古来、市場は「市庭」が語源であり、
以前の場は「庭」と書いていました。
道と道が交差するのを「辻」とも言い、
市場は、どちらのものでもない辻でも行われたのです。
それは隙間であり、空間であり誰もものでもないもの。
しかしその無である「空間」が有を作るのでしょう。
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ちなみに脳内で情報を伝達するニューロン同士も
繋がっているのではなく、そこには「隙間」があります。
それをシナプス間隙といい、隙間を超えて
伝達する物質を神経伝達物質と言います。
つまりそこでも「辻」や「庭」のように
交流が行わているんですね。
それによって伝わり方は微妙に変換される、と。
これは、我々がそれぞれ異なる感覚や思考を
持ってしまう理由でもあるのですが、
繋がっているのではなく、そこには「隙間」があります。
それをシナプス間隙といい、隙間を超えて
伝達する物質を神経伝達物質と言います。
つまりそこでも「辻」や「庭」のように
交流が行わているんですね。
それによって伝わり方は微妙に変換される、と。
これは、我々がそれぞれ異なる感覚や思考を
持ってしまう理由でもあるのですが、
そんな2つの自己は協調的な働きによって、
整合性を持つのです。
なるほど、両極の自己の中心が
それぞれを中心として成立・整合するように
それぞれを中心として成立・整合するように
誘導し合うということでしょう。
行ってみれば、それは
「二つの視点による中心の創造」です。
「二つの視点による中心の創造」です。
それぞれが中心でありながらも、それが軸として働き
互いに誘導され、影響を受け、
結果、どちらもが自立と自律に働く、と。
交差によって「相互自立依存」が成立するのです。
これは海で例えるなら、
海面と深海の違いでもありますね。
海面も深海も一つの海を形成しています。
海面と深海の違いでもありますね。
海面も深海も一つの海を形成しています。
波しぶきを見て「これが海だ」とは言えないし、
深海を見て「これが海だ」とも言えませんよね。
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そんな異なる自己を中心(自律的に)決める。
これが場の形成です。
これが場の形成です。
しかし近代的自意識では、まず
「自分」というものが存在していて、
その「自分」が、何それをする(している)と
考えるのですが、そうではない。
「自分」というものが存在していて、
その「自分」が、何それをする(している)と
考えるのですが、そうではない。
他者だけでなく、自他の「間」による
交流によって、我々は自ずと変化している。
不思議ですが、
多分に我々とはそういう存在なのでしょう。
多分に我々とはそういう存在なのでしょう。
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