さて、僕は回帰論という仰々しいものを
経営哲学として取り入れているのですが、
端的に書けば、対立項を
同義(補完)関係として捉えるというものです。
「メグリ、メグル」仕組み。
最近、やっとサイトが完成して時間があるので、
そんな個人的な小話でも。
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こういった分野に興味を持ったのは
今から約10年以上前の事。
神道あたりの本を読んでいた際、
始めも無ければ終わりも無いという
「弥栄(いやさか)の理」を知りました。
(日月神示にもありますよね、個人的にはちょっと苦手ですけど)
そんな無始無終の概念は、昨年の出雲・伊勢神宮で
行われた遷宮と同じものでしょう。
こういった螺旋状に「メグル」ものはたくさんあって、
例えば遺伝子や素粒子もそうですし、風や海の流れ(渦)もそう。
四季や干支だって一つの周期が終わり、
そこからまた「メグリ、メグル」。
たとえその速度が速くとも回転運動である以上、
戻って来る(回帰)のです。
回帰論とはその繰り返される状態であって
その繰り返し運動(思考)は創造性(志向性)を
持っているのだと考えています。
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ちなみに聖書では世界(宇宙)が創造主によって
作られた、と言われていますね。
つまり明確な始まりがあるということ。
ただそうなると、その創造主がどうやって生まれ、
そしていつから存在しているのか、という疑問や、
その神は一体誰が作ったのかという疑問が出てきます。
マトリョーシカ人形で例えるなら、
「一番大きな人形を作ったのは誰か」、と言う命題。
そして「なぜ、それを作ったのか」
今でもそれは根本的に矛盾のまま、
哲学が引き受けています。
個人的には、こういった絶対性というものが
存在しないというわけではなく、
人間にはそれを掴む(定義する)ことは
できないのではないかと思うのです。
だからこそ、絶対は無限性と有限性を
内包した「ナニカ」である、と。
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近代科学は、光の絶対性を支持していましたが、
光の速度自体、有限(光速=秒速30万キロ)です。
そうなると光の絶対性は無条件ではなく、
条件つきになってしまいますよね。
絶対が無条件である以上、光の速度は
無限大(∞)でなくてはいけない。
仮にそうでないのなら、宇宙は秒速30万キロに限定された
条件つき絶対性でしか説明できないという証拠です。
ニュートリノが光よりも早いと発表されたとしても、
その速度が秒速40万になったとしても有限でしょう。
どうも、この「有限性の絶対」を
信仰する事がなかったんですね(笑)
しかし「始まりもなく、終わりもない」という
円環螺旋は時空間の干渉を受けない。
春を始まりとしているのは人間ですからね。
そんな自然の中にこそ、実体がある気がします。
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