文豪
夏目漱石は西洋文明である
個(自我)と日本の文化を
両立させることに生涯を費やし、
晩年は「則天去私」の思想へと辿り着きます。
「天に則り私を去る」、と。
まさに無我の領域と言えるでしょう。
つまり最後は日本流へ回帰したわけです。
そんな漱石は胃潰瘍になり49歳と言う
若さで亡くなってしまいます。今でこそ
簡単に治療できるのですが、当時は生き死にの問題だったんですね。
「あぁ苦しい、死にたくない、今は死にたくない」。
大量出血した漱石は死ぬ間際
こう叫んだと言います。
一見「いくら則天去私と言っても
やはり死ぬのは怖いのだな」と思うでしょうが、
遡れば臨済宗の
一休宗純や禅僧である仙厓も
最期は同じことを言ってます。
死ぬ間際、最後の言葉を聞く為
多くの弟子が集まってくると
仙厓和尚もまた、こうつぶやきました。
「死にとうない・・・死にとうない」。
それを聞いて弟子たちは驚きます。
あれほどの高僧が最後に出す言葉が
まるで現世へ執着しているようではないか、と。
そこで弟子たちはきっと深い意味があるに
違いないと思い、その真意を聞くと仙厓は
続けてこう言います。
「ほんまに、ほんまに・・・」。
さて皆さんどうでしょう。
彼らの最後に出す辞世の言葉は
単なる死への恐怖だけだったのでしょうか。
僕はそう思いません。彼らは生を愛せよ、
生きること以上の価値などないぞ、と
身を以て伝えているのだと思うのです。
故に漱石が出した言葉もまた「死にたくない」。
そうじゃないですか。
一般人からすればの長年修行を積んだ人なら
死ぬ間際でも何も恐れず潔く死ねるイメージが
あるでしょうが、そうじゃない。
誰だって悔やみ、惜しむものなんです。
だから僕はこう思うんです。当たり前に
生きてるこの事実こそ最大の幸福であって
それは当たり前すぎてわからないもの。
しかし一度でも生命が失われそうに
なった時、我々はそのことを強烈に
思い出すのだ、と。
以前書いたように、古来の日本人は
パッと咲いて潔く散るような生き方は望んでません。
多分に「生命とは何か」と言った哲学的な
問いにも興味なかったでしょう。
それよりも獲得した生命に宿っているものの
発見が重要だったんじゃないかしらん。
そして、いつしかそれが
宿命と呼ばれるようになった、と。
僕はそう思います。
「後記」
余談ですが漱石の最期の小説「こころ」では
自意識がテーマとなってます。
当時は近代自我が歓迎されていたので
極端な人も多かったのかもしれませんね。
漱石はそんな自意識を作品で「露悪家」と
「偽善家」で表現しましたが、
今の個人主義社会と非常に似ていますね。
エゴ丸出しの「わたし」で生きていくと
どんどん他人から嫌われてくるので
やがて相手のことを考えるようになる。
しかしそれが偽善のように感じられてきて、
まるで自分が自分に対し嘘を付いているように
思えてくる、と。
その葛藤から「やっぱり自分の気持ちに
正直でいた方が良いのだ!」という答えを作り出す。
そんな損得感情が漱石の言う
「露悪家」と「偽善家」です。
しかしそれは同じ輪の中であって
どっちもどっちだよ、と。
うちでいう前提(根幹)違いですね。
これ全て「計算」による偽物のこころ。
生命主義者の言うそれとは違うのです。