2015/02/27

情報は主語ではない



こんにちわ、坂口です(。・ω・)ノ



先日、フランチャイズの総合サイト
フランチャイズWEBリポート内で
コラムを書かせて頂きました^^



最初は簡単な自己紹介ですが、
次からはもっと面白くなりますよ!(笑)



他の専門家様のコラムも役に立つ内容ばっかりです。
フランチャイザーだけでなく、フランチャイジーの皆さまにも
お勧めです^^




個人的なご報告はこれくらいにして、
今日の小噺でも。。。。










さて、皆さんは欲しい情報は
どうやって調べてますか?



業種によって多少変動するでしょうが、
多分ネットが大半ではないでしょうか。
昔と違って、本屋で調べる人はずいぶん減ったと思います。



それだけ現在のインターネットは
情報を網羅していると言えるでしょう。




まさに情報革命と言われる所以ですね。



ただ、そんな情報化時代だからこそ
しっかりとした自己(アイデンティティ)が必要ではないでしょうか。




☞ ☞



例えば病気にかかったとき、これまでは
医者が主体で患者は副次的でした。



つまり「医者」が患者を治す、と。
その関係性において、患者は従うだけだったのです。



ただ、今は患者が主体となって
自己治癒力を高める、という流れになってます。



医者はそれを「支援する」立場です、
つまり「主語」が入れ換わった事がわかるでしょう。




unreveは自立とか主体性の必要性を説いてますが、
端的に言えばこういった「主語」の転換なんですな。


☞ ☞


これは情報化社会においても
同じ事が言えるのではないでしょうか。



情報は主語ではなく、あくまでも述語(補佐)であって、
本来は「あなたが」情報を使いこなす側なのです。



マニュアルを見れば、まさに「情報」が
主語になっていますが、それは今までの話、



よって、あなたにとって意味のある情報を
いかに探し出すかがこれからは重要であって、
それによって初めて「加減」や「らしさ」も身に付きます。







複雑な時代において行動する際、
情報を主語にすると、その膨大さに迷ってしまいます。




アフォーダンス」は誰でも持っています、
もっと自分を信じましょう。



自分にとって最適な方法は、自分の中にこそあります^^





2015/02/26

継続はバランスなり



こんにちわ、坂口です。
アメブロからこのブログへ引っ越して
3週間くらい経ちましたが、みなさま今後とも宜しくお願いしますね^^



思えば起業してからブログを書きだして
もうすぐ5年目になります。



結婚でも起業でも学びでも何でもそうですが、
「継続は力なり」ってホントにそう、
一つのことを続けることが一番難しいですよね。




これからの企業の存続には
イノベーションが必要だと謳われてますが、
それも結局は「継続する為」にやっているわけでしょう。



なぜ継続が難しいか、
今回はそれをテーマにしてみましょう。









さて、世界を支配する法則に
熱力学(エントロピー)の増大というものがあります。



通俗的に言えば、あらゆるものは自然派生的に秩序から
無秩序の方向に進んでいく、というものです。



例えば掃除した部屋は、そのまま自然に任せておくと、  
だんだんとホコリがたまり、散らかってしまうように、



だんだんと秩序は無秩序へと向かっているんですね。



ある日突然、部屋が勝手に整理されて
綺麗になってたなんて、お母さんのしわざ以外、ありえないわけです(笑)







ただ、それは「閉鎖系」においての法則であり、
我々人間は 「閉じた系」ではないとお伝えしました。



組織も同様、エントロピーの法則は、成り立たないのですが、
どうも近代は組織を「閉じた系」にしてしまう傾向があります。



よく組織の腐敗化とか形骸化とか言われますが、
これってまさに、秩序がなくなっている状態でしょう。




そこで「持続的存続」という課題に対して、
弥栄、常若の概念を取り入れています。



それは近代の合理的・論理的構築に対する
アンチテーゼでもあるんですね。




(誤解する人がいるので書いておきますが)
それは「昔のような経済環境へ」という
復古論を主張しているわけではありません。



そもそも現代の我々には、昔の生活に
戻る体力も精神もありませんしね。




つまり、我々は意識的に秩序を維持しながら、
意識的に不要な秩序を壊さないといけない。




そうなると「どこを壊し、どこを守るか」って話になります。



ここで出てくるのが、加減の定義です。
継続とはバランス(調和)の中にある、と。



☞ ☞



ちなみに「5s」の「躾(しくみ)」は秩序を維持する為の
最小限の法だと捉えています。



相手から「綺麗にしなさい!」と言われるのではなく、
自分が「汚いのは嫌!」と思えること、これがゴールです。




組織風土もそんな小さなことの
繰り返しによって形成されるのではないでしょうか。





2015/02/22

組織の栄養素②




前回に引き続き二回目。
生態的な組織について。




さて、こういった人間的に暗喩解釈すれば、
企業の「最適」や「持続性」というものも見えてきます。



今回の例で言えば利益は血液と例えられますね、
この事から、キャッシュフローは循環させなくては
いけない、ということが分かりますが、



それはあくまでも手段ということ。
血液を生み出し、循環させるために
生まれてきたわけではありませんからね。





人間が「生きる意味」を探すように、
組織もまた、その「存在意義(レーゾン・デートル)」が必要です。



それが度々お伝えしている「理念」であって、
志向性こそ、(人間よろしく)生きる力や情熱に繋がるのです。




☞ ☞ ☞



組織は生態的・有機的なのは間違いないのですが、
その構造は「静的でもあり、動的」でもあります。



これを発見した際、組織とは動物と植物の
「間(あいだ)」に位置していると思いました。



動的と静的の境界性こそ
「バランスの良い状態」ではないでしょうか。



どちらか一方が欠けても、これら概念は
存在できないので、どちらも間違ってません、




ただ、「本質(アイデンティティ)」はどっちか?
でいえば、日本は静(常)ではなく
動(無常)の生き方だと思うんですね。



それを全体感として捉えていたからこそ、
変化にも即興的に対応できていたのでしょう。




企業は拡大するより続けることが
大事だと思うのですが、現在、短命に向かっています。



よく言われるのが「30年説」、
ネットにあるデータによれば、企業存続率は  
創業3年後で38%、5年後15%、10年後で5%です。



さらに20年後は一気に減り0.39%、
そして、30年後は0.025%程度だと言われます。



倒産の理由は様々かもしれませんが、
企業生命はもっと延ばせると思うのです。



なぜなら世界最寿命の企業の大半は
ここ日本にありますし、我々人間もまた、
世界トップクラスの長寿国なのですから。



そこで長寿企業の特徴を調べてみると、
類似点がいくつかありました。



それが加減というバランス感覚によって
均衡が支えられている、ということです。



例えば、資金調達に関して保守的。
つまり質素で倹約を心がけていますし、



変わらないものと変わり続けるもの、
その両方を兼ね備えています。



変わらないものは理念や風土であって、
それを反映した暖簾(継承)の形成です。



つまり創業者の「想い」が明確が故に、
世代を超えても引き継がれていくことが可能なのです。




暖簾を磨き、よりよい形にして次世代へ繋げる。




フランチャイズも、こういった和魂継承を
取り入れるべきだと感じます。







自己構成原理と剖対反比図一合





江戸時代の思想家三浦梅園氏は、大自然の自己構成原理を「条理」とし、
その構造を「剖対反比図一合」として図式化しました。


条理の「条」とは木の枝のこと、
そして「理」とはその筋を作る考え方のことです。


もともと条理は孟子の言葉であったこともあり、
梅園氏の思想は中国の陰陽思想が背景にあります。



それを数的に定式化したのが「一即一一」または「一一即一」。
(一即二、二即一とも)



自然の条理を配置した図なんですね。











三浦梅園はあらゆる自然界とは完全なる均等を保つ為に
このような二分木構造になっていると言ってます。



コインの裏表で説明すると裏は裏で存在し、表は表で存在する。
つまり分かれて相反し、合して一となる。



その認識としては「反観合一観」。
反観とは、正反対の物を想定して、必ず相反する性格があるという認識法です。




さてこの相反性とはその意味が等価に成立しなければ論理として不十分です。
コインの表だけあって、裏がないなんてありえない話で(笑)



「-、-」は高い所で見た場合、お互いが「-」になる。
上から下に見れば「一即一一」であり、下から上に見れば「一一即一」。



これが困難なのはマイナス思考とプラス思考を例にすれば分かるでしょう、
どちらも同じだとは到底思えないのです。




だからこそ「玄語」は未完成とされ、批判の対象となったのです。
さらに問題なのは梅園氏の著書が全く世に出ず、手に入らないという事です。
(同じ時代の本居宣長はこれほど世に出回っているのに!)



しかしあらゆる現象条理を図式化し、体系化したというのは
東洋では私の知る限り梅園氏だけではないでしょうか。



その理論を見てみると(直感的ではありますが)
自然の普遍性(条理)が見え隠れしている気がするのです。



以上、unreveの編集素材の一つについてでした。



2015/02/21

組織の栄養素



unreveは組織を有機体と捉えています。
よって生物学の哲学を取り入れてたり、
構造を身体的なメタファーで解釈しています。



それだけ、一つの組織と一人の人間は
類似する部分が多いのです。



例えば体重を自分でコントロールすることは
人間にとって最初の課題であり、基本中の基本ですが、
それは組織においても同じ事が言えるではないしょうか。



最近ソニーが分社化する方針を表明しましたが、
肥大化によって、身動きが取れなくなっているのかもしれません。




人も組織も肥満体国にならない為にも、
最適なバランスというもの考え方は必要です。




☞ ☞



今までの組織とは、太り続けることが
「成長」だと思っていたところがあります。



収益よりも売上だ、と。
これによって、前年比アップは正当化されるのですが、



はたして近代の組織とは、
本当に必要なものを摂取しているのでしょうか。



栄養のありそうなものを食べているようで、
実は不可欠なものを排除していたかもしれません。



さらに言えば、満腹であるにもかかわらず、
過剰に取ってしまってたのではないでしょうか。



現在、栄養不足による病気こそ減ったけれど、
栄養の取り過ぎによる病気が増えてきているように、



過剰というものは毒に転じるトリガーなのです。











人も組織もバランス良く栄養素を取る事で、
健康な身体を維持できます。



ちなみに人間にとっての五大栄養素は、炭水化物、たんぱく質、
脂質の三大栄養素にビタミン、ミネラルを合わせたものです。



関係ないような話みたいですが、
まあ、気にしないで進みましょう(笑)



まず炭水化物は、体内で吸収され、
エネルギーとして利用されるのですが、
摂りすぎてしまうと肥満の原因となるんですね。



たんぱく質や脂質も筋肉や血液、臓器などを
構成するので、エネルギー源として欠かせない成分なんですが、
これもまた摂りすぎてしまうと生活習慣病となってしまう、と。



そこで残りのビタミンとミネラルの
出番になってくるというわけです。



これらは、体の機能を維持、調節することで
他の栄養素の働きを助けています。



つまり、体というものは、様々成分が様々な働きをして
成り立っていて、これらどれもが欠けてはならないんですね。



車で例えるなら、エンジンとガソリンと、
オイルの関係だとも言えるでしょう。



学校でよく見るイラスト







これらは複雑に絡み合っていますので、
サプリのように、一日どれくらい摂取すれば良い、
という話ではありません。



つまり、栄養素の足し算は全体にはならないわけで、
いくら栄養価が満たされてても、サプリだけで
健康になるなんて、ありえないわけです。



体はいつも、我々に必要なものを呼びかけています。
それに注意深く、耳を傾けてみましょう。




長くなったので次回に続きます^^




2015/02/18

流されながら、抗いながら。


こんにちわ、坂口です^^



この間、部屋の掃除をしてたんですが、
ホコリって、すぐにたまりますよね。



床用シートはあっという間に真っ黒。
一体どこから・・・って感じです。





そういや、よくトイレ掃除をすると
お金持ちになると言われますね。




僕はその理由がよく分かりませんが、
掃除をすると、世界の無常感は分かります(笑)



今日はそんな小噺でも。







さて、我々は新しい秩序を維持する為、
毎日掃除のような行為を繰り返す必要があります。



なぜなら、熱力学の法則によって
エントロピーは絶えず増大していくからです。



例えるなら、砂浜に作った砂山のように、
波によって徐々に形が崩れていく、



そんな無秩序の波に抵抗するかのように、
我々は一時的な「秩序」を作り出そうと試みるのです。



作っては崩れ、作っては崩れ。




これが我々がやっている
あらゆる行為のなのでしょう。



まるで、カミュの「シーシュポスの神話」のようです。






頂上に到達した時点で転げ落ち、出発点に戻ってしまう大きな石を、シーシュポスは永遠に運ぶ。




閑話休題。
ちょっと神秘的(悲観的?)に見えますが、
言いたいのは孤立したシステム内において、秩序は常に失われる、ということ。





よって出入りのある開放型においては
逆にエントロピーの減少(秩序が増加する)可能性もあります。




これを発見したのが以前書いたイリア・プリゴジン。
我々は無常の中に常を生み出す唯一の存在でもあります。




組織もしかり。現在は無秩序の波が
非常に激しい時代ですから作った秩序は
すぐに崩壊してしまいます。
(IT関連なんてまさにそう)




故に、これからの時代は即興的に振る舞える
フットワークの軽い(流動性の高い)構造が必要でしょう、



これを根幹としたものが、リゾーム派生型組織です。




2015/02/17

ブレる思想




思想というものは自己のバックボーンとして
支える役割を果たすが、最初はとても脆いものだ。



とくに若い時は本来のじぶんというものを
つい、メッキで包んでしまう。



そういう僕も、若い頃はピカピカに飾り立てていた。
それがメッキであるとは思いもせずに。



やがてポロポロと剥がれ、鉛の塊が現れてくる。



こんなの自分じゃない、自分じゃない。



しかし、これこそが本来のじぶんなのだ。




それを丸ごと受け止めて初めて、
僕は出発点に立てた気がする。



☞ ☞



それができなければ、また新しい
メッキで覆ってしまってただろう。



それは鉛であるじぶんの否定である。
故に、矛盾した自己はふいに顔を出してしまう。



矛盾というものが本来であることを
肯定しなければ、思想は破綻してしまうのだ。



多分に、一貫性と矛盾との調和からしか
思想はできないのではないだろうか。



揺らいたままの自己の状態を
維持できる流動的なバランスの加減、




まさに背骨(バックボーン)そのものではないか。









思えば、前も悪も固定された存在である。
どちらも完全で絶対な「非寛容な一」だ。



永遠に固定されたものはこの世界には存在しない。
よって、時代と共に、善悪は反転を繰り返しているのだろう。



なるほど、地獄への道は
常に、善意でしきつめられている。



☞ ☞



ブレない思想と言うものは
メッキを剥がし、剥き出しになったじぶんを知る事。



それは矛盾したもの。
綺麗で汚く、強固だが脆い。



しかし、これこそが調和の本質ではないだろうか。




そこで初めて、自分は常にブレる存在だという、
ブレない思想が生まれるのだ。



不純物の入った鉛の自分に、もっと寛容になればいい。



小さくてもフランチャイズは可能



僕は、現在のフランチャイズの権威的な傾向に対し、正直「うーん…」思ってましたσ^_^;



フランチャイズはしっかりしたビジネスモデルも大事ですが、
経営者の情熱さえあれば、可能だと思ってるんです。



以前はこう書くと、非常識な内容だと
言われてきたのですが、




最近、株式会社Dai の
国際フランチャイズ責任者 ダレン ハリス氏は
フランチャイズWEBリポート」内でこう語っています。




以下、コラム「小さい会社こそフランチャイズシステムに向き合うべき理由」より引用



☞ ☞ ☞



日本人の考えでよくある誤解は、1店舗だけではフランチャイズは無理であるということ。フランチャイズ化する前には5店舗から10店舗経営する必要がある、国内で盛んに店舗展開していなければ海外には進出できないといった考えは日本特有だろう。



もしあなたのビジネスに、再現可能なしっかりとしたモデルがあるなら、あなたの会社はフランチャイズ化を検討する時かもしれない。業績が安定しているかということについては、ケースによるがあまり重要ではない。



これは将来儲かるだろう、成長する可能性が高いとだろうと予測できるようなら、フランチャイジーは、フランチャイザーが創業1年未満の会社であってもやってみようと思うかもしれない。本部のサービスにユニークな得意分野があったり、他にはない強みを持った製品やサービスであれば選択するだろう。



アメリカには国際フランチャイズ協会(略IFA)という組織があるが、世界のフランチャイズ組織を代表する最大規模の協会であり、歴史も古い。IFA副会長にスコット・リア氏という人物がいるのだが、彼は次のようにアメリカでのフランチャイズビジネスについて語っている。



「だれもがフランチャイズと聞くと、大企業を連想しがちです。しかし、フランチャイズ本部というのは小さな企業でも運営できます。




実際にIFAメンバーのフランチャイズ企業1300以上の会員のうち、多くは自社ブランドやビジネスを発展させようとしている歴史が浅い小さな会社なのです。 たとえば、介護フランチャイズ。



米国でトップ2や3を争うチェーン、『ホームインステッド』は日本でも大きな存在だと思いますが(ダスキンが運営)、それ以外にも20から25の新しいフランチャイザーが介護で起業しています。



そして、そのペースが落ちることはありません。実情を見てみると、小さな企業がフランチャイズ展開をしているということです。」




他の国では事実そうである。会社がフランチャイズについての検討をいつから始めるかというと、事業拡大、例えば2つめの出店の時だ。その理由はとても簡単で、フランチャイズは成長のためのツールであるということだ。



拡大を決めたら2つの選択肢、すなわちフランチャイズか直営かがあり、それぞれの戦略にしたがい異なるアプローチが必要となる。以下にフランチャイズ成長計画をたてるのに押さえるべき3つ主要なポイントの要約をあげる。




モデル
あなたのビジネスモデルにしっかりした業績があって、健全な収益を出しているのであればフランチャイズ展開を開始できる。開始するのであれば、フランチャイジーかその代理人はあなたのモデルが実行可能かどうかを検討し、デューデリジェンス(投資する価値があるかの調査のこと)を行うので、提出書類をすべて用意し、手続きに遅れが出ないようにしなければならない。明確なマーケティングプランとブランド成長戦略を示せなければならない。


システム
フランチャイジーの経営を容易にし、同一の商品やサービスをどの店にも配送できるようにするためには、明確なガイドラインや手順を準備することが必要である。良質なシステムはフランチャイズ運営のすべての要素をカバーし、フランチャイザーのチェックシステムとしても機能する。たとえば、統合したPOSシステムは、本部で簡単に日ごとにチェックでき、注文や請求から売上や給料の支払いにいたるまでのデータを提供できる。



もうひとつ、国際的に事業展開するときに確認する必要があるのは、自社のシステムは参入先の既存のテクノロジーと互換性があるかどうかということだ。いろんなプロセスをそれぞれの国に合うよう適応させる必要があるかもしれないということも認識しておきたい。



その一方でフランチャイジーは、フランチャイザーによる完全なコントロールのもとで、経営ルールに従うだけの従業員のような立場を希望してはいけない。フランチャイザーはフランチャイジーの話に耳を傾けてコミュニケーションチャネルを確保し、自分のフランチャイズや会社全体についての提案や推薦をできるようにすべきである。フランチャイジーの心理としては自分が経営している実感が欲しいからだ。提案する機会があることで仕事がしやすくなったり、業務に対して責任感を持つようになるだろう。


サポート
もちろんフランチャイジーはフランチャイザーが健全な利益を生むことを望んでいるが、道中で障害はつきものである。フランチャイジーをサポートして最初の設立時の問題を乗り越えてもらい、継続的支援と研修を提供しなければならない。最新の情報を提供してチーム意識を高め、彼らと経営への気配りとサポートをする必要がある。このようなサポートによって、フランチャイジーの力を引き出すことができるし、彼らの会社全体が確実に伸びるよう、彼らは一層の努力をすることにつながる。



結論として、直営とフランチャイズでは成長する上での長所も短所もある。どちらの選択肢も一度は検討するべきだろう。フランチャイズでの成長計画を選択すると決めたのなら、早く成長することも可能であり、フランチャイザーとフランチャイジー両方に健全な収益がもたらされるだろう。




引用ここまで。






全部ではないけれど、賛同できます。
みなさんもぜひ、フランチャイズに向き合ってはいかがでしょうか。





2015/02/16

「部分からくる全部」と、「部分から成る全体」。




日常的には気がつきにくいのですが、
現在、社会は複雑に変化しながら
そのスピードはどんどん加速しています。



その情報量の多さは、江戸時代の人の
一生分だとも言われますね。


それだけ、我々はものすごい情報の中、
日々生活しているのです。


当然、10年前より判断も難しく、迷います。
決して、僕らは優柔不断ではないんですよ(笑)




ここで必要なのは、慌ててその変化の
スピードに合わせるのではなく、
複眼的にバランスを保つ事ではないでしょうか。



公式的なマニュアルだけでは不可能です。
あらゆる状況でも対応できるような即興性が
今後求められるスキルだと思ってます。



近未来でさえ予測できない時代において、
我々は即興劇を演じ切る事ができるのでしょうか?



今日はそんな小噺。





☞ ☞ ☞ 



さて、先ほど予測できないと言いましたが、
もちろん、全部が全部ではありません。



星の運行やボールの軌跡などは
力学の法則によって、予測も理解も可能です。



それは予想はできるけれど、
調べる為の計算が複雑だ、ということ。



プログラミングもそうでしょうし、
ロケットの構造だってそうです。



ただ、これらは複雑系ではなく
「複雑に入り組んだ静的システム」なのです。



反面、生物に関するものは、動的。
全て予測不可能です。



ある日いきなり目眩がした、頭痛がする。
最近、寝ても寝ても、眠くなる。



これらは予め予測できません。
我々は日々、そんな思いがけないことの連続なんですね。



☞ ☞



ここをまずライン引きしないといけません。
「部分からくる全部」と、「部分から成る全体」の区別です。



部分からくる全部はロケットのように
全部を追っていけば、やがて正解に辿り着きます。



故障した、正確に飛ばない。
そんな時は、必ずどこかに欠陥(エラー)がある。
言わば要素還元によって、原因が分かるのです。



反面、「部分から成る全体」というものは
細かく分けていっても、決して単純にはなりません。



「最近、会社の業績が悪い」

「じゃあ従業員一人一人を調べよう、原因が分かるから」。



そんなわけありませんよね。
組織は自動販売機なんかじゃないですから。



☞ ☞ 



ただ、現代の経済学はこういった
要素還元主義へと向かっているように見えます。



経済現象のごく一部を切り取り、
精密な研究によって、法則化させる。
指示書とマニュアルで平準化させる。



そんな生命を無視した論議が
経済学を支えているのですが、



僕にはそれがまるで、地図の上で
旅を計画しているように感じてしまいます。










いったい何が、僕を、そう感じさせるのか。



それこそ、感情からの要請でしょう。
感情だけは、理論化できません。



もしかすると、我々に測ることができない
理論が隠されてあるかもしれないんですが、



それを知った時点で、機械の仲間入りです。
僕はそんな未来はいやだなぁ。



☞ ☞



僕は精神科というものが大嫌い。
精神の「正常性」に、薬が出されるのが嫌いなんです。



我々は見えない感情(精神)が本質です。
また、それは秩序だった性的なシステムではない。



ここを出発点として作る有機的FC組織が
日本流であり、リゾーム派生、というわけです。



☞ ☞



時代の見通しがきかなくなり、
閉塞感が蔓延した時、



我々は昔からの言葉に救いを求めます。
伝統とはそういった根源的な力を持ってます。




場、間、拍子、遊び、加減、揺らぎ。
心地、馴染み、伝統、暖簾分け、大和こころ。




こういった見えない概念を可視化してみませんか?
公式ホームページはこちらから。





2015/02/15

有名店のラーメンが・・・・




こんばんわ、坂口です。
寒い日はラーメンがまた格別に美味いですね( ´ ▽ ` )ノ



そういや、ラーメン好きな方って、
たとえそれが遠方でも食べにいかれますよね。



僕はまだその域には達してませんが、
それだけ人の心を掴んでいるのは分かります(笑)



ただ、そこで自分なりの「究極の一杯」が
見つかれば、そこに通ってしまいませんか?



ちなみに僕はそのタイプで、
気に入った店をグルグル回る感じです。



そのうちの一店が北九州の田川にある
ラーメンまむしさんなんですが、



結構(かなり)遠く、ふらっと食べにはいけない。
(しかも人気店だから二時間待ちとか)



僕よりも遠方の方ならなおさらのこと。
長時間かけて、長時間待つって、最初だけで良いですよね(`-д-;)ゞ



「もっと気軽に有名店のラーメンが食べたい」。




そんな方に素晴らしいサイトをご紹介。
それがこちら「福岡うまかバイ」さん。




こちらの管理人さん、
ラーメン好きからこの通販サイトを
開設しただけあって、熱意が伝わってきますわ。




実際に自分が食べに行って、わざわざ遠くても
行って食べる価値が あるなと思うほど感動した味のお店にだけ通販を提案しているとのこと。




美味しさにこだわるため、冷蔵配送。
なるほど、ここは非常に納得。



てなわけで、試しに買ってみました。



☞ ☞ ☞



今回はラーメンまむしプレミアム贅沢セット
(ラーメン、こく、地鶏、黒+こく1食サービスの計5食)を注文。





こんな感じで一食ごとに分かれています↓




中身はこちら。






この容器に入ったスープがもう凄いんです。
まさに「コラーゲンの塊」って感じ(笑)



麺の固さも簡単に自分好みでできます。
調理時間は10分もかかりませんから、
男性にはたまんないですよね^^




で、完成品がこちら。
(盛り付けが下手でスイマセン)






食べてびっくり。
そのまんまの味や~や~や~や~





値段も全然リーズナブル。
これは本当にうれしいです。




この他にも厳選したお店がたくさんありますので
一度見てみてはいかがでしょうか?




ネット版のラーメン博物館みたいです(。・ω・)ノ



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2015/02/14

もったいない



僕らって、幸せは相対的に比較するのに、
不幸は絶対的に判断しますよね。





幸せなのに人と比べて劣等感、
それほど不幸じゃないのに、すごい絶望感。





「なんて最悪な人生なんだろ」。






もったいないなー。
日本に生まれただけで、かなり幸せだと思ふ。




今日はバレンタインか・・・・(ノω・、)←



2015/02/13

最近の若いやつ




いつの時代も「最近の若いやつは・・・・」と
大人たちから言われてきたようだ。



僕の世代も言われてきたし、
親の世代も言われてきた。



僕も最近口に出しそうでヤバイ(笑)
まあ、それほど世代間にはギャップがあるのだろう。



しかし、そんな若者に対する批判は
根拠なんてない。



現在、たくさんの社会起業家が生まれ、
たくさんのNPOが作られ、よりよい社会を作ろうとしている。




次々と新しい技術を作っている。
真剣に変えようと努力している。



それは常にだらしないと言われている
「最近の若いやつ」だ。




新しい時代を作るのは老人ではない。


クワトロさん、ごもっとも(笑)





2015/02/12

フランチャイズ・マニュアル編集術



マニュアルに限らず、なぜ教えても教えても
自分の身にならないのか?




やってみせ、言って聞かせて、
させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。


山本五十六はこう言ってますね。
そしてこれには続きがあります。


話し合い、耳を傾け、承認し、
任せてやらねば、人は育たず。


やっている、姿を感謝で見守って、
信頼せねば、人は実らず


「見守って」って所がいいですね。
あくまでも自分から始まらなければ意味が無い、と。



☞ ☞


上司がいくら口を酸っぱくして言っても、
100回繰り返して言っても変わらない人は変わらないものです。




よって、職場の秩序を維持できる人の教育や
管理する為の仕組みやシステムを取り入れますが、
それでは不十分です、



例えば、管理する本人が
いない場合はどうなるでしょう。
とたんに本質が出てきます。



これはミステリーショッパーを
導入された会社さんならわかると思いますが、


責任者がいる時の規律というものは、
意外に脆いものです。



強制的に張った弦は、離せば弛むのは当然、
自分で張れるようにする必要があります。



ここを今まで誰も手を付けなかった。




前提に「合理的・画一的」という
方法が無意識的にあったからでしょう。




☞ ☞



本来、こういったものは非効率です。
逆を言えば、非効率性こそ正しいわけです。




学校で教師がある話をした。
一人は心に響き、もう一人は上の空だった。



良書と言われる本を全員に読ませた。
一人は感動し、一人は全く頭に入らなかった。



それが当たり前なんです。
一人一人の「トリガー」は違うわけで、
それを探すのが一番難しい、と。



よってunreveの提供するマニュアルは
常に全員で編集される仕様となってます。
自分流という経験則を形式化させています。



現在は、すでに作られてるマニュアルを
覚えるように教育させていますが、



インプットの時点では、
どれだけ分かりやすく説明しても
手とり、足とり教えても、 身体的反応だけ。



情報は右から左に流すだけですから、
他人に説明もできません。



自分で触れてもいない、感じてもいない状態で
理解しろ、というのは、無茶な要求なんですね。



反面、個人のフィルターをベースに
再構築させる場合、


作った人なら分かりますが、
無意識的に本人の『パターン』が出てきます。



つまり自己パターンが表層化できる、
それを使ってバイトやパートを
教育していくなら、なおさらです。



ここを今までは閉鎖型(メモ書き)程度で
終わらせていたんですが、



それを共有知として開放型にすることで、
インプットとアウトプットが可視化できるのです。



☞ ☞



支援したチェーン店の大半は
マニュアルを渡されるか、言われた事を
そのまま書くだけで終わってます、



そんな形骸化された指導はいらないでしょう。
マニュアルを渡されるのとなんら、変わりません。



しかし、ごく稀にそのメモをちゃんと
自分流にアレンジしている人がいました。



それを見ると、現場ごとの微妙な誤差が
書いている、これを見て閃いたんです。



個人(個店)という閉鎖系の概念を
閉鎖系で終わらせず、開かせればいい。



それで売上(作業)が好調になるなら、
そのマニュアルを他店に水平展開できるし、



不調でも「その原因が分かる」。




どっちに転んでもメリットがあるんです。
その仕組みさえあれば、SVは必要ないんですよ。



2015/02/08

日本流フランチャイズ概念

リゾーム式フランチャイズという考え方は非構造、
言わば「非システム(科学)的」だと言う事だ、


なぜならばリゾームは散逸構造的な
非秩序の産物である、よってマネジメントを単一化できない。


受験のようにペーパーテストで「点数の高い人から・・・」的手法なら、
これほど楽で、簡単なものはない。



しかしこれだけ情報が瞬時に手に入る時代、
暗記や数値化という管理スタイルがいつまで続くだろうか。


企業理念を暗記しただけでは、その背景にある
「思い」は伝わらない、実際私もそうだった。


よって私はIQやEQよりも、
ブリコラージュ的な地頭を発揮できる集団が必要だと思っている。


「フットワークが常に軽い状態」。
こう書けば、誰もが正しいと思うはずだ。


しかしフットワークの軽さは管理できない。
それはあくまでも本人の内部動機に由るからだ。



よってこの手法はビジネスでなくアートと言われるかもしれない、
それは創造的かつ流動的な「状態」を指す。



つまり明らかである反面、実際にやるのは難しい、と。
だから安全パイである「階層型秩序」で固定したという気がしてならない。



イチイチ議論をすり合わせたり
全員の意見の統合をする時間なんてないって事だろう。



完全なる自主性はリスク容認と同義なので
とばっちりを喰らう可能性を見越しているのだろう。



もちろんそれは理解できる。
それに我々はキレイな形ができると、それを崩したくはない。



壊したくないから細部をちょこと変えたり、
一部をちょこっ・・・・と動かしたりするはずだ。



誰も責任は取りたくないし、失敗のリスクだってある。
だからお構いなしにガンガンやられたくないのだ。



ただイデオロギーなんてこれからの多様な世界では
通用しなくなるよ、という事から、



「一度土台から崩して作るのが難しいなら
フランチャイズというスタイルで作ってみませんか」
というのが僕からの提案である。



ただ、それを十分な根拠や裏付けがない状態で
声高に叫んだとしても、最終的には説得力がない。



また、加減が分からなければかえって混乱する。
それで一番困るのは当然、加盟店である。



よって、自己表現的な思想作品ではなく、
客観性を持たせるためにこうやって記事にしている。




対話で説明しても、相手は自分の知識内で理解しようとするから
まずは情報の共有から、と思ったのだ。
導入するか否かは、そこから判断すればいい。



積もる文字に神は宿るのだろうか(笑)
そんな事考えつつ、今回のテーマ。



☞ ☞ ☞


さて、リゾームを派生させる際、ある約束事を破る必要がある。
それは「現場」と「システム」とを切り離すという事だ。
��人とシステムと言っても良い)



なぜ「切り離す」と書いたのか、
その理由は、現場とシステムの明確な差異を知ることが必要だからだ。



ここまでが重なっていて、ここからは完全に別ものである。
という、「現場とシステムの誤差」を完全に理解することだ。



その誤差は数値ではない。
しかし後に大きな数値として現れる性質を持つ。



マニュアルが超えられない壁は、まさに「ここ」であり、
システムが超えられない壁もまさに「ここ」にある。




端的な例でいえば「英検1級取れば外人と会話できるのか?」である。



ならば我々人間はどちらを見ればいいのか。
システム(形式)なのか、人なのか。それとも両方か。


それらを同時に知覚しようとすれば、二つの世界の間で迷うばかり、
だからこそ、現場とシステムを完全に切り分ける必要があるのだ。


☞ ☞ ☞


そもそもシステム(科学)は「万全」ではない。
これをまず頭に叩き込まなくてはいけない。


システムは、現象が「なぜそのようになっているか」には答えられず、
「そのようになっているだろう」ということを推測・証明しているにすぎない。


重要なのは関与者が積極的に参加し、
現実とシステムを区別しながら議論し、学習し、実行することである。



自己言及的な閉鎖システムがと比べ、我々は
他の生命システムと相互作用することで相互理解が可能となる。



相互作用を持続させれば一段上へ創発(突然変異)し、
新たな価値システムは生まれるだろう。



それには、我々の異なる意味解釈を対話によって調整しながら
把握し、実行可能な概念モデルを作成する必要がある。


上記の「異なる意味解釈を対話によって調整すること」
これこそが「ゆらぎ(多義性)」の調整であり、
形骸化したシステムから新しい秩序を構築するのだ。



よってフランチャイズする際、マニュアルを作るならば
全員が参加して永続的に更新されていくスタイルが一番良い。


サイボウズでもアイポでもなんでもいい、
無料のグループウェアなんて、ゴロゴロある。


つまり集合知をクラウド上に掲示させ、常に各加盟店の実績や
体験を上書きさせるような「編集可能」状態にしておくことだ。


繰り返される編集は競合と協業によって
均一的なずれ(ゆらぎ)を引き起こす可能性を持つ。



私は「相転移からの創発」の初期条件を「場の創造」と仮定している。
これは既存の階層型ではまず不可能だ。



本部の最重要機密であるノウハウを
クラウド上に掲示させ、さらに都度変更させるなんてとんでもない、と思うだろう。

しかし硬直化や形骸化は「固定」したと同時に始まる。
これは全てを変化流動させるという意味ではなく「コア」を活性化させるという事だ。


そのコアこそが「感性を伴うポジティブ・フィードバック」であると
個人的に思っている。



☞ ☞ ☞



「強いチームが勝つのではない、うまくやった所が勝つ」と
どこぞのだれかが言っていた気がするが、とても本質的だと感じる。



システムは人間とリンクする、しかしあくまでも主体は我々だ、
虚飾や表面だけ見栄えのいいシステムではやる人間は取り残される気がする。



ガチガチのシステム=立派な本部というのは
��私にとって)幻想だ。


その管理下ではシステマティックなサービスは提供できても
ディズニーランドのような感動は「絶対に」起きる事はない。



根性や努力のような精神論は、好きだからこそ正当化できるし、
また、好きなことと言うのは、当たり前だが自分が主役でなくてはいけない。



そこを無視するとえらい目に合う。
我々はシステムに服従する側ではない、本来システムは利用するのだ。



てなわけで本質回帰、次回は論理的な面にチャレンジしてみよう・・・かな(^_^;)


ホロン経営



ホロン経営とはホロニックマネジメントの略。
以前ブログでも紹介したアーサー・ケストラーの「ホロン」である。



ちなみにここ日本では前川製作所が
「ホロン経営」の先駆者と言われているが、
このホロンとリゾームは同概念、
端的に言えば組織の個と全体の調和が目的である。





部分=全体




前川製作所にはマニュアルもなければ
テキストもなかったという。一年に何十回と
ミーティングを行い、そこには社長も加わることで
企業の志向性は強化され、共有されていったのだ。


その集積が企業風土となり、文化となる。
まさに繰り返す事で形成される「轍(わだち)」、物語の共有である。



調べればこの国の優良企業の多くも、
このように大きくなる事より内容や質を高める状態を目指してきたようだ。



ある程度の規模になると最適単位としての
組織構成、あるいは分社化によって それぞれが
独立採算型(プロフィットセンター)になる運営手法をとっていたのだ。



つまり小規模であることのメリットを
最大限に活用する為に「最適単位」を維持し、
そのネットワーク網を構築していくという「立体的な組織構築である」。



その立体的な球体の中心は変わらない。
それが中心点こそ「理念」である。



☞☞☞


unreveの「場」とは、ルールや規律を作ると言うよりも
決定事項をそれぞれが明示・暗示的に共有できた状態の事を指す。



それらは全て「関係性」の質そのもの。
この部分だけはアナログを超えることはできない。



例えばどれだけ良いマニュアルを作っても
分厚いパンフレットを作っても営業マンが右から左へ
ただ流してしまうような説明をすれば意味がない。



熱意や感情が伴わない言葉など
すぐに見抜かれてしまう。機械的に
「ありがとうございました」と言うようなものだ。



端的に言えば各個人の主体性の有無である。 
ここをいかに創造するかが、組織の
最大のターニングポイントだと言えるだろう。



質問は闇の中で



前回書いた儒学者、伊藤仁斎の長男である伊藤東涯氏は、
仁斎氏と同じく人に教える事を生業としました。



名物六帖や古今学変、弁疑録といった著書を世に送り出し、
教えていたのはそれぞれ身分の違う「武士」・「公家」・「町人」でした。



当時、生活が楽ではなかった東涯氏。
教える際には「私の講義は油が尽きるまで行います」と言ってたそうです。





その後にこう付け加えています。

「・・・・そして質問は油が尽きた後、闇の中で行って下さい」。




皆さんどう思われますか^^?
一見生活が苦しい為、火を灯す油代が買えなかった為と思うでしょう。



しかし東涯氏の本心は違った所にあったんですね。




当時、学ぶ人の中で身分や職業の優越感から
「自分は上座に座るのが当然だ」と思っていた人が多く、



特に公家にはそういった意識が
とても強かったと言います。



ただ、東涯氏は特別扱いはしなかった。
身分・職業関係なく、先着順に座らせたのです。




そうやって油の尽きるまで、講義を続けた東涯氏、
一つの理念、教える側の姿勢とも言うべきでしょう。



中途半端な時間で終了し、「それでは質問を」という
自分の姿は手を抜いているとも感じたんでしょうね。




東涯氏の良心がよく表れています^^



☞ ☞



さて、こういった配慮をしたのには理由があります。



想像すると簡単です。
身分格差、差別のある場所で質問タイム、
どうなるでしょう?



そう、火の灯る明るい場所では町人が質問をした場合、
「おいおい、あんなヤツがおかしな質問してるぞ」と。



公家の人間は見下してしまうんですね




そうなると本当に知りたい事があっても、
そんな侮辱や蔑みがあると思って口に出せないじゃないですか。



さらに質問しようという「気持ち」さえ失ってしまう。
これを一番東涯氏は心配されたんですね。




どんな質問でも決して恥ずかしい事ではなく、
むしろ知識意欲の表れです。




そんな具合で「質問は闇の中で」というのは、
「身分が低くても、稚拙な質問でも堂々と言える場」を作ったんですね。



当然通っている人には暗闇の中でも誰なのかは分かるでしょう。
それを東涯氏自信も「分かっているぞ」、という「にらみをきかす」事で



「たとえ暗くてもバカな質問を続ければ笑われる」とも思わせ、
逆に明るい場所ではより集中して聞くようになったと言います。



2重の意味がある「闇の中での質問」。
闇はあくまでも形式上の仕組みで本質は違う所にあった。



うーん、流石です^^



しかし闇になるまで(油が尽きるまで)講義を続けるって
結構大変な事だと思います。



これってまさに日本人の美徳である「心配り」ではないでしょうか?
質問をする事や質問の時間は平等なだけで、公平ではありません。



これをさらに身分の差を無くす仕組みを作る事で「公平」にしてます。
平等と公平は似てて非なるものですね^^



もし将来セミナーをするならこれで行きますわ(笑)
ではでは。


場の形成と揺らぎ




独立以前、飲食と小売とサービス業の大手FCを経験した。
そこでは共通の問題があった、それは秩序が作りだした「歪み」である。



FCだけでなく、組織の人数が増えれば増えるほど、
利益であれ不利益であれ、自分への影響は減少する。



結果、個人の存在感や重要感も薄くなる為、
「自分がやっても結果は変わらない」という空気が蔓延してしまうのだ。



これによって「数は力なり」ではなく、
「数は無力なり」となるのだろう。



今日はそんなところから。




☞ ☞ ☞


さて、私が支援しているFCは
加盟する「個人」が最も重要であることから、
形式化できない「暗黙知」を共有する
場の形成を取り入れている。



よく「御社のノウハウを全て視覚化します」と
いっているが、これは不可能、



可視化とは意味の固定である。
しかし、本来のノウハウとは動いている。
常に「揺らぎ」が発生しているのだから。




現在、組織形態にこの「ゆらぎ」を
関連ずけた研究発表はないが、
間違いなく、ここに答えがあると確信している。



「全部を作る」のではなく、「全体を描く」。
ここに、揺らぎは自然派生するのではないだろうか。




☞ ☞ ☞




1987年、アサヒビールがキリンに次ぐ業界第二位となり
トップとなった。成熟商品がここまで広がったのは奇跡的である。



これを実現させたのは住友銀行から
派遣された村井勉氏だ。




村井氏は就任する前の相談役であった時、
何をやったかと言うと徹底した「対話」であったという。
社員と積極的に対話し、全体の空気感を把握した。



すると、リスク回避的風土とセクショナリズムな
経営体質が蔓延していたのが分かったのだ。



これは目に見えるものではない、感じるもの。



氏はそこから意識改革を始めたのだという。
その最初の改革が経営理念、すなわち「企業文化」である。




アフォリズム



ツイッターやフェイスブックでは
日々、名言が拡散されている。



本屋を見れば過去の偉人の言葉を編集した本が
ズラリと並んでいる。



なるほど、現代はリアルとネットの両方から
常に警告が鳴らされていて、



これは現在、社会への論法が
「アフォリズム」であるからだろう、



正当論を述べ、訴えるのではなく、
何か警報を発し議論を喚起させる。
これがアフォリズムである。



多様な価値観とは言い方を変えれば「曖昧」なのだ。
つまり真価や、基準が明確ではないということ。



そうなると何を基準に、指針にしていいのか
ハッキリしない。



そこで曖昧多様なものに対し、
各自が目の粗い網を無意識的に作り、
そこに引っかかった現象に対し警告しているのだ。




思想家を始めとした偉人達の言葉で端的に
喚起しているのは、その「目の粗い網」なのだろう。







自分を大事に

他人から裏切られたとかよく聞きます、
「あれだけ信じていたのに、何で」と。




僕も何度か経験ありますが
これも人間の本質やから仕方ありません。




当然、仕方ないと思えないのも人間であって、
時間をかけ、疑心と信頼の割合をちょっとずつ変えていくんでしょうな。




信頼といえば私は100%信じているものがあります。
これは死ぬまで変わらないというやつ。




それは自分の体です。
断っておきますが、ナルシストやないですよ(笑)




☞ ☞



人の体って凄いんですよね。
何がスゴイかってその機能です。




心臓は全身に酸素と養分を含んだ血液を送り続け、
汚れた血を取りだし、それにまた酸素を入れて新しくしてくれる。




これを一分間に約80回程度してくれる、
誰にも指図されている訳でもないのに。




ご飯食べてる時も、寝てる時も、遊んでる時も。




落ち込んでる時も泣いてる時もやってくれてます。




もちろん自殺しようと思ってる人でさえ、それを繰り返しているんです。




擬人化っぽいですが、「もう死にたい・・・」と思ってる時でも
体内では、心臓やらが一生懸命やってるんです。




誰の為でもなく、全て僕の為に、です。
これを考えたら自殺なんて、自分の体への裏切りですわ。




起きてから寝るまでの間に何度かトイレいくでしょ?
それも思えばスゴイ事です。




トイレの神様はいるかどうか分かりませんが、
トイレに行ける体を作ったのは神様じゃないかな。



☞ ☞



日々、僕らが何事もなく過ごせてる陰では
体が休むことなく働いている。





それを考えただけでも毎日がありがたく感じます。
「あー、今日もありがとう」って。





これは100%信じれますね。
僕らはたまに病気になりますけど、頑張ってる証拠です。
下痢とか嘔吐なんてのは悪いものを出す為ですしね。




心と体を大事にしたいもんです。
大事にするって事は「意識する」ってこと。








キコリとサトリ

「キコリとサトリ」という逸話があります。





サトリという、人の心を読む事ができるという珍獣を

キコリが捕獲しようとするお話。





心を読むだけあって、生け捕りにしようと思えば

「おや、生け捕りにしようとするのかね」と。





斧で殺してやろうと思えば

「今度は殺そうというのかね」と。





このように、ことごとく心の内を読まれてしまいます。





こんな不気味な動物を相手にしても仕方ない、

かかわらないで、本来の仕事を続けよう。





そう思ったキコリが、

一心不乱に斧をふるって木を伐っていた所、





斧の頭がスポッと柄から抜け、

サトリの頭に当たり捕まえられた、というお話し。







さて、この話は物語風ではありますが、

実に本質を掴んでいます。







有名になろうとしても、大儲けしょうともがいても、

現代のサトリともいえる市場を捕らえることはできない。





損得、我欲を思わず、没入する無心によってのみ、

結果として捕らえることができるのでしょう。






それを無謀ながらも体系化しようと試みているのが

このブログでもあります。


ちがいを豊かさに

人権の絵本〈2〉ちがいを豊かさに/大月書店



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あるところに三つ子の王子がいました。






王子たちは何もかもそっくりでしたが、


三番目の王子にはひとつだけちがうところがありました。




上の二人の王子はつむじが右巻きなのに


彼のつむじだけは左巻きだったのです。






「おまえは左巻きのくせになまいきだぞ」




末の王子はそういじめられるたびに


「どうしてぼくだけ左巻きなんだ」と頭をかかえて泣きました。






それから数年後、その国では


左巻きの王子が王位につくことになりました。




上の王子は二人ともはやり病で死んで 

しまっていたからです。




左巻きの王様は左巻きの家来だけを大臣にして


「つむじ令」という新しい決まりをつくりました。




1.右巻きは左巻きに従わなければならない。

2.右巻きは左巻きとおなじ地区にすんではならない。

3.右巻きは左巻きとおなじ乗り物に乗ってはならない。

4.右巻きは左巻きとおなじ学校に行ってはならない。

5.右巻きは左巻きと結婚してはならない。




「つむじ令」が出るとそれまで仲よくくらしていた


家族や友だちや恋人はひきさかれ、離ればなれになってしまいました。




「つむじ令」で得をしたのは左巻きで損をしたのは右巻きです。

しばらくすると左巻きは右巻きを軽蔑し、




右巻きは左巻きをうらむようになりました。




それから100年後、「つむじ令」はなくなっていましたが、


今でもこの国では左巻きと右巻きが平等ではありません。




人間のつむじに右巻きと左巻きのちがいがあるのは


あたりまえのことなのに!








みんな同じ顔なら   

顔はないもおなじ



みんな同じ名前なら 

名前はないのもおなじ

...

みんな同じ性格なら

性格はないのもおなじ



みんな同じ性別なら

新しい命は生まれない



みんな同じ感受性なら

新しい音楽は生まれない



みんな同じ意見なら

新しい考えも生まれない



みんな同じ速さなら

��00m走は行進と同じ



どこへ行ってもおなじ風景なら

観光旅行は牢屋の散歩



いつの時代もおなじ世界なら

タイムトラベルの夢も消える



誰もがみんな同じだったら

私はないものとおなじこと










岩川直樹「ちがいを豊かさに」より












最近、本を貼り付けてばっかりですね(笑)



兎と亀と競争と

ども、unreveのグッさんです。



さて、今日のテーマは「兎と亀と競争と」。

あくまでも個人的な意見なのです(・ω・)b



☞ ☞





さて、ウサギとカメの話しを知らない人は

いないくらい、有名な話です。




(改めてあらすじを書くのもなんですが)

ウサギとカメが山のむこうにある旗を目指して競争します。




ウサギはやっぱカメより早いから

あっという間に追い抜いてゴールの旗の手前まで行きますが、






「ここまで来るにはずいぶんかかるだろう」と

油断して昼寝してた間にカメに抜かれる、という内容です。





さて、今の競争社会の中で、同じ事をやってる所が

たくさんあります。





つまり「何を目指すのか?」が明確になっていないんです。





油断する、しないとかじゃないんです。

「ウサギは一体何を見ていたのか?」が重要なんです。




ウサギがもし「ゴールの旗」だった場合、

途中で寝るなんて真似しないはずです。





だって欲しいのは旗に辿り着く事なんだから。




でもウサギはそうじゃなかった。





何かと言うと「カメを追い抜く事」だったんですね、

抜く事による優越感です。





だから抜いた後もカメばかりが気になって油断した。




しかしカメはそうじゃなく、旗だけを見てます。

抜かれても、旗だけを見て歩き続けます。





(邪推ですが)人間的な心情であれば、ウサギが寝ているのを見て

「バカだな~」と思ったりしたかもしれませんね(笑)





さて、僕らは起業する時とか起業した時期は、

特にウサギの状態になりやすいです。




「あいつ起業して2年でもう億単位の売上だtってよ」



「商工会の同期の●●が今度5店舗目だって」




そんな話を聞いて、多少なりと嫉妬混じりの焦りとか迷いとかが

でてくるもんです。




軌道に乗らない時、運転資金が底をついた時、

失う事で不安も大きくなるでしょう。




周りを見る前に自問してみましょう。

起業した目的はいったい何だったのかを。




ゴールが明確であれば、他がどれだけ先に行こうとも、

自分の歩いている道に迷いはないはず。





FCでも同様、展開する明確な目標さえしっかりしていれば、

どれだけ時間がかかろうとも焦りはないはず。




数値目標だけでは未達成が不安になります、

しかし数が増えたら継続して続くわけではないのがFCの怖い所。




例え100店舗急激に増えたとしても、

3年後には半分以下になっている可能性なんて普通にあります。





FCは数の競争ではないことを自覚して欲しいです、

全てに共通することですが、明確なゴールに向かって歩み続けることが大事です。




ではでは、また次回。

Bless youアップ


「警告ばかりで処方箋なし」~成功者のダブルバインド~

ある人がメッセージとメタメッセージが矛盾する


コミュニケーション状況におかれること。




これを二重拘束(ダブルバインド)と言います。


意識的にせよ、無意識的にしろ、これをやってる人には注意しましょう。





「警告ばかりで処方箋なし」


今回はそんなお話し。




~暖簾分けフランチャイズを全国に~グッさんの一期一会ブログ




さて、このダブルバインドでは条件(ニュアンス)を曖昧にすることで、


相手の全ての行動が管理できます。





程度という「加減の度合い」とは、本来自分で問いかけるしかないのですが、


その「加減の定義」を他人に委ねてしまうのです。





例えば「明るい」という態度とは加減次第によって十人十色、


人によっては「軽い」、もしくは「無責任」に映ってしまいます。




「真面目」もそうだし、「真剣」もそう。


態度とは本来「理想的な状態」なんて定義できないのです。





周囲の目で判断する人の多くは


「自分のやってる姿がどう映っているか」を極端に気にしますので、





成功者と言われる方に「理想的な状態」を求めます。


やり方だけでいいのに「在り方」まで似せようとするんですね。






正直大変ですよ、これ。






そもそも、他人と違ったことをするのが嫌なのは、


根底に「他人から悪く思われたくない」という自己防衛本能があるから。







それを「他人に対するマナー、思いやり」として正当化してるだけ、


スタートの時点で間違っているんです。





今の教育の根底にあるのは、自己防衛型の「自己変化・改造」です、


これは以下のどっちかにしかなりません。





第一に、その相手の思う、100%のイメージで動く場合。


第二にその相手の思うイメージ通りに動かない(動けない)場合。






つまりある報酬(内的・外的)を、内部ではなく外部に求めた場合、


最終的には「ロボットか、さらなる不安か」のどちらかにしかなりません。





よく「成功する方法」とかのレクチャー本があるじゃないですか。


あれって完全なダブルバインドなんですよ。






だって「あるがままのあなたが素敵ですよ」とか、


「個性が一番、大事にしましょうね」とか書いてるかと思いきや、




途中から「こうやってる人は不幸です」とか


「なんでも笑顔で楽しめば人生ツイてくる」とか、





「その人の条件」が書かれてる。


普通に考えれば「えっ?そのままでいいの?ダメなの?」ってなりますわ。





多様性を認めつつ、ちゃっかりと「条件付きの教義」を入れてる。


どちらにも言及しない、まさに「ダブルバインド」の典型例。





では、「あるがまま」とはなんでしょう?




「あるがまま」とは善悪二元のような白黒論ではありません。


つまり条件自体がない、無条件なんです。





外部条件を無理矢理くっつけても


人、環境でその都度変わってしまいます。





そうなれば「どっちにすればいいの!?」と混乱するのは必然。


結果、支配者と被支配者という「依存構図」が自然に発生するんです。





つまり現在の自己啓発とは自己の名を借りた(他者依存)洗脳に近いんです。





成功者の指導で上手く行かない人がお金を落とし続ける構図、


失敗の都度「これはそうじゃなくて、こう」と言われる。





自立を促すのが独立の本来の趣旨なのですが、


一人で判断するのは危険だと言う「リスク回避」が原因で正常な判断ができません。





成功が独立独歩だというのであれば、


本来何も教えを乞わず、何も与えられず、自由です。





成功が他者からの学びだというのであれば、


上記のように「コピーロボット」になるしかありません。





あなたはどちらを選択していますか?





さて、パラドキシカル(逆説的)な状況の定義が弱者に強制されるとき


このダブルバインドが発生します。




弱者とは強者になる前の段階です。


つまり定義として



・独立したばかりで売上が少ない



・困難な人生ばかりを送っている



・不幸な環境から抜け出したい



・何をしたらいいか分からないから指針が欲しい



・自分は成功していないと思ってる





といった「自己否定」です。




その根底には


「楽したい・自分で考えるのが面倒」という心理や


「自分で判断、決断したくない」という心理、


そして決定的な「自信の欠如」が働いています。




世のコンサルやコーチとは、


本来自発的、自立的な行動を促すのが目的なのですが、




判断を外部に委ねるような教え方をしています、


それは完全に依存の関係性、





しかも「自立的な依存」という笑えない話です。





その結果、言われたとおりにすることで、


肝心の中身である「あるがままのあなた」がどこかに行ってしまうのです。





これを解決する方法は一つ、


とにかく「支配者から逃げること」です。




成功者の本を破り捨てる、見える場所に置かない


教えを絶対化しない、道から外れてもそのリスクを自分で受け止める。


極論、青い鳥を探しに行かない





「自分の幸せくらい自分で掴める」と思う。


たったこれだけです。





上手な支配者は逃げられないように手を打ちます。


ダブルバインドを完結するための、最終的な手段が「脅し」です。





脅す事で逃げることを禁じる、


これを「第三次禁止命令」と呼びます。





占い師やイカサマスピリチュアルの先生がよく使う、


ちょっとした洗脳論です。





「道から外れたら大変ですよ」


「自分勝手にやると痛い目に合いますよ」





では、宗教戦争が絶対的教義の道同士、という事実。どう説明する?





「頑(かたくな)になっていると大事なものに気付かない」


気付かないのではなく、それをやる事でしか本質の気付きは起きない。


(病気にならないと健康が分からない)→まず頑なになる段階が必要(必要悪)





「人は一人では生きられない」。


そんなの当たり前。


逆に一人で生きれない環境で苦しんでいるのも人間。


(有無同然)




「これからの時代、成功する生き方はこうだ」


共同体のマジョリティ的な理念にすぎない。


多数決が正義という指針は、民主主義が犯した一番の失敗。





こうやって自分の本質的な感情を「自己肯定」する事で


乖離の幅を知る、これが批判することで得られる「ありのまま」です。




もう一つ「受容することで得るありのまま」もあるんですが、


仏じゃない僕には無理(笑)





詭弁のように映りますが、詭弁とは自己防衛です。


自己肯定と自己防衛は意味が変わってきます。





楽な方に逃げるのが詭弁の様な自己防衛(子供の言い訳など)、


上記の「第三次禁止命令」も、全てにおいて「排他的」です。





このような排他的な自己の引きこもりとは危険思想の原動力、


オウムのような宗教思想へ向かうきっかけにもなります。





反面、自己肯定とは他者肯定、「我よし、人よし」です、


相互理解なので、善悪や正解を求めてはいないのです。





本来誰もが違ってるのは当然なんですけど、


誰からも責められない自分を求めているのが現在です。






この正解とは言わば「正義」、他者攻撃へ向かう原理です。


これが前回書いた「間違った利他行為」であって、


世間の常識によって勝手に作られた白黒の善悪論です。






だから「自分勝手にやってる私なんて最低だ」、


なんて思考回路になる。


(自らの感情を排除する)





さらにその内面(内部世界)がそのまま現実世界なので


自ら作ったものに自らが恐れる、という。





違う違う。


心の声はあなたの本質、最低なんかじゃない。





私はそれを一瞥し、完全に逃げてます。


だからといって、それが理由で不幸になった事が無い。






多様性の道とはまず自己の内部肯定からです。


正解なんて、そもそもが存在しないという自覚から生まれます。






ただこの国の都合のいい一元論、まだまだ続きそうですけど、ね。



恥を忍んで

今回の記事は自戒の意味で。


さて、現代は表現の時代である。
私を含め、インターネットによって個人活動、表現が飛躍的に上がった。


編集ソフトで動画番組が作れる、自作の歌、文章も作品としてネットで表現できる、
絵も売れる、アクセサリーも売れる。究極、思想さえ「売れる」。


フェイスブックで実名の抵抗感がなくなったのも手伝ってか、
これからは個人表現の時代となるのは間違いないだろう。


そして規制のない自由な市場は玉石混淆となる。
自由主義思想の暴走、これは世の常である。


アメリカのお家芸である「短期的・投機的」な儲け話は多くの成金を生み出し、
「楽に儲ける」という思想がネット世界の代名詞となった。


奇妙で馬鹿げた諸説を流行させたり主張したりするのは簡単である、
曖昧で分かりにくく、意味のハッキリしない言葉をふんだんに使い、「周囲を固める」。


そうして出来あがるのが現代のおかしな「思想」である。
そこには都合よく繋ぎ褪せたパッチワークのような「ちぐはぐさ」が見え隠れする。



ユングやらフロイトやらを引き合いにしたデタラメな潜在意識の提唱者、
原始と大乗がごっちゃになったイカサマ仏教哲学者。


中途半端に神智学にのめり込んでしまったオカルト的救済論者。
意味もなく瞑想を進めるカウンセラー、それは虚禅であり達磨太師と変わらない。


他にも成功者の名言さえ出せば良い事言ってると思ってる、メッキ張りのコーチや、
欧米から輸入したと言えば間違いないと思ってる輸入コンサル。


感化、この類をネットでどれほど見たことか。
コピーは劣化しか生まないのだが、消えることなく次々とコピーされている。


真似が悪いのではない、私だって引用もすれば真似もする。
しかし必ず自分なりに咀嚼し、検証し、理解しているつもりだ。



独立して以来、ネットワークビジネスをやっている社長をよく見る、
こういった類のビジネスに興味を持つものは大抵正当な理由を武器としている。
そして必ず一人ではない、常に仲間がいて集まって励ましあっている。


それは正々堂々としたものではなく、盗賊が住みつく洞穴のようである。
誤謬はそもそも人間の知性と相容れない、不条理を擁護して得るものは曖昧さだけなのだ。
比喩と証明を勘違いしてはいけない。



部分観ではなく全体観。木を見て森を見るのではなく、
そこから大自然、地球、宇宙と続き、それが最小へと内包する全体観が必要だ。
表裏一体、俗に言う「ウロボロス・メビウスの輪」である。








細部に宿る何か

飲食店は同じ立地で、同じ業態で

10年以上続いている確率は4%未満だと言われます。



しかし周りを見れば10年以上続いている店は意外と多く

「ホントに4%未満?」と言いたくもありますが、


実際の数を見ると・・・・うーん、納得してしまいます。

(下図はデータの一例)





毎月、約1000件程度が倒産してます。

つまり年間約1万件。

(ちなみに先月の倒産件数は951件)




倒産、廃業の理由は不況型倒産が多く、

販売不振、輸出不振、売掛金回収難、不良債権の累積、業界不振の総称です。



こうやって好きでもない統計を出すのには理由がありまして、

日本は1990年ごろから約20年ほど廃業率が開業率を上回る状況が続いてて、事業所、企業数共に減少してます。



起業希望者は100万人以上いるといわれますが、

潜在顧客の様なもので、実際は未知数です。




現状起業者は高齢化とならずに、少子化傾向なんですね。

10歳まで生きれる可能性が上記のように数%



これって家業、自営が主流だった昔の人が見たらビックリしますよね。

事業が継げないじゃないですか。



さて倒産の売掛金回収不能とか、不良債権とか、輸出不振とかは

外部問題なので何ともいえないけれど、



販売不振、業界不振は誰にでも可能性はあるわけで、

やはり売れてる所は売れてます。



じゃあ何で今の会社は長生きできないの?という疑問から

今回記事にしてみました。



個人的ですが企業という経済活動の軸や

起業という個人の活動がマネーだけの尺度で評価されていると言う事が一番の原因かもしれません。






だって独立にしろ、会社員にしろ、

本当に大事なの事は満足や幸福という数値化できない感情部分と思うんです。




業種業態が変わっても大体抱えている問題はこれとほぼ同じです。

ただ細部やニュアンスが違うだけ。



その細部を通り一辺倒のノウハウ型や

日本に馴染まない海外のマーケティング手法という型にはめるとどうなるか?



さらに現在の主流である成果主義や、

株主利益最大化の経営方針だとどうなるか?





僕は全然楽しくないですね。

入ったお金で楽しい思いができるかもしれないけど仕事自体が多分楽しくない。



以前会社は人と同じだと書いたのを思い出しました、

会社は内部(心)次第で変わるもんだって。



金だけが理由で好きでもない事ばっかりやってたり

友達(お客)ではなく親(株主)の事だけ考えるとどうでしょう?



過剰なストレス生活を続けているようなもんです。

成長する為に成長ホルモンとか投薬するようなもんです。




寿命が短くなる気がしませんか?




それだったら好きな事を好きなだけやった方が長生きしそうです。

無茶苦茶しろとかじゃなくってですよ。




それが独自性とか個性とかのきっかけで、

自社独自のビジネスモデルの一歩かもしれないですね。




あくまでも個人的な意見なので盲信なく、です(・ω・)b

ではでは。


希望的観測

日本人は希望(理想)と現実が交差すると、

希望的観測の方を優先するという特性がある、と言います。





それはある種の「思考癖」とも考えられ、

思考の方が現実と思ってしまう(現実を覆う)ある種の錯覚です。





例えば何らかの不安要素から生まれた将来の「リスク」。

年金や雇用問題や健康、色々あると思います。





しかしそういった現実の問題の多くを直視せず、

「それが現実にならないでほしい」という「希望」が優先されるんですね。





つまり願望や希望が思考の最優先事項になると、

現実を見誤る可能性が高い。







楽観的観測は人生の処世術だという考えは僕も同感です。

常に「ない」不安に怯えるよりも「ある」ものに目を向けるのはとても大切。







僕らは希望を糧にして生きているバクのような動物のようだ、と極端な事を言う人もいますが、希望も夢もなくなった場合、人生がとても苦しいものになってしまいます。







ただ、この思考も同様、光と影を生みます。

状況がガラっと変わった場合、その場に応じて判断し、行動する事が出来にくくなります。







足が止まってしまい、希望的思考だけが現実を覆ってしまう。

そうやって徐々に弱ってくる「ゆでガエル」の状態が影の部分です。







なぜ人は行動できないのか?

それを以前知りたかった時がありました。

(暇人ですね)





漠然としてますが、結局日本には

原理主義が浸透しなかった事が大きな理由じゃないでしょうか?









日本人は原理原則に向かって行動を起こせないと言われています。

なぜなら人生の大原則の起源は宗教から発生するものであって、





7割が無宗教と答えるこの国には浸透しないんですね。

その点キリスト教圏の国は原理・原則に則り、行動します。





モーセの十戒のように、禁止と強要が原理原則として存在し、

それをやらない人間は神に反している、と。





国民性としてそういった原理原則主義が強く根付いているので

ストライキやデモ活動や革命の多くは原理主義の国です。





その点日本は憲法が原理=原則となっています。

憲法の原理は福祉、つまり公共の利益です。





悲しい(?)事に公共の「公」とは「おおやけ」と読み

昔のおおやけとは「大きい家」、つまり「権力がある人」の事だったんですね。





つまり政治家をはじめとした「国家」が公(おおやけ)であって、

「お代官さまが一般人に苦しい思いをさせる訳がない」、というのが日本の原理原則にあった。





それが希望的観測や権力への依存を生んだ理由なのかもしれません。

あくまでも個人的な意見なので盲信なく、です(・ω・)b







さて、本来原理とは重力のように、この世の根本的な法則であって、

それに沿って基本的ルールを見い出すのが原則のような気がします。





だから「原則としてはこうだが・・・」という意見があるように、

例外が発生する場合がある。





その「例外」とは震災、戦争、政治の破綻、

国家の破綻等のマクロ観点だけでなく、個人の事も含め様々です。





その時にどうやって行動を起こせるか?これが難しい。

自分の中の原理は何なのか?そしてそれは原則的に正しいのか?





それがないから何に従っていいのか分からない。





さらに過去の歴史背景上、人に任せてしまって行動が起きない、

「そのうち誰かが(政府が)うまくやってくれるだろう」という希望的思考です。







僕もそういった思考態度の部分が消えてませんので

改めないといけないです。





それを知る為に過去の歴史からひも解いていったんですね。

(それはまあ、個人的な趣味の話ですが)





話は逸れましたが、こういった思考は、

古来から受け継がれた「癖」の可能性があります。







行動を制限するのは自分の中だけでなく、

風習からくる無意識の癖もある。





それを知る事も大事かな、と思ったグッさんでした^^

ではでは。


ボランタリーコモンズへ

なぜ、多くの企業が「大企業病」を起こすのだろうか。
なぜ組織が硬直化し、進化が進まないのであろうか。



それは権威による管理主義を超えられないからである。



それは所属する従業員の不活性やフロンティア精神欠如、
イノベーターの不在(流出)を意味する。


以前、セコムは組織が肥大化するにつれ、
それまでは活気ある風土がどんどん消失していくのを感じた。


そこで企業の中にいくつもの「みなし企業」を作る事により、
それを取り戻そうと試みたのである。




拘束からの解放(脱管理)が必要だというのは毎回書いている。
そしてこの「脱管理」とは「管理棄却」ではない、



それは「メンタル・モデルの構築」なのである。


我々の中にある「メンタル・モデル」と「現実の状況」が
食い違いを起こし、実行へ進めないか、もしくは誤った行動をとらせるのである。


つまり大企業病とは管理下における「慢性的な消化不良」なのだ。


人間と言う道具を使う以上、メンタルモデルはバラバラである、
それが相互作用として働き、結果イノベーションとなるのだ。



ドラッガー曰く、
「資本主義社会の後にくる知識社会では、知識は単に伝統的生産要素としての
労働、資本、土地と並ぶもう一つの資源というよりも、ただ一つ意味のある資源」
と定義している。



情報は、無から生まれるわけではない。
それは、コミュニケーションの中にしか存在しえないので、
必ず、複数の人間の存在(コミュニティ)が前提となる。


また、相乗的なコラボレーションにより価値が創造される、
つまり「1+1+1」の結果が「-,0,+」になるのだ。


これは同一作業の協同である足し算ではない、
下手すれば0(無価値)、最悪マイナスにもなるのだ。



情報というものが社会の中心価値に変化するのに伴い、
既存組織からアンバンドルされ、リコネクト化している。



つまり、中央集権型情報処理から自律・分散・協調型情報編集という
シンクタンクのネットワーク型(シンクネット)への移行である。



この二分法では捉えきれない、「どちらでもあり、どちらでもない」
といった矛盾した構造システムがリゾームの一側面である。



経営者であり、従業員、外部であり内部。
それは階層を持たず、自由な環境ともいえる。



それは時代の要請ではないだろうか、
さらにそれは形式知ではない、暗黙知としての要請なのだ。



ここが一番難解な部分である、
つまり「内在する感覚」だけが頼りなのだ。



つまり知識社会において、
経営一般論は意味を失い、すべてが個別論となる。



☞ ☞ ☞


これまでの構造とこれからの構造のシフトは以下のような具合だ。


【既存構造】
・メカニズム
・物質生活の向上
・所有権・
・持続的成長のための資源配分
・開発・再分配
・武力・経済力
・軍隊・政府・企業
・服従・選択
・戦場・議場・市場・制裁・報酬
・法律遵守、合意・契約締結・履行
・収奪・交換


【移行構造】
・オーガニズム
・コミュニケーション生活の充実
・文化的な
・智力(情動力)
・コミュニティ、教育機関、NPO
・参画・理解・評価・熟議・統合・納得・自発・協働
・智場(ネットワーク・コミュニティ)
・注目、共感、信頼、尊敬、好意
・自発的宣言・貢献・共鳴
・交流・協働・創造




あくまでも予想であるが、
水面下での流れを見れば、概ね正しいようだ。




我々はその複雑系のシステム自体は知らなくても良い、
知るべきはそれに対してどう動くのか?だろう。




余談だが子供たちの「ごっこ遊び」は創造的だ。
その時により、子供たちは医者にもなれば、サルにもなるのだから。

内外部報酬のバランスについて




企業が成長する為には、そこで働く従業員の気持ちが重要ですね。

自主性に沿って各自が新しい事に挑戦するのが理想なわけです。




まさに「ごきげんな会社」ですよね^^

ではどうやったらそうなれるのでしょうか?




以前からエンゲージメントというマーケティング用語が

人材開発の部分に取り入れられています。




エンゲージメント、すなわち「愛着心」です。

婚約指輪をエンゲージメントリングとか言いますよね。




つまり会社に対し、どれくらい愛着をもってもらえるか?

それが結果として、企業成長と結び付くという考えです。




ただ、このエンゲージメントを向上させるのが実に難しい。

愛着という目に見えないものをマネジメントするのですから。





また、報酬という部分がなければモティベーションは上がりません。

社会主義が崩壊したのもこれが一つの原因ですよね。





個人的には、金銭的報酬と非金銭的報酬のバランスが

従業員の愛着心や、モティベーションアップへ繋がると思います。




なぜ「非金銭的報酬」が必要なのか?




それは冒頭で書いたように、

「外的動機由来」と「内的動機由来」があるからなんですね。





例えば無報酬でやっているボランティアなどは

やってて嬉しい、とか役に立ったという「内的報酬」です。




これは仕事でもありますよね、つまり内的報酬由来とは

人の役に立って嬉しいという気持ちが報酬なわけです。





そこに金銭的な報酬が発生したとします

(外的報酬の発生)




「公園のゴミ拾いやったら1万円」とか

「人の悩みを聞いたら2万円」とか。




すると最初は無報酬でやってた事が、

やがて報酬なしではやらなくなってしまうんです。




無意識にその人が求める報酬が内部から外部へ変わった。

これを「アンダーマイニング効果」と言います。




このアンダーマイニングのように

従業員側の動機の維持は複雑なんです。



ではこれがFCの加盟店の場合、内的動機はどうやって起きるか?

ロイヤルティ低減等の外的要因ではニンジンにすぎないと思います。



このように、フランチャイズ展開すると、いわゆる

プリンシバル・エージェンシー問題が発生します。




結果モラルハザードのリスクがある、

特にFCにおいてはダブルモラルハザードが起きる可能性があります。

(ホント、小さな内容で訴訟が起きてるんですよ)




フランチャイズは直営展開の企業と違い、

独立採算型である加盟店との調和が一番難しいのです。






インセンティブアプローチだけでは不十分です、

また、上記対応の契約書を作成するとなるとパンクします。






そこでunreveのFCは、内部動機を高める為に

外的報酬以外の「個人力」に特化しようと考えているわけです。




外部動機の構築は仮に出来あがったとしても、結局は

インセンティブマネジメントシステムにすぎず、同じ型にはまってしまいます。




その点、内部動機特化型FCは真似できません^^

見えない部分をデザインするのですから。




ちなみに、昔の京セラが使ってた「アメーバー経営」の概念は、

一人一人が主役、という意識を持たせることでした。





しかしこれには当然問題もあります。従業員でやる独立採算は

「安心」が担保されてないといけなかったんですよね。






アメーバ経営の欠点は「全ての従業員が経営者になりたいか?」でした。

しかしFCではそれを補完しています。







なぜなら加盟店はもれなく「経営者になりたい」のですから。





これを「暖簾分け」の概念でやってるのが

unreveのFC展開です。


コミュニティの定義は昔も今も

こんにちわ、坂口です。



この本の「知のサムライ」ってタイトル、
なかなか秀逸だな~と思ってます。




知のサムライたち―いまこそ日本をささえる10人の思想/長尾 剛

¥1,470
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著書の中に、大原幽学という人物がいます。
渋沢栄一同様 、道徳と経済の調和を目指した人物です。


大原幽学の哲学の根柢にあるその思想は
農業を通じて伝えられました。



幽玄氏曰く、村の復興には
個人の生活の見直しが必要不可欠と言います。
これはいまでも同じ事が言えるでしょう。



氏が与えた生活の形式を「規式」と言い、
年間の行事をマニュアル化したりしました。


ある種の取り決めやルールを作ったんですね。



今でもJAや信金がこの活動を引き継いでいるという大原幽学提案の
「先祖株組合」は世界最古の協同組合だといいます。

☞ ☞ ☞


幽学氏は上下関係を作りたくない理由から、
学びを教わる人のことを「道友」と呼び、



仲間同士助け合い、教えを学んでいく為の
入門契約書「神文」を作りました。


これはリゾームFCの加盟契約書みたいなもんだと
勝手に思っています^^


また、その理念は「資本などの金銭による結びつきではない」事と、
「人と人との絆による組織であること」。


僕のイメージするFC理念(というより構築基礎)は
これとかなり似ています。


本来、絆とは人ありき。お金からの縁なんて、
始めから切れ目が入っているようなものです。



☞☞




さて、その幽学以前にも、こういった
思想を実践していた人がいます。



ここ福岡(筑前)の有名な思想家である
貝原益軒から指導を受けたとされる宮崎安貞です。



彼は「農民の所得増大」を提唱し、
その方法を2つ考えました。



それは「年貢の米以外の農作物を作る事」と、
「農耕具を改良する事」。



会社でいう新規事業や運営システムの改革です。
それを行う際、安貞には一つの哲学がありました。



それは、ただ所得を増やす為に能率化・効率化・
そして便利化を求めない事です。



農耕具に頼りすぎるのではなく、人間の能力を最大限に発揮し、
農耕具はプラスαとしての役割とせよ、と。



初めから改良した工具に頼る事は
逆にマイナスになる、と氏は思ったのでしょう、


よって、工具の改良には一定の枠を作ったと言います。
その枠こそが「人間のかかわりと誠意」なのです。



やはり時代を越えても不変は人、ですね^^



☞ ☞

さてさて、幽学が若干放置プレイ気味ですが
2人には大きな共通点があります。



それは「使う道具が進化しても、人の道から外れてはならない」という
厳しい自己規制です。



幽学の作った先祖株組合には
「加入者はすべて善行を目指す道友でなければならない」というルールもあります。




さて、この善行である「善」とは一体何でしょう?
僕は多様な中にでも、それは一貫して存在すると思っています。


そんなわけで、次回は「善」について。


動機の所在②

前回に続き2回目。

さて、これを見てピンと来ている方も多いだろうが、
これは学校現場とのフラクタルでもある。


学級崩壊と不登校と陰湿ないじめ。
先生の悩みと管理職の悩みは全く同質である。


大人も子供も本質は変わらない、というよりも集団におていの秩序形成とは
何事も「すぎれば」逆効果なのだ。


単一のモノと違い、人間とは多種多様なのであるが、
脳科学者の茂木氏が言うように、科学には「ほどほど」の中空的概念がない。
��中間というよりも中空)


システムは曖昧さや、その時々によるケースに柔軟な対応ができないが、
人間社会とは、まさにこの「曖昧さやその時々」で作られているのである。



よってこの課題はロジカル寄りの厳密主義者には理解ができないのだが、
今回は、なるだけシステマティックに書いてみようと思う。


さて、労働には報酬が必要不可欠であり、
報酬があってこそ、仕事は意味を持つと言われてるが、
どうやらそう単純なことではないようだ。


確かに、仕事とは生計のためという部分がある。
一部の資産家を除けば食う為、すなわち生きる為の手段である。


しかし戦後と違い、人はパンのみで生きるのではない。
贅沢な悩みだと思うだろうが、そんな時代になったのだ。



それは文化や時代背景によって変化するというよりも、
本来持っている我々の特質が「解放」されたとも言える。



さて「報酬のよって仕事が持つ純粋動機が低下する」、
この臨床結果を出したのは心理学者であるエドワード・L・デジである。



著書「人を伸ばす力」にはこう書かれている。

��人が自律的に生きているかどうかの鍵となるのは、
自分自身の選択で行動していると心底感じられるかどうかであり、
それは、自由だと感じる心理状態であり、いわば行為が行為者の掌中にある状態だ~



デジは内部動機こそ、真のモチベーションだ。ということから、
報酬、強要、脅し、監視、競争、批判的評価によって、
人を管理・コントロールすることを批判した。


そもそも人間の行動・言動をコントロールすると言う点では報酬も罰と同じである。
つまり「Aをすれば、Bをあげる」という、条件付けの操縦だからだ。


外部報酬とはコントロールと同義、場合によっては自由がなくなり、
他人の言われるがままとなる。


自由を失うのであるから、そのこと自体は罰と言える。
ただ、これで終われば、デジは単なる理想論者であるが、そこには先がある。


内発性の高める環境条件として個人の「選択の自由」があり、
そこには自由とされる「自己決定」がある、とした。


つまり人間は与えられた選択肢からではなく、
自ら決定することで、積極的な人生の型枠を作って行くのだ。


これは顧客のクレーム対応を例にすれば分かりやすい、
クレームの大半は、顧客のコントロール感が欠如した時に発生する、


そこに言い訳をすれば2次クレームに発展する、
よってこの場合は、顧客のコントロール感を取り戻す事が先決なのである。


このように自己追及による達成感は内部動機であるが、
ビジネスにおいての自己満足はビジネスではない、それはただの自由研究である。


また、確かにこれこそが純粋な「内部動機」なのだが、
自由な環境下に置いては誰もがモチベーションが上がるかというとそうではない。



つまり自己満足ではなく、自由と言う名の野放図でもない。
この曖昧な概念に必要なのが私が提唱しているもう一つの概念「自律」である。


そこには基礎、つまり「守」が必要である。
社会人になったばかりの時に自由さを与えられても、ただ苦しいだけである。


知識、スキル・ノウハウの体得、会得が前提条件であり、
それが満たされて初めて自由研究である内部動機を喚起する。
場の創造には「段階」が必要なのだ。


自律とは規律を学び、守ること(外部)であり、
そこから自ら選択し、決定するという行為は内部である。



規律に未熟なものは倫理にも未熟である、よって外部でなくてはいけない。
子供は宝であるが王様ではない、と私が言う理由がこの部分である。



例えるなら、抜け出せない場所に本人がいる場合、抜け出そうとしても、
自らの髪の毛を掴み、引っ張って抜け出すことは不可能だからだ。



観念的であるが、内部がモチベーションの源泉、車でいうガソリンであり、
外部は報酬を使った管理ではなく、自ら方向性を選択できるハンドル、
言わば内部動機とは「乗車側から運転側」へのシフトなのである。



現在、こういった活動は「シャドーワーク」と呼ばれている。
表である組織やプロジェクトとは違い、それらの環境に縛られない
集団の「裏的な」独自活動をシャドーワークと呼び、


持ち時間のうち15%~20%は自由に使って良いといったグーグルを始め、
アサヒビール、コーセー、スターバックスなど、
それを商品開発やサービスに繋がっているケースが増えているという。


大小差はあれど、大手組織の特徴でもある官僚化において機能している事から、
我々でも活用できるのではないだろうか。


トップダウン的な号令をかけた瞬間、
その仕事は「シャドー」ではない、オモテ側の命令された仕事になってしまう、
また、外部報酬が協力関係を壊したりもする。



報酬は一度使い出したら簡単には止められず、
それを得るための最短ルート、つまり「手抜き」を助長させる可能性がある。



つまり意図的かつ合意済みの「あそび」を作るのである。



企画・編集・営業まで一貫した主導、
必要なのは、無責任な立場にある「遊撃手」ではなく、
自由と責任の概念を兼ね備えた「プロデューサー」である。



そのものの魅力を伝えたいという自発性
プロモーション効果の最大化にはこれが一番強いだろう。







今回はロジスティックに書こうと思ったのだが、
どうやらこれが私の限界のようだ(笑)

ビジネスは科学できない①

「頭を使って考えろ」と言う言葉がある。


頭で考えるとは、言い方を変えれば脳が考えると言う事だ。






つまり科学者からの「考える」とは頭脳の作業であり、


心ではない、というのである。






我思う、故に我あり。


はたしてデカルトでいうコギト(我思う)とは、脳の事なのだろうか?






最初に言っておくが、これは明らかな「誤解」であり、


その誤解を招いているのは今の「科学」の仕業である。








科学は絶対的な真実を証明させようとしているが、


本来、科学の真実とは、ただの「科学的見解からの事実」にすぎない。








つまりバナナが体に良いといってるように、


ごく一部を切り取って証明しているにすぎないのだ。








それを人は真に受ける、


「科学的根拠」があれば間違いないのだ、と。








何度も書くが、それは明らかな嘘であり、


バナナを食べ続けても100%の健康が保証される訳が無い。








個人的にアンチエイジングの類や病気の原因はストレスだと思ってる。


ストレスを感じない私は風邪など滅多にかからないし、見た目も若く見られる。








当たり前の事だがストレスは科学では証明できない。








ストレスとは感情であり人それぞれ、


感情は数値化・物質化できないのだ。








さて、科学的手法とは5感のみ得られる情報である、


「目に見え、触れられるもの」しか対象としない。






つまり冒頭でいう「脳内」は科学的に証明できるけれど、


肝心の「私たちの心」はどうやっても証明できないのだ。








考えてほしい、我々の心情や情緒、喜怒哀楽と言った「心」は


脳内の活動だけであるのか?と。








そんなことはない、それは植物の種子と同じように


脳をどれだけ細分化してもそこに「心のもと」は出てこない。








リンゴの種をいくら切り取っても細胞しか発見できないのに


土に植え、水をやればあれだけ成長できるではないか。








それは科学では証明できない、


なぜなら植物の生長する上の「生きる力の源」は物質ではないからだ。








そんな小学生にでも分かるようなものを


科学ではどうしても理解できない。








「目に見えないが明瞭な事実」が気に食わないのだ。








例えを変えて「夢」を考えてみよう、


一般的に我々は「夢を見る」と言う。








しかし「見る」とは5感の一つである「視覚」であり、


視力がなければ「見る」とは言えないはずだ。








そう考えると一体、夢の中で「どこの何を」見ているのだろうか?


脳内で見開いている「視覚」とは一体何の「眼」の事を指すのだろうか?






さらに夢によっては話す事もできるし、食べることもできる。


これはどう考えても「脳内の仕業」ではない。








つまり夢の中には現実とは異なった「非物質性」があり、


その非物質性を我々は5感以外の「感覚」で認知しているのだ。








感情は感じるものだ、


それ自体は見えないし触れることができない。








それを見て、触れようとする科学とは


なんと浅はかな試みであろうか。








ビジネスもやはり同じ道を辿っている、


経済学者は、経済の動きをどうにかして「科学したい」のだ。








我々は何かを購入する際、感情で決定することが多い。


(価格だけで判断する場合は例外だが)








男性がなぜキャバクラで市場の数倍もするお酒を飲むのか?


女性がなぜホストなどでありえない金額を払うのか?








マーケッターはそれを科学できるというのか?


そんなこと、出来る筈が無い。








科学哲学、認識論、論理学を学んだマッテオ・モッテルリーニ氏の


著書である「経済は感情で動く」は、科学ではどうしても証明できない事実を行動経済学で説明している。








しかしその行動経済学は心理学に近く、


人間の特定パターンを抽出し、最小公倍数を元に作られた「いちモデル」に過ぎない。










つまり人は合理的に答えを求め過ぎ、


それを学術にまで持ちこむことで「支配」したいのだ。










そして「真理と言う名の普遍性」をこの手で触れたいのだ。








この試みはプラトンが「イデア」として追及して以来


観念論として未だに答えが出ていない。








そんな歴史上の天才達が一生を費やしても不可知な事を


たとえ情報化が進んだ現在であっても説明できるのだろうか?










それよりも、私はそんな科学を放棄して


心の声に従って進むことが最短だと感じているのだが、








どうやらそれは巷の「経営コンサルタント」の皆さまに対し


喧嘩をふっかけているようだ。








百歩譲っても、昔の紅白の視聴率のようなイデオロギーで捉え、


求めている対象として推測できるかもしれない、と思うくらいのことだ。



道徳なき経済と経済なき道徳

そもそも「経営」の語源は仏教から来ています。

みなさん、知ってましたか^^?





そして経済の正式名称は経世済民(けいせいさいみん)と言います。

さて、これはどういった意味なのでしょう?




まずこの「経」とは、お経(おきょう)の事であり、

人々を救う真理の言葉で「治める」ことを指します。



そして済は「救う」を意味します。

つまり経済を正式に訳せば、「真理で世を治め民を救う」という意味なんですね。




その真理はもちろんお金じゃありません。

普遍で変わらない真理を言葉に乗せ伝える、と言う事です。





経営とは、普遍を現しているお経を編纂することが本来の意味であり、

事業とは仏が成す仕事を表わします。



さて、孔子やソクラテスのような哲学書や

キリストや仏陀についての本は現在たくさんありますが、





今知られているのは本人の著作じゃありません。

訳した本人の主観が含まれた個人思考が多いのです。




結果本人が言っていない言葉が

「成功者の教え」として、都合よく解釈されています。




例えば銅像で有名な二宮金次郎(公人では二宮尊徳)

が書いたとされる二宮翁夜話に、




道徳なき経済は犯罪であり、

経済なき道徳は寝言である





というものがありますが、実はこの言葉、原書には一切載っていません。




これは日本経営合理化協会出版局が翻訳したのですが、

翻訳機関のその名の通り、経営者に向けた組織が翻訳したのです。





まるで野口秀雄が「アイラブユー」を「月が綺麗ですね」と

訳したように、個人の価値観が入ってしまったのです。




ここが出版されている書籍、関わっている企業を調べてみましょう。

どんなものなのか、判断できるでしょう。




☞ ☞ ☞




経済の本当の意味を考えた際、

その課題とは、限りある資源を社会の隅々にまで最適に配分することです。




つまり経済の目的は格差ではなく、

分け合う事による「総中流」のすすめなのです。




それを社会主義ではなく、経済で統治させること。

これがあるべき姿なのです。




金持ちを増やすのではなく、貧乏を増やすのでもない。

清貧の教えがそこにはあるのです。




清貧の「貧」という言葉は「貝を分ける」と書きますよね、

つまり、昔の交換通貨であった「貝殻」を人数で分けるのが語源です。




経済は清貧を教え、

分け合い、分配する為の思想が人々を救う真理を広める活動です。





経営理念が必要だの、儲からない事業は寝ごとだのとは

一切言っていないのです。




正しいフランチャイズを実践し広げることは

そういった意味での経済だと思っています。



薬が毒になるように




毎回書いているのでげっぷ気味とは思いますが、
何事も無意識的に極へ移りやすい性質があります。



もしかすると、テーマに書いたように
薬(最善)が毒(最悪)になるという事実を
今現在、経験しようとしているのかもしれません。



「いい加減な状態」とは何か?




二項を内包し、その間で生きる我々は、
まさにこのバランスこそ目指すものではないか、と。



例えば関係性しかり。
一見、孤独は不幸のようにみえますが、



本当の不幸はコミュニケーションに対する
欲望が満たされない時ではなく、満たされすぎた時でしょう。



なぜなら、それはある種の
不感症さを生みだすのだから。




批判のない集団はあまりにも
満たされすぎて」やがて不感症にハマる可能性が高い。




逆を言えば「誹謗中傷の裏は評価」なのでそれを真摯に受け止めると
より大きな成果を生み出すことが出来ると思っています。



☞☞ ☞



起きる現象は天秤そのもの(ゼロ)、
しかし人は感情という重りをどっちかに乗せる。




抑えた誘惑は無意識に残り、
潜在的部分は他者が演じる。



それは「反発」という自然の摂理。




そうして「最善」が「最悪」に向かう、そんな気がしてます。

(ちょど片方に傾きすぎた分だけ逆の「重り」が必要なように)



自我があるから苦しみを生み、
自我があるから自分は生きているのだと実感できる。




右から左への経験が必要なのは「夏があるから冬がわかる」ように
「季節そのもの」を理解する為です。



日本は「春夏秋冬」があるので
特に細かい部分を感じる事ができます。
秋が大好きなのは「ちょうどいい」から。



この「ちょうどいい」を理解する為の
対極の経験ではないでしょうか、




さらに、それはもっと深い所にある「自己中心」の
理解の為だと思うんですが、



長くなるので今日はこのへんで。




ワーキングプア起業

最近よく耳にする言葉である「ワーキング・プア」。









正社員並みにフルタイムで働いても、


最低限の生活を維持するのが難しい人の事を指します。








給与所得者全体の約23%が年収200万以下。


しかも年々もこういった状態が続いているといいます。








さて、中には男性顔負けの収入を得ている女性も沢山いますが、


23年度の平均年収を見ると、








男性平均年収は504万円だったのに対し、


女性平均は268万円。倍近い差があります。








母子家庭の多くがワーキングプアと言われています。


母子家庭の場合、女性のスキルが無いと、企業の受け皿はビックリするほど少ない。









女性に限らず、一生食っていけるスキルを持ってる人なんて


ごく僅かです。







この男女格差、よく耳にする話ですが、


実際の所、どうやってクリアしたらいいのでしょう。









今回それを、雇用側面からではなく、起業側面から


考えてみます。






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さて、この国の支援といえば、障害、高齢者雇用時だとか


母子家庭の人を「雇った場合」に支給される助成金が大半で、










起業するという場合の助成がほとんどありません。


しかも融資の場合もなかなか通らない。


(あって母子寡婦福祉資金くらい)








女性が一人で働きながら子供を養っていく場合、


先ほどの年収格差がどうしてもネックになります。








単純に起業して稼げとは言えませんが、


格差が埋まるのを待っていても仕方が無いのは事実。






特に人件費削減にやっきになっている


企業の台所事情を見ればなおさらです。









個人的な事ですが、フランチャイズ本部が出来た場合、


ぜひ検討して頂きたい事があります。








それはFCオーナーを始め、全てのメンバーを


母子家庭で運営できるような本部を作ってほしいんですね。










母子家庭同士がコミュニティを形成できる、


育児所が店内に(もしくは福利厚生で)あれば最高です。










雇い入れるのは母子家庭限定、助成金は都度プールし、


最終的にオーナーとしての道を作る。








それプラス、国がFCオーナーとして独立する際、


助成金や融資面で優遇してくれるなら、かなりハードルが下がりませんか?










企業が助成金をもらって、還元もなく馬車馬のように働かせるならば、


自分で稼ぐからその分こっちに回せ、と。












そう感じているのは僕だけでしょうか?










人も企業も状況が厳しくなればなるほど、


古い価値観や慣れ親しんだ悪習に寄りかかろうとします。










それは痛いほど分かるんですが、


同じ事をやっていても改善しないという事も全員何となく分かっているはず。










新しい価値観、それに沿ったビジネスモデルの構築、


これが今、全ての企業に問われているのではないでしょうか?



今日のグッさん

最近頂いた「雲丹醤油」にハマってるグッさんです。










これで「卵かけご飯」をすると・・・







すると・・・・・






・・・・・





メッサ美味いです・°・(ノД`)・°・

















教えるなんて




最近の対話から



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「教育って教えて育てるって書くでしょ?」





「そうですね」





「でも本来人が人に教えるなんて、おこがましい事と思いませんか?」





「おこがましい・・・ですか?」





「私は教えるという立場にはいたくないですね」







「でも教師とか生徒に教えますし、色々経験した人は確実に経験豊富ですよ」







「経験って言っても、絶対的な情報と相対的な情報からのものがありますから」







「ちなみに絶対的なやつとは?」







「それは科学的な知識ですよ、足し算とか、掛け算とか」







「?」







「100人中、100人誰でも同じ結果が出る、それが絶対的な情報」







「と言う事は相対的な情報は非科学的なやつですか?」







「定義できない人間の生き方全てですよ」







「定義できないモノって言われるとちょっと難しいです」







「例えば「●●は○○すべき」とか言うでしょ?」





「言いますね」







「私はそれって絶対的なの?って思ってしまうんです、人や状況によって違う」







「べき論ですか・・・それは常識、社会通念みたな?」







「それも含めてですね」







「でも僕もそうだし実際そんな人多いですよ」







「そう、仕事だけでなく人に教えるという行為はとても多い」







「そんなことしてたらダメって事ですか?でも相手の言葉で救われたとか、助けてもらったなんて話も」









「教えるだけの極端な立場の人を見るとそう思いますね、私は」







「導いてくれる人がいると結構心強いと思うのですが」







「もちろん私にも経験があります、ただそれは教えるという立場ではない」







「立場の問題ですか?」







「そう、例えば善行を教える立場の人間は100%完璧でしょうか?」







「先生とか、宗教・思想家、政治家に近い立場ですね、確かに違います」







「失敗が全くない人なんていませんし、未熟な部分は必ずある」







「そうなってくると完璧な人間なんていませんよ」







「そう、だからこそ教える・導くというのはおこがましいんですよ」







「(禅問答みたいだ)うーん・・・じゃあ、相手の才能を「引き出す」っていうのは?」







「引き出すのもおこがましいです、相手の能力を全てを知ってるなら別ですが」







「それって自分で勝手に見つけて生きろって意味にも捉えられませんか?」







「例えば育児って基本的に親の仕事でしょ」







「そうですね」







「育児を「育自」と言う人もいます。つまり子供を通じて自分を育てると」







「育自ですか、なんとも謙虚な」







「そうですよ、全ての人は全ての人から育てられる、だから立場は公平なんです」







「育つのはお互い様で、相手がいてこそ・・・・という意味ですか」





「そう、反面教師というのは相手を見て自分を育てるでしょ」







「でもそこにはルール・・普遍的な決まり事がないとダメですよね」







「白黒って事ですよね、じゃあそれは誰が決めるのでしょう?」







「自分で決めると自信過剰になって独善になる気がします」





「では他人が?」





「他人が決めると宗教のような拠り所となって、そこから外れる人が全てダメになる気が」







「そうなると、どっちもダメって事になる」







「うーん。かと言って自由放任は過去の歴史で失敗してますしね」







「自分中心もダメ、社会中心もダメ、ルールなしもダメ」







「極端なダメじゃないんですよね、ただマニュアルは作れないというか」







「その白黒ハッキリしたマニュアルって、誰か作れますか?」









「あっ・・・なるほど。最初に言ってた言葉ってそういう事ですか」







「私は真理はあると思いますが、一人の聖者が理論理屈で教えられるもんじゃないと思うんですよ。人を見て自分で理解する。何が良いか悪いかなんて本来他人に教える時点で捉われる気がするんです」









と、まあ色々な分野に通じる内容でした。

さすが年の功。