2016/09/06

全体(ワンネス)と部分(ポーション)。





ヘーゲルさんは、自由という目的(理念)は、
一般的抽象論であって、それだけでは
現実的ではないと言ってますね(゜゜)



理念が真に現実的なものとして成立するには
我々の持つ欲望や情熱からくる行為が加わらなければ
空論に過ぎない、と。



毎回、言葉を変えながら同じことを書いてますが
理念には個人が持つ主観的意志が必要だということです。



理念が全体(ワンネス)であるならば
我々の持つ個人的な意思は部分(ポーション)、



我々は、そんな裏と表の「あいだ」を生き、
その場所から問うのです。









現象世界が絶対精神としての自己であると
仮定するならば、理性は抽象的に対し、
感性は主観的意志だとヘーゲルは説きます。



むかし「愛が生活に負けたから」と
誰かが歌ってましたが、「愛」という言葉だけでは
抽象論なんですね。



「一生大事にするよ」と頭の中で描くのは容易い、
問題は現実的な生活でそれを実現できるか、否か。



理性が建物の設計図である反面、主観的意志は
柱や釘といった建築資材。そのどちらが欠けても
建造物は構築できませんが、実態は常に具体性を持ちます。




故に具体的である主観的意志(感性)が
引き起こす理想と現実との葛藤を、我々は
超えなくてはいけない。それはあらゆる場所に
存在する相互補完関係なのです。



図面に落とし込むには具体的な鉛筆という素材だって必要。




その素材は理性によって必然的に
制度として拘束を受けることになります。
場合によっては規制や法律が入ってくることもあるでしょう。
しかし、だからこそ現実的な「いち」フォームを持つのです。


☞☞


ヘーゲルは、そんな理念(理性的意志)と
情熱(主観的意志)を大きな絨毯に例えました。



理念が縦糸であれば情熱は横糸、
両者の中間にあって2つを具体的に統一する
働きがある、と。



ナポレオンしかり、スティーブジョブスしかり。
新しい時代の可能性をいち早く見出し、
世界を変えていく人は、一般的理念(理性的意志)に
個人的(利己的)目的が内在(統合)しているのでしょうね。




「後記」



ちなみにカントは、世界を叡智界(モノの世界)と
感性界(コト)の世界に分けました。



我々がもつ自我は理論的な営み(理性派生)
においては感性界に制約されている、
これを細かく書いているのが有名な「純粋理性批判」ですね(゜゜)



逆に、実践的な行為は叡智界の住人として
感性界に君臨します(実践理性批判)



理論や理性は感性(コト)の世界を
自然法則を使って把握するけれど、実践理性は
叡智界から自由に感性界に働きかけるもの、
そんな法則に支配された感性と自由である叡智界を
統一する役割となるのが判断力ということでしょう。



それもまた、多様の中にある統一された根拠、
「あいだ」を見出す力。



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