中空均衡について、
今日で三回目です。
さて、前回は部分最善によって
全体が最悪の状態になる、と書いた。
例えるなら、二人の船頭を乗せた
船のようなものである。
一人の船頭は右へ、もう一人は
左へ船を漕ぐとどうなるか?
当然、船はどっちにも行けない。
その状態で雨が降ってくれば、
乗客はずぶ濡れになってしまうだろうし、
船頭が増えれば、山へ登るかもしれない。
お互いがお互いの利益を譲らず、
確保しようとした結果である。
これが他人同士なら訴訟だろうが、
組織内部の衝突である以上、どうしても
最終的には力関係になってしまうのだ。
しかし、歴史を見れば、
「パワー」で事が上手く運んだケースはない。
あったとしても、所詮一時的なものなのだ。
よって全体最善を目指すには、
バランスを整える「領域」が必要となる。
スチュアート・ミルではないが、
それは民度の高い低いにちょうど見合うもの、
それは「無性と両性」を内包した、
どっちでもあって、どっちでもない所から派生する。
それが「中空無為」の概念であり、
それが骨と骨を繋ぐ「関節」の役割を持つ。
詳しくは寺小屋「間の概念」を。
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機械と違い、有機体である我々が
スムーズで複雑な動きをする為には
この「部分を繋ぐ」関節がなくてはならない。
また、このポジションは「第三者的立場」
であることが望ましい。
なぜなら「賛成・反対」といった内部の声を
「切り離して考えること」は最も重要なポイントである。
両者の感情論争に巻き込まれると、
中間領域の示すデータ自体が、
信じてもらえなくなる可能性があるからだ。
故に「どっち寄り」であってもいけないのだ。
それは組織に属している以上、不可能に近い。
もっとも、場と対話を作り上げる自然派生の
リゾーム型なら、話は別だが・・・(笑)
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以上、3回に亘って、中間領域の必要性を
書いてみた。
根回しや利権・派閥は部分最善の戦略であり、
決して全体最善ではない。
そんな仲間同士の共食いが
馬鹿げたことだというのは、明らかである。
組織はもっと開くべきだ。
閉じるのはいつでもできるのだから。
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