人類学とは他者性を自己に取り込む学問、
言わば「出会いの学問」と言える。
自然人類学を始め、文化・言語・社会・宗教・経済と
様々な生態の角度から自己を刷新する学問だろう。
それは哲学が受け持つ存在性の探求などとは違った意味での
ラディカルなポピュリズムを知ることができる。
個人の自由と、それを抑える社会性との葛藤、
権威による抵抗や二項対立を中和・統一する「ナニカ」。
それはベルクソンの「笑い」や、
今年亡くなった山口昌男の「道化」として表現された。
閉ざされた集団による「笑い」には、他者への優越性が内包され、
道化は笑いによって日常の秩序から抜け出す役目を果す。
つまり内部と外部が反転する境界線であり、
秩序(外部)の中に潜む痴愚性、その愚かな現実性をあらわにするのだ。
それはひとえに「機械的役割」なのだろうか。
サーカス芸人であるピエロは、生涯をさまよい、旅を続ける。
土地に縛られない自由人である。
冷徹な批判者であり自由の境界線にいるトリックスター、
大きな権力(秩序)に向かい、敗北しながらも笑いを求める。
神や王のような絶対者の言葉をひっくり返す異質な存在だ。
パブロ・ピカソが道化師を描いたていたのは、
なにかしら共感するものがあったのだろう。
さて、個人的には「二項対立」と無縁になりつつある、
二項同士の「反」の先には何も見つからないと分かったのだ。
「我ら」のアイデンティティが確認されるためには
「彼ら」は必要であり、
「我らと彼ら」の仲介者である「ナニカ」が
どちらにも属さない異質であるのは当然のことなのだ。
相手を責める、他者の意見を持論でひっくり返す。
これは正しさの戦いでありミクロ的な宗教の始まりである。
同じ意見を集め、共感し合う。とても大事な事だが、
個人の主観(我ら)である以上、必ず宗教的な要素を含んでいる。
私は共感や繋がりは必要であるが、
主観に対する完全な一致は不可能であり誤りだと思っている。
中心における「秩序」は「排除の原則」の上に成り立つ。
よって強烈な共感には危険な思想を孕んでいるのだが、
それが一番共同体を強く結びつけるものでもある。
その両義性、混沌と秩序の境界を明確に劃する異人が道化なのだ。
チャップリンは笑いと哀しみは表裏一体、分かち難いものであることを演じた。
我々は生きている以上、必ず他者(彼ら)と出会う。
同化する為ではなく、他者との差異を知り、調和する為に。
なぜなら「我らと彼ら」は切り離せないのだ。
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100年続く企業はある、200年続いている企業もあるだろう。
しかしさらに長い間、例えば1000年続いている共同体はあるだろうか?
西洋ではそれが「宗教」にあたる。
宗教は共同体を永続させる「システム」でもあるのだ。
しかし宗教は共同体の差異を認めない。
その絶対的な基準を共有する事によって、同化させる。
ただ、人間は絶対的な良識・道徳・正義を必要としてはいるが、
それに従うことをも拒むようにできている。
多様と一義、我々はどちらにも染まれないのだ。
では、宗教以外で千年続くような共同体は存在しないのだろうか。
否、調べればここ日本にはあるのだ。
大阪の宮大工である金剛組(578年創業)
池坊華道会(生花教授・京都府・587年創業)、
他にも旅館を経営する西山温泉慶雲舘や古まん、
善吾楼などは全て創業以来、千年を超える。
金剛組の578年創業なんて、今から1400年以上前。
古墳時代の創業だ。
世界最古の企業は全てこの日本にある、
これは誇れる部分ではないだろうか。
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この国の仕事には神道的な精神性がある、
それは中空構造であり「我ら」も「彼ら」もない。
論理的整合性ではなく、美的な調和感覚。
無為の中空とはどちらにも属さず、異質なのだ。
第三者がいるだけで、二者の関係は相対的となる。
それは世界の監視者であり、変化のバランスを受け持っている。
そのフラクタル構造を模したのがunreveの三位一体構造だ。
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継承とは拡大ではない。
また、宗教や思想のように絶対性を繋げるものではない。
私のフランチャイズは和魂を継承する事、
ここが他社と大きく違う部分だ。
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