先月から今月にかけて、
あっという間に時間が過ぎてしまった。
約一か月であちこちお邪魔させて
頂いたからだろう、
広島、富山、新潟、愛知、京都、神奈川、
そして大阪である。
ふと思えば日本全国、
行っていない場所は片手に収まるようになった。
元来、放浪癖があるため
色んな場所に行くことは楽しみなのだが、
それは自分の居場所があってこそ、
外へ向かうのは内の世界が安定しているからこそ、
生活の臭いがある自分の部屋に帰ってくると、
高級なホテルより、やっぱりホッとするものだ。
今日はそんな所から。
☞☞☞
いくら高層ビルを無数に作ったとしても
それだけでは、全く面白みに欠ける。
大阪でも、名古屋でも、東京でも、
シンボリックな建造物があるのだが、
一度見れば飽きてしまうものだ、
我々がそこへ向かいたいと思う動機、
それは「俗的」なものであり、有機的な状態である。
それによって都会の先進的なものがさらに
「活気」を持つ、このコントラストに惹かれるのだろう。
例えば大阪あたりの路地裏を
ちょっと歩けば、途端にリアルな生活が見える。
自由で何も計画されていない、
そんな自然派生的な場所は淫靡な魅力があるのだ。
本能的な俗的魅惑と、理性への憧れ。
それらが混然一体としながら、街は作られている。
☞
チェーン店や設計された施設などは雅、
言わば「計画的に設計された景色」。
雅は俗の対立概念として俗を拒絶する。
その結果「独自の個性」を奪ってしまう。
生活の匂いを消してしまう。
僕はそんな同質的な街は嫌だ。
故にガウディは、それに対抗するのではなく、
なるほど、雅と俗がせめぎ合いながら
同居することで、有機的な「聖なる対象」は生み出される。
そんな内部の統合は誰もが持っている、
僕はそう思う。
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