2013/10/14

神の天秤、人は限度を知らず



最近ようやく国家の品格を呼んだのですが
非常に極端な意見のように感じました。


確かに日本は情緒の国ではありますが
それだけと言う訳ではなく能の伝承(花伝書)など、
論理体系化されたものがたくさんあります。


例えば禅宗は不立文字、教義的ではありませんが、
禅問答は言語体系化されているように。



それと同様、近代は論理一辺倒で人間的な
感情を抑えるような理不尽な扱いをされていましたが、
偏ったバランスは「どちらにせよ」自然に、
中空均衡(ゆりもどし)の原理が働くのであって、


感情側が同じように理不尽な感情面を
正当化するのであれば同じ穴のなんとやら、でしょう。


つまり極へ向かえば毒となる、と。


坂口安吾はそれを見抜き、看破しました。
綺麗事を言い過ぎるお前らは結局のところ
美名・美徳に隠れ、特別な存在だと
思いたがってるだけじゃないか、と。


なるほど、言い得て妙です。
まあ氏の選んだ生き方は僕にはできませんがね。


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思考のない感情(直感)だけでは動物的衝動であって、
感情のない思考(論理)では機械と同じです。


それらは常に主導権を争っている。


故に、だからこそ、
我々人間は悩む事を永遠に止めないのですが、
本来の主導権は「時と場合」で変わるもの、


そんな移り行く「時と場合」を貫く学問が
平和な秩序で支えられることは間違いないでしょうね。



原子バクダンを発見するのは
学問じゃないのです。子供の遊びです。

これをコントロールし、適度に利用し、
戦争などせず、平和な秩序を考え、
そういう限度を発見するのが、学問なんです。  


自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。
はじめからまず、限度を知っていることが必要なのだ。


2013/10/08

幾何学的なナニカ



ピタゴラスが発見した三平方の定理のように
幾何学には少数の公理形から
全てを演繹するような合理的精神がある。



アテネにアカデメイアを創設したプラトンは、
神々が人間の魂の中に幾何学のイメージとして現れるとされ、
実際に神々を図形で表していたようだ。



プラトンは図形と言わず「イデア」と呼んでいた。
イデアとは真理であるが、もともとは「見られるもの」からきている。



つまりイデアとは「姿」や「形」を意味する。
見えないものを「見られるもの」として図形に示したのだ。








プラトンやピタゴラスが神秘的な対称性に
感動したもの、それが正立体である。



すべての面が同一の正多角形から
できている立体を正立体であるが、



調べれば世界には正立体が正四面体、
正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の
合計五つしかない。



ケプラーは惑星が六しかないのは
惑星を含んだ各天球殻の間に五の正立体が
入るからだという抽象的(ある種幻想的)な結論を立てた。



ケプラーは神と宇宙とが関わる
デザインをそこに見出したのだろうが、
現在においても神の尻尾は未だに掴めていない。



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余談だが、プトレマイオス1世はユークリッド原論で
有名なユークリッドから幾何学を学んでいた際、
「もっと簡単に学ぶ方法はないのか」と訪ねた。




そこでユークリッドは「幾何学に王道なし」と答えた、
ここから「学問に王道なし」といった言葉が生まれたようだ。



プラトンが作ったアカメデイアの入り口には
「幾何学を知らぬ者くぐるべからず」と書かれていた。




王道(近道)はなく、幾何学を知らないと
学ぶ資格すら無い、と。




狭き門である。
しかし、真理探究にはそんな面もあるのかもしれない。



2013/10/07

原理衝突と窶し(やつし)

男性原理と女性原理のような異なる二項は
あらゆる分野においてその派生・構造が違います。


芸術分野ではバロック芸術がそれに近いでしょう。
ルネサンス期、秩序と運動の矛盾を超越しようとする運動がありました。



ルネサンス芸術が「永遠(常)」であるならば、
バロックとは「変化(無常)」という、アンチテーゼ。



バロック、ゴシック建築などを見れば、
それがよく分かります。







当時は、ヨーロッパでは宗教戦争の対立闘争が起こり、
国家や社会が分裂していました。



そんな混乱の中、頑強な秩序構造に対抗しながら調和するという
独特な心情的表現を現したのが「バロック」。



この2つを対比すれば、動的で変化する人間の感情と、
静的で固定する理性と秩序の激しいせめぎ合いが分かります、
これも原理同士衝突ですね。



ただ、バロックは二項同体に向かっているようでもあります。
バロック芸術は美しいのはこの為でしょう。



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男性原理は「作る」、女性原理は「生む」。
インフォーマルが馴染みやすいのはそんな理由からかもしれません。



ただ、男性原理が秩序・構造主義ではあるけれど
それ(秩序)を解体する動きも起きています。



例えば江戸の町人文化である「窶し(やつし)」。
この概念は実に深く、面白いものです。



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窶しとは、高貴な身分の人物が
あえて落ちぶれた様子を演じることで重層性や伝承性を高めるもの。


小野小町が江戸の娘に姿を変えるのも、
水戸黄門の水戸光圀が町人として旅をするのも「窶し」です。



裸の大将も、星の王子様NYに行くも、
ハウルの動く城もそう。


つまり窶しとはそのギャップによって
記憶に残すという工夫と言えますね。



現代で言えば、北野武氏は「窶し」。
「フォーマル」をあえて崩すという芸風だと感じています。



国際的に活躍する監督であり、
下町育ちのお笑い芸人でもある。



つまり「窶しにより固定観念を俗化させる」、
これは堅い言葉で書くと「転換による認識操作」でしょう。



高貴で近寄りがたいものを身近な「俗」にする行為、
かの石川淳は江戸の庶民にはそんな才能があった、と言います。



俗化する(固定観念を操作する)とは柔軟に捉えると言う事。
確固とした秩序に対立するものでなく「調和」に近い、



これは「ガチガチの秩序なんてやってらんないよ」という、
ちょっとした大衆の抵抗なのかもしれません。

今のお笑いはそこまで深くない、
芸風が、まるで「意図的な」大量生産のようです。


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マルチチュード である我々は
外圧的な強制力である秩序を嫌います。



教育のシステムが行き過ぎたからこそ
草の根運動であるオルタナティブが生まれ、



経済システムが行き過ぎているからこそ
ノマドが生まれる、これは必然の流れかもしれません。




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近代、西洋の文化が流入することで
理性(論理)と精神性(慣性)の原理衝突が
この国に起こり、西洋原理が優勢になっていました。



しかし今はそうじゃない、
どうも揺り戻しが起こってる。



リゾーム派生のフランチャイズはそれを見越したもの、
バロック的ともいえる「秩序との調和」です。



反対勢力では意味がありません。
リゾームとは役割を理解し、「同時に存在させる」事。



無法地帯でもカオスでも野放図でもない、
言わば「良い所どり」なんですよ^^