「場の空気」が読めることを心理学では
社会的知能(ソーシャル・インテリジェンス)
と呼びます。なるほど、言い得て妙ですね。
ちなみに山本七平や丸山眞男はこういった
「場の空気」について考えました。日本人が
集団で何かを決定するとき、その決定に強く
関与するのは、提案の論理性でも、基礎づけの明証性でもなく、その場の「空気」である、と定義したのです。
~言うまでもないが、元来、何かを追求するといった根気のいる持続的・分析的な作業は、空気の醸成で推進・持続・完成できず、空気に支配されず、それから独立し得てはじめて可能なはずである。従って、本当に持続的・分析的追求を行なおうとすれば、空気に拘束されたり、空気の決定に左右されたりすることは障害になるだけである。持続的・分析的追求は、その対象が何であれ、それを自己の通常性に組み込み、追求自体を自己の通常性に化することによって、はじめて拘束を脱して自由発想の確保・持続が可能になる。空気で拘束しておいて追求せよと言うこと、いわば「拘束・追求」を一体化できると考えること自体が一つの矛盾である。これを矛盾と感じない間は、何事に対しても自由な発想に基づく追求は不可能である~
「空気の研究」より
空気を一種の不可抗力、言い訳のように使って
しまいがちですが、それを免罪符にしちゃダメですよね。