2014/10/20

大須~

昨日に引き続き、名古屋編。
忙しいと、こんな手抜きブログになります笑





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帰る前に大須に寄りました。



大須と言えば、やはり大須観音。
やっぱり今日もハトの大群(笑)



ラピュタか





お昼ご飯は有名な「橋本」さんへ。


今回はそこまで待たなくてよかった。




橋本さんと言えば「ステーキのひつまぶし」。
これをやってる店は全国で数店しかありません。






食べ方は鰻と同じ。
そのまま、薬味、最後はお茶漬けです。





とにかくお肉がベラボーに美味い。




しかし絵面は汚い(笑)




これ、QBCの通販で売りたいけど、
原価が合わないので見合わせてるとのこと。



納得。しかも焼き方とかシチュエーション
ありきだからなぁ。



まあ、そんなこんなで
腹いっぱいのまま、帰りました。




大須で唯一のお買いもの、黒ぶちメガネ(笑)





来週は京都どすえ~


2014/10/15





さて、ビジネスにおける5S、これは
「整理・整頓・清掃・清潔・しつけ」の頭文字(S)を取ったものです。

この最後にある「しつけ」、
躾と言う言葉は中国から入ってきたものではなく
この国で生まれたもの、いわゆる「国字」だと知ってましたか^^?



躾が「身を美しく」という文字から成るように、
本来「美しいと感じるもの」と思われるでしょうが、
それだけではありません。

しつけは別字で「仕付け」、
つまり「仮縫い」のことでもあるのです。

今回はそんな「しつけ」の小話を・・・・




これは「躾」のほう


最近親のしつけができていない、という話を
よく聞きます。

僕には3人の姪や甥がいるのですが、厳しいですよ~(笑)
年始早々から、しつけましたしね。
(まあ、ほか全員がフォロー役だからこそですが)



躾は仕付け。
本来、それは着物の「型」が崩れないための
仕付け縫いであって、「仮止めする」という概念です。



それは絶対離れてはいけないという、
本縫いではなく、最終的に取り外すものだというのを忘れてはいけません。



最初にあちこちバラバラにならないため


それは私のフランチャイズ構築概念と同様、
やがて離れる型枠であり、守破離の精神にも通じます。


私は今でこそ、しつけを先人の知恵であり
努力の結晶だと感じています。

何年も何十年も、試行錯誤して得た「生きた経験」
これは世間の処世術かもしれません。


それを振る舞いにしたのが「礼儀・礼節」、
これが美しい躾として、今も続いているのです。

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さて、よく作業効率や生産性の向上などのマニュアルを
「しつけ」だと勘違いしている方がいます。


それは犬猫など、ペットに対する「しつけ」であって
教育の概念とは全くかけ離れたものです。


確かにそれをすれば、効率的に仕事をこなし、
生産性も一時的に上がるでしょう。


でも、それを「本縫い」として続けている以上、
何人かが、必ず途中でダウンします、後になってツケは回ってくるのです。


ちなみに、以前私が経験した広告代理店は
朝の2時まで仕事して、朝の7時には出社しないとダメでした。




土日休みと書いていたけど、実際は休みもなく
フラフラな状態を見た上司から「やる気が足りない」と。


今でこそ良い経験ですが、あの時はシンドかったあせる
(それを続けてる上司もスゴイ・・)

他にも社員を使い捨てにするような企業は
過酷な労働を「しつけ」として教育しています。


昨年から対策として求人票に「離職者数」の
掲載義務ができましたが、例えそれをやったとしても、
企業が別枠の求人媒体を使われては意味がありません。



表面上の問題をいくら取り上げても意味がないのです。



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逆に、仮縫いという概念を忘れなければ
我々は立ち止まることができます。



「なぜできないのか?」を考えなくてはいけないからです。
自立型FCにとって、そこが最も大切なのです。
なぜうまくいかないか?それを全員で考えること。

合理的で画一的なものはとても楽で、便利です。
仕事が出来る人は「あの人が自分の分身だったらいいのに。。。」と少なからず思ってるはず(笑)


「最短・最小で最大の効果を上げる」
これは経営の世界では大変喜ばれるフレーズです。



しかしやり過ぎたそこには「加減」がない、
加減のないものは「あそび」が利かないので「ゆらぎ」が起らない。



ゆらぎは散逸構造から自己組織化へ向かう
ラディカルなファクターである以上、外せないのです。



私の提唱する散逸(自己組織化)構想は、
我々人間の体と同じ、フラクタルです。



毎日24時間、常に健康に気を使ってたら
逆に神経が参ってしまいます。


体内にも悪玉菌がなくはいけないように、
暴飲暴食や睡眠不足など、我々は都度の「毒」を入れる事でバランスがとれるのです。




以上、リゾーム派生FCの「加減・枠・ゆらぎ・あそび・散逸」を
ちょっと砕いて説明してみました^^



さっ、仕事仕事・・・と。




「リゾーム派生がちょっと分かったかも!」という方は
office unreveの公式ホームページも、ぜひ一緒にご覧ください!





2014/10/07

感覚秩序

在り方とは「心」の持ちようである。
それは「心身一如」である日本人にとって馴染みが深かった。


ただその心とは身体的な振る舞いのルールに左右されず、
独自の精神世界を構築している訳ではない。


また、そこを起点とし自己を含む環境を外部から
客観的に把握することというのも無意味である。


このような「外部からの環境把握」を可能とする、
一種のデカルト主義的な認識を、我々はしばしば抱いてしまう。



ただ「我々の心がルールを作った、故にそのルールを認識できる」、
というものではなく逆である。


この「ルール」こそが、心の在り方を促すのだ。



人は考える前に行動し、行動してからでないと理解しなかった。
言わば「理解」とは、行動を助けるパターンといった「環境の反応能力」なのだ。



例えば火を一番最初に触った人間は火の距離感を理解する。
「触ると火傷する」という言語が生まれる以前の反応は、その「パターン」だ。



つまり一義的において経験から学ぶ、ということは
我々の理性的な行動プロセスというよりも、
一般化した実践を伝える「保守的な過程」だといえる。



つまり成功に繋がった過程は始めは知識として形式化しておらず、
ルールを伴った実践の中でのみ、理解され守られるのだ。



精神的なルールとは理性や知性の産物ではなく、
「そのルールに従った者」が他者よりもより上手く成功すると理解された結果、



逆に我々の行動をその「ルール」が支配するようになったのだ。



ハイエクは集団における行為(行動)の規則性(ルール)が、
経験と共に進化すると同時に「理性」も進化すると考えている。
※ここでの進化とは「変化」と同義。



言わばデカルト主義者が説く
「外部環境を支配している法則の支配」という設計・合理主義に反対し、



具体的な行為の規則性(ルール)の進化によって、
我々の行動は自由度を増し、理性もそれに付随すると考えているのだ。


その自生的秩序のベースになっているのが「振る舞いのルール」であり、
また、その体系は外部の法則性の把握でなく「思考錯誤の蓄積」に繋がる。



社会全体にもそれが当てはめられる。
ラディカルな集団のルールは外部にあるのではない。



それはすでに目の前にある。
それが今までの経験を得て蓄積された集合知の結晶なのだ。



よって「理想的な振る舞い」とは各自が合理的に考えた結果ではなく、
むしろ無知な状態から集合知を活用した結果とも言える。



明示的な指示がなくとも、形式化されたマニュアルがなくとも、
我々は迷うことなく適切な行動が取れるのは、この蓄積された「ルール」があるからだ。



ハイエクはこれをカタラクシーと呼んでいる。
それは敵対するのではなく共通の枠組みの中で相互の利益を調整する役割である。



感覚の秩序はこのように形成される。
否、形成されているというべきか。



それを道徳心と呼ぶのか、はたまた倫理観や善意と呼ぶかは様々だが、
この内在した先人たちの思考錯誤を、我々は無意識に活用している。
��神を伴う原始宗教はここではあえて触れない)



だからこそ、古き良き、善良な市民という言葉を
ノスタルジアとしているのだろう。



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戦時中は自殺率や国内犯罪率が圧倒的に下がる。
これは逆を言えば今の社会システムが「不自然」な証拠でもある。



人工的な秩序はどうしようもなく不自然だ。
区分や階層といった分類によって優劣性や二項対立が生まれ、
数学的、合理性、理性といったものが支配していった。



本質である多様性に人為的な仕切りという秩序をもたらし、
我々人間と自然は、ますます乖離を深めていった。


これでは権力からの解放や自由ではありえない。
むしろ逆に不自由な檻の中にいるようだ。


よりマネジメントを洗練化し、合理的に捉え、
無駄をなくし、支配するという一方通行の理性による秩序。



度々書くが、「我々の心がルールを作った」のではない。



物質世界には必ず限界(臨界)点というものが存在する。
この世界がカオス状態である以上、この現象は避けられない。



自然運動が円環螺旋である反面、
人工的とは対極を交互に繰り返す、振り子運動なのだ。

ビオ・トープ


インターネットは世界中の情報を取り込み、流通させる巨大なプラットフォームである。


それを拠り所としてビオトープやキュレーターが形成され、



そこから接続し、編集されたコンテンツを受け取るエンドユーザーは日々、再生産を繰り返す。


大げさに書くならば新しい連鎖、
生態系の誕生が情報革命だろう。


さて、今回はそんな情報を取りあう「場」、
上記でいう「ビオトープ」の部分についての小話。



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「場」とは、単に人が集まって作られるものではない。
そこでは「共有知形成」の為に相互の解読作用が行なわれる必要がある。



この世界は十人十色という生易しいものではない、
人数分の世界構成が重なる「70億人70億色」の多世界なのだから。



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以前、それはイデオロギーを共有する媒体である
「マスメディア」が最大の情報として君臨していた時代に限定されていた。


クローズ的な一方通行によって、
思惑通りに誘導させることができた。


しかし、インターネットが登場した現在、まだまだ玉石混合だが情報はガラス張りの筒抜けになっている。


また、個人がメディアを作り、選ぶ時代と移り変わっているのだ。



故に、プラットフォームはその「概念そのもの」を見直す必要がある。


それを支える根幹への視点転換、
それが本質回帰であり目に見えない地下茎リゾームである。


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リゾーム構築で重要なことは、こうしたリゾーム(自己組織化)を
偶然の産物として期待することではない。


副作用ではなく作用(主題)として取り上げていくため、新しい場を創造しなくてはいけない。



「対話」は「場」と密接に繋がる。
状態を構成する際、この要素は切り離せないのだ。



☝︎☝︎☝︎



場というコンセプト自体は目新しいものではない。
古代ギリシャでは「トポス」と言われていた。


冒頭のビオトープとはビオ・トポスが変形した言葉、
ギリシャの「命の場所」が語源である。



そんな共同体の場(トポス)が、
それぞれ存在し、グラデーション化されることが理想である。


グラデーション、つまり「合わせ・重ねる」と言う共存の方法だ。




例えば、我々が住む住居の床下はビオトープと言える。
床下である土中は、人間以外の生物達が住む場所として存在し、そこには無数の生物が生態系を行っている。



このように、他の生物は我々の居住空間と棲み分けてきたと言えるだろう。



2014/10/06

エシカルビジネスについて


今日はエシカルビジネスについて。


今までの欲望が生産、拡大するのに対し、
最近は「整理、縮小」へと向かっています。
断捨離しかり、ミニマリストしかり。
多分にそれは過剰な欲望への拒絶でしょう。


最近になって資本主義の限界が見えてきました。
人間にとっての「豊かさ」は物資的充足の最大化ではなかったのです。




当たり前のことですが、我々は充足された
状態からさらに充足を求めることはありません。
例えば満腹な状態で「何か食べたいものは?」
と聞かれたら、誰だってうんざりしますよね。



メディアはもっと欲張りになれ、最上を
目指せと「今の自分が劣等や欠如してる」
ようなイメージを植え付けてますが、
それは成熟期において不自然な宣伝だと言えるでしょう。


豊かさには物心両面が必須、
しかし今は肝心の「心」がない。


心がないから我々は他の種に対しやり過ぎている、と。


そんなことから、数年前から
エシカルビジネスというものが注目されています。



エシカルethical)とは「倫理的」、「道徳上」
という意味だと言われるがそうじゃありません。
そもそも倫理と道徳は似てて非なるもの、意味は全く正反対です。


道徳は他律であるに対し倫理は自律、
つまり倫理は「廊下を走るな」ように
誰かが決めたルールを守るものではなく
各個人が内省した結果である感覚的な
「後ろめたさ」であって、内部から沸き起こるものなんですね。



他律的(外部)な道徳にはこれがありません。
だからコンプライアンスを導入する企業さんが
たくさん増えましたが、不祥事ばかりじゃないですか。


真のエシカル消費は倫理によって実現するということ
長期的に見て有害になるような事や有害だろうと
思われる企業を「自分で見極め」購入しないことで
正しい持続可能性が生まれるんですね。


✍✍


本来、この国ではこうった倫理観を
いちいち説明する必要がありませんでした。
エシカルビジネスなんて名前を付けなくとも
稼ぎと努め当たり前のことだったんです。


それは伝統として息づく美意識の継承だと
個人的には思っています。だからこそ
時代を超えてなお、違和感や不快感を感じるのだ、と。


我々はただ、「それ」を思い出すだけで
十分実現できる。個人的にそう思ってます。



「後記」


ちなみに人格の完成を究極の目的とした
カントにとって、ベンサムの功利主義は最大の標的でした。


カントは功利主義(幸福の最大化)を認めない。
彼に言わせれば大勢の人で構成される市場や
そこでの消費選択は「真の自由ではない」と断言するのです。


「なぜ?僕たちは自由に消費してるのに?」と
思うかもしれません。しかしカントにとっては
その「満たされたいと思う欲望」こそ、
自分で選んでいない理由である、と言うのです。


なぜならそれは、より多くの快楽や少ない苦痛を
得ることが基準となっている以上、倫理性と
決別した世俗的なもの、つまり欲望から来る
対象が与える結果」に従っているに過ぎない、と。


我々がビールを手にする時、それは自由に選択した結果ではありません。


それはただ、「渇きの欲望」に従っているだけなのです。







神の見えざる天秤

坂口です、こんばんわ。


最近、寒暖の差が激しいので
体調を崩してしまう人が多いようですね。


体調管理は気をつけたいところなんですが、
風邪を引くのって、大事なことなんですよ。

実は、風邪とかお腹を下したりすることで、
体の大掃除が起きているんですな。


熱を出し、毒素を出し、
体を治そうとしている、と。


つまり、体のバランスが崩れかけた時、
その平衡を保つために起こるのが風邪や
下痢だったりするんです。



確かに、回復した後の爽快さといったら
それ以前と比べると全然違いますよね。


なるほどな、と思いました。
僕もそろそろ風邪を引かないと(笑)

逆を言えば「風邪を引かない体」とは
丈夫じゃなくて、「風邪すら引けない体」ってこと。



そうなると、正しいバランスを
取り戻すことができず、やがてドカンとした
病気が来るやもしれません。




前置きが長くなりましたが、
今日はリーフ理論についてです。









さて、世界に一つだけの・・・じゃないですが、
今の時代は個性と独自が求められています。



ビジネスでもナンバーワン(差別)ではなく
オンリーワン(独自)になれ、と言います。



確かにそう、しかし独自性とは、
非常に取り扱いが難しいものです。



unreveのリゾーム派生は個店主義による
画一化からの脱却を提唱していますが、

仮に自己表現を花とした場合、
花を咲かせるための環境が土であり、
根の部分である「動機」が必要なわけです。



よって本人に動機がないならば、
主体や独自は、内部から派生することはないでしょう。

ただこれって、全然悪くないんです。



そもそも論で言えば、花を咲かせる
必要性なんて、別にないんですよ。



自然の植物が全部花を咲かせたり、
実をつけているわけじゃないでしょう。



絶対的な価値もなければ
強制するものでもない。


見るべきものはそこではないんです。


☞ ☞


現在、地上の花だけに関心をとらわれて、
肝心の土や、隠れている根を見ていません。



その土とは何か、根とは何か。
そこには必ず、大前提があるはずです。



見えないから見ない、もしくは花だけしか
見たくない、と言うのは個人の自由ですが、



そのうちいやでも見るハメになる。
相補的である以上、必ずそう。



これは個人に関わらず、
あらゆる分野でもそうでしょうな、



たとえば現在、政治は根を隠し、
「経済成長」という全体最善という花を見せてます。


しかし、この国は現状、少子高齢化や
1000兆の借金、格差によってボロボロなわけです。



それは根ではなく、今までのシステムで
「咲いた花」、つまり全体最善の結果なわけでしょう。


じゃあその根はどこか?
それこそ、全体最善に見える
一部利権取得者の「部分」であって、

ここが変わらないと意味がない。
まさに人間の在り方の部分です。


現在、これと同じことをやってるのが、
日本の10倍以上の人口が存在する中国ですが、


一体、そこに何が咲いてるか。
同根による必然の花じゃないですか。



☞ ☞


全体の幸福をデザインすると、
途端に部分が不幸になるのは明らかです。
逆もまたしかり。



確かに、人権や自由など無視した方が
短期的には効率がよろしいでしょう。



それこそ、あっという間にインフラはできる。
一見、綺麗な花が咲いたかに見えます。



ただ、それを維持できるかどうかは、
全く別の所にある。


独断的な目的に全員が納得するわけがない。
それぞれの木が共生しながら、森ができてるんだから。


現在、たくさんのオルタナティブが
生まれていますが、まさに全体へ天秤が傾いた証拠でしょう。


つまり本来のバランスを取り戻すための
揺り戻しが 起こっている、と。




だったら早めに風邪を引いて、
引き始めに治すことを勧めますわ。



鎖国主義

unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます^^


ふむ、今日のテーマは
ちょっと「あうぇー」な感じですな。


まっ、気にせず書いちゃいます。


☞ ☞ ☞


さて、日本人ならほぼ全員が知っている
「鎖国」、一見マイナスなイメージです。


それによってこの国は発展が遅れた、と
今でもそう言う評論家がいますが、それは完全なる誤解です。


そう言っている人達は歴史学を知らないのです、
実際は逆、鎖国をしていたおかげで日本は近代化に成功したのです。


鎖国とは、貿易禁止ではなく「貿易制限」、
つまり、自国の保護が目的なんですな。


「遅れた日本」から「進んだ日本へ」という
スローガンは、維新政者にとっての都合の良い物語であり、


それが今の「TPP」にも使われている。
歴史というものは繰り返される性質を持っています。


実際は4つの口(長崎・対馬・薩摩・松前)を通じて平和に通商されていた。



現在、やれ自由な貿易だの、
開国だのいっているけれど、


見方を変えれば、この国はどんどん
独立単体として生存できなくなってきていると言えます。


コンサルも「成長するため、国内企業は鎖国をやめよ」とか、
坂本竜馬よろしく「夜明けは近いぜよ~」と煽っているのはいいとして、


国そのものが、欧米に都合のいい、
今のグローバル制度に参加する事はおかしい。


百歩譲って、自国でも十分に独立運営できて、
いつでも脱退できる状態であればいいでしょう。



まあ、そんなことしたら
アメリカというジャイアンが許さないでしょうな、
「お前のものは俺の物」ですから。


この国の政治家達はドラえもんにはなれません。




これを風刺画という 笑

独自の文化も、鎖国によって生まれています。
閉鎖することにより、世界から「悪影響」を受けなかったんですね。
(キリスト教を禁止したりとか)



鎖国によって約250年、(色々あったでしょうが)
平和な社会が維持できていました、歴史がそれを物語っています。


この国は自主独立でも問題ないんです。
情報は開かれているので、中国や北朝鮮みたいな国家にはならない。


まあ、輸出とか自給率とか色々課題はありますけどね。



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本来、この国は桜見て、寿司食って、
お茶を楽しみ、俳句を詠めば満足してた国です。
(ちょっと極端ですけど)



反面欧米は違います。
自分の正義を他人に押し付け、統一させないと気が済まない。


平等を勘違いしているのです。
本当の平等は「お互いの違いを認める事」なのにね。



さらに中国や韓国は日本に追いつき、追い越して
初めて自国のアイデンティティが満たされる国家。


つまり外部を変えて初めて、内部が満足する。
そんな標的にされたらたまりませんわ。



いっそのこと「鎖国するぞ」と
どっかの政治家が言ってくれないかな。


もし、「自給率を上げるぞ!」みたいなマニフェスト出したら
思わず、清き一票を入れちゃいそうです。



いや、入れないな笑