2015/04/29

余剰に目を向けよう





この間、ブラジルにいる叔父と従兄が
来日した、ということで会いに行ってきました。



久しぶりでしたね、実に数年ぶりです。
お土産に叔父の会社で作っている商品を
色々と頂いてきました^^






やっぱりバナナ系が多いです。






ブラジルと言えば広大な土地で
ものすごい量の果物を栽培している食糧供給国、
農産物の輸出は世界一です。



豊かですね。
だからでしょうか、あっちは貧乏人も
金持ちも楽しくやってるそうです。




この国だって十分豊かなんですが、
そうだと思えない人が多いのはなぜでしょう。




今日はそんな所から。。。。








この間、全国で竹林の放置が
増えてきている、という話を聞きました。




「雨後の筍」と言われるくらい、
竹は非常に成長が早く、用途の幅も広い素材で、
食べるだけでなく、傘や竹炭などにも使われていますが、



安価なタケノコや竹材の輸入によって
国内産の需要が減少、それに比例して
竹林が荒廃しているんだとか。



その為、国は竹林の整備に一haあたりの
助成金まで出していると言いますが、



この国のタケノコは大半が輸入なんですよね。




つまり豊富にあるけれど貧しいという、
不思議な状態になっている。




これは我々だって同じ事、
余剰があるものに対し鈍感になり、
もっと良いものを「外部」へ求める精神とは、



実は理想に向かう高潔さではなく、
劣等感や貧しさを引き寄せる原因だと
なかなか思えないんですね。



「求めよ、さらば与えられん」。
聖書はこの「内部」の伝え方をもっと慎重にしないといけなかった。



☞ ☞



ずいぶん前から就職難だと言われているので
この間、ネットで調べたんですが、
僕の年齢でも、かなりの件数がありました。



つまり僕が食えなくなって餓死する
可能性は(今のところ)ないわけです。



生きるだけなら何の問題もない。
だからこうして、好きな事をやっていますが、



これが「もっと、もっと」ってなると、
途端に僕の精神は貧しくなってしまう。



「衣食住足りて、礼節を知る」と
言いますが、



逆を言えばこの「足りる」を知らない限り、
礼節なんて分かりっこない。




☞ ☞



「もったいない」という言葉があるように、
日本は余剰を循環させるのが上手な国です。



また、余剰を大事にする美徳もあった。
米一粒にも神が宿ってる、と。



この精神は諸外国よりも一つ高い。
故に、だからこそです。



今後、今あるもの、余ったものに
目を向けたビジネスは増えるでしょう。
最近は賞味期限近い食品を売るサイトだってあります。



unreveの低コスト運営型のFCだって
様々な余剰に対応できる仕様となってます。



例えば、地方にある家電量販店は
どこでも大型駐車場がありますが、



仮にそれが「余剰」となった場合、
新規事業として飲食のFCに加盟し、
駐車場内に作ることも可能です。




そこを入口として集客が期待できますし、
リストラしなくても、新しい部署ができる。
独立支援として導入することだってできます。
(ちなみにこの案件は実証済みです)



自社の経営資源に目を向けてみましょう。
必ず「ヒント」が隠されています。



自社にFC導入をご希望の方はこちらから






2015/04/27

書評



この間、本屋で新刊を見てたら
篠田桃紅さんの本が出てました。




「103歳になってわかったこと」。
芸術家から見た人生観がやわらかく、
そして鋭く書かれています。









第一章 
100歳になってわかったこと
・百歳はこの世の治外法権
・古代の「人」は一人で立っていた
・いい加減はすばらしい

第二章 
何歳からでも始められる
・頼らずに、自分の目で見る
・規則正しい毎日から自分を解放する
・1+1が10になる生き方

第三章 
自分の心のままに生きる
・自分が一切である
・危険やトラブルを察知、上手に避ける
・あらゆる人に平等で美しい

第四章 
昔も今も生かされている
・よき友は、自分のなかで生きている
・悩み苦しむ心を救った日本の文学
・唯我独尊に生きる


幻冬舎 紹介ページより




良いですねえ、実に良書。
最近の新刊は滅多に読まないけれど、
こういった本は精神衛生上とても良い。



加減、適当、規則正しいからの解放。
うん、揺らぎ、遊びながらも志向性の働きがある。




精神が望んでいるものとの
上手な付き合い方が書かれていると
(僕は)思ってます。



☞ ☞




抽象画は、観る人によっていろんな
空間が無限に拡がるけれど、 

字を書いたときは、ひとつの世界、
ひとつの空間を楽しむという、また違う世界。 

わたしのなかには、ふたつあるの。





この言葉、痺れるじゃないですか。
なんかもう、惚れちゃいます。



「抽象的」というものは曖昧ではない、
自由な想像を働かせ、訴えるものであって



それは精神の働きを助ける力であり、
言挙げすることで限定されたものではない。



イマジネーションというものは排除せず、
やわらかく大きな志向性だけを作り上げるもの。




彼女はこの印象と抽象の「あいだ」を
黒ではない「玄」によって表現しているのでしょう。



☞ ☞



〜年を取るごとに、日常に
「無の境地」が生まれてくる〜




やはり、彼女も池田晶子氏や西田氏のように
絶対無絶対不可知の境地を感じている。



個人の限定された体験である以上、
語る事は難しいのですが、




幽玄の美というものの境地は
なんというか、魂が欲しているのかもしれませんね。




知識に加えて、感覚も磨けば物事の真価に近づく。




必要なのは統合の術だと、
改めて感じました。





2015/04/26

唯我独尊と教育論


(一般論で語るのもどうかと思うが)
教育機関は無意識的に自分の欲望や 不安を投影し、
それが「躾や教育」だと思っているようだ。



「ゆとり」と「詰め込み」の間で、
子供は本当に何を学ぶべきなのか。



学歴のない僕が書くのも恐縮だが、
今日は教育についての小噺。









教育の定義は文字通り
「教え育てること」であって、



端的に言えば心身を「望ましい状態」へと
第三者が働きかけることであるが、
そもそもこの「望ましい状態」とは一体なんだろう。



自分にとってか、
それとも他人にとってか。



ここを一緒くたにしてしまっているから
今の教育機関は指示命令しかできないのだろう。



☞ ☞



「これをせよ・するな」というものは
自己欲求の満足以外、何ものでもない。



「心配だから言ってるんだ」というのも同じ事、
その欲求を突き詰めれば当人の「不安の解消」である。



もちろん、幼児はいきなり道路に飛び出す
猫のようなものなので、現実生活内での
「せよ・するな」は当然しなければいけないが、



精神面の場合、その不安を押しつけるのは
「余計」というものだ。


☞ ☞



教育の本質は自前で
「考え、理解し、知る事」であって、
何かを覚える事ではない。僕はそう思っている。



本人が0から作り上げた事柄だけが
初めて「自前の知識」と呼べるのではないだろうか。



それに対して、「情報」とは、
外から与えられる「用意された解」である。



スッキリとするし、心地よく感じるだろうし、
役に立つ場合もある。




しかし、それはあくまでもお金と同様、悩みや迷いを解決する手段であって目的ではない。




目的は子ども自身が作るものだ。
この複雑な時代にどう生きるかを「どう考えるのか」。



教育とはこの「どのように」を自分で
決定できるように支援することだろう。あくまでも主語は「自分」、他人が代わりに理解しても意味がない。



禅や仏教ではその精神の眼を開かせることがスタートだが、教育も躾も同じだろう。



それは自ら開く場合と、様々な縁によって自ずから開く場合があり、これを啐啄同時と呼んでいるが、



実はこれが一番難しい。
難しいと言うよりも不可能に近い。



故に、歴史の賢者達は集団に語らず、
一対一の対話法を取ったのだ。





対話篇~酒の席~




人は見た目が9割だとよく言われる。
初対面では第一印象が重要だ、と。



そして、その見た目は
わずか3秒程度で決まるらしい。



メラビアンだかボヘミアンだか忘れたが
視覚からの情報は大事だということだろう。




さて、この間酒の席で
「どんな女性が好みか」という話になって、



昔は一目ぼれってあったけど、
なくなってきたねえ、などと言ってたら、



でも、最初から性格は分からないから
見た目から入るのは間違いないでしょう、と言う
友人H君と、




「いやいや、見た目で入るもんじゃない」
と言うM君の力説が始まった。





集まる時は必ずこの焼肉屋




「それ、よく聞くから(笑)」。




「だってそうじゃない。一目惚れみたいな
いきなりドキュンはなくなったけど、それはあるよ」。




「確かに、俺だってある」。




「この間、良いなと思った人がいてね」




「そういうことか(笑)
でも俺は違うな、それからがある」。




「また、格好つけて」。




「いやいや、待ちなさいよ」。




「君は珍しいタイプを好きになるからな」。




「好みを他人が色々いうな(笑)
相手との会話が1時間も耐えられない場合、
それでも第一印象を選ぶか、ってこと」。




「選ぶかもしれないじゃない、
最初は緊張してた可能性だってあるし」。




「もちろんそれを踏まえて。
1カ月くらいしたらある程度分かる」。




「そりゃ分かる。仮に1か月経っても
緊張してるなら、そりゃ相性の問題だ(笑)」





「だろ、フィーリングってやつだ。
その時は第一印象なんて、負けちゃうよ」。




「うーん、分からないな。
俺は惚れたらそのままだね」。




「僕は無理、冷たいかもしれないけどね」。




「そりゃ冷たいw」←ここで初めて僕参戦。




「だってノリノリの会話って、この年だと疲れるぜ?」。




「それって、ホントに年のせいかねぇ」←二回目。




「そうだよ、良いじゃない。明るいってことだ」。




「違うよ、明るいと軽いは違う」。





「で、その付き合ってる子と別れる、と」。





「いや」。





「???」




「もしそういう人と会った時は、ってこと」。





「妄想か、すげーリアルな妄想だな。
俺、その子の顔まで見えたぞ」←三回目



☞ ☞



「例えば若い時はギラギラなヤツ着ても、
千円くらいのヤツ着ても全然良くて、むしろ似合ってた」。





「ほほう」。




「でも、この年になって
そういったヤツ着たいと思わないでしょ」。




「確かに。本当に好きなら別だけどね」←四回目





「ステータスとして一緒にはいれないってことか」。




「若さはそれだけで価値だから
その他が付加価値になるけど、年を取るとそうじゃなくなる」。





「それ、俺が前言ったヤツ。パクんな」←五回目





「つーか、そのセリフ意味分からんしw」





「オープンしたばかりの店とか
日本初出店とかと一緒」←六回目





「よけい意味分からんしwww」








ここから先、酔っぱらってあまり覚えてませんが、
みなさんは、どっち派ですか?







結局、まあ、「どっちも」ですよね←おい









2015/04/24

ビオスとゾーエ



昨年から今年にかけて、 皆既月食が
4回も起こるようですね。



それは過去2000年の間でも8回しか
起きていない、 極めて稀な現象だとか。



まー、ネットではやばい年だとか
何かが起こるとか言われてますが、



こういった警告をされても
どうすることもできないのが現実ですよね。



ドライブ中に見る「落石注意」と同じですわ。
目の前に落ちてきたらどうしようもない。



あっ、



今日は月について書く予定だった(笑)









さて、我々日本人は月や桜を見て
酒が飲めるという、珍しい人種です。




多分、昔の人は月や桜に
生命の「不死」を見たのでしょう。




月は満ちては欠け、消えるけれどまた現れる、
桜もそうです。



無常でありながら、そこには
永続的、連続性のある「常」がある、と。



不死とは死なないことじゃない。
「死んで蘇る」、この繰り返しをしている様のことなんですね。


☞ ☞



有機体である我々生物と
無機体である物質の違いの一つに時間があります。




物質の時間が一方通行である半面、
我々生物的な時間は回帰、
つまり円環にデザインされているんですね。



もちろん、どちらもエントロピーは
増大していくのですが、



生物はその「あいだ」にエントロピーを抑え、
元ある秩序に戻している、と。



戻ると言っても逆向きではない。
僕が徐々に子供になっていく事なんて
ありませんからね(笑)



☞ ☞



古代ギリシャではそんな生命の両義性が
分かっていたらしく、



一回性の有限的な生命を「ビオス」、
そして連続性、永続性を持つ生命を「ゾーエ」と呼んでいました。




我々は一回きりの人生を生きる
ビオスでもあるけれど、



子を生み、遺伝という形態として
受け継いでいくゾーエでもあります。



言わば、死ぬけれど生きるという
矛盾した状態が僕には内在している。




まさに西田きたろー、
絶対矛盾的じこどーいつ。







僕の提唱する日本流FCは、
こういった概念から作られています。



それが何の役に立つのか。
疑問に思うかもしれませんが、




答えは一つ、
有限の世界でこのような
不死のシステムを作りたいんですわ。



日本では1000年以上、
続いている企業がある。



逆を言えば、それだけ「思い」が
生き続いている証拠です。




でっかい夢だと思いませんか。
だって、あなたの「思い」が1000年続くってことは、



まさに「あなたが」1000年
生き続けるってことですから。




2015/04/23

絶対矛盾の中から





有名なパラドクス(矛盾)の話に
「クレタ人のパラドクス」というものがあります。



クレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と
言った場合、もしそれが正しいなら、



それを言っている当人がクレタ人なので
「クレタ人は嘘つきだ」は嘘となり、クレタ人は嘘つきでなくなってしまう。



逆に「クレタ人は嘘つきだ」というのが
正しい場合はどうか。




今度はそれを言ったクレタ人が
嘘つきでないことになり、意味が矛盾してしまいますよね。



こういった真でも偽でもないものは
世の中にたくさん存在しますが、



そこに「正しさ」というものの所在は
どこにあるのか。



今日はそんな所から。。。。









さて、先日高浜原発3、4号機の再稼働を
差し止める決定が出ました。




この裁判所の決定については賛否両論、
もちろん関電は納得できず、不服申し立ての手続きをするようです。



新聞などのメディアをざっと見た限りでは、
この決定に対し、批判的に書いている所もあれば
そうでない所もありました。



原発リスクはゼロじゃないから禁止、
という決定は非科学的であって、
科学的根拠を無視したものだと。




では自動車や飛行機もすべて禁止になるのか、と
まるで小学生のような理屈を並べる人もいるようですが、



「科学的根拠があれば絶対」っていう意見に対し、
僕はもう、嫌悪感しかないんですよね。



☞ ☞



絶対とも言える数学の世界で
世界を追求した結果、辿り着いた答えが
矛盾と不確実性だった以上、



偶然の中、我々は目に見える「フレーム」をもとに、
解釈や分析をしているだけに過ぎない。



すると当然、対象に対する理論自体が
理論として成り立たっていない可能性だってあります。



例えば月は「我々の目(網膜)を使えば」
あのように見えるのであって、



どんどん細かくすれば原子の「働き」だけになる。
この、見える「月」と見えない「原子」は同じです。



そうなると、絶対的な基準というもの自体は
人間という限定されたものの上に成り立っているのであって、




それをやれ絶対だ根拠だというのは
ちょっと無理があるんじゃないかな、と思うんです。



☞ ☞



もちろん、賛成派の言っていることが
全て間違っているとは思いません。



僕は(原発)反対派なので
どれだけ理屈を並べたとしても
肝心の心が納得しないのですが、停止のリスクは分かります。



さらに先ほどのように絶対的な安心などが
存在しないことも分かってる、



日常使ってる火も包丁も車もそう。
「リスクゼロ」はない。
故に「現実の使用方法」が優先だ、と。



でも、そのリスクに
「短期的か長期的か」という視点が入っていない。



次世代に残すものを篩にかけた場合、
果たして「それ」は残って良いものなのか。



そこに論理や数字の根拠は出てきません、
「将来の子供に対し、不安があるかどうか」であって、



国の借金と似たようなものじゃないですかね。
僕が子供だったら、そんなもの押しつけられても困ります。



☞ ☞


とまあ、個人的な意見を
つらつらと書いてみましたが、



言葉の意味が成立するのは
周りが決めるのではなく、本人の精神が決めるもの。



自分以外の意見を見れば見るほど、
このクレタ人のような命題にはまってしまうのですが、



矛盾した世界の中において、
一つの絶対的基準を挙げるとするならば、
自分自身の心だけだと思ってます。







2015/04/20

回帰論




民意が政治に反映されていないとか、
民主主義が崩壊していると言うセリフは
いつの時代も叫ばれているが、



実際、この国の政治は民衆の
意見によってきちんと機能しているのであって、
正当に反映している。



例えば、個人の欲望を実現する為に
金が必要だと「大多数」が思っていれば、
政治における民意はそんな「多数派の意見」であって
「感情量の多寡」である。



我々が無責任で個人の欲望を追求すれば、
政治家も同じ様に無責任に利己的に向かう、



まさに民意が抱く思想によって
国家もあり方を変えていっているじゃないか。










プラトンの国家を見た方は
金を無価値だとし、私心無き哲人王によって
国家を統治させよ、というかもしれない。



しかし、それは純粋精神(質)への回帰ではない。
単に教祖が哲人王にすり替えられただけであって、
社会主義の精神バージョンではないだろうか。



そんな思想統制など、北と変わらない。
必要なのは個々のあり方である。




「後記」



そもそも「国民」という人間なんて、
どこにもいやしないように、
民意と言うものも実体がないものだ。



議員のAさんの意見でもなければ、
教祖のBさんでも一般人のCさんでもない。



そんな実体のないものをさも全員の意見のように
取り扱っているのが政治なのだけれど、



そんな「特定できないもの」が「多数」集まったものに
一体、どれほどの力があるというのだ。



本来の民意は数量以前、
つまり人間の質の問題であって、



それを取り扱っている機関(学問)が
現在不在だというのが、一番の問題だろう。




個人の「質」をどうやってあげるか。
それは、自分で考えていくしかない。



2015/04/15

自分だけの世界





我々の自己充足感はマイホームや
マイカーなどでは満たされなくなった、
これは書くまでもありません。



では何をすれば満たされるのかと聞けば、
答えられる人は少ないように思えます。



理由などいらない自分の嗜好性、
つまり自己の原点に気づくということは、



大げさに書けば、魂が純粋に求めるものに
従うということでしょう、




今日はそんなお堅い小噺でも。








さて、歴史を見れば、豊かな国家であっても
目指すべき理想を持たなければ、
衰退の道を辿っているのがわかります。



古代ローマしかり、ソビエトしかり。
エネルギーが建設から破壊へと転化されているわけです。



これは我々個人でも同じこと。


理想なんて偽善であって
現実だけが正しいと言う人もいるでしょうが、



ただ赤子のようにしていても
満足するものではない。



その証拠に、我々は食って、寝て、
排泄するだけは満足せず、


何か考えたり、伝えようとする行為を
誰から教えられたわけでもなく、やってる。



そもそも、我々はなぜ考えを語るのか。
こうやって書いたり、主張したりするのか。
苦しいと分かっていながら進むのか。



それは理想が現実よりも「善いもの」だと
思っているからに他ならない。
(この善いは幸福と同義でもある)



その判断基準は相対ではない。
まさに絶対的な内部派生「わたし基準」じゃないですか。




それは「こうしたい」という、
それ以上、それ以下のものではなく、



「こうしなさい」、「こうあるべきだ」でもない。



☞ ☞



「もっと現実を見ろ」と
野暮な人は声を荒げますが、本来は逆ですよ。



この理想という本質を知らず、
語れない人間に、現実生活の意味など分かるわけがない。



もちろん、行動や実践なくしては
全てが机上の空論になるのだけれど、




こういった理想は個人に与えられた
特権の認識であって、



「その人だけの世界」を
知ってるということでしょう。






個人的に、人は生まれた時に、
それぞれの世界を与えられてると思ってます。



それを作るのも、捨てるのも自由。
影響力のある人の世界に住むのも自由だし、
科学と言う客観的(に見える)世界に住むのも自由です。




ただ、僕は個人がそれぞれ理想を追求し、
それが調和した世界を見てみたい。




今やってるFCの理想像は
そのフラクタルかもしれません。






2015/04/14

ホンネとタテマエ



僕がブログを始めたのは5年前、
アメブロからスタートでした。



当初はアクセス数アップとか、読者数アップなど、
一応の願望はありましたが、



それを完全に遮断し、ブログの目的を
「自分の考えをまとめておくもの」にしたわけです。



そして、この「自分の考え」というものは
「タテマエ」ではなく「ホンネ」の考えを書こう、と。




他のソーシャルは「ホンネ」を書けない。
つい、気を使ってしまうんですな。




なぜそこまで「ホンネ」にこだわるか。
今日はそんな所から。。。。








経験上、ホンネの抑圧によって
組織の内部はどんどん分かりにくいものになります。



一見矛盾してますが、タテマエのその美しさ、
その「分かりやすさ」こそ、その原因でしょう。



それが組織に流通し、虚偽意識が
組織の常識やイデオロギーになってる所を
いくつか知ってますが、



理念が強制的なモチベーションアップに利用され、
その反動で鬱に近い状態になってる人もいます。




そんなタテマエ論の弊害は誰もが
「薄々」分かっているけれど、



誰もが自分の本心を語れない、
これってものすごく不健康だと思うんです。



☞ ☞



美辞麗句で褒め合うのは
実に容易いものです、



けれど、いったんそれを否定し、「ホンネ」という
意識(無意識)下の私利私欲は表に出さなくては
真に理解することができない。



なぜなら「ホンネ」とは、個人的でありながら、
自己内面では真理を現しているのですから。




タテマエは簡単にホンネに屈してしまう。




組織の理念が共有できない
最大の理由がここにあります。



☞ ☞



もっと腹を割って話せる場は
ビジネスだけに限らず必要ではないでしょうか。



言葉が単なる道具となってしまうのは
とても不幸なこと。



口ではああ言ったけれど、
本当はそうは思っていない。


 
つまり言葉と自分が
一致していないわけでしょう。



だから本当の自分はどこにいるのかを、
人はあちこち探し求めるハメになる。




自分の口から出る言葉を
もっと大事にしたいですね。





2015/04/11

価値の交換から贈与へ






我々は壮絶な精子の競争の結果、
こうして誕生したと言われるが、どうも
それとは違う説があるようだ。



その説とは他の精子が協力しながら、
一つの精子を受胎させている、というもの。
参考元リンク



(マウスやラットではあるが)細胞レベルの時から
協力と共創によって生きている、と言える。



弱肉強食も、この視点で見ると
ずいぶんと変わってくるなあ、と。



今日はそんな所から。。。




動物の世界も実は違っていた!?






さて、最近こんなサイトとか
こんなフェイスブックページを教えてもらった。

googleの創始者が、近未来の
働き方(あり方)について語っていたが、
同じ様なことを考えているのだろう。



「交換から贈与へ」。
徐々にだが、意識は確実に変容している。



僕も(断定的だが)贈与経済について
記事にしたのだけれど、これが実現できたら
若者達の未来はずいぶんと明るいものになる。





それは社会主義ではない、
なぜなら、一部の恣意的な意図のないものだ。
つまり主体的な行為が基軸となっている。




もちろん、これが可能になるには
多くの課題もあるし、人間に所有欲がある以上
完全な体系は難しいだろう。





しかし、成熟し飽和した市場において
「まだまだ、もっともっと」は限界がある。
これは間違いない。




何かがトリガーになるのか、それとも
徐々にシフトするのかは占い師がやることだが、




将来そういった可能性がある、ということと、
我々の競争欲求は刷り込まれたものではないか?
という疑問符を持つのは大事なことだと思っている。






2015/04/09

不易流行





さて、近代の発想の仕組み(根幹)は
例えるなら飛行機の様なもの、


言わば前へ前へと突き進むことによってのみ
高く飛べるという志向性なのですが
そこに絶対的な価値を置いてしまっても、
心の感覚は鈍くなるだけではないでしょうか。


現在は文字通り「新しさ」に流されていて、
子供の玩具同様、すぐに飽きる性格を持っています。
我々が「飽きやすくなった」のか、それとも
対象そのものが「浅薄」なのかはわかりませんが
消費(コモディティ)が大きく口を開けてて、
そこから逃げるようにイノベーションをやってる気がするんですね。


菊池寛の「極楽」はこれを
実にうまく書いています。



何の苦しみもなく寒さも暑さも感じない極楽に
二人仲良く行った老夫婦、
蓮の花の上で座ってばかりの毎日で、
やがて最高の世界「極楽」が退屈になってきた、と


納得。
虹だって、しばらく眺めていたら
飽きてきますわな。



てなわけで前回に続き、二回目です。







さて、新しさというものだけに価値を置き、
人為的な創造を繰り返している現在は
不易流行の「流行」だけを追い求めていると言えます。


不易とはいつまでも変わらないもので、
流行とはその時代時代の新しいもの。


勘違いする人が多いのですが、
これは流行を否定し、永遠に変わらないものを
求めよ、という意味ではありません。


新しさを求め、変化する流行の中にこそ、
永遠である「不易」の本質がある、と芭蕉は主張しているのです。



俳諧は和歌と違い、聖俗が混然一体となって
成立しています。高貴さと日常、本質と刹那、
重大なものと軽少なものが組み合わされています。


つまり、流行を捨てた所に不易が
成り立つのではなく、常に流れながら
聖俗入り混じる「流行」を追求する中に「不易」は成立する、と。



ビジネスだって似たようなもんでしょう。
毎日哲学的な論考や会議をやっている
会社なんてないわけで、自由な時間を
与えられれば雑談が大半になるはず。


ただ、そんな「他愛無い雑談」の集合体が、
実は一番、和気藹々とした場を作ってるんじゃないかしらん。


この見えないものは
新しさより先にくるんじゃないでしょうか。










2015/04/08

星のように急がず、しかし休まず。





成長経済社会では「挑戦」の繰り返しによって
これだけの進歩と発展が実現できたのですが、
成熟期ではその意欲が逆に焦りとなっている気がします。



物財の増加は幸福持続性と直結するか?
どうやらそうではないようです。



だからと言って国民幸福度一位のやってる事が
常に正しいかというとそうじゃない。



例えばプータンは国民の9割以上が
幸せだと答えていたのですが、


近代文化が入ってくることによって
国民のあり方が変わってきているといいます。



つまり仏教の「教え」を身に付けていても、
「外部」は侵入してくるってことでしょう。



仏教では幸福にならないというのではなく
「内部派生」でないと、流されてしまう、と。



今日はそんな所から。。。。








現在、思想でも理論でも文化芸術でも
何でもそうですが、



多くの人が興味を持っているものは
常に新しいものです。



より新しければ価値があり、
これまでの形式や形態を崩せば
それは「イノベーション」として評価される。



まるで独創性と進歩こそが正義だと言わんばかりに、
「創造的破壊」が使われています。



確かに、新しいものが生まれ、育ってる間は
「より」進歩した世界として認識されますが、



「創造と進歩こそ正義」という、
美意識に取りつかれている可能性だってあるわけです。



☞ ☞



明治維新後も似たような状態だったようで、
あらゆる流派を破壊し、欧米の近代文明を
取り入れていました。



先人の道に習い、伝統を学ぶことは
単なるレッスンプロ的な復古論だとされたのですが、



やがて「新しいもの」は「本当に欲しいもの」では
なかった、と気付いたのです。




我々の精神だってそうでしょう。
刹那的な興奮や刺激なんてすぐに飽きてしまう。



ビジネスでもそう、表層的な技術で
消費者を喜ばしたり、驚かせるのには限度があります。




☞ ☞



そもそも破壊を伴う独創性は、増大と成長が
見込める環境がある時のみ、通用する限定的なもの。



地球資源で例えれば明らかですが、
限界の状態で技術だけ革新すれば効果は遁減する。
当たり前の話です。




芸術家や音楽家だけでなく、
新しいものを創造することが仕事の人は
このことをよく分かっています。



人々を本当に楽しませるものは限られるし、
長く楽しみが続くものなんて、さらに限られるわけです。




ん、長くなりましたな。
次回に続きます。



2015/04/07

古き良き





我々は無意識的に「有機的なもの」に
惹かれている。



これは未来や宇宙をテーマにした
施設などが、軒並み失敗していることから分かります。



我々はどんなに洗練されたデザインでも
それが無機質なものだと感じれば馴染む事はありません。




最近、イノベーションなど、常に
新しいものばかりに価値を見出していますが、



僕は長い歴史に耐えうるものには
価値があると思っているんです。





ラーメン博物館




さて、以前書いたように活気とは
聖と俗の「あいだ」によって派生すると思っています。
聖は秩序、俗は無秩序と同義です。



そのバランスがひとたび崩れると、
途端に認識が変わってしまいます。



聖の割合が強いと冒頭に書いたようなものとなり、
俗過ぎれば、ただ古臭いだけになってしまう。



☞ ☞



システマティックなFCの代名詞でもある
コンビニはチェーンというよりも、
公衆電話のようなインフラに近い。



よって僕の中ではFCとして対象外なんですが、
馴染みという視点から見ると、このバランス感覚は
とても大事だと感じています。




店舗設計にせよ、契約書にせよ、
組織構築にせよ、




こういった加減を掴みとる技術を
unreveはお伝えしています。





2015/04/06

レンガ積み






建築現場を通りかかった人がそこで作業をしている人に、
「今、何をしているのか」と質問した。




最初の作業員は「レンガを積んでいるんだ」と答え、
次の作業員は「壁を作っているんだ」と答えた。




次の三人目に聞いたところ、その作業員はこう答えた。

「神を讃える大聖堂を作っているのさ」。




これは主体性の重要さを
一番よく表しているもので、僕の好きな言葉でもあります。



レンガと書くとちょっと抵抗があったので、
僕はよくパズルに置き換えているんですが、



unreveのFC組織の「完成図」とは
経営者が描いたものを、一人一人の積み重ねによって創るプロセスです。










組織では従業員に。
フランチャイズでは加盟店に
それぞれパズルのピースが渡されます。



当然、一つのピースだけを眺めても
我々は何の意義も意味も見出せません。



しかし、その一枚のピースがなければ
一枚の絵は完成されませんよね。



個人が持つピースの重要性や、
全体の絵の「意味」を伝えるために対話は
組織には必要です。



☞ ☞



壁に掛ける経営理念というものは、
「どこそこに、こういった建物を建てます」という
結果論、設計書です。



そこには作る事の
「意味」や「思い」が欠けている。



逆を言えば、この「意味」や「思い」というものは
個人の幸福とリンクしているのではないでしょうか。




例えばこの絵の完成型が「年商1000億」とか
「一部上場」といった、特定の個人欲求だったとしたら、どうでしょう。




間違いなく、自分には関係ないと思うはず、
この「関係ない」という精神が組織を衰退させるのであって、



その状態で社外教育などでモチベーションを
上げようとするから、おかしくなるんですね。



☞ ☞



それを外部報酬として対応する
所もありますが、逆を言えばそれがないと
まとめられないということでしょう。




常に利益還元が約束される企業なら
話は別でしょうが、金の切れ目がリスクというのは
現在、最大のリスクではないかと思います。




何を作りたいのか、
また、そこにどんな「意義」があるのか。




組織のあり方を真剣に考えている方は、
一度見直してみてはいかがでしょうか。




2015/04/05

近況




こんにちわ。



花見の予定が大雨予報の為中止になり、
現在ヒマを持て余しています。





ありえない。
自他共に認める超晴れ男なのに。







多分、神レベルの雨男がいたんでしょうな。










そういや、unreveはブログの統計をなんかを
日々やってまして、



手前みそですが、移行後ちょっとずつアクセス数が
増えてます。皆様、ありがとうございます(・・。)ゞ




で、この間おもしろい所から
アクセスがありました。



















ラトビア




Wikipedia
ラトビアとは(ラトビアとは)


ラトビア共和国(ラトビアきょうわこく)、通称ラトビア(英語: Latvia、ラトビア語: Latvija)は、北ヨーロッパの共和制国家。EUそしてNATOの加盟国、通貨はユーロ、人口201.5万人、首都はリガ。 バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の一つである。西はバルト海に面する。北はエストニア、南はリトアニア、東はロシア、南東はベラルーシと国境を接する。面積は九州本島の1.76倍[2]。国連の分類では北欧の国である[3]。首都リガは港湾都市で、バルト海クルーズの主な寄港地の一つでもある。 公用語はラトビア語。国民の約27%がロシア系住民で、映画・テレビ・新聞・雑誌などではロシア語も広く利用される。また、世代によっては英語またはドイツ語も話せ、このマルチリンガルな国の特色は外国企業の進出の要因にもなっている。 第一次世界大戦後の1918年にロシア帝国より独立。第二次世界大戦中の1940年にソビエト連邦に占領された。翌1941年独ソ戦でドイツが占領、大戦末期1944年ソビエト連邦が再占領し併合。1991年に同連邦から独立を回復、2004年にEUそしてNATOに加盟した。







ネタ切れた。




あー。サクラが~酒が~(。´Д⊂)




2015/04/03

文楽から見るフランチャイズ



浄瑠璃とはそもそも仏教の「清浄なるもの」の意味、
よって、得意としていたのは神話・伝承の世界であって
それが歌舞伎とは大きく異なる部分です。



この人形劇(人形浄瑠璃)の一つに
文楽がありまして、



今風に例えるなら、浄瑠璃がオーケストラで、
文楽はミュージカルのようなものでしょうかね。
(ちょっと違うか?)



この文楽の伝統継承の方法を見れば、
実に奥行きが深く、ビジネスにも参考になります。



今日はそんなマニアックな小噺でも。。。







さて、この文楽は男性によって演じられ、
太夫、三味線、人形遣いを合わせた「三業」の
三位一体を演じるのが文楽の特徴です。



三業は普段、慣れ合う事はなく、
舞台では真剣勝負をしていると言います。



そんな三つ巴の白熱した演技だからこそ、
観客は感動するのでしょう。



そんな文楽は基本「丸本」と言われる原本に
沿っているのですが、それを鵜呑みにしていません。



人間が行う以上、その体得は
個別指導、そして実践の繰り返しなんですね。



弟子になったら、自分の志望がどうあれ、
まず「三業」すべての稽古をし、
そこから太夫・三味線・人形と専門へと分かれると言います。



まずは全体から、ということでしょう。
「専門性だけ磨け」というビジネス論者には耳が痛いところですね(^_^;)



☞ ☞


閑話休題、
三味線と太夫の関係性はとても密接なもので、
昔は「盃」を交わすほど深く、「相三味線」と言われています。



今では形式こそ変わったようですが、
文楽の源流にはそんな深い信頼関係があったんですね。



それによってインフォーマルな関係性が
生まれるのでしょう、



例えば演技の際、「頭」と呼ばれる
主遣いの合図によって呼吸を合わせるという、
ピラミッド型の指示体系が基本なのですが、



全て指示通りに動くのではなく、
時として主遣いの期待以上の動きをするのだとか。



部分(右遣い・足遣い)の意思が
全体(主遣い)の意図を超える。



つまり三業は上下関係こそあれど、
美意識を共有した協働作業ができるのです。



まさに、そこにはフォーマルとインフォーマルの
融合された場の創造が起こっています。



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マニュアルや体系は秩序と同時に
段階的な「限界」を作ることを意味します。



名人の音だけを真似したり、
指示通りにやっても観客には響かないもの。



その人が、どう考え、どんな意気込みで弾いたのか、
文楽ではそこまで深く掘り下げているのです。



それによって初めて、
新しい演芸が生まれるのでしょう。



上っ面だけ真似すると全く違うものになる、



人間という生ものを取り扱っている以上、
それはビジネスにも該当するのは間違いありませんね。




2015/04/02

北風の限界




こんにちわ、坂口です。
いよいよ生い茂る「弥生」の季節に入りましたね^^




今週末にみんなと花見を予定しているのですが、
満開の時を見ようと、一人夜桜を見に行ってきました。





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さて、大変ありがたいことに、今年に入って
非常に多くの企業様からご依頼を頂いてまして、



特に最近は既存の本部様から
組織体制や運営についてのご相談が多いです。



今までの単一のベクトルに合わせれば良い、
という常識がどんどん通用しなくなっている。



これは多くの経営者が感じている部分でしょう、
北風と太陽でいう、北風の限界でもあります。



ゲーテは
「支配することは容易に学び得られるが、
治めることは学び難い」と言ってますが、



支配したり、服従したりせず、それでいて
個人がそれぞれ機能している状態こそ最上なのは
国家であれ企業であれ、変わらないのではないでしょうか。



☞ ☞



他者と自分を本当に信頼することができない、
けれど、他者と自分なしではやっていけない。
ここに我々の根源的な悩みがあります。



そしてこの自他の信頼は、道徳や規則という
外部の整備・構築だけでは充足しない、
病気で例えるならば、メスでは届かない部分です。




ここに外を整えながら、内を予定するという
統合の理があり、術があります。





何人も他の者と等しくあるな。
だが、みな最高のものに等しくあれ。


どうしたらそれができるか。
みなめいめい自己の内部で完成されてあれ。


「四季~秋の部~」より引用。