「能力主義」は対象者を管理させるのみらならず、
人間を数値化し、価値を下落させる単なる「技術」になってしまう。
この事実が言わんとしているのは、
「システム」が本義から逸脱したのではなく、
その「管理機能」が社会に埋め込まれている
証拠であり、その影響から逃れられないことにある。
近代社会は「標準化・規格化」が常であり、
技術産業の域を超え、財務、情報、セキュリティ、教育にまで及んでいる。
標準化とは安心ではあるが規格外は排除される、
つまり規格とは、恣意的な選別の篩(ふるい)なのだ。
リゾームはそれら規格化への反対運動ではなく、
対立同化である。
すなわち既存構造の容認であり、
規格外である異質と共存できる環境作りであって、
主体でもなく客体でもない「場」へと向かう
「開かれた一つ」の再生である。
私は、我々のすべての活動には何らかの
創造的機会が潜んでいると思っている。
誰もが表現者であり、アーティストなのだ。
だから、もっと自己を表現できる世界を作りたい。
それが他者と共鳴し、それが集まり、
何かを達成し、元へと戻っていく。
まるで一つの海から派生する
70億の波のようである。
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他者から見る自己に反発し、独自の自己像を追求しても
他者の痕跡だけが浮き彫りになるだけにすぎない。
なぜなら自己の「固有性」や「特殊性」を、
他者とは反対の場所に位置づけてしまうからだ。
つまりそれらは差異の反発によって出来る
天邪鬼的な自己にすぎないのであって、
「独自性」を否定するつもりが、
逆に「独自性」を主張してしまい、
根本的な矛盾を孕んでしまう結果となってしまうだろう。
そんな無理強いなんて、本来は必要ないのだ。
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様々なタイプがいることは望ましいこと。
似たようなものばかりがいるより、互いに学びあえる。
同じ者同士ばかりが集まる環境下では
知的・文化的な視野は狭くなってしまう。
反面、多様体であるリゾームは、
別の多様体と接触された時、
その主体(自己)の性質を変えていく。
それは馴染む場所から異なる場所へと向かう
絶えない矛盾や葛藤による思想的変化を暗示している。
よって多様とは枠が広がるだけでなく、
混在した場における相互作用により、思想の質的な向上が起きるのだ。
縦と横が交差し、織りなす一つの「多様体」。
そこは常に開かれているので始まりや終わりという概念がない。
そんな世界は混沌ではない、逆に幸福という秩序がある。
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