2015/02/08

恥を忍んで

今回の記事は自戒の意味で。


さて、現代は表現の時代である。
私を含め、インターネットによって個人活動、表現が飛躍的に上がった。


編集ソフトで動画番組が作れる、自作の歌、文章も作品としてネットで表現できる、
絵も売れる、アクセサリーも売れる。究極、思想さえ「売れる」。


フェイスブックで実名の抵抗感がなくなったのも手伝ってか、
これからは個人表現の時代となるのは間違いないだろう。


そして規制のない自由な市場は玉石混淆となる。
自由主義思想の暴走、これは世の常である。


アメリカのお家芸である「短期的・投機的」な儲け話は多くの成金を生み出し、
「楽に儲ける」という思想がネット世界の代名詞となった。


奇妙で馬鹿げた諸説を流行させたり主張したりするのは簡単である、
曖昧で分かりにくく、意味のハッキリしない言葉をふんだんに使い、「周囲を固める」。


そうして出来あがるのが現代のおかしな「思想」である。
そこには都合よく繋ぎ褪せたパッチワークのような「ちぐはぐさ」が見え隠れする。



ユングやらフロイトやらを引き合いにしたデタラメな潜在意識の提唱者、
原始と大乗がごっちゃになったイカサマ仏教哲学者。


中途半端に神智学にのめり込んでしまったオカルト的救済論者。
意味もなく瞑想を進めるカウンセラー、それは虚禅であり達磨太師と変わらない。


他にも成功者の名言さえ出せば良い事言ってると思ってる、メッキ張りのコーチや、
欧米から輸入したと言えば間違いないと思ってる輸入コンサル。


感化、この類をネットでどれほど見たことか。
コピーは劣化しか生まないのだが、消えることなく次々とコピーされている。


真似が悪いのではない、私だって引用もすれば真似もする。
しかし必ず自分なりに咀嚼し、検証し、理解しているつもりだ。



独立して以来、ネットワークビジネスをやっている社長をよく見る、
こういった類のビジネスに興味を持つものは大抵正当な理由を武器としている。
そして必ず一人ではない、常に仲間がいて集まって励ましあっている。


それは正々堂々としたものではなく、盗賊が住みつく洞穴のようである。
誤謬はそもそも人間の知性と相容れない、不条理を擁護して得るものは曖昧さだけなのだ。
比喩と証明を勘違いしてはいけない。



部分観ではなく全体観。木を見て森を見るのではなく、
そこから大自然、地球、宇宙と続き、それが最小へと内包する全体観が必要だ。
表裏一体、俗に言う「ウロボロス・メビウスの輪」である。








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