2015/09/09

クエリ的





その抑制を生みだしている原因とは
まさにその抑圧から解放されようとして発する
「言葉自体」である。





例えば「本音で生きる」を選んだ時点で、
その水面下ではそれ以外の言葉である
「建前を使う」を抑圧してると言えるだろう。




なるほど、この国で訳された「抑圧」とは
本来「追放」であるという指摘は正しい。




つまり言挙げし、語れば語るほど
「もうひとつ」はどこかへ追いやられるのだ。




今日はそんな「言挙げ」についての小噺。







ヴィトゲンシュタインよろしく、語ることを止めれば
抑圧こそないが、不可知の中に潜ってしまう。
故に、知ることは抑圧から逃れることはできない。



このもどかしさは
多分に、誰もが経験あるのではないだろうか。




池田晶子は主語なしの「生きるとは」を
生涯求めた結果、カント(真善美)へ回帰した。



しかし、真善美を人類が全員求めているわけではない。
つまりそこには「私にとっての」という主語、
「個別的な問い」が抜け落ちているのである。



さらにアンチ・カント(偽悪醜というべきか)である
自分は無意識的に抑圧されてしまうのだ。



もちろん、真善美を求めるのは素晴らしいことだ。
いじくり回さず、きちんとした哲学的手法で
真っ向から格闘した結果だったのだろう。



しかし演繹的出発でも、帰納的出発でも
その類の解は出て来ないのではないだろうか。



いわばその限界とは、ロラン・バルトで言う
ラングによるものだろう。



普遍性とはあらゆる個別化された
正解を統合し、一つの言葉に断言することであるが、



まさにその「断言した言葉」によって
必然的に「もう一つの解」が抑圧されてしまう。



ラカンはそれを「情報それ自体が堕落である」と
断言したのだが、そういった意味なのかもしれない。



しかもそう断言するラカンもまた抑圧している、アンチノミーである。



そこで日本ならではの大転換である。
二つの意味を統合し、一つの言葉にした。



それが「感謝」であり、「結構」であり「加減」である。
どちらも内包しながら、志向性は上を向いているのだ。



☞☞




個人的に、一方だけで断言できるものは
幸福だけであると思っている。
その他はもう一つが抑圧(もしくは追放)されてしまう。




アベノミクスがマクロ経済において(一応)
功を奏していると言えるが、それもまた片手落ち、内需(ミクロ)の回復が完全に抜け落ちている。


東芝も利益だけに向かってしまい、あのような結果となったのだか、一極へ向かえば起こる必然の流れである。





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