離れた場所にあっても相互に絡み合い、影響し合っているという性質のこと。
非局所的な応答が起きるということは、
喩えて言うならば、ゴムひもの1点に力を加えると
他の全ての点に変形が起きる、というようなものである
我々の本質は突き詰めると非局在的な存在であり、
本来は物理次元の制限を受けない存在なのではないか?
今回はそんな小話
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キアスムという概念がある。
提唱者はモーリス・メルロ・ポンティ。
西田のように主体と客体を超えようとした現象学者であり、
生涯、関係性(関係化)について考えた哲学者である。
日本では中沢新一氏がキアスムを「交差」と定義し、
以下のように説明している。
社会というものはどこでも、具体的な人間の心のつながりでできている。
社会のなかの個人は、程度の違いはあっても、けっして孤立して存在していない。
さまざまな回路をとおして、人間同士の心のつながりを維持しようという方向に、
社会は働きをおこなおうとする。つまり、人間同士を分解するのではなく、
結びつける作用が、社会には内在しているのである。
このような社会の本質を交差(キアスム)構造としてとらえることができる
それは多様な人格の交差した状態である。
私の心とあなたの心には、何らかのつながりが発生している状態があるというのだ。
これすなわち「縁」だろう。
異なる対象でも根源的なところでは共通、交差する点がある、と。
この交差点が無数の人との「関係性=縁」によって
複雑に絡み合っているのだ。
この縁とは昔からある概念、
縁結び、縁切り、縁日は新道である神社の行事。
縁は糸で「結」ばれるという、
この「結」という字は糸偏に吉と書くが、
良縁を頂いているからこそ結ばれ、
結ばれた縁が「結果」へ繋がるのだ。
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キアスムの交換はモノやサービスだけでなく、
提供者のつながり(縁)も一緒に手渡されると言う。
その要素が組み込まれた交換だけが、
贈与という性質を持っているのだ。
例えば「形見」が贈与的特性を持っているのは、まさにその媒体によって心が交差するからだろう。
結ばれた縁が「結果」へ繋がるのだ。
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キアスムの交換はモノやサービスだけでなく、
提供者のつながり(縁)も一緒に手渡されると言う。
その要素が組み込まれた交換だけが、
贈与という性質を持っているのだ。
例えば「形見」が贈与的特性を持っているのは、まさにその媒体によって心が交差するからだろう。
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経済にやがて贈与的な原理が甦るだろう、と多くの専門家が言っている。
つまりそれは人間関係性の積極的な「回復」への希求である。
それについて私は多少(悪縁切り難しのように)懐疑的だが、
101匹目のサルが芋を洗いだしたように、キアスムは交差だけでなく同調するかもしれない。
ハイデガーが「ツハンデネス」と呼ぶ、
根っこの部分である見えない本質は
我々の目に見える関係性(フォルハンデネス)の認識によってあぶりだされる。
まるでイーゼンハイムの祭壇画のように
神聖さを神聖らしく表現するのではなく、
人間存在の絶望的な醜悪さが極限で示されることで
本質的な「神聖さ」が発光するという、「顛倒の真理」。
対立している対象が、飽和となり、豊穣よってに崩れていくとき、
同時にその反対物が浮かび上がってくるのだ。
やがて我々は無の本質をあぶりだす為、回帰し、経験するのだろう。
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