2015/09/04

混沌と秩序(※2011年記事再アップ)

どもども、unreveのグッさんです。

あっと言う間の週末ですね。



さて、今日のテーマは
「SNSの混沌と秩序」




あくまでも個人的な意見なので盲信なく、です(・ω・)b






☞ ☞ ☞






さて、SNSは匿名性のあるものから
フェイスブックの様な実名まで様々ですが、



インターネットには、まだ秩序というものは
ハッキリと示されていません。



誰が何を書いても許されるわけではないのですが、
書く事自体までには制約はありません。
(アメブロは強制削除とかありますけどね)




さて、では秩序の反対はなんでしょ?
一般的に言えば、それは無秩序、「混沌」です。




では「混沌」は絶対的に悪く、「秩序」は完全な正義か?
という二択は成立するでしょうか。





そんな単純な2択ではありませんね。
なぜなら、無秩序とは生命のエネルギーでもあるからです。




■□■□■□■□



これは中国の神話では、5官が全て失われている
「混沌という怪物」の物語が実にうまく説明しています。



(端折って書きますが)
昔々あるところに、目も鼻も口もない
「混沌」という怪物がいて、日々暴走していました。




村人たちはこの怪物をどうにかする為、
色々と考えた末、



「目と鼻と口を開けてやればいい」と思い、
その怪物が眠っている時にノミを使って穴を開けたところ、



その怪物「混沌」は死んでしまった。
という話です。





つまり「混沌」とは生きるエネルギーであって、
そこに人が作った「秩序」を持ち込んだ為、
怪物は生きる力を失って死んでしてしまった、という事でしょう。




それは(一側面的な論ではありますが)納得できます。



なぜなら、人間的なエネルギーを強圧的な
「秩序」で抑え込まれた時、



我々は生きながらも、まるで
死んだような感覚に陥ってしまうのですから。



■□■□■□■□



思えば、20世紀の社会主義はまさにそうでした。




思考、感情を一つのイデオロギーで画一化され、
体制にたいする全ての批判が封じ込まれた。



当然、そんな自由も生命の躍動もない
国家が長く続く訳もなく、



1989年の東洋諸国にはじまったのを合図に、
91年にはソ連までもが連鎖的に崩壊しています。



人のイニシアティブを奪う事は
生きる力を奪うこととイコールであって、



規模の違いこそあれど、相手を支配しようと
思う精神とは、無意識に人の力を奪ってしまうんですね。



■□■□■□■□




しかし「じゃあ混沌がいいのか?」というと
そうだとも言えません。




例えば、同じ東欧のチェコスロバキアを見てみると、
劇作家であるハバル政権が誕生した際、徹底した自由主義を推進しました。




よかれと思ってか、すべてを
「好きにやろうよ」という国家にしたのです。




しかし、その結果どうなったか?というと
想像と全く違っていたのです。




町には性風俗が溢れ、膨大な数のマフィアが生まれ、
弱肉強食の無法社会となったのです。



なるほど、大きな混乱を引き起こす根幹は
やはり「無秩序」なんでしょうね。




上記の混沌もまた、長く続く訳がなく、
しだいに新しい法や制度が構築されています。





つまり秩序と無秩序とはシーソーゲームなんですね。
(あくまでも外部派生的なものとして)




新しい「秩序」はやがて新しい「混沌」の種となる。
つまり人間の歴史とは「秩序と混沌」の振り子運動を
繰り返しているのでしょう。




そう考えると、現在のインターネットはどうか。
僕はまだ、ネット歴1年程度ですから偉そうなこと言えませんが、





僕が思うのはフェイズブックのような
実名の繋がり自体もまた、
新しい混沌(影)を生む種となる気がするんです。





このブログの最近の規制だってそう。
秩序で抑えすぎると退屈な記事しか書けなくなります。




退屈な記事を誰が見るでしょう?
僕だったらまず見る気がしません。




だからとって無意識的エゴ、欲求の垂れ流しを
「これが私の直感だ、本音だ!」と正当化する
無意識のお化けにもなりたくない。



そんな無意識(無秩序)から何をするか
意識(秩序)的に選択し、決断するのが大事な気がします。





人との繋がりや関係性が重要視されつつある時代、
これからのSNSは秩序と混沌、どちらに偏るでしょうか。






僕はアナログですから、やはり実際に会って話したい人間です^^

ではでは。


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