2015/11/16

裸の特異点①




水は100℃を超えると沸騰し蒸気になり、
0℃になると凍るのは小学生でも分かりますが、



ものごとは「ああすれば、こうなる」といった
簡単なものではありませんよね。



そう思う人は別にオカルティズムだけではない。
我々の持つ、ごく自然な解釈です。



奇跡は起こるし、常識で考えられないことが起こる。



つまり「ああすれば、こうならない」ことが
たくさんある、と。



例えばこれが科学的な根拠があることを
絶対条件だとするならば、
霊魂や予言などは「絶対ありえない」と言えるでしょう。




それは絶対ないとは言い切れない。
もちろん、絶対あるとも言い切れません。



僕はそれに答えることはできないし、答る気もない。
語れるのはあくまでも「内部会話」であり、モノローグ(独白)だけです。




なぜなら、こういった命題は個人において
信仰するだけのものであって、
万人に説明できるほど、完全ではないから。



これが二極(宗教と科学)の盲信から離れる
一番簡単な方法だと思ってます。






今日はそんなところから。






さて余談ですが、釈迦やカントはこういった命題は
「問いの立て方次第でどうにでもなる」と答えてます。



あると言えばある、ないと言えばない。
出発点こそ違えど、演繹である以上いくらでも理論化できる、と。



しかし本来は一義的、絶対的な正解ではないから
答えることはできない、そう言っているのでしょう。



これはオカルトに限ったものではなく、
ビジネスでもこういったノウハウがよくネタにされています。



引き寄せや神頼みだってまさにそうですね。
偶然と必然はあらゆる分野で議論されている。



端的に言えば、「多義的な問い」に対する
「絶対的な解」を導くこと、まさに「統一理論」への希求ですが、



言い切れる絶対的な解、必然、
運命決定論、真理などはどこまで言い切れるのでしょうか。









(ちょっと深堀りして)そもそもの前提として書けば、
この問い自体、立てられません。



なぜなら因果律が成立するものは
時空間の「枠内」だけ、条件ありきなんですね。



例えば僕は10年後の世界を知ることができないし、
違う場所に同時に存在することはできません。



明日から外人になることも出来ないし
羽も生えないので空も飛べない(笑)



こういったものは「絶対」だと言えますよね。



つまり時間と空間という「条件下」において
絶対だと言い切れるものは幾らでも存在するのですが、




その「条件」が常に普遍だと誰も言い切れない。
そうじゃないですか。



極端な例で言えば、宇宙の法則が変われば
太陽は西から昇るかもしれないし、個人が分離し、
違う場所に存在できるかもしれません。




宇宙人が開発したビームを浴びれば
羽の生えた外人になるかもしれない(笑)



もちろん馬鹿げた話ではあるんですが
「それは絶対ありえない」と、誰も証明できませんよね。



繰り返しですが、現在の決定論というものは
地球という時空間に存在する人間が設定した「枠内」、
に限定された「絶対」でしょう。




☞☞



我々は(なぜか)人智を超えたものを
空想することができる生き物、



これによって
非常識な問いは常に生産されています。



逆を言えば、そのような問いを切り捨てることによって
近代のアカデミズムや理論体系は構築されている、と。



いわば切り捨て「分ける」ことが、科学ということですが、
仮にこれらを「分けない」とするとどうなるでしょうか。



そう、出てくるのは「矛盾」や「無秩序」であって
「無意味」です。



当然、そんな理論を超越してしまう領域を取り込めば、
今まで積み上げた論理は全てガラクタになってしまいますよね。



秩序は崩壊し、無秩序に向かいます。
これがサイエニストだけでなく、安定を求める
我々が最も恐れるもの。



だから「意味の設定」は我々に必要だと
「思わないといけない」。



なるほど、
この世に生まれたのも何かの経験であり
学びであり過去世のカルマであると。




ただ、それは時間軸と空間の二つが消えると
途端に意味が成立しない、非常に脆い論理では?




☞☞


研究者は矛盾や裸の特異点を禁忌しますが、
まさにその特異点が「崩壊の素材」だからだと言えるでしょう。




偶然、たまたま。
つまり「コントロールできないもの」。





しかし、僕はここに実在を見ます。





ん、長くなりましたな。
次回に続きます(゜゜)



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