unreveは対話による「場の形成」を提唱してますが、
それは対話する「言葉の内容」が大事なのではありません。
大事なのはメールや伝達文書や電話ではなく
お互いがその場にいる事で発生する空気感。
こう書くとなんだか非現実的な感じですが
逆ではこれは生まれないのです。
(生まれない、というかネガティブ・フィードバックになる)
例えばネット、距離が離れた相手が
文字だけで空気感が生まれる事は、まずありません。
賛同者なら集まるでしょう、ただそれは各自が持つ
それぞれの価値観と一致しただけのこと。
例えば、この国でもFBによってデモが起きているけれど
それは個の集約ではなく、集団からの派生です。
今日はそんなリゾーム派生「場と対話」について。
ヤン・シュヴァンクマイエルの作品
さて、言語化とはその性質上、どうしても相対、二分されます。
例えばある対象「A」を言葉によって名づけた、とします。
対象は名詞(太郎)でも良いし、形容詞(楽しい)でも何でもいい。
それを名付けた(言語化した)時点で、世界には
必然的に「A」の他に、「NOT A」が生まれます。
「太郎」を名付ければ、それ以外は「太郎ではない」、
「楽しい」は「楽しくない」がセットです。
よって「正しい」を叫べば、必然的に「正しくない(間違ってる)」
が派生し、それが違いとしてではなく「悪」に転じます。
よって自己が正当化されると、その対極には
敵(NOT 自己)がいるのはこの言語世界の原理なのです。
そしてこれこそ、人が対立する根っこであり、核心。
我々は言語から支配されているのです。
☞ ☞
例えば、原理主義は「絶対」を生み出します。
しかし、歴史上それが万人に認められた試しはありません。
理由は上記を見れば明らかです。
この罠に陥らない為には、まず多元的・両義的にすることです。
ざっくりとした分け方では二項対立するだけ、
お金だって「必要」と「不要」に分けたら、おかしな対立となります。
必要だけど、それほど必要ではない。
そんな「最適」の状態は自分しか分かりません。
よってできるだけ多くの状況を想定し、
それら関係性が複雑に結びついている事を、まず知ることです。
そうすると、言葉(言語)というものが
ある種の「ネットワーク形態」を持ちだします。
この状態が、ご存じ「リゾーム派生」です。
その為に様々なニュアンスを用いる
そのネットワークの結節点や揺らぎの部分に、
自分にとって、最適な思考やあり方が見えてきます。
「私はこの部分は賛成だけど、ここは違うな」とか。
それを発見するプロセスが「会話」であって、
それを他者が理解することが「場」の役割なのです。
あるでもない、ないでもない。
白でもない、黒でもない。
当然、最初は朧であり、曖昧模糊としたものです。
ただ、それが圧縮していくと、自然に法則性が出てきます。
これが「大体の志向性」を持つことで
その場にいた全員が「最適な立ち位置」によって
抑圧なく、足並みがそろうこと。
これをunreveでは「自己組織化」と呼びます。
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