現在の経済下で起きている大きな潮流とは「解体と統合」である。
大手を始め、この流れが加速している。
解体とはリストラだけでなく価値の提供システムの機能解体である。
つまり、新しい価値を提供する為に、外部組織と再構築する事だ。
端的に書けばそれは関係性ともいえる。
関係性のベースとなるのは顧客へ「何を提供するか」が共通言語としてなくてはいけない。
この認識なくして解体も結合も成り立たない。
分散型で機能する組織を作ること、いわゆる相似的なアメーバではないだろうか。
各自が独立した機関として繋がる、それは一枚岩ではなく、何重もの層で構成されているようだ。
この分散型組織にとって重要なことは、外部との調和である。
なぜなら自律分散型は、それ自体では提供する価値に限界がある。
よって従来タイプであるヒエラルキー型の組織ではない。
私は従来とは違うその組織を、リゾーム型と呼んでいる。
これは観念・概念的特質から、定型がない。
よって体系化できないというイメージから理想論だと思われがちだ。
しかし本質はここにある。
今回はこの分散型の集団で成功している例をご紹介しよう。
それは指揮者のいないオーケストラとして有名な
「オルフェウス室内管弦楽団」である。
1972年にアメリカで創設され、「音楽界の奇跡」と呼ばれている。
奇跡と書かれると何だか例外みたいに扱われそうだが(笑)
ただ、この例は組織を運営する手法としても経済界でも注目されている、
楽団の名前を取って「オルフェウス・プロセス」と呼ばれている。
日本にもオルフェスと同じ指揮者がいない楽団がある。
東京アカデミーオーケストラ、「TAO(タオ)」である。
これら2つの楽団の共通点は実に興味深い。
なぜなら私のリゾームと(ほぼ)変わらないプロセスだからだ。
それは「リーダー不在」ではない。
むしろどの組織よりもリーダーが多いのである。
例えば対話、指揮者がいない為、全てを全員で話し合っている。
これは私の言う「対話と共創」である。
当初、タオは発言する人としない人が決まっていたらしい。
自分の演奏を棚に上げて他人に意見することに、ためらう人が多かったそうだ。
納得、実に日本的である。
この空気感による役割と責任の押し付けは日本ならではだ。
船頭は一人で言い、この罪的側面が組織では当たり前であった。
そこでタオは演奏だけでなく、運営も入れた表裏両面のマネジメントをそれぞれが担わないと、
結果は伴わないということを体験的に知ったのだ。
それは「同じ景色が見えているかどうか」、それに尽きる。
例えば全員で絵を描くとしよう。それには全員が全体像(完成図)を知らないと何もできない。
自分の与えられた部分だけ塗っても何を作っているのか分からない。
絵なのか、ただの落書きなのかの区別すら付かないだろう。
そこで対話によって共有する部分を増やしたのだ。
泥臭いが王道なしである。
その結果うまくいったか?と言えば、答えはNOであった。
曲の全体像はわかっていても、テンポやコントラストなどの
方向性は共有できない、それは実際に合わせていく過程で分かったという。
結果、始めにそれぞれが思っていたのと違う絵になったのだ。
このプロセスは私も体験している、実にもどかしいし、正直めんどくさい。
しかしタオのメンバーはそれを「そこが面白い」というのだ。
言わばここが文化と経済の決定的な違いである。
ビジネスに置いて、ここは面白さではなく「リスク」なのだ。
しかし、各自が自立した状態で協働すれば、考え方や意見の違いはつきものだ。
それを曖昧にせず、意見を伝え合うことが大切なのだ。
私はそれを「場の創造」と呼んでいる。
見えないし体系化できない「場と空気」、これをデザインする為、
私は哲学を用いているのだ。
さて、次にオルフェウス・プロセスの定義を見てみよう。
ここでは道徳的な「外律」を用いている。
オルフェウス・プロセスの8原則
(1)その仕事をしている人に権限を持たせる
(2)自己責任を負わせる
(3)役割を明確にする
(4)リーダーシップを固定させない
(5)平等なチームワークを育てる
(6)話の聞き方、話し方を学ぶ
(7)コンセンサスを形成する
(8)職務にひたむきに献身する
批判ではないが、経済学という「手法」で体系化すればこうなってしまう。
「在り方」を「やり方」にしてしまうのだ。
権限・責任・役割・変動(固定しないことから)
そして平等・対話・一致(コンセンサス)献身。
これは内部と外部の混合された状態だというのが分かるだろう。
さらに自立と自律ができないと、机上の空論である。
これを帰納法にはできない、責任と権限と役割が伴う以上、
自由ではないし、無私でもない。
これをどこでも使えるようにシンプルに編集する、
これがunreveの意義であり私が回帰した結論でもある。
私がなぜ、教育だけでなくビジネスにも多様性を追及しているのかは、
本質が多様を前提とした統一、西田氏の言う「絶対矛盾的自己同一」から来ている。
生命物理学、清水博氏の著書「生命知としての場の論理」内には
「場の情報は場所を超越的観点から見たときに、自己の中に生成する情報だ」とされている。
超越と聞けば首をかしげるが、つまり質のことである。
量から質へのシフトなのだ。
ただ、これに異論がある人もいるだろう、
「そんなの、結局仕事ができる少数精鋭の集団じゃないか」と。
つまり全員の能力が平均して高いからこそ、実現するのだと言いたいのだろう。
しかし私はこれに異を唱える、そんな単純なものではない。
能力がバラバラである事は、質の悪いリンゴの集まりではない。
リンゴだけでなく、ブドウやミカンやパイナップルの集まりとして捉えるのだ。
現在の人材マネジメントを見れば成果を出すために特化した「足し算教育」である。
リーダーやエリートの育成にばかり目が行き、成果重視である。
それを否定しない、否定しないが積極的に肯定もしない。
意見がないのではなく、それを編集し、日本に馴染ませるのが正しいのだ。
なぜなら我々日本人の多くは強引なことに弱い。
押し付けや強引さは窮屈に感じてしまい、どこか引いてしまう気持ちがあるだろう。
それはこれが我々の特質だからである。
されたら否定するはずが、現在は肯定的態度になっている。
この矛盾点に気づかなくてはいけない。
松岡氏には積極的な引き算という概念がある。
合理主義者の目から見れば、すぐにでも排除すべきものであるが、
その無駄があることで、モノ・コトとしてのありようが安定性、強靭性をそなえるものという定義である。
車のハンドルの「あそび」のように、引くことで本来導き出したいことをより引き出す。
私はこの意見に大いに賛同する。
当然、「あそび」は行き過ぎれば文字通りの「遊び」となる
映画「釣りバカ日誌」みたいにはいかない(笑)
だからこその編集作業だと思い、
私はsv不要、つまり「指揮者不在」というカリキュラムを作っているのである。
それは日本の美徳である。格差はあるが、差あるものを切り捨てない。
それを社会や集団という組織に組み入れていく、という寛容さがある。
現在それは競争原理の為、格差があらわになっている。
原因は男性原理である体制主義や保守、利己的なヒエラルキー構造だからだ。
ひとごと目線では誰もが「なあなあ主義」となる。
それは無縁社会で起こっている解体のような気がする。
解体と統合について書いてたら、いつものようにまとまらなくなってしまった。
言語化とはそんなものだ(笑)