2012/09/10

卒啄同時、相対を超えて




近年の自己啓発セミナーで
取り扱っている主張の核、それは「心」。


悩まない、楽になる、思い通りに行く、
重荷が取れる、平常心で生きられる・・・etc



論じ方は千差万別あれど、
それが「あなたの心」である以上、
今感じている気持を押し殺すものではない。



そもそも我々は喜怒哀楽という
プラスとマイナスの感情を持っています。



まるで磁石のようなものであって、
どちらか一方だけは選べないんですよね。



当然ですが、N極だけの磁石は存在しません。
(人工的なモノボールは抜きにして)



そんな矛盾した「二項」との
付き合い方さえ、理解すればいいのかもしれません。



☞ ☞


例えば、仏教はもともと絶対自力だったのですが、
親鸞が絶対他力である仏教を広めました。



ただ、それを突き詰めていくと
単なる他力、単なる自力ではないものが見えてくるようです。




自力はただの自力ではなくなり、
他力はただの他力ではない。



つまり自力と他力は同体として、一なのでしょう。




禅も自力といいますが、同じくこれも「自他力」で、
それを表現したものに卒啄同時があります。



それは雛鳥と親鳥との関係に
見立てたもの。



雛が卵から出ようとするとき、
雛は殻の中(内)から卵の殻を突き、音をたてます。



「コツコツコツ、コツコツコツ」。



「もう産まれるよ~」と言う合図、
これを「卒(そつ)」と言います。



そこで親鳥がすぐに外から
殻をくちばしで破ります。



「コツコツコツ、コツコツコツ」。



「今出してやるからね」という行為、
これを「啄(たく)」と言います。



この「卒」と「啄」が「同時に起こって」
卵の殻が割れ、生まれることができる、と。




どちらか一方が遅くても、
逆に早くても雛は死んでしまいます。



よって、そのタイミングは「同時」であることが条件、
故に禅の自力も他力であり、他力は自力なのでしょうね。












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