2018/05/31

自炊のすゝめ㉗



塩麹のトンテキで一盃。
柚子胡椒のレンコンは別府のお土産です。





麹の旨みが良い感じです♪



2018/05/30

ベジタリアンな夕食


式の打ち合わせの後、
とあるレストランで夕食。






ただ、週末だからか40分経っても
サラダから先が来ないという(´-`).。oO


次に行くところがあったので
仕方なく会計。するとマネージャさんが
飛んで来て謝罪&割引してくれました。


こちらこそスイマセンね。
次回はゆっくりお邪魔します(´-`).。oO






2018/05/29

自炊のすゝめ㉕



好物のサバの味噌煮で一盃。




最近やっと箸置きを買ったんですが、



実に普通ですね(笑)



2018/05/21

広島にて



イン東広島。
酒蔵で有名な西条に来ました。






赤い夕焼けが出る頃に到着。
昼間と違って肌寒いですね(°_°)






西条周辺のホテルが全て満席だったので
エリアワンへ。







ここもダブルしか取れなかったので
一人で二つのベッドを使うことに(笑)







まあ、水曜まで滞在予定なんでいっか。


2018/05/18

目的か手段か。



理念とは永遠に続く螺旋状の性質
を持つと言うのがunreveの定義、
「現実世界で達成できないものを
設定するなんてナンセンス」と言う人も
いるでしょうが理念と目標は同じではありません。
目標はあくまでも理念の途中経過に位置するものです。



目的と手段が入れ違うように、
理念と目的も混同されやすいのです。
てなわけで今日は目的と手段のお話し。






さて上記のようなことが起こる原因は
目的と手段の相対的な関係にあります。
以前の目的は手段になる時があるということです。


例えば学生の時に良い成績を取ることは
「目的」です。そのための手段として公式を
覚えたり歴史の年号を覚えたりしますよね。
しかし卒業するあたりから良い成績を
取るという目的は希望の就職先に受かる
「手段」になります。このように目標は
相対的に入れ替わるのです。



結婚だってそうですよね、
ゴール(目標)じゃない(笑)
知識を得ること然り、目的じゃないのです。







目的「もしかして」 

手段「わたしたち」 

目的・手段「入れ替わってるー⁈」
(二回目)




閑話休題。
ちなみによく聞く「目標疲れ」とは
手段が目的化されたことによる
負のスパイラルのことを指します。


例えば起業コンサルはよく年収(年商?)
1000万円を目指そうと言いますが
あれってまさに手段の目的化なんですね。


(最初のモチベーションとして必要かも
しれませんが)であればその目標として
設定された金額(利益)が一体何に繋がっているのかを明確にしないといけません。



数値が目的になってしまうのはノルマです。
「達成できたか、否か」が意味となって
しまえば次はもっと高く、それを達成したら
もっと上を・・を繰り返すだけ。それが
上記の目標疲れ(燃え尽き症候群)なのです。


よって目標には意味を与え目的(理念)に
昇華させることが必要です。数値目標なら
他人から与えられることも与えることも
できますが、意味(目的)だけは自分で見出すしかない。


これはビジネスだけでなく私生活も同様ですね。




「後記」

現在この国は民主主義(平等)国家ですが
それもまた統治手段の一形態であると思ってます。
目的でもなければ目標でもない。


故に今よりも上手く国家が回る方法があれば
民主主義に拘らなくとも良いんじゃないかしらん。


失礼、ちと過激な発言でしたか(笑)



2018/05/17

基礎のない応用は我流にすぎず



この日は煮物と手羽の唐揚げで一盃。





今でこそ料理イロハがわかるんですが
昔はデタラメな作り方でした。


自分では「独創的だ」と思ってたんですが
他人に喰わせると不味いの一言(笑)


センスやオリジナリティはもちろん
大事だけどそれは基本あってこそですね。
基礎の出来ない人が応用をやるのは我流、
それじゃ解けないよと昔の上司から
言われたんですがこの年になるとよく分かりますね。


素材がいくら素晴らしくても
味噌とマヨネーズでカレーは作れない。
つまりそう言うことでしょう。




見れば昨今は基礎を蔑ろにした大人達が
若者に好きなように生きろと我流のすヽめ
を説いてますが、基礎を知らない個人主義は
惰性や動物的本能へと志向するのは必然、


それはユニークではなくデジェネーション。
個人的にそう思ってます。





2018/05/05

子供のためのネット教育について


精神衛生上の理由から最近まで
ネットを見てませんでした。
今はデマやフェイク、そしてトンデモ主張が多い。


あとSNS内の誹謗中傷ね。
見てるだけで疲れてくるのは
僕だけじゃないでしょう。
クレバーなリベラル系ってネットには
たくさんいるんだろうけど彼らの大半は
無視しますからね。
(まあそれが一番賢いやり方なんでしょうが)



ただ、これを真に受ける若者たちが
増え続けるのをおじさんは黙って見れないのですよ。
今日は子どもの日だし、タイミングも良いじゃないですか(笑)


「子供にネットを与えるな」は暴論。
そして学問は自由。何を学んでも良い。


大事なのは疑う力、つまり「嘘」を見抜く能力ではないかな、と。





研究ごっこのパラドクスでは
古今東西、冒頭のような現象の
根っこが同じであることを説明しています。
ちなみにこれ読めばこの先見る必要ないです(笑)


最近の自己啓発やスピリチュアル
業界にそのまま当てはまりますね。
自分こそ本物だ、これが新しい常識だと
声高に主張することで今までの社会に対し
ルサンチマンを抱いている人々の溜飲を下げ、共鳴させる、と。


彼らにとって主張=集客(儲け)。
真実よりも利益が大事なんですね。


むろんバカの壁よろしくこういった状態で
良識ある対話空間など保つことができない。
自説を否定したら彼らのアイデンティティ、
つまり利益が消えちゃうわけですから
悪いことは悪い、間違いは間違いという
当たり前の認識ができなくなってしまうんです。


学生諸君、彼らの発言には気を付けましょうね。
特に「何かを極端に擁護(愛)している人」には。



「後記」


このブログで何度も書いてますが対話が
成立するには「前提(根幹)の共有」が必須です。


上記のサイトにも書いてますが愛煙家と
嫌煙家が「喫煙の楽しみ」をいくら議論しても
「タバコを吸うこと自体」が共有されてないので
水掛け論になるだけということ。故に真実を
検証する対話には「根拠や証拠」が前提条件となるのです。