久々に三島由紀夫の金閣寺を開いてみた。
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世界において、己が己であるために「隔離」が必要であった。
逆説的だが、絶対的な存在証明が「世界との断絶」、というわけだ。
自己の意思や感情の表現がうまくできない溝口は、
内に閉じこもり、人から愛されなかった。
溝口は世間と融和することができない(と信じてる)。
そんな劣等感と虚栄心、そして多層的なニヒリズム。
まさに三島文学、というべきだろう。
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普通、誰しも世界との距離を感じれば、
なにかしらその(世間)距離感を補正しようと試みる。
なぜなら(形式こそ違えど)我々にはある種の
帰属意識、共同体の一員だという存在証明が必要なのだ。
しかし彼は放棄した。
否、吃音によって放棄せざるを得なかったのだ。
これは最低限の手段の喪失によるものである。
これを見ると、会話というものが
いかに有効な接続手段であるという事が、よく分かる。
そこから、世界に認められないこと自体が、
彼のレーゾン・デートル(存在証明)になったのだ。
ただ、その確信は永遠的な支えにはならない。
なぜなら、彼は特別な人間ではないのだから。
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「この世界を変貌させるの認識だ」という友人に対し
「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反論する溝口、
そして、絶対的な美とされる金閣寺を放火することで、
彼は生きることを決める。
つまりこの物語の溝口は三島であり、
金閣寺や母親とは彼にとっての絶望と希望のシンボルではないだろうか。
絶対的な美(金閣寺)の対極にある、
不治の希望を持つ醜悪な母親とは、「世間」を投影したものである。
この2つは溝口の自己存在の源泉だ。
産んだ母親はこの世界、そして金閣寺とは日本の魂の美意識。
主人公である溝口は、過去の三島そのものなのだ。
溝口が金閣寺を愛するように、
三島は根底にある「日本の魂」を愛していた。
金閣寺に火を付けて得た「生」とは永遠の面影である。
これは多義的、実に多義的な物語なのだ。
読み終わった後にくる、この何とも言えない
哀愁と悲壮感の入り混じった感覚を何倍も希釈すれば、
現代の政治を見て感じるものと、似たようなものかもしれない。
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本であれ、器であれ、思想であれ、
本物と呼ばれるものには、ある共通点がある。
それは、ある固有性が軸にありながらも、
多層的なレイヤーを内包しているというものだ。
そんな薄皮を一枚一枚剥がして行くと
巨大なものが顔を出す。
故に、そういった作品を安易に批判したり、
認めたりする評論家たちを見ると、僕は違和感を覚えてしまう。
これは人生にも当てはまるかもしれない。
もうそろそろ変わる気がするが。
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記事拝見しました。新しい記事がアップされるのをまた期待しています。今後も記事読ませて下さいね。
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記事とても興味深かったです。更新されるのを期待しています。今後も読ませて下さいね。