さて、我々は普通の生活から
抜け出そうと言う心がある以上、
特定の思想集団に入ったり、
ある教えに影響を受けたりします。
これは宗教だけではなく、意図的に
作られた組織など、全てに該当するでしょう。
これらはみな「特定個人」から
派生したものであって、
内部派生じゃないんですね。
そういった特定個人の組織に
共通しているのは、その個人の
特殊な独自性によるものでもあります。
なぜなら、そこにはあなたの
経験は一切入っていない。
それを誰でも経験できると
ある法則をテキスト化して、
それを教えたりするんですが、
リゾーム派生はこれとは逆に、
自己中心から自力で創り上げるもの。
別に何かを教義化して
教えるものじゃないんですね。
☞ ☞
さて、なぜ多くの人が
このような教義に身を置こうとするのか。
それは自分では体験できていない
圧倒的な「経験」を「そこ」に発見し、
それを求めているからでしょう。
例えば、宗教の発端はもれなく、
開祖が非現実的ではない「特殊な」
精神状態を体験した結果から作られています。
神の声のような神秘体験しかり、
宇宙と繋がったというワンネス、
悟りしかり。
成功ノウハウでもそうでしょうし、
自己啓発だって、似たようなものです。
しかし、そういった「覚醒的な」体験は
超個人的なものに限定される。
故に本来、他の人には
経験できない「はず」なんですが、
それを万人に通用しようとする。
この恣意性が、漢意です。
論理的な帰納法を駆使し、
一つ構造として組み立て、
AをしたらBになった
という、因果関係を可視化(形式化)し、
整合性・正統性があるように
世界観として体系化していくのです。
それが根幹となり、
個人的真理だけが真理である、と言う
☞ ☞
それは人の生死に関する問題から、
日常生活の不幸や不運まで様々、
端的に言えば、我々が
普通に考えてもわからないことにたいし、
そういった「特定の思想」だけが、
快刀乱麻のごとく答えを提示できる、
という「絶対的なもの」となります。
彼ら(彼女ら)の答えは
矛盾してはいけないし、
質問に対し「分からない」が
あってはいけません。
なぜなら彼ら(彼女ら)は特別だから。
信じてついて行ったのに、
不幸になったり、失敗したら
特別じゃなくなくなりますからね。
彼らは、体験によって現実世界の不都合や
不合理や、悩みや、不幸を解決できる、とします。
商売であれば、成功した経営者が
体系化したノウハウによって、
生活の悩みであれば、スピリチュアルの
体系化した思想によって、
心の問題であれば、コーチや
カウンセラーの体系化したメソッドによって。
こういった「体系化」は、
あらゆる不幸や苦しみに対する、救済原理です。
宗教は救済原理が故に、他者は魅了され、
大勢が巻き込まれることで、
やがて大きな「普遍的真理」へと、
発展していったのです。
論理的な帰納法を駆使し、
一つ構造として組み立て、
AをしたらBになった
という、因果関係を可視化(形式化)し、
整合性・正統性があるように
世界観として体系化していくのです。
それが根幹となり、
様々な流派へと枝分かれしますが、
それを辿れば、「たった一人」の
個人的経験に基づいていると言うこと。
それを辿れば、「たった一人」の
個人的経験に基づいていると言うこと。
そして、それが提唱者の「個人的経験」であるという事は、
個人的真理だけが真理である、と言う
当たり前の事実を表してるんですが、
なぜか他人の答えをカンニングしてしまうんですね。
なぜか他人の答えをカンニングしてしまうんですね。
☞ ☞
それは人の生死に関する問題から、
日常生活の不幸や不運まで様々、
端的に言えば、我々が
普通に考えてもわからないことにたいし、
そういった「特定の思想」だけが、
快刀乱麻のごとく答えを提示できる、
という「絶対的なもの」となります。
彼ら(彼女ら)の答えは
矛盾してはいけないし、
質問に対し「分からない」が
あってはいけません。
なぜなら彼ら(彼女ら)は特別だから。
信じてついて行ったのに、
不幸になったり、失敗したら
特別じゃなくなくなりますからね。
彼らは、体験によって現実世界の不都合や
不合理や、悩みや、不幸を解決できる、とします。
商売であれば、成功した経営者が
体系化したノウハウによって、
生活の悩みであれば、スピリチュアルの
体系化した思想によって、
心の問題であれば、コーチや
カウンセラーの体系化したメソッドによって。
こういった「体系化」は、
あらゆる不幸や苦しみに対する、救済原理です。
宗教は救済原理が故に、他者は魅了され、
大勢が巻き込まれることで、
やがて大きな「普遍的真理」へと、
発展していったのです。
また、それらは
本来の日常を「嫌う」ことで派生している。
我々の普段の日常生活を
とても低い世界観として見ていると言えます。
辛い事、苦しい事が日々起きる
当たり前の日常をどうにかしたい、と。
しかし、それは本来の人間の
自然派生な生き方ではない、
それを見抜いたのが、
本居宣長であり小林秀雄であり、
この国の源流である「大和こころ」なんですね。
本来の日常を「嫌う」ことで派生している。
我々の普段の日常生活を
とても低い世界観として見ていると言えます。
辛い事、苦しい事が日々起きる
当たり前の日常をどうにかしたい、と。
しかし、それは本来の人間の
自然派生な生き方ではない、
それを見抜いたのが、
本居宣長であり小林秀雄であり、
この国の源流である「大和こころ」なんですね。
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