今の理解は所詮、今。
永遠に続くような答えというのは
存在しないのかもしれませんね。
苟に日に新たに、日日に新たに、又た日に新たなり。
大学の中でも特に有名な一説、
本居さんや小林さんもよく使ってましたな。
いつも自分自身であるとは、自分自身を
日に新たにしようとする間断のない
倫理的意思の結果であり、告白とは
そういう内的作業の殆ど動機そのものの
表現であって自己存在と自己認識との
間の巧妙な或いは拙劣な取引の写し絵ではない。
ーゴッホの手紙より引用ー
やれやれ(゜゜)論破できねーな。
今吸ってる息は今吐き出す為の息であるように、
今の悟りもまた、今の悟りに過ぎないのでしょう。
一回大きく息を吸って、さあこれで私は
世界の仕組みが、理がわかったぞ、と
したり顔で叫んだとしても、その息は
やがて吐き出さなくてはならない。
世界の仕組みが、理がわかったぞ、と
したり顔で叫んだとしても、その息は
やがて吐き出さなくてはならない。
そんな繰り返される連続性の中に
以前は見えなかったものが見えることもあるでしょう。
生きるとはナマモノ。
そして生物とは螺旋を描く動的な存在。
その原理や構造など誰も知るよしもないけれど
今の呼気は今の吸気だけのためであるのは
言うまでもありませんね。
言うまでもありませんね。
✍
確かに毎日毎秒休みなく呼吸を
しないと生きれないと「頭で考えたら」
それはそれは大変そうに感じるでしょう。
でも実際は赤子でもやっていますよね。
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