているのだ。



この縁とは昔からある概念、
縁結び、縁切り、縁日は新道である神社の行事。




縁は糸で「結」ばれるという、
この「結」という字は糸偏に吉と書くが、



良縁を頂いているからこそ結ばれ、
結ばれた縁が「結果」へ繋がるのだ。



☞☞




キアスムの交換はモノやサービスだけでなく、
提供者のつながり(縁)も一緒に手渡されると言う。



その要素が組み込まれた交換だけが、
贈与という性質を持っているのだ。



例えば「形見」が贈与的特性を持っているのは、まさにその媒体によって心が交差するからだろう。


☞ ☞ ☞



経済にやがて贈与的な原理が甦るだろう、と多くの専門家が言っている。
つまりそれは人間関係性の積極的な「回復」への希求である。



それについて私は多少(悪縁切り難しのように)懐疑的だが、



101匹目のサルが芋を洗いだしたように、キアスムは交差だけでなく同調するかもしれない。



ハイデガーが「ツハンデネス」と呼ぶ、
根っこの部分である見えない本質は
我々の目に見える関係性(フォルハンデネス)の認識によってあぶりだされる。



まるでイーゼンハイムの祭壇画のように
神聖さを神聖らしく表現するのではなく、



人間存在の絶望的な醜悪さが極限で示されることで
本質的な「神聖さ」が発光するという、「顛倒の真理」。



対立している対象が、飽和となり、豊穣よってに崩れていくとき、
同時にその反対物が浮かび上がってくるのだ。



やがて我々は無の本質をあぶりだす為、回帰し、経験するのだろう。

2012/08/08

雑草

昭和天皇は付き人が「雑草」というと、
「世の中に雑草というものはございません」
と言ったそうな。



確かに、そっちの方が正しい。
しかし我々は意味のある・なしに対し、
「雑」という言葉を無意識的に使ってしまう。



雑用、雑談、雑学、
これらはちゃんと必要性があるんですが、



意識はこれを「意味なし」と
捉える分別癖があるんですな。



今日は、そんな「揺らぎ・遊び」と
自然派生について。








我々は一見無駄だと思えるようなことを
やってしまう生き物なんですが、


これは生きている証拠であり、
全てを効率的かつ合理的にやってると
文字通り息が詰まっちゃいます。



僕はそんな規則正しい生き方を見ると
どうもメカニックなものを想定してしまうのです。



例えばプログラム構築の際、バグがでれば
当然、そのシステムは動くことはありません。



バグを訂正すればシステムは
「正常」に作動します。



ここでいう「正常」とは、
「変わらず、何も問題なく」、ということですよね。



では、人を管理するシステムにおいて、
「バグ」というものはあるんでしょうか、
逆に、「正常」というものはあるのでしょうか。



もちろんそんなものはない、
当たり前の話なわけです。



「正常」とは、機械の操作だけの話であって、
人に当てはめても、ロクな事にならない。



例えば、従業員が風邪を引いたとします。
その人は当然、休むわけです。



しかし、その人が重要なポストの場合、
上司なり職場のチームなりが文句を言ってくる。



「こんな時に風邪なんか引いて」と。
まるで本人にすべて原因がある、言わんばかりに。



しかし、風邪は本人の意図ではない。
逆に意識して風邪引けるわけないでしょうが。



この「勝手にそうなったもの」、
これを拒絶するのが、現代の暗黙の考えなわけです。



そこの店長さん、
そう思ってるでしょ?(笑)



☞ ☞



体調管理やら言いますけどね、
どれだけやっても体調悪い時はあるんです。


これが本人だけならまだしも、
母親だったら子供の面倒だってみている。



子供は全然、自然体ですから、
それこそすぐ、体調が悪くなる。



これはどうにもできないもの。
母親が休みの日だけ体調が悪くなる子供なんて、いるわけがない。




「雑」なものは「自然派生」なんです。
人工の建物にもハエや入ってくるし
コンクリートから雑草だって生えてるでしょう。




それがない世界は居心地良いですか?



つまりそう言う事です。





2012/07/16

マルチチュードという主体




ルネッサンス期を代表する政治思想家である
マキャベリの著書「君主論」では、統治者が
権力を獲得し大衆を管理するために
何をなさねばならないかについて書かれている。



そこで出てくる「マルチチュード」という言葉、
これは欽定訳聖書の中にもある政治概念である。
(欽定訳聖書とは国王の命令によって翻訳された聖書)



マルチチュードとは、中央制御が及ばない、
多数性が主体になっているいうこと。
つまり特定の誰かではなく、どこにいるのかも特定できない。



つまりそれは「特異点を持つ者」の総称なのだ。



後にスピノザがその概念を引き受け
「国家論」や「エチカ」を、



またアントニオ・ネグリとマイケル・ハートは
スピノザとマルクスを融合させようと試み
「帝国論」として世に送り出した。



まとめようとしてもまとまらない。
今回はそんな「マルチ」な小噺(ちがうか)。




☞ ☞ ☞



一部の特権階級層がどうにかして
システム化(ツリー)にしようとしているのは
今も昔も変わらない人間の習性のようなもの。



しかし一部の人間が作る秩序(ツリー)に、
異質で巨大な無秩序(リゾーム)がぶら下がるような構造は、
本来、非常に不自然なのだ。



結果、それに抗うようにマルチチュードの反乱が起きる。
それは同一構造である限り、誰がやっても同じ結果だろう。



しかも、ツリーを切り落としても無秩序である根が、
同じように少数のツリーを作る、と。



なるほど「まとめる」という段階で
すでに落とし穴に入り込んでいるのかもしれない。


☞☞☞


テオドール・アドルトは個人の真理追及への願望は、
いつのまにか、「頑固な自己認識」へと変わる
可能性があると示しているが、つまりそういう事だろう。




一見正しい道へと向かうようだが、
「反」の精神性では、永遠に統一されることは
不可能ではないだろうか。



そもそも論で言えば集権化した思想は必ず墜落する。
エスノセントリズムという名の「独立運動」も同じ事だ。



価値ある創造とは、マルチチュードを解放する。
決して「一部のアンチ解放」ではない。




個人的にですが、そう思っています。



2012/07/10

かに座のヴィーコ



蟹座は直感と感性と母性の星座だと毎回言われる。
なるほど、確かに僕は論理より感覚で決定するタイプだ。


暇人な僕は、歴史上の人物で
一体どんな人物がいるのか調べてみた。



なるほど、ヘルマンヘッセやガウディがいる。
ルソーにサンテグジュベリ、ルーベンスがいる。


二宮尊徳にヘミング・ウェイ、カフカにジャン・コクトー、
極めつけは、ジャンバッティスタ・ヴィーコである。



改めて驚いた、
見れば全員、僕が好きな人ばかりではないか。

ということで(?)
今日は蟹座の偉人、ヴィーコについての小話でも(笑)


ヴィーコ - 学問の起源へ (中公新書)/中央公論新社
ヴィーコについて書くと、テンションがあがります。





さて、ヴィーコはスピノザ同様、
反デカルト主義である(もともとはデカルト主義)



数学信仰であるデカルト主義者の認識論に対し、
ヴィーゴは、必要なのは「認識可能なものと
不可能なものを区別する原理である」という立場を取った。



しかし、これは排除目的の批判ではない、
ヴィーコはそれらを統合させようとしたのだ。



つまり「閉じられたテキスト」だけではなく、
「開かれ、編集されるテキスト」も必要、と言う事である。




☞ ☞ ☞



当時はデカルトの教育手法がメインであった。
それは幾何学を取りれた「クリティカ」、


それは会話を削ぎ落としたシンプルなもの。
合理的でスマート、まさに現代の「システム」だ。


反面ヴィーコが取り入れたのは「トピカ」、
「発見の知」と言われ、共通する「感覚」への注目である。



見れば、デカルトとヴィーコは「相補的」であって、
対立ではなく「共存」しているのが分かるだろう。



完全なる知の秩序を目指したデカルト、
そして、その「裏面」であるヴィーコ、



そんな矛盾が裏表として同一化している。
まるでルパンと銭形警部である(笑)









ヴィーコは自身の学問体系「トピカ」を絶対化していない


「どちらの方法も欠点を持つ」、
ヴィーコはこう切り出した。



トピカは虚偽を捕らえ
逆にクリティカは真を捉えようとしない。



つまりどちらも「真理っぽいもの」に近づくことしか
出来ないのであって「そのもの」を手に入れる事はできないのだ。




☞ ☞ ☞




あらゆるものは相対、逆を言えば「相補」、


現代は理論(科学)へバランスが傾きすぎている
僕が世間に問いたいのは、この「偏在」している事実だ。





2012/07/09

巫女舞い



神子神楽では処女の巫女が、神懸りするのを巫女舞と言います。
つまり太古の踊りとは、降臨の儀式でもあったんですね。


巫女が交互に旋回運動をしだすと、やがてトランス状態となり
神が憑依し、神託を得る、と。


これは神招(かみお)と呼ばれ、古事記や日本書紀では
岩戸隠れにおいてアマノウズメが同じように神懸かりして舞った、とされます。








「舞」という言葉の語源は、この巫女舞の旋回から来ていて
踊りの原点だとも言われてますね。



意識を超えた行為を無我夢中といいますが
とても類似している気がします。



肉体が精神に近づき、精神が肉体となり表面化する。
純粋経験とはそんなものでしょう。



☞ ☞ ☞



最近、この状態が天職なのかもしれないと、
個人的に思ってます。アイデアや発想も
この時に降りてくるんじゃないかな。




つまり、その仕事自体が独立して存在しているのではなく、
人の生命活動が結果としてそういった名詞となっている、と思うのです。



一見、仕事と自分が分かれているようですが、
行為が「働いている」という、労働の形を取っているだけで、



それは本来、人間の生命活動の一側面であり、
一つの存在を別の角度から眺めた結果かもしれません。




我々は、何かいい「仕事」はないかな?とか
楽で稼げる「仕事」はないかな?と探したりします。



ただ、そんなものが独立して存在してるなら
その仕事をしている人全員が同じ状態になってないといけない。



弁護士や医者が全員金持ちかと言えば、
そうではない人も意外と多いと分かります。



つまり、同じ仕事なのに結果が違うと言う事は
仕事の結果とは「自己の表現次第」だという証明じゃないでしょうか。



「儲かる仕事」は存在せず、
あるのはが夢中になった結果、儲けたと。







何度か経験したけれど、最近は経験がない。




また、その領域に達してみたい今日この頃ですな。


2012/07/08

最近のグッさん

この間、タイのコンテンツ案内が届きました。
多分、あの人経緯で来たんでしょう(笑)






後援が経済産業省の中国経済産業局みたいです。
なんで中国なんだろ?



今月と来月は予定が埋まってるので
行けないんですが、こういった場所にいくのは好きです。



こっちのビジネスを持っていくだけでなく、
向こうのビジネスも取り入れる、相互交流って大事ですよね^^



資料を見れば、タイも映像技術を積極的に取り入れ
クオリティもとても高いものがあります。
(あとスパとか)



ただ、飲食店は接客を始め、
質においても、まだこちらの方が強い。




相互の啓蒙って意味では、グローバルも
大事ですよね^^



☞ ☞



さて、現在手掛けている案件も面白く(かつ壮大に)
なってきました。




前面に出て、バーンとやるのも良いですけど、
黒子でやる楽しさは、距離感が分かってないとできません。



良い意味で手から離れて行く。
やる人はやる、やらない人はやらない。
待つ人は待ち、諦める人は諦める。



主体は相手ありき、
それをコントロールする事はできません。
そういったちょうどいい関係だからこそ、
ここって時には、濃密な場が生まれるんですね。


男は40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たなければならない
リンカーンの有名なセリフである。



この間37の誕生日を迎え、
もうすぐ40だなぁ、と思ったらなんだかゾッとしてしまった(笑)


性格は変わらないと言うけれど、
毎朝、鏡で見る自分は日々変わっていく。


否、性格もまた、変わっているのだろう、
それこそ徐々に皺が刻まれていくように。



ちなみに、顔と言うのは
自分の内側から作られるらしい。


今日はそんなところから…




imagesCAKXB0B3.jpg




日々私たちの容姿は変化する、
否、ほんの刹那の瞬間で変わることもある。



斬首刑を宣告されたマリー・アントワネットは一夜にして
頭髪が全て白髪になったというが、たぶん本当だろう。



我々はそんな経験はまず起こらないが、
痛みや苦痛の表情は誰だって経験している。



逆に嬉しい時は喜びの表情を、悲しい時は悲しみの表情。
感情と表情はまさに表裏一体である。



感情は一時的ではあるが性格はどうだろう?
個人的に人格は表情に現れると思っている。



目は口ほどに・・・・というように、
年を重ねるにつれ、容姿はその人の内面や本質を表している。



本来、人はそれが直感的に分かっていると思う。
その人の人格や生き様を多分、感覚では分かってるのではないだろうか?



だから冒頭に書いたようにゾッとする、
3年後、私は自分の顔に責任を持てるのだろうか、と(笑)



さて、偉大なる功績を残したり、天才的な才能を持った肖像画を見れば、
普通の人の容姿とは間違いなく異なっているのが分かるだろう。



特に文化や芸術分野の天才の顔、哲学者などは
その独創性からか、孤独や苦悩が昇華したような顔をしているし、



有名な経営者は人への感謝を心から知っている顔もあれば、
全ての人が自分より下だと思ってるような顔もある。



他人を信じられない、平気で裏切る顔。
正直すぎて騙される顔、信頼できる顔。



同じ顔は世界に2つとないけれど、不思議と共通する感覚知、
これは人間の無意識と意識の狭間の感覚なので表面化できる。



多分人の顔は見た目が良い、悪いといった単純なものではない。
第一印象、見た目とは外見ではない気がするのだ。




それはもっと深い所にある「フック」に何かが引っかかるようなイメージに近い。

2012/07/02

平櫛田中について

彫刻家に平櫛田中という名人がいます。
107歳まで生き、生涯作品を作り続けた芸術家です。


当時、平櫛の作品(そもそも彫刻)の依頼などなく、
何を作っても売れなかったと言います。


それでは生活がままならぬ、と言う事で
同業者を集め尋ねた先が、前回の記事にも書いた岡倉天心です。


岡倉天心の以下のようなアドバイスが
今後の平櫛田中の人生を変えます。


売れるようなものを作ろうとしているから売れないのです。



欲や自我にまみれた作品は二流である、
売れない物を作りなさい、必ず売れます。



資本主義の時代では考えられないセリフですね。
普通のコンサルなら「第一に顧客の需要を満たせ」と言われます。




☞ ☞ ☞




この言葉の意図はこうです、
売れる物を作ろうとすればすでに心が捉われている。
何とかして売ろうとすれば心は曇り、世事世俗の作品となる。




そんなものはかえって売れない。
はからいは捨てよ、捨てようとする意識さえも捨てよ、と。




高村光雲の技術指導と、そんな岡倉天心の教えを
平櫛は自己の思想に組み込み、構築しました。


それこそが、彫刻のうちに「理想」を表現するという田中芸術です。





有名な「幼児狗張子」





平櫛田中を名人たらしめたのは
こういった「師」がいたからこそではないでしょうか。




守破離の精神は茶道だけではなく、
日本流の編集文化そのものなのです。




☞ ☞



さて、芸術家と文化、ビジネスを結びつけるのは
ナンセンスだ、と思うでしょうが



現在、多くの企業が取り組んでいる「独自性」や
「クリエイティブ」な活動とは、まさにアーティスティックなもの。


無駄をそぎ落とし、極限にまで追求していけば
その製品は日本刀に代表されるような美しいフォルムの芸術作品となります。


コンサルの理論しかり、飲食しかり。
どんな業種・業態でもそういえませんか。



つまり日本流の仕事とは表現(アート)になる。



女性はフラワーアーティストやネイルアーティストなど
実に多様な分野で表現されていますよね^^




接客業であれば、お客様という観客がいて
師事する人達は演じる俳優のようなもの。



いかに観客を楽しませるか?喜びを表現できるか?
商売は究極、そこにあるんじゃないでしょうか。






2012/06/11

オーダー、フォーム、シェイプ



フランチャイズを展開するプロジェクトの事を
一般的に「FC本部構築」と言いますので、


この仕事はある意味「建築家」だと思っています。
今回はそんな建築についての小話。




☞ ☞ ☞


建築家であるルイス・カーンは建築の思想のコアに
「オーダー」・「フォーム」・「シェイプ」といった建築論があります。


オーダーとは秩序を生み出す原動力、
そしてフォームは見えない形式的な本性。


最後のシェイプとは表層的な形態を指します。


つまり建築家は形態といった視覚可能なものだけでなく、
その先にある見えない論理(フォーム)を把握する事が大事だと言う事です。


ルイス・カーンはまるで求道者のようですね、
彼の建築物は、時代の流れに抵抗する中で生まれたのかもしれません。


それは近代化や大量生産・構造主義に対する抵抗であり、
素材そのものに対する、深い審美眼じゃないでしょうか。


構成する見えない不可視そのものを対象とし、
制御しようとする意思、


それはまさに「見えない、理解できない」ものを掴むという
非線形の世界解釈でもあります。







構造設計家であるセシルバルモンドは、
非線形的構造を構造力学へと導入しました。


これは世界でも初めての試みであって、
形態生成と科学と芸術の重なり合い、


不可視の構成ルールという全く新しい創造手法です。



常識として建築とは、全て構造原理から
作られているという「構造合理主義」だったんですが、


必ずしもそうではなかったということです。
あのガウディ(僕も同じ誕生日なんですよ~)も
ゴシックの構造は合理的ではないという結論に達した結果、
あの有名な三次元逆さ吊り模型実験を行いました。


規範と多様、リゾームとツリー。
どちらかだけ選ぶのではなく、融合と言う選択肢。


そういや2026年には
未完の大聖堂「サグラダファミリア」が完成するのだとか、


300年かかると言われたのに・・・・
生きてる間に見れるなんて幸せ者です^^




☞☞



何だか分からない。
けれど、そのように感じていた。


何かしらの背景や、科学的な根拠があったとしても、
それ抜きで「良い」と思える何かがあった。

批評も考察もなく、ただ良い。


そう思えることは、大切なことです。






芸術作品の創造は必要を満たす行為ではなく、
必要を創造する行為なのだ。

ベートーヴェンが第五交響曲をを作曲するまで、
世界はそれを必要としていなかった。


今は、それなしではいられない





2012/06/05

自然とは、異なる事なり


さて、unreveでは個性を重視している反面、
守破離といった「型」のFCの継承を説いています。



矛盾しているようですが、そもそも個性とは
「100%の独自」ではない。




人間の遺伝子の約93%は全く同じです。
よって、共通する遺伝子の組換えが起こっても
それを受け継いだ遺伝子には何ら変化はありません。




残りの7%が大事なのです。
この「僅か7%」の違いこそが、多様な個性を生んでいる。




ちなみに、その異なる遺伝子の数は7千個以上と言います。
よって、その組み合わせの累計は2の7千乗。



すごくないですか?



だって「2の100乗」でも、
126穣、7650杼、6002垓、2823京、8993兆、375億、6641万、
752パターンあるんですから(笑)






2012/06/04

金閣寺

眠れないので、
久々に三島由紀夫の金閣寺を開いてみた。


金閣寺 (新潮文庫)/新潮社
¥637
Amazon.co.jp

吃音(どもり)である、主人公の溝口少年は、
世界において、己が己であるために「隔離」が必要であった。
逆説的だが、絶対的な存在証明が「世界との断絶」、というわけだ。


自己の意思や感情の表現がうまくできない溝口は、
内に閉じこもり、人から愛されなかった。


溝口は世間と融和することができない(と信じてる)。
そんな劣等感と虚栄心、そして多層的なニヒリズム。



まさに三島文学、というべきだろう。


☞ ☞


普通、誰しも世界との距離を感じれば、
なにかしらその(世間)距離感を補正しようと試みる。


なぜなら(形式こそ違えど)我々にはある種の
帰属意識、共同体の一員だという存在証明が必要なのだ。



しかし彼は放棄した。
否、吃音によって放棄せざるを得なかったのだ。
これは最低限の手段の喪失によるものである。



これを見ると、会話というものが
いかに有効な接続手段であるという事が、よく分かる。



そこから、世界に認められないこと自体が、
彼のレーゾン・デートル(存在証明)になったのだ。
ただ、その確信は永遠的な支えにはならない。



なぜなら、彼は特別な人間ではないのだから。



☞ ☞

「この世界を変貌させるの認識だ」という友人に対し
「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反論する溝口、


そして、絶対的な美とされる金閣寺を放火することで、
彼は生きることを決める。


つまりこの物語の溝口は三島であり、
金閣寺や母親とは彼にとっての絶望と希望のシンボルではないだろうか。



絶対的な美(金閣寺)の対極にある、
不治の希望を持つ醜悪な母親とは、「世間」を投影したものである。



この2つは溝口の自己存在の源泉だ。
産んだ母親はこの世界、そして金閣寺とは日本の魂の美意識。



主人公である溝口は、過去の三島そのものなのだ。



溝口が金閣寺を愛するように、
三島は根底にある「日本の魂」を愛していた。



金閣寺に火を付けて得た「生」とは永遠の面影である。
これは多義的、実に多義的な物語なのだ。



読み終わった後にくる、この何とも言えない
哀愁と悲壮感の入り混じった感覚を何倍も希釈すれば、



現代の政治を見て感じるものと、似たようなものかもしれない。



☞ ☞



本であれ、器であれ、思想であれ、
本物と呼ばれるものには、ある共通点がある。



それは、ある固有性が軸にありながらも、
多層的なレイヤーを内包しているというものだ。



そんな薄皮を一枚一枚剥がして行くと
巨大なものが顔を出す。



故に、そういった作品を安易に批判したり、
認めたりする評論家たちを見ると、僕は違和感を覚えてしまう。




これは人生にも当てはまるかもしれない。
もうそろそろ変わる気がするが。