前回に続き二回目。
あくまでも自己的な考察。
・考察その三
「道徳」とは外律であり、言語化である。
しかし、形のないものを語れば語るほど、真実から離れてしまう。
語るということはモデルを描くということであり、
そのモデルの中に閉じ籠り、閉じ込めること。
よって自律とは「自縄自縛」、
他律とは「他縄他縛」である。
真の自律とは、外部の法律を守ることではなく、
自らの「人格」に背くことのないように、自身を律することである。
客観的で他律的である時点で普遍性はない。
仮言命法となり、独善的。これは異なった原理である。
倫理とは言葉ありきではない、
初めに「感情(情動)ありき」、その基準は心に由る。
(情動は長くなるので割愛)
よって外部の法によって罰を受けるのではない。
自ら定めた法を破ったことに対し、自ら罰を与えるのである。
「罪と恥の意識」、アダムとイブが禁断の実を食べ、
最初に起きた感情である。
そこに他者や社会や道徳やモラルなどは一切関係ない。
自分が自分自身に下すもの、絶対命法だ。
よって自律派生の倫理とは外からは見えない。
☞ ☞
・考察その四
自縄自縛である自律とは、抑圧を伴う。
なぜなら、あり方(根茎)が拒絶しているからだ。
それを解放すれば跳梁跋扈となる場合がある。
なぜなら、そこには「在り方(人格)」の定義が欠如している。
在り方が本能的であれば、お隣の国同様「欲望機械」となる。
欲しければ奪い、邪魔ならば潰し、それを正当化する。
よって、利己的な本能のアクセルを踏ませるのは
未熟な精神性では危険極まりない。
(もちろん、例外もある)
例えばよく「バレないなら浮気をしてもいい」と言う。
では「見つからなければ、万引きしてもいい」のか。
上記の欲望を我慢するのは抑圧と呼べるか。
ここで「ありのまま」を使うのはおかしい。
つまり、それはありのままではなく、
欲望の赴くまま(おもむくまま)である。
そんなものに理性を使って正当化するのであれば、
西洋宗教と同様、ただの空理空論である。
☞ ☞
理性は時として人格を無視する。
赴くままを、ありのままとする。
頭で考えたものは、一貫性がない。
例えば、従業員が所属する企業の
不正現場を目撃したとする。
賞味期限が過ぎている食材を使う、
安全性がないのに合格基準としている、
助成金欲しさに自己都合退職させている etc・・・何でも良い。
これを第三者の立場から判断するならば、
当然、「内部告発し、不正を正す」と言うだろう。
外部にいる人間は「理性」によって、一番最適な回答を出す。
しかしそれは空論理想の人格モデルである。
理想は誰もが語れる、しかし現実はそれとは異なる。
もし、それが自分自身に起こったとしたら、
どのように対処するだろうか?
この場合、選択肢としての「行為」は、
見て見ぬふりをするか、内部告発をするか、
それとも直接、当事者へ伝えるかの三者択一である。
まさに、善悪の分かれ目である。
あなたならどうするか。
もし家族を養わないといけない状態ならどうするか?
もし、家のローンがあと20年残っていたらどうするか?
来年係長へ昇進する予定ならどうするか?
結婚式の仲人をしてもらった人がいる部署ならどうするか?
この瞬間、理性が勝てば必ず「見て見ぬふり」をする。
しかし、全人格が働けば、内部告発をするか、直接訴える。
(全てではないが)中国や韓国の体質は
まさにこの「理性」によって欲望が正当化されている。
結果が「とまらない大気汚染」と「腐敗した官僚」である。
儒教(儒学)は「ありのまま」を間違えて教えた。
四徳(仁、義、礼、智)や五常(仁、義、礼、智、信)
は外律であり、理性を縛ることはできない。
☞ ☞
誰もが理性で考え、行動していると思っている。
理性によって自分へ命令を下し、行動できている、と。
しかしそれは思いこみである。
本来は、理性が行動をコントロールしているのだ。
よって、それは行為ではなく、理性。
メカニックに、合理的に、都合良く動いているだけである。
自らの知に自惚れている人間は、悪に陥りやすい。
知識人の中には「科学的」な説得力によって当たり前のことが分からない人が多い。
0 件のコメント:
コメントを投稿