「私にとっての幸せとは何か」
これは青臭い考えだと言われていますが、
まさに現代の悩みはこれに尽きるでしょう。
では質問。
その私にとっての幸せというその「私(じぶん)」とは、
一体何でしょう?
この最初の問い(根幹)が分からないまま、
別の問い(枝葉)を出している。
だから人は迷うのかもしれません。
さて、(極端ですが)科学は答えを導き出す
学問である反面、
哲学は答えではなく、上記のような
「問い」を立てる学問だと言えます。
現代はこの「問い」が面倒なようで、
すぐさま正解をセミナーやgoogleに求めてしまいがちですが、
「人生とは何か」みたいなものに
正解はありませんよね。
なぜならこれは「問い(問題)」だからです。
誰に聞いても分からないもの。
なるほど、ベルグソンは問題を出すこと自体が
一番難しく、うまく出された問題とは
すなわち答えでもある。と言ってます。
ベルグソンに傾倒した小林もまた、
「学生との対話」でこう書いていますね。
言葉ぐらい人間を助けているものはないけれども、
こういう便利なものはいつでも人間を惑わしますね。
いつでも、物には裏表があるのです。
理性はこんなに人間を助けているけれど、
人間は助けてくれるものの虜になるんです。
不思議です。
だが、こういう不思議を解く人はいません。解けないよね
近代は科学に傾倒しすぎたせいか、
定義できない、正解のないものに対しても、
同じように「正解」を探してしまうのですが、
この正解が「どこかにある」と思ってるから、
青い鳥探しになるんですね。
ただ、自分の代わりがどこにもいないように、
自分の幸福を誰かが代わりにやってるわけ、ありませんわ。
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そもそも答えを見つけることは簡単です、
1+1の解(2)を見つけるなんて、子供だってできます。
この「2を探すこと」に必死になってるということは、
「正解を早く知ろうと焦っている」心の現れでしょう。
しかしプログラムと違って、幸福には
正解もなければ、最短なんて概念もない。
例えば旅行ツアーに行ったとき、
最短で名所を回るルートは一つか二つでしょうが、
それに興味がない人にとっては、
回るルートは全然違うわけでしょう。
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閑話休題
本題に入ります。
今日のテーマにあるように、私の考える理念も
明確かつ数値的なものではありません。
それは単なる達成目標です。
数値的な達成目標なら、共有は簡単です。
「クラスで優勝を狙うぞ」のように、学校でもやってます。
しかしunreveでの理念とは「絶対的幸福」。
この絶対的幸福に正解なんてありません。
「絶対なのに正解はない?」と思われるでしょうが、
これは長くなるし、言葉で書くと濁ってしまうので
あえて書きませんが、
理念の共有とは、言葉じりをいじくれば
一度に全員が共有できるようなものではないんですね。
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そこで大事なのが「問い」です。
理念の共有とは各自が自分の内部に打ち出す
「問い」の中にあります。
それが生まれる環境を構築するのが「場の形成」です。
つまり理念の共有とは正解を共有するのではなく
「問いを共有すること」なんですね。
その志向性がマイナスに向かうわけありません。
たった一つの正しさを共有しようとするから、マイナスになるのです。
故に、そこに無秩序はなく、自然派生的な「秩序」がある。
それを僕は「自由秩序」と呼んでいます。
自分のフィルターで解釈したものを絶対とせず、
志向性さえ合わせれば、自由と秩序は対立しないんですよ。
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これは育児でも同じことがいえるでしょう。
「あれをするな」、「これはダメ」、「こうしなさい」と
子供は正解と不正解ばかり与えられます。
そこで「自分で自由に決める」という問いを
持たせることは、心の形成にとって重要なことです。
なぜなら「自分の事は自分で自由に決める」
という教育は大人になるにつれ、
「自分の人生もまた、自分で決める」という思想に
繋がるからです。
そこには必然的に「問題」が生まれますし、
問題が生まれれば、嫌でも問わずにいられないでしょう。
また、相手の決定した自由と
衝突することもあるかもしれません。
それ自体は悪いことではない。
悪いのはその衝突から「正解」を決めることです。
よって、先に答えを出してやるのは
優しさとは言えません。相互解決力を奪い、
正解依存になってしまう可能性がある。
とまあ、僕の支援はこんな感じでやってます。
あくまでも個人的な方法です(゜゜)
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