2015/05/31

天命とか使命とか。





こんにちわ、坂口です(゜゜)
5月も終わりですね。



さて、unreveの活動はと言いますと、
現在、クライアントさんの案件に伴い
超大手さんとの絡みがいくつかできそうです。



うまく行けば、すごく素敵なものを届けられそう。
遅くても再来月には決定しそうですので、
分かり次第、こちらでもアナウンスしますね。




報告はこれくらいにして、
今日のテーマは「天職と使命」について。









私は、これをやる為に生まれてきた」。




もし、天命や使命というものが本当に
あるのならば、誰だって知りたいですよね。



手塚治虫氏は死ぬ間際まで
漫画を書いていたと言いますが、



それは義務感でもなんでもない。
「携われるだけで幸せだ」という、感覚的なものでしょう。



また、外部の条件で決定するものではなく、
楽な仕事でもないんでしょうね。
(そもそも楽なものに真の楽しさなんて存在しませんからね)。



ちなみに実験好きなアメリカでは、
こんな調査結果があります。




高額の日給で人を集め、
彼らには以下のような仕事をやらせました。




本棚にある本を隣の部屋に移動させる。
そして移動し終わった本を今度は元に戻す。




これをただ、ひたすら繰り返すだけです。




初めは全員、楽で簡単で、しかも報酬も高いので
喜んでやっていたのですが、




やがて耐えられなくなり、
全員が辞めてしまったと言います。




つまり、我々はいくら楽で簡単で
収入が高かったとしても、




それ自体に「意味」を見いだせないものは
続けることができないのです。



☞ ☞ ☞




では、何が天(命・職)と呼ぶに値するのでしょうか。




表面的な価値、例えばネームバリューだとか
年収だとか、安定性だとかいうもので情熱が起こらないのは
先ほどの例を見るまでもありません。




なぜならそこには肝心の精神がない。
心が伴わない「情熱」なんてものは存在しません。
それは単に「メリットがあるだけ(理性派生)」です。




(ここから独断的な意見ですが)
我々の精神は何かに対し、ある種の「熱」を持つ気がします。



そして、その熱によって、生きがいや
幸福感を感じるのではないでしょうか。



恋愛なんてまさにそうでしょう。
人によっては盲目になってしまうくらい、楽しい。



当然、それは意識的に起こるものではなく、
内部から自然派生する無意識の領域であって、
「何がトリガーとなるのか」が分からないわけです。



しかもエントロピーよろしく、
一時的な熱はやがて消えてしまいます。
そういえば、恋愛も冷めますわな(笑)




ただそんな中、不可逆ではなく、
可逆的な対象があるかもしれない。



言わば「一生冷めない熱」。
これが僕の「天」の定義です。





☞ ☞




天職や使命、天命と聞くと
なんだか特別な出来事があったりとか、
神様からのお告げ的な感じがしますが、
ここを前提としてしまうと形而上のものとなってしまいます。




だから「ある、ない」という二極に分かれる。
なんちゃら星人とか神様を出した時点で、全員アウトです。




本来の「それ」は誰にでも分かって、現実的で
とってもシンプルな原理で成立するもの。
そうじゃないと意味がありませんよね。




だから僕は「情熱」という、誰もが
一度は体験したことのあるものこそ、真実だと思うんです。




そういえば、本居宣長は
「太陽こそ神様(天照大御神)だ」と言っています。



地球をいち生命体として考えた場合、
一番大切なものは水でもなければ酸素でもなく、



それを含めた万物を生み出す元である
太陽(熱)であることに、宣長は神秘を感じたんですね。



太陽は超越した世界にあるのではなく、
人間の姿をしているわけでもなく、
今この瞬間にも実在し、誰もが見る事ができます。



逆にそれ以外は人間が勝手に創りだした
空想の神ですから、それぞれ異なるし、存在も証明できない。



実に素朴かつ、真っ当な精神だと思いませんか?





「後記」




さて、こうは書いていますが、
太陽自体も万能ではない、と思ってます。



照り過ぎると逆に生命を枯らしてしまうように、
雨や風や土などの役割もあって、
それが五行相克の関係となっているのでしょう。




ただ、元旦の太陽を見ると、
無意識的に祈りたくなるのは僕だけじゃ・・・ないですよね。




社会貢献度の高い事業を始めませんか?





最近、自然災害に関する情報が
よく耳に入ってきます。



先月のネパールやニューギニア
付近で起こった大きな地震を見れば、
改めて自然の脅威を感じさせられますね。



現在の科学はかなり進歩していますが、
この地震の予知は未だ出来ていません。



いつ、どこで、どれぐらいの大きさか。



そんな正確な予知が、
果たして可能なのかどうかは分かりませんが、



現状言える事は、
いつ地震が起こるかは分からないけれど、
遅かれ早かれ必ず起こるものであって、



言い方を変えるならば
日本で地震が起こらないわけがない、ということ。



日本は全世界で見ればたった0.3%程の
面積しかありませんが、



驚く事に、全世界で起こったM6以上の
地震の2割が日本で起ってるんですから。









そこで考え方の転換が必要です。
「どうなるか」ではなく「どうするか」。



我々が日本にいる以上、地震に対する
付き合い方を変える必要があるのではないでしょうか。




つまり「耐震」という考え方。
これは自然と共生する日本の在り方とも言えます。




この耐震技術を継承・普及する為、
一般社団法人防災対策協議会が設立されました。



こちらでは耐震両面粘着シート「アスガード」を
取り扱って頂ける方を募集しています。


 




以前放送されていたテレビ番組
「ほこ×たて」でも何度か紹介された「アスガード」、



直下型震度7の耐震実験をクリアしてますから
大地震への備えとしては非常に有効です。



加盟店の方は個人・法人どちらも可能です。
BCP(事業計画書)策定を始め、様々な
プラン作成方法などにも対応してますので、安心してスタートできます。



また、防災対策協議会の指導のもと
講演会を行えるようサポートしますので、
自治会向けの勉強会なども行えます。



起業志望の方は事業の柱として、
既存事業がある方は付加価値、
もしくは新規事業として導入しても良いですね。




社会貢献度が高い事業です。
興味がある方はメール頂ければこちらでも対応させて頂きます。





2015/05/29

サステナビリティには型がある。





多様性に伴い、「自分らしさ」が重視されている。
これは同時にオリジナリティの創出でもあるだろう。





しかし、オリジナリティや独自性とは、
これまでなかったものや斬新なアイデアを出したり、
奇抜性を狙うものではない。




そもそもオリジナリティとは今あるものから、作られるのだ。



そこからの「自己概念のフォーマット化」、
一つの「型」として確立しているか否かである。




例えばピカソの作品は一目でわかるくらい
独特なものであるが、



当初は、青の時代のような描き方であって、
そこからセザンヌの画法を取り入れている




それは単なるコピーではなく、
主語は常に自分だった。



つまりピカソのキュビズムは
様々な作品の編集によって、
一つの「スタイル」を生み出したと言えるだろう。




今日はそんな「型の習得」。
練成講座の一部のご紹介です。








さて、芸術家アーティストはこの型である
「らしさ」や「っぽさ」を作るために生涯努力している。



ビジネスではこれを「ブランド」と呼び、
文学や哲学ではこれを「思想」と呼ぶ。




これが実に難しい。




誰だかは忘れたが、9割9分の人間が
この「型」を作れないまま、生涯を終えている。と言っていた。




なるほど、
現在、生き残っている思想やブランドの
数の少なさから、その確立が困難であるのは間違いない。



それは一番最初に持っている自分の「種」を
どこまでも見つめ、肯定していくことの困難さでもある。



生涯の思想は処女作に向かって成熟する。
本質的にそこに「すべてがある」のだ。



例えば、マルクスの思想体系の全てが二十代の
「ヘーゲル法哲学批判」を発表した時期あったように。




☞ ☞



さて、もうひとつの型に「パターン」がある。
世阿弥の「序破急」、茶道などの「守破離」、



身近な例でいえば「起承転結」。
これらはパターン(拍子)そのものを型としている。
(ちなみに対話も一つのパターンである)



僕は「守破離」を模倣して、そこから
リーフリゾーム、やり方と在り方である全体観、
といった統合(調和)を型としているのだが、




その理由は簡単、本部にはすでに
「らしさの型」があるので、
加盟店は「パターンの型」を覚えれば、
「らしさの型」を崩さずに独自性を出せるのだ。





加盟店が型を作るのはまだ先のこと、
自分なりの哲学が必要となる以上、
現実の経営が追いつかない。





だからといって作らないままだと、
今度は逆に「型にはまってしまう」。
だからこそ「守破離」の順序が必要だ。




今のフランチャイズはビジネスの
目に見える「作業」をフォーマット化し、
マニュアル化にしているが、これがそもそもの間違いである。



本来のFCのフォーマット化は型の創出、
つまりブランドとして成立する「らしさ」を
いかに共有させるかであって、



決して作業オペレーションの精度ではない。
だからこそ「対話」が必要となるのだ。



☞ 



ピカソの絵にはピカソらしさがあり、
シャネルのバッグにはシャネルらしさがある。



小林秀雄の小林秀雄らしさ、
サザンの音楽のサザンさしさ、
ジブリアニメのジブリらしさ、だ。
(宮崎駿氏の場合)



そんな型を持つアーティストの作品は
奇抜な作品を生みだとしても、一貫性がある。



だからその度、我々は新しい側面に
魅せられるのだろう。





お宅、オタク?



オタクは自分の発見、自分のコレクション、
自分の収穫物を自分だけの宝物として秘匿しておきたい。
そういつも願っている。


他人の好奇の目にさらされたり、
売買をオファーされたり、批判されたりしたくない。



略・・・



しかーし、オタクはしょせんオタク。
その心はいつも揺れ動くアンビバレンスのうちにある。



自分のものを自分だけの秘密にしたい一方で、
見せびらかしたい、自慢したい、賞賛を受けたいと
常に願っているのである。




福岡伸一「やわらかな生命」より





どーも、坂口です(゜゜)
僕もオタクの端くれですので、すごく分かります。




ただ、誰でもあてはまりそうな気もしますけどね(笑)





そういや、この間yahooニュースで
こんな記事がありました。




「自分語りOK」なTumblr(タンブラー)。「交流しなくていいSNS」が若者に人気。




以前、本音を表現できるのが
ネットの一つの楽しみだったけれど、



SNSではフォロワーや友達の目線を気にしてしまって、
自己満足の趣味を追求できない。 



そんな息苦しさを解決するのが
Tumblrだと書かれてます。




わかるわー。




ただ、以前は某掲示板のように、
加減知らずに誹謗中傷を書きこむ人が多かった。



匿名性が表現の自由をはき違えさせたわけです。
(これは今もあるでしょうが)



その揺り戻しから実名的な繋がりである
FBへと移ったのでしょうが、これもある意味極端なわけで。



そのせいか、sns疲れのように、
現在は自由と不自由の葛藤が起こっています。



ツイッターでは本音用と建前用でアカウントを
使い分けている若者が増えてると言いますが、



多分に、ネット世代は無意識的に
そのバランスを取っているのでしょう。




そんな意味からこのTumblrが選ばれている、と。



unreve的に言えば「ちょうどいい加減」なんでしょうね。
(フォロワ―数が見えないもの高得点)



使ってみたところ、確かに気張らなくて
良い感じなので、今後メインで使うかもしれません。




ちなみにここ、福岡市では
全国の自治体で初めて「Tumblr」を使ってるんですよ(゜゜)と。





2015/05/27

男子力・女子力




こんばんわ、坂口です(゜゜)



今度、知人が「女子力アップ」という名目で
韓国に行くようです。



確かに、あっちはエステとかコスメとか
色々賑やかですからね。



そんな「女子力アップ」は分かりやすいけれど、
「男子力アップ」と言うものは何があるんでしょうな。



最近、男性用化粧品やらエステやらが
流行っているようですが、それは単に
女子力アップの男性版なわけで。



そう考えると、男子(男性)力アップで
考えられるのは仕事とか、コミュニケーション能力とか
教養とかになるんでしょうが、



これもまた、「男性ならでは」というわけではない。
(男性諸君、分かりますか?)




まあ、そもそも平等っていう概念は
明確な区分けがなくすことでもありますからね。




今日はそんな所から。。。。







さて、ジェンダーと言う言葉が日本で市民権を得て
しばらく経ちます。



本来のジェンダー論とは
性別や肉体的な差異のこと。



「好きで男に生まれたわけじゃない」。
「好きで女に生まれたわけじゃない」。



なるほどね、自分以外の
決定論が気に食わない、と。



もちろん、育児や料理ごとなどの役割分担は
自由で良いじゃないの、とは思うのですが、



これが、あらゆる面で公私の区別をなくそうと
言われると、ちょっと首をかしげてしまいますな。


まるで、どこもかしこもフラットに
整地しているかのよう。



例えば、ジェンダーフリーの立場の人は
性教育はもっとオープンにした方が良いとか言います。
「私的に隠さず、公的にせよ」と。



そりゃ極端だろと思うんです。
じゃあ、あんたら路上でエッチできんの?と。



できないでしょう。
シド・ヴィシャスじゃないんだから。


第一、そんなもんはいちいち教えなくても
正常な男なら、勝手に覚えていきますわ。



逆に全くやり方を知らないまま
大人になる方がおかしい。



☞ ☞



私的領域(プライバシー)は
閉じられているからこそ、私的たらしめているわけで、



前提を間違えれば、その先全部が
間違ってしまう。統合と統一は全然意味が違います。




例えば、本当の自分を出せと言っても、
公共(境界)の場ではちゃんとルール守りますよね。
これは我々が持つ真っ当な精神なんです。



なぜ真っ当か。
それはこの世界が二項の統合によって成立しているから。




小林秀雄はそれを「鍔」として表現しました。



血で血を洗う戦国乱世の時代において、
武器は人を殺す為の道具であった。



しかし、応仁の乱以降、戦で使われている
刀の鍔(つば)や鎧兜には、芸術的な装飾(意匠)が施されている。



多分に、残虐な行為を繰り返す時代であっても、
人間は文化的な志向性を求めずにはいられなかったのであって、



それが刀の鍔に現れている、と。





wikiより拝借




我々はそんな明暗のコントラスト「そのもの」を
引き受ける動的平衡の存在なんですが、



平等の精神論者は必ずどちらか一方、
つまり「自分の恣意的な意図」で塗りつぶさないと気が済まない。




善一色、人間一色、神一色。
ワンネス、ワンマン、オンリーワンです。




これが目指すべきものだと言う人の
人生は、さぞ生きにくいでしょうね。





多分、差異ある肉体を持った
差異なき精神こそ自分だと思わないんでしょう。





僕はO型の大ざっぱな性格ですが、
そんな非寛容な思想だけは、拒絶してしまいますね。






2015/05/26

強みは変わる、弱みも変わる。




コンサルが使っている分析ツールは
それこそたくさんありますが、
その中にSWOT分析というものがあります。



SWOTとは「強み・弱み・機会・脅威」の
頭文字をとったマトリックス手法なのですが、



これからのVUCAの時代では
こういったツールがどんどん役に立たなくなるのではないでしょうか。



自分以外(外部)をカテゴリー化し、
相対化したものによって構成されたものは
環境次第でコロコロ変わるもの。




例えるなら寿司屋の松竹梅。
松があると竹は安く(弱く)なり、梅があると、高く(強く)なる。



しかも、市場は3つにカテゴライズできるほど
単純じゃない。




「松竹梅杉檜・・・・・・・・・」みたいなものが
100も1000もある中から、どれにするか選ぶわけです。








そんな相対化した状態での自社の強みは、
構成比率によって決定されてしまいますので、



カテゴリーの構成比率が変われば、
当然、それも変わってくるでしょう。



表層的個性が、唯一不変のものではなく
他者の存在なしには生じないものであるように、



比較から「これが強みだ!弱みだ!脅威だ!機会だ!」
と決定しないで、



松だけが持ってるもの、
竹だけが持ってるものを見つけなければいけない。




逆に外部要因を分析すればするほど、
事業の方向性はどんどん乖離する可能性があります。



デフレ期の低価格競争などは、まさに
「安さ」という外因的な強みを武器にして競争していた。



その結果どうなったか?



強みが転じて、弱みになったわけです。



☞ ☞



未来予想である脅威も似たようなものです。



一般的に、景気や社会動向、技術、業界の変化や
顧客ニーズなど、自社の努力で変えられない
要因(外部環境)を分析し、機会や脅威を定義するのですが、



変えられない外部要因というよりも、
現在は「何が起こるか分からない要因」なわけです。



FCの脅威を「類似店舗の出店」として、
他社動向を伺う所もありますが、



脅威として挙げるならば、類似だけでなく
どこでもそうでしょう。



例えばラーメン屋をFC化した場合、
下手すればラーメン屋だけでなく、
飲食業(外食)全部になりますよね。



しかももっと細かくしたデータ(家計状況)も入れるなら、
「外食そのもの」を我慢して、家でビールを飲む人が増えるかもしれない。



そうなると脅威が「ビール」という、
笑えない話になってきます。
どうやって手を打つの?



しかも、リーマンショックみたいな
誰も予想できないことが起こるかもしれない。




結局何が言いたいのかというと、
複雑な構成要素をペラ一枚の
マトリックスでまとめようとしても、不可能なんですね。




しかし本質さえ掴めば、目の前の事象に
惑わされることはなくなるでしょう。




帰納法ではなく演繹(仮説と発見)
という、内部派生が大事だと思っています。




2015/05/25

葛藤の忌避




流される事に対し、
さほど抵抗がない人がいます。



ベタで分かりやすいものに従属し、
思考停止になっている自分を
まあ、それでいいじゃないか、と。


もちろん、それは個人の都合であって
勝手ではあるけれど、



僕はそれがどうしてもできないタイプのようです。
だから同調圧力は必死で抵抗してしまう。




「悩まないための方法」、
「絶対うまくいく方法」などのハウツー本や、
「これをやると失敗する」という対極本が
我々の葛藤を忌避させている原因でしょうが、




僕は葛藤なきスムーズな人生が、まるで
ロボットのように見えるんですね(笑)




なるほど、ロボットは悩んだり
葛藤はしない。




持ってる情報から最適解を「選ぶ」だけですから。




前置きが長くなりましたが、
今日はそんな所から。。。











さて、度々お伝えしているように現在は成熟期。
つまり切実な欲求がほぼ満たされた状態です。




企業がどんなに新しい商品をリリースしても、
多くが「あった方がいいかな」くらいの感覚でしょう。



そこでセグメントを分けたり、場所を変えたり
指数関数を変えたり、売値帯を変えたり、
組わあわせを変えたり・・・と、試行錯誤をしているんですが、



目に見える物質世界を分ければ分けるほど
逆に分からなくなってしまう。



結果、量だけが膨大になり、蓄積された
それに対する分析コストだけがどんどん跳ね上がる。



そこに帰納法や科学の可能性の限界を
感じますね。




誤解を恐れずに言えば、
熟れた果実が決して若くならないように、
正直、一旦成熟したものはどうしようもないと思っています。



ただ、草原の美しさを維持する為
「野焼き」が必要なように、



人工的に自然のサイクルを変える
方法があるかもしれませんが、




どちらにせよ、一度既存のものを
壊すか、離れるかしないといけないのでしょう。




☞ ☞ ☞


苦しみから生み出すにせよ、
楽しみから生みだすにせよ、
この「生みだす」という行為は必ず葛藤があります。




創造とは、そんな精神と精神の「間」の
生成に成功したとき、輝くのではないでしょうか。



今の葛藤とはまさに「原理」の衝突でもある。




現在の経済(消費)原理を支えているのが
消費者の「切実な欲求」であると仮定した場合、
その志向性はすでに閉じられている。



故にその志向性を追究しようとすれば
後はニッチか海外進出しかないのですが、
それも時間の問題でしょう。




よって、我々は目指す志向性を「物質的豊かさ」や
「切実な欲求」とは違った志向性が必要であって、




それが理念でお伝えしている個人の
絶対命法である幸福の提案だと思っています。



☞ ☞



幸福の定義は人によって様々です。
今は十人十色というよりも百人百色、



人によって多様な幸福の形があることに
多くの人が気がついている。




それをパターンとして捉えようとしているのが
ビッグデータでしょうが、騒がれてはいる反面、
具体性なプランまでは到達していないのは明らかです。



かのコトラーはビッグデータで分かるものは
行動だけであって、態度は分からない、と言ってます。




そんな行動一元論の結果、論語読みの論語知らずのようになるのでは、と個人的に思ってます。



☞ ☞



肝心なことは、自分が「本当に感じたこと」や、
「心が動かされたこと」から演繹的に出発して、
その意味を深く考えることではないでしょうか。




個人の内部の感覚派生、
それが本来の思想であり、価値だと思ってます。




失礼、今日も答えがない記事でしたね。




近況とか




こんにちわ、坂口です(゜゜)





さて、ここ福岡では、先週の金曜から日曜まで
「食の都 福岡」というイベントが開催されてましたので
行ってきました。









週末の夜ということもあって、かなり盛況。


   
  





鮎とか焼いてるブースも(笑)





他にも、地元のせうゆとか。







美味しい水とか。





食は人を惹きつけますね。




☞ ☞




次の日は日田の川開き祭りへ。
九州では(たしか)一番早い、花火大会です。




近い距離で見れますし、
旅館に泊まれば、屋形船に乗って花火が見れるんですが、




あっという間に完売するので
まだ一回しか乗ったことないんですよね。




こんな感じ。





最近、濃い案件をいくつか抱えてるせいか、
頭がぼーっとなってたんですけど、






おかげでリフレッシュできました( ´ ▽ ` )ノ





2015/05/22

中小企業の生きる道



こんにちわ、坂口です(゜゜)



いつも右脳ばかりの内容ですので、
今日はちょっと左脳を使った記事でも。




1+3=・・・5と。




unreveにできることは、永続性のある
未来(ゴール)の設定と、そこに到達する
筋道を描くことです。




本来の「やりたいこと」と、現状「今できること」を
明確にして、やりたいことが実現できるような
仕組みやコンセプトを作り上げていくのが、
基本的な流れです。



本当にやりたいこととなると
本人の表情は変わってくるもの。



逆を言えば、それ(理念)を明確にさえすれば、
後は自然と、細部にまで宿ってきます。



よって最上位の目的とは
進むべき道(ヴィジョン)、理念の明確化ですが、
それには「洗い出し」がお勧めです。




個人欲求から社会レベルまで、
色々と「やりたいこと」はあるでしょう。
まずはそれを全部書きだしていきます。




綺麗事はいりません、正直な声を書く。
ここが一番重要です。




そこで志向性を発見し、今の現実と繋げる為に
どうしたらいいか?これが筋道となります。



そこに対する「手段」として、FCや
代理店や社団法人などの「仕組み」があるんですね。



FC導入において実現できる筋道とは
「企業ブランドが生まれ、認知され、持続性を持つ」。
これに尽きるんですが、



その先には実現したい「なにか」があるわけです。



☞ ☞




ちなみに、最上位の目的と、手段である
商品や仕組みは一貫していないといけません。




「食の安全性を普及します」という理念で
添加物たっぷりの商品を売っちゃダメ、ってこと(笑)



一貫していない状態での試行錯誤は
軸がぶれた状態ですから、


それぞれの活動に意義こそあれど、
後に残った結果はなかなか繋がることはないでしょう、



よって企業が構築すべきは
「企業姿勢」や「心構え」といった一貫した在り方。



ブランディングは単に「認知度アップ」だけではなく、
簡単に揺るがない信頼と実績を作ることであって、



それが先ほど書いた「基本姿勢」、
在り方なんですね。




商品のスペック(機能性)だけでは
時代の流行に左右される、
下手すればコモディティ化してしまうでしょう。



本来の商品は会社の「在り方」を映し出す
合わせ鏡のようなものです。



よって提供する商品やサービスを「通じて」、
「基本姿勢」や「企業哲学」を伝えることが重要です。



現在、「3カ年計画」や「5カ年計画」などを
いくら綿密にしてみても、今の時代は
何が上手く行って、何が失敗するか分かりません。



しかし基本姿勢(根幹)は計画と違って変わらない。
この変わらないもの(根幹)と、即興的に変えるもの(枝葉)
を兼ね備えたものがリゾーム(リーフ)理論です。



以前書いたブリコラージュよろしく
即興とは「既存のもの」を相対化させる(興す)こと。
言わば発見と編集の能力です。



現在成立している物事に対し、
新たな視点で捉えるという、オルタナティブな方法と言えます。




【後記】


商店街が大手ショッピングモールの
進出によって、どんどん衰退していると言われますけど、
伝え方次第で全然変わってくると思います。



逆を言えば、個人商店(惣菜・弁当屋など)こそ、
「姿勢」や「心構え」を軸にした方が良い。



僕がよく行く定食屋があるんですが、
ここは既製品ではなく、全てが手作りです。
(厳密には全部じゃないけど)



それを食べたら大手チェーン店の
商品はとても食べれない。なぜなら「味の質」が違う。



つまり「食の安全性」が信用できるんです。



これは大手には絶対手が届かないところです。
大手は効率性とコストありきですからね。




ここを全面に出せば、多少高くても
不便でも、まともな消費者なら選ぶはず。



しかも地方ではこういった「誰々さん」という
個人としての面子があるから下手なことはやりません。



そんな店ではなく「個人としての信頼」は
十分、ブランディングになるんですね。



言わばひとつの「工場」ではなく
それぞれの「工房」になること。



これがunreveの一即多。
共有された一(理念・姿勢)から派生した多(個店主義)です。




この仕組みであなたのやりたいことを達成しませんか?
お問い合わせは「こちらから」どうぞ。




2015/05/20

無理な習慣はしなくていい



ウィリアム・ジェームズの名言
考えが変われば、意識が変わる 
意識が変われば、行動が変わる 
行動が変われば、習慣が変わる 
習慣が変われば、人生が変わる 
人生が変われば、運命も変わる 


マザー・テレサの言葉 
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。 
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。 
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。 
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。 
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。





「習慣化によってあなたの人生を~」
とかありますよね。




最近は習慣化のアプリとかあるようです。
無意識にやってしまうようにしよう、と。




んー・・・・習慣化ねえ。。。。




つまり何かしらの行為を「意図的に」
続けられるようにするってことでしょう。




これって天の邪鬼の僕には無理。
正直しんどい(笑)




そもそも習慣化の何が一番難しいかというと、
内容じゃなくて、それを日々の生活に「組み入れること」でしょう。



パターン化した生活リズムの中に
「意識的に」何かを入れる、これほど難しいものはありません。




よく歯磨きを習慣化の例にしていますけどね、
あれは自分の中にものすごい「動機」があるからこそ
毎日できてるわけで。




人生の中に習慣化させたい、
一生やり続けたいほどの動機、ありますか?




例えば「毎日腕立て伏せ」を
習慣化しようとしても、続かない人多いじゃないですか。
(僕だけですかね(笑))



毎日10回を3回にしてもそう、
3日に1回にしたとしても難しい。



極論
「寝る前に必ずピースサイン」だって難しいでしょ(笑)



やってる「行為」が難しいんじゃない。



「自分のリズム(パターン)」の再構築が難しいんです。










ビジネスでも習慣化が謳われてますけど、
自分のパターン(拍子)ほど手強いものはない。



例えばブログをやってない人に
「ブログを1日3記事書きましょう」とか
アドバイスするじゃないですか。




すると「何を書いていいかわかりません」とかなる。





そこで「無理なら1日1記事でもやりましょう」
とか言っても、そもそもの前提が違うわけです。




これをたった140文字のツイッターにしたところで、
本人にとって意義がない限り、続きません。




なぜなら内部派生じゃないから。




これが集団となればなおさら、
何かしらのペナルティを与えない限り、不可能です。




だから逆に強制せず、場から、
内部から作るわけです。
※詳しくは動画「寺子屋」で。









「栄える拍子」と「衰える拍子」は、
そんな頻度と時間の関係構築を表しています。




これは「マイペースでダラダラやろう」でも
「その時のノリで決めよう」でもありません。
(紙一重だけど)




例えばこのブログを「見る頻度」、
二日に一回の人もいれば、毎日の人もいるでしょう。
見る時間帯だってそれぞれ違います。




つまり、揺らぎこそあるけれど、
「不定期な定期として」見てる、ということです。




本部は、そんな生活リズムの
一部として成り立つような「不定期な場」を作る。
FBでもアメブロでも何でもいいです。



そうなると、(例えばこのブログ)は意識的に
集められたものではなく主体的自然派生となり、



そこから生まれる「拍子」が組織のリズムとなります。
これがハイエクのいう権力とは無関係な自生的慣習でしょう(多分)。



☞ ☞



毎日「つい」訪れるような公私混同された場を作る。
まずはそこからです。




一方的な伝達事項ばかりのクラウドはペケ。
そんな突拍子な場に求心力はありませんからね。




気にしなくても、本部に寛容さと情熱があれば
自然と集まってきます。




これは以前書いた「ゆるやかな束縛」という
加減の定義ですね。




実際に会う「アナログ」の頻度も
そんなデジタルの共有地で生まれるんですが、




考えたら、これはオフ会に近いですね(笑)





2015/05/19

内包性と外延性②




不平家とは、自分自身と決して
折り合わぬ人種を言うのである。


不平家は、折り合わぬものはいつも
他人であり、環境であると信じ込んでいるが。


環境と戦い、環境に打ち勝つという言葉も
ほとんど理解されてはいない。


ベエトオヴェンは己れと戦い、
己れに打ち勝ったのである。



言葉を変えて言えば、強い精神にとっては
悪い環境も、やはりあるがままの環境であって、



そこに何一つ欠けている処も、
不足しているものもありはしない。



・・・・

命の力には、外的偶然をやがて
内的必然だと観ずる能力が備わっているものだ。



小林秀雄「モオツァルト 無常という事」より





前回に続き、二回目です。









現在、起こっていることを、
きちんと、正確に、理屈で、説明して、納得したい。




これで哲学者が独断の理屈家へと
陥ってしまう、よくある落とし穴ですね。




理詰めの追求の挙句、何らかの
客観的結論を得たとしても、
それは氷のように、あっという間に溶けてしまう。




端的に言えば、秩序形成や体系構築を、
そのどちら側に求めたか、それだけでしょう。



以前書いた三浦梅園は現実と合致する
秩序観(条理)を自然に求めました。



本質的な秩序とは、能動ではなく
受動的、自然に派生するもの。



つまり「秩序づけるもの」ではなく、
「秩序づけられるもの」だとしたんですね。



そんな自然派生を俯瞰したものを、
unreveでは端的に面思考と呼んでいます。




☞ ☞ ☞




自然に起こる秩序とは何か?



例えば現在、あらゆる分野で「人為的な」
秩序の崩壊が見られます。




学校然り、企業しかり。
ともすれば国家だってそうでしょう。




今ある秩序が崩壊することによって
当然、何かしらの問題が起こるのですが、



そこで部分と全体の認識観の違いによって、
我々のとるべき態度が大きく変わってきます。




例えば大手企業が衰退しているのを
部分観の立場の人が見れば、



問題を「従業員やシステムが悪いのだ」と、
あくまでも部分開発にテコを入れます。
(これはコンサルに多い)



結果、社内制度を改革したり、能力開発や
社外セミナーに参加させたりしながら、
従業員の意識を「意識的に」変えようとします。



もちろん効果がある「ケース」もある。
しかし、ほとんどが短期的な効果です。



反面、全体観で見る人は、
そういった「全体の」過剰な締め付けこそ、原因だとするのです。



学校でいえば、子供ではなく
閉塞的な社会や教育(環境)が原因であって、



会議で発言が少ない、活発でないのは
同調圧力が強い「場」こそ、問題であって、



テレビ番組がつまらないのは
規制が強くなりすぎたためである、と。




故にそれを回復する為
「逆に」自由にさせる方法を取るのです。




どんな意見でも良い。
「気にせず言える」という環境(風土)
が重要だ、と。



☞ ☞



そのどちらの立場を取るかによって
解決方法や志向性は、全く違うものになってしまいます。



そして、そのどちらが根幹かと言えば、
間違いなく後者でしょう。



冒頭に書いたように、我々は
どうしても目に見える形で説明したいのですが、



「見えないものは感じる(体験)しかない」という
当たり前のことにそろそろ気付かないといけない。



前回の繰り返しになるのですが、
見えない、触れられないという
意味で考えるならば、確かにそれは「抽象的な原因」です。




しかし、それによって現実が成立するという
意味において考えるならば、それは「具現的な原因」と言えます。




「泳げるようになるには泳がなくてはいけない」



これもまた、当たり前のことです。




2015/05/18

内包性と外延性






人間は、皆それぞれのラプトゥスを持っていると
簡単明瞭に考えているだけである。


要するに数の問題だ。
きちがいと言われない為には同類を
ふやせばよいのだろう。



小林秀雄 「モオツァルト 無常という事」より。




ビジネスの世界では「抽象概念」や
「観念的」というものは嫌われる傾向があります。




「あなたの話していることは抽象的で分かりにくい」



それはクライアントの心に
響かなかったことを意味しますし、



「観念的で具体性がない」というのも、
大半が失望の表れでしょう。



これに対し、現実的な「具体性」を持った
内容というものは、非常に喜ばれます。



この具体的というものは5w1hや
フレームワークのように具現、可視化できたものであって



スパッと、白黒はっきり区別し、
「ああすれば、こうなる」といった明確なビジョンを
提示する、ということです。



これが今の経済の根幹となっているのは
説明するまでもありません。



僕も会社員時代はQC活動の際、
何十回やったか分からないくらい、
この手法で進めてきました。



独立当初もそうだった。
しかし、それは成功に見える失敗だったわけです。



資料自体はキレイにまとまっているけれど、
中身と現実はどんどん乖離してしまう。



まさに机上の空論、絵に描いた餅だった、と。



当時、このギャップにずいぶん悩みましたが
ある日分かったんです。




見るべきは環境でコロコロ変わる
曖昧な「閾値」ではないのか、と。







(全てではないのですが)
具体的なものや現実的なものとは
見方を変えれば「その場限りのもの」でもあり、



リゾーム派生でいえば「枝葉」、
本質的な部分ではないと言えます。



具現性を持ったものが失敗するのは、
それが「派生の派生」だったから。



概念の内包性と外延性というものを
規定してしまえば、どんどん出自がぼやけてきます。



例えば精神という、
境界領域でふわふわしている心。



ここは科学では取り扱えない。
ストレスをメスで切除できないのと同じです。



このメスでは届かない部分に
焦点を当てなくては本質は変わらない。



ここから「やり方」ではなく「在り方」を
「自ら」掴むという主体の確立と、



それが対話によって「自ずから」生まれる
場の形成を柱としたんですね。


☞ ☞


絶対にそれに触れることができないという
意味で考えるならば、それは「絶対的な無」と定義できます。



しかし、それによって現実が成立するという
意味において考えるならば、それは「絶対的な有」でしょう。



西田幾多郎はこれによって
純粋経験からの善悪を定義しようと試みたのですが、
僕にはちょっと、サイズが大きすぎますね(笑)




次回も、もう少しこのテーマに触れてみます。





2015/05/17

日記のようなもの




守り、型に着き、破り、型へ出て、
離れ、型を生む





日本流の様式、言わば我々の行為の
根幹であるのが、この守破離の思想です。



見れば、「型」の意味を理解していないけれど、
共有されているものはたくさんあります。



例えば我々が神社に参拝する際、
「二礼二拍一礼」という「型」に従ってますよね。



そんな型と「形式」は似てて異なるもの。



基本的な動作である「形」が洗練・完成した結果、
持続可能な模倣性を持ったもの、それが型です。



だから芸道の型は一種の美があり、
武道などでは安定性や機能性を持っているんですね。



心技体の統合知ですから、
必ずそこには意義や本質があるのです。



☞ ☞




「型」はセンスに近いものがあります。



ひとたび会得すれば、
別の形としても表現することができますし、



仮に「型にない」想定外の状況が起こっても
臨機応変に対応できるということです。



そんなセンス・勘・コツなどは
自らの経験によって磨かれるもの、



今のマニュアルは「技術」だけを
特化し、肝心の「心」や「経験」が抜け落ちていますが、
本来は一つで考えなくてはいけない。



さらに言えば、表層的な「技術」ではなく、
もっと深い所の技術を磨く必要もあるでしょう。



ただ、変化が激しく、お金がないと生きていけない
現代で、この型を身に付けるのは非常に困難です。



例えば、伝統工芸や芸道の世界では、
10年以上の実務経験年数がないと
一人前とは言えません。




つまり自分で独立して稼ぐようになるには
最低でも10年はかかるという事。



一流のプロフェッショナルになる為に
必要な時間は約10000時間と言われてますが、



毎日3時間取り組むとして、約10年。



これを続けられる人は一握りです。



☞ ☞



なぜなら多くがそれを待つことができない、
基礎である「守」が我慢できない。



だから一生を費やしても実現したい、
大成させたいと願っている 「こと」を決められないのです。



卵が先か、鶏が先かのような話ですが、
これも今が「型なし」の時代だからでしょう。




元がなければ子が生まれる道理はない。



「元も子もない」多様が単なる野放図だと
言われる理由がここにあります。







と言うわけでunreveは芸道と商人道を融合した
和混継承の道をひとつの「型」としているんですが、




今の資本主義の中、
果たして出来るものかねえ・・・・・。





日々迷いながら、作るしかないです。








2015/05/15

超克と信②



前回に続き超克と信、
二回目です。




よし、まずメガネはずせ





超越的な他力の深信とは特定の他人を
あてにするものではなく、



「人間、一人では生きていけないのだ」という
端的な現実社会の説明でもありません。



それは相互に関係して離れない自己の
本質的な確信であって、



自己主体に軸をおいて生きる独立独歩の
「自ら」を徹底した時に「自ずから」派生した
経験に服従することでしょう。




その純粋経験こそ、以前書いた「無心」、
まさに日本流の「在り方」です。



☞ ☞



プロ野球の長嶋・王選手の監督である
川上哲治氏は訓練の為、寺で座禅をさせていたと言います。



ビジネスの世界ではスティーブ・ジョブス氏や
稲盛和夫氏が禅に傾倒していますね。



座禅をしてホームランをかっ飛ばす。
売上を伸ばす、商品を創り出す。



西洋人にはこれが理解できない。
頭でどう「考えても」結びつかないのです。
(ちなみに座禅と瞑想は違います)



それは心技体の統合を目指す志向性、
つまり没頭するくらい集中した積極的な態度のことであって、



そんな一心不乱の鍛錬による「三昧」が
「不二の妙道」へ至る、と。



言葉で書けばそんなものでしょうが、
やはり、最終的には「自ら」が得る
「自ずから」の経験への信。それに尽きます。




教外別伝、不立文字、直指人心見性成仏と・・・。





☞ ☞




今回のような禅を始めとした
「道」と名の付くもの(茶道・華道・柔道)は
もれなく、形式である「型」を大事にしています。



茶道などはそれこそ細かい動きまで
決まっている。



矛盾していますが、日本流の「自由」へ
至る道というものは、まず「束縛ありき」なのです。



しかし、その形式(型)へ没頭し、
形式を形式だと頭で考えないくらい
徹底された時初めて、本来の自分自身が発揮される。




これが「守」の目的なんですね。



頭の中で「どうする、こうする」と
考えている間こそ、束縛され続けている。



我々は日常、「こうしなければならない」とか、
「こうしてやろう、ああしてやろう」と考えています。



その主語はあくまでも「自分が」です。



しかし、本来の自然、本質的な
「ありのまま」というのはむしろ逆であって、



主語である「自ら」を捨てることで初めて、
「自ずから」出てくる性質のものなんですね。



これがunreveの自然派生。



悲しいかな、その精神は戦時中は
イデオロギーによって神風特攻へと向かい、


戦後の高度経済成長期には
家庭を顧みない、企業戦士となってしまいました。



原因は一つ。
目的が利他(共同幻想)から作られたものだった。



方向性・志向性は自ら掴むもの。
故に理念と自然派生はワンセットなんです。



「後記」



(とあるアニメ映画のせいか)
最近、「自分が」から派生する「ありのまま」が
受け入れられているのですが、




どうして、自然派生とは
そんな理性の産物などではない。




故にありのままの状態は、他人には
決してコーチ、コンサルできないのです。




少なくとも、僕はそう思いますね。



2015/05/14

超克と信




unreve練成講座、円環超克について。




さて、練成講座は精神論(唯心論)ではなく、
三浦梅園の条理学に近いものです。




独断で作り上げたものではなく、
「多分ここまでは大丈夫だろう」と、
納得したものだけを取り入れていますが、



もちろん「絶対に正しい」ではない。
あくまでも個人主観の枠内であることは言うまでもありません。



端的に言えば、把握できないものを
把握したと思い込むのではなく、



把握できないのだと知りながら、
自然の基本的な在り方を学び、
そこから自分の軸を作る事が目的です。



ここが欠けてしまっては、
単なる観念の一人遊びです。



ともすれば外部を否定し、自閉した
内部の妄想を肯定するだけで終わってしまいます。
(僕はそういった意味のオタクは好きじゃない)



閉ざされた内部に絶対はない。
だかといって開放されっぱなしの外部にも
絶対はない。




啐啄同時、統合の信。



これが円環条理を俯瞰した
超克の視点です。




☞ ☞



何を信じ、現実にどう活かすか。



この「信じる」というものには、
必ず多少の疑いが存在します。



当たり前のことに対し、いちいち
信じるなんて言葉は使いません。



「私は男だと信じる」なんて言いませんよね(笑)





分からない、確定していない、
見えないものに対し、我々は「信じる」のです。



「神あっての信か、信あっての神か」は、
宗教を拠り所にする人達にとって、
生涯に渡るテーマでしょうが、




いずれにしてもこの命題は
近代による主観、主体の要請です。




コンサルタントというものは
事業のリスクやコストやコンセプトを明確にし、
成功させるのが仕事でしょうが、



転ばぬ先の杖というものは
見えるのでしょうか、見えないのでしょうか。




極論、「見えないから信じるしかない」。
そうじゃないですか。




☞ ☞



近代、「見える」物質を細かく細かくし続け、
仏教でいう「微塵(みじん)」になるまで分けた結果、



我々の身体や星を形作ってる物質は
わずか4%ほどだと分かりました。



それ以外は皆目見当がつかないのです。



経済も経済学によって徹底的に
追求された結果、



多様化と成熟化によって複雑系、
散逸構造が露わになっています。



これを「我々はやがて全てを把握できる」と思うか、
「我々には到底辿りつけない」と思うか。



徹底した結果、
そのどちらの立場にいるかの違いでしょう。



しかし、本来この徹底とは「底に徹する」こと、
徹することで「底」という「自分の限界」を知ることです。



相対有限である小さな内部の
主観(底)を知るという意味であって、
相対有限の肯定ではありません。




見れば、日本の思想家達も同様、
「私には何も分からない」という境地によって初めて、
一切を任せた信が生起している。



つまり徹底したことで悟る「自己否定」と
「信の成立」は同じ環の中にあった、と。



☞ ☞



その限界に辿り着いた時、
相対が絶対へ向かい、有限が無限に入る。




親鸞はそんな超越した阿弥陀を
絶対的に信頼する他力仏教を説きました。



勘違いする人がいるのですが、
この他力というものの主体は超越的なまま、
実在的な他者に成りようがありません。



そんな実際的に存在していない他人の
「他力」というものは観念体の他者です。



他力とは知り合いのAさんでも、
友人のB君でもない。



つまりそれは「自己」の一変容であって、
これが親鸞の説く他力、超越した他者を意味するのでしょう。




まさに親鸞の他力とは
親鸞の内を超えた所(内の内は外)にあった、と。




ん。長くなったので続きます。



2015/05/13

さようなら





サヨナラ、あなたとはこれまでよ




この別れ言葉である「さようなら」とは、
元々は接続詞である「左様ならば(それならば)」です。




何かと決別する際、この国は
次に来るであろう事柄に対応することを想定し、
「左様、それならば・・・」と言ってたんですね。




今まで続いていた「ナニカ」が終わり、
また新しい「ナニカ」へと向かっていく。




その際、我々の祖先は
一旦立ち止まっていたのです。




一期一会の出会いが終わり、
互いに交わす「左様なれば」というものは、




言わば「ことの終わり」の物語を
作る事で、新しい「ことの始まり」受け入れる行為、




自分ではどうにもできない生老病死や
自然の定めというものに対し、




「そういうものなのだ」と確認する為にも
立ち止まる必要があるのでしょう。





今日はそんな小噺でも。










人生は唯一無二の「この瞬間」が
生起変転していく有様でもあります。



我々の多くは明日のことを心配し、
遠い将来にも思いを馳せていますが、



今日一日という一回性の連続によって
生起している人生とは、非原理的なもの、



刹那の連続が明日来るとも限らない。
ここに「今を生きる」という本来があります。




禅は一秒前の自分であっても、
死んで存在しないのだという認識ですが、
同じ様に感じますね。




☞ ☞




いついつ年の何月、世界は滅亡するやもしれない。




ネットでこの話題が消えることはありませんが、
現代はニヒリズム的無常観に拍車をかけているようです。



人生が空しい、生きる意味が分からないと
いう声があちこちから聞こえますが、



以前書いたように無常観は
この国の思想の根幹でこそあるけれど、
ニヒリズムではない、肯定的な意味を持っています。




それは決して投げやりな人生を送って良いという
ものではなく、不可解な明日を不可解なままにして、
それを希望を持って「信じる」、これに尽きるでしょう。




故に「不可知こそ真理」という、
矛盾が成立するのですが、
それこそ仏教の説く「諦める」ということ。




世阿弥の能も、この逆転の美学があるのです。



☞ ☞ ☞



いうまでもなく、不可知を信じるということは
「望み、期待し、信じ続け」なくてはいけません。




もちろんその期待通りになるという保証などない。
故に、だからこそ、「信じ続けること」を要請するのです。



そんな継続的信仰の限りにおいて
「いつかきっと、必ず応えてもらえる」という
希望を持つことが出来るのであって、




それが我々の情熱を支えている。




継続は力なりと言いますが、
なぜ続けることが「力」なのかと言うと、
こういった「内部信仰」が試されるからでしょう。




なるほど、現在は信じることが出来ない。
だから結果が出ないからといって、すぐに諦めてしまう。




正しい我慢もなく、「今すぐ」を
キョロキョロ探し求めているのですが、



その根幹にあるのは「自信」の欠乏なのです。








故に信の成立と事の成就は、
自己の精神に比例するのですが、



間違ってはいけないのが、この
事の成就(成功でも引き寄せでもなんでも)は
我々の自力によってどうにかなる性質ではない。



その意味ではどこまでも「自ずら」といった
超越的な働きであって、それに従うしかないのです。




不確実で偶然である現在を
確実で必然とする心構え、それがunreveの「軸」です。




そう考えると、複雑系、VUCAの時代の到来とは、
信じる力を試されてるようにも思えますね。




ちなみにそれをベースにしたのが
unreveの練成講座なんですが、





次回、それにちょっと触れてみたいと思います^^





2015/05/12

3分クッキング~酒のつまみ~







タララタッタッタ タララ、タララタッタッタ タララ、







タタタタタタタタタタタタタター






ミ( ノ_ _)ノ=3 アタ







はい、というわけで、





今日は簡単にできる
男の酒のつまみをご紹介します。





ネタ切れ用ストックですが、何か。




☞ ☞




まずご用意するのが豚肉のロース。
今回は試しに肩切り落としでやってみました。





湯がくこと約数十秒。
その後、湯切りします。






固くならないようにね





そこから「タレ」を作っていきます。
最近ハマっているのが徳島県の手作り「フォロドレッシング」。



バーニャカウダーとゴマダレの
良い所どりのような味です。







ただ、これだけだとちょっと僕には甘いので、
これに「柚子胡椒」を入れます。






この子はホント、よく使います。






今日は明太塩辛を合わせてみました。





というか、最近買った器を使ってみたかったんです(笑)



うむ、なかなかの彩。




調理時間2分。
(というか、茹でただけ)







でも、これがまた抜群にンマイんですよ(´・ω・`)







甘く濃厚な中、ビリっとした柚子胡椒の味。
野菜を入れたらもっと良いでしょうね。






これで300円くらい。
旦那さん喜ぶこと、間違いなしですぜ( ´ ▽ ` )ノ













2015/05/11

検索エンジン、結果発表





以前、ホームページをスマホ用に
最適化していないと順位が落ちると知って、
ホームページをリニューアルしたと記事にしたのですが、




適応された日(4/21)から
しばらく経過しましたので、試しに検索してみました。




☞ ☞ ☞




検索したワードは以下の5つ。


「フランチャイズ 展開」

「フランチャイズ 支援」

「フランチャイズ 構築」

「フランチャイズ コンサル」

「フランチャイズ 展開 方法」




「フランチャイズ」だけで
検索する人はいないでしょうから、



このどれかでトップページに来れば
上出来だと思ってましたが、
予想を上回る結果となりました。




手前味噌で恐縮ですが、
現在、こんな感じになってます。
(5月11日時点)



☞ ☞



「フランチャイズ 展開」
検索トップページ一位。





「フランチャイズ 構築」
検索トップページ二位。



「フランチャイズ コンサル」、
検索トップページ二位。




「フランチャイズ 支援」
検索トップページ一位。




「フランチャイズ 展開 方法」
検索トップページ二位。








「フランチャイズ」を「FC」にしても、
大きな変化ありませんでしたが、



確かに以前の検索結果と比べると
他のサイトはかなり変動していますね。




順位次第では、このブログを
ワードプレスにしようかと思ってましたが、



(伸びしろを残す意味でも)引き続き
継続することができそうです。




そもそも僕がSNSに抵抗さえなければ
ワードプレスにしても問題ないのでしょうけどね(・・。)ゞ




アメブロさんが記事を消さなければ
一番良いのですけど。。。。








というわけで、
今後も全国の皆さんに
発見しやすいサイトとなりました。





これからもHPコンテンツの充実、
そして、みなさまのビジネスが末永く続くような、
継承支援を行っていきたいと思います^^





もちろん、このブログからのご縁も楽しみにしてます!




2015/05/10

VUCAの時代と無常観について②






この間、ある方と話してたら
「どうせ成功するし」とか、
「どうせ愛されてるし」というのをよく使ってました。



聞けば魔法の言葉らしい。




なるほど、潜在意識がどーのこーの言った
セミナーで、そう言ってたようです。




んー・・・・・・喝!(笑)




もしかしたら本当に
そう思っているかもしれませんが、




多分に、心の奥底では拒絶しているはず。




それは我々の無意識(根幹)を変えず、
表層的な枝葉をいじくってるだけに過ぎない。



そもそも自己によって無意識という
超自然的なものを変えられるということは、



大げさに言えば、自分の意識で
太陽を西から昇らせることもできる、
と思ってるようなものでしょう。



問題は黒を白にすることではなく、
黒を黒だと受け止めること。



そしてその黒が「自ずから」白へと
成っていく明明白白さへの信頼です。



西洋がオセロをパタパタ
ひっくり返し、表と裏を区別するのに対し、



日本はオセロ「そのもの」を
眺める事が出来るのですから。




前置きが長くなりましたが、
前回に続き、二回目です。









前回、こういった無常の中に(揺らぎながらも)
安定した自然のリズムがある、と書きました。




変わるものが変わらない、ということ。
unreveの「拍子」でもあります。



世阿弥の序破急も、こういった
自然派生の拍子になっていますね。



なるほど、海は表面こそ飛沫を上げ、
波立っているけれど、



その海底、大海そのものは静寂であるという
仏教哲理のようなものでしょう。



☞ ☞




「分かった、ではその海をどう理解し、捕まえるのか」。




彼らは変化をどうにかして捕まえ、
飼い慣らしたいのです。




それは明治時代、福沢諭吉を初めとした
人間主体である啓蒙思想の核であり、
「物理」の根本であって、




「有形」の領域で全てを網羅(包羅)
しようとする文明開化の精神を端的に表しています。



もちろん、これは決して悪いことではない。



近代、合理的なシステムが整備され、
新たなメカニズムが次々と発明されることで
生活はどんどん便利で快適なものになりました。




ただ無形が有形化され、豊かになった反面、
絶対的な無形である精神、つまり「人」の
根幹となる部分は相対化、客体化され、空洞化していったのです。




北村透谷の「漫罵」にあるように、
それは革命ではなく単なる移動にすぎず、
オセロをひっくり返しただけのこと。




知らず識らずこの移動の激浪に投じて、
自ら殺さざるものまれなり




伊藤仁斎同様、彼もずいぶん前から
これを看破していたのでしょう。




☞ ☞



unreveは伝統である慣習、すなわち
古(いにしえ)から自然派生したものによって
自己や世界を問う方法(面思考)が必要だと思ってます。
(そういった意味では古学かもしれません)



しかし、どんな学も、情報も、思想も、理論も
外部には何一つ確かなものはありません。



さらに言えば内部であってもそう。
自己内部を探究した「だけ」では見いだせないもの。



なぜなら「その内部」はすでに「この外部」
によって浸食されているのですから。



思想は徹底して個人に帰すけれど、
それは固有性と同時に「その時代」の精神です。



例えばこうやって書いている「言葉ひとつ」とっても、
慣れ親しんだ方法、様式、道具に沿った形式であって、



点と点を繋いだ線にしかならない。




故に「内部に対する外的な視点」、
言わば外部の「向こう側」を眺めるということ。
(言葉に限界があるので書きにくいのですが)




この向こう側こそ「根幹」、伊藤の言う
「根ある樹」であり、原典ではないでしょうか。









うーん。。。もう少し書きたいのですが、
このくらいでやめときます。




このテーマは表現が難しいですね。
失敗でした(笑)




2015/05/09

VUCAの時代と無常観について




現在、世界中の経営者が使っている言葉に
「VUCA(ブカ)」というものがあります。




それは今の世界概念である Volatility(変動) 、Uncertainty(不確実) 、Complexity(複雑) 、Ambiguity(曖昧) の頭文字をとったもの。




端的に言えば「先が読めない時代」ですが、
我々日本人はそんな変化流動の世界こそ実相だと
無意識的に感じています。



それがこの国の根幹にある思想である「無常感」、



全てのものは移り変わっていく、
そんな成り行きの様を「そのまま」受け止めていたのです。




それは自力ではどうにもできない。
なぜなら「自ら」の他に「自ずから」派生する「ナニカ」がある、と。
そう思っていたんですね。



例えば、「どうせ」という言葉がありますが、
この「どうせ」とは未来(結果)の先取りのこと。



有るものはやがて無くなり、
栄えたものはもれなく衰える。




なぜだかは知らないけれど、そう「成る」。




そんな必然的な移ろい、無常観を
消極的に捉えたものが「どうせ」です。




今日はVUCAを達観する日本流について。








無から生じたものが元の場所へ戻った。
それだけのことだ。



村上春樹の小説(何だったかな)に
確かこういった言葉があったのですが、
まさにこういったことでしょう。



ここでよく勘違いされるのが
「無常観とは虚無思想(ニヒリズム)」という見方です。



西洋では特にそう思う人が多い。
無秩序で混沌だと勘違いしまいます。



故に西洋哲学は考えることで無常の
奥にある「分からないもの」を捉えようとし、



宗教では、そんな無常を語る事で、浄土という永遠の「常」を求めたのですが、これは一種の現実否定。



本来、我々はここからの「現実肯定」によって
陽気さ、明るさ、そして驚きと感動があったのです。




☞ ☞



「つぎつぎになりゆく、いきほひ」、



丸山眞男はこの移ろうという「あり方」が
同時に「次々」に「成り行く」勢いでもあり、



日本人はそんな流れゆく状態を肯定した
独自の精神がある、としています。




「春は、夏は」と移ろう無常を語りながらも、
そこに恒常的に循環した自然のリズムを捉える。




変化を語ることで常と成る。
真理が持つ両義性がここにあります。




ん。
長くなりましたので続きます。


2015/05/08

近況







GW中は晴天ではなかったんですが、
今日はとても良い天気でした。



そろそろ春も終わり、初夏ですね^^





この日は朝からお墓参りに行ってきました。





その後、いつも行くパン屋さんで朝食。
ここのパンはどれも僕好みです^^




出来たてホカホカ





ここは広いテラスがあって、
いつもそこで食べてるんですが、


めちゃくちゃ人慣れしたスズメたちが
パンくずを片づけに集まります(笑)




スズメなのに警戒心ゼロ。。。 






そこから博多で待ち合わせした方と
割烹「水音」さんに行ってきました。




先日テレビ取材が入ったからか、平日なのに多かった。




ここはお手軽な値段で
新鮮な魚や旬の料理を頂けますし、
仲居さんの接客も素晴らしいです^^







どれも滋味深い




稚加榮、きはるさんは有名なので
皆さんもよく行かれるでしょうが、ここもお勧めですよ^^










2015/05/07

成果報酬について



今日は珍しく、当事務所がやってます
ビジネスについてご紹介します。




unreveではフランチャイズを初め、
様々なコンテンツを展開支援していまして、
業界では珍しく、成果報酬制度を取り入れています。




この成果報酬の案件は本部構築の際、
予算という概念がありません。



大体最初は予算を聞き、
見積もりを出し、契約するのですが、
そういったことは一切ない。



「手元にある資源だけでやる」
これが基本ベースです。



このやり方を提示すると、
「それって無責任でしょう」と言われることもありますが、



逆ですよ。
責任を全部引き受けてますから。



だって実費以外、何も収入がないので
マイナスになる可能性だってあるわけです。





☞ ☞



どんな仕事でもそうでしょうが、
予算があればあるほど、派手なことはできます。



言い方が悪いですが、馬鹿でもできる。



そこをどう「節約するか」、
ケチと節約は全然違います。



ちなみに松下幸之助は
「ダム経営」を提唱していました。
一言でいえば、経営の中にダムを持とう、と。



水を蓄え、水の流れを調節し、無駄なく活用する。



それは資金、設備、在庫といった
あらゆる面で余裕を持たせる、ということです。




unreveはランチェスター戦略を
独自に編集しているのですが、



この戦略というのも、本来少ない資源で
いかに大きな敵と戦うかという策略であって、



競争し、倒すことが目的ではない。
「少ない資源」を最適に配置する為です。


☞ ☞



FCを作る際、一般的に数百万かかる。
僕が最初に手掛けた所は1200万かかりました。



その経験で、そこまでのキャッシュは
必要ないと分かったので、多少の余裕を持って、不時の出来事に備えれるようにしています。




これをやっている同業他社はまずいない。
大半は自社の商材を売ることが目的ですからね。



そもそも、営業会社の大半は
お客が売れようが売れまいが関係ありません。



だから「契約を取ってこい」でしょう。例えば僕の所に「御社のHPの検索結果を~」
っていう電話がよくかかってきますが、



当然、相手は検索結果を見てない。
自社の「SEO」を売りたいだけ。



そもそも、いくらSEOで交通量増やしたって
肝心の店に入って買わないと意味がありません。



アクセス数アップなんて、片手落ちなんですよ。








本当の意味で支援する、ということは
結果を出させる、ということでしょう。



この結果というものは
単発のマーケティングで売れる物と、
そうでないものがある、当たり前の話です。



フランチャイズは一生付き合っていく
相手を探すこと、



それを小手先の口八丁で
売ってたまりますか。





もちろん、時間もかかりますが、
それがあるからこそ、
加盟希望者の方にも自信を持ってご紹介できます。







2015/05/06

20年の我が友と



そういや来月で39歳。
これで僕も立派な中年の仲間入りです(笑)



いやはや、素晴らしきかな我が人生。




人生を語るにはちと早いかも
しれないけれど、



日々のささいな幸せをどれだけ
発見できたか、それに尽きるでしょう。



語る友がいれば善し。
嫁がいればなお善しだけど(笑)




その点、僕は恵まれているなあ、と思います。




友人だけでなく、酒という人生の友がいる。
かれこれ20年、毎日付き合っていますわ。



塩辛とか、旬の魚をお気に入りの
酒肴器に乗せ、チビチビ飲みながら様々な思いを馳せる。





ふいー、・・・なんて幸せなんでしょ。







人生に酒という友がいることは
とても幸せなことです。




ちなみに、このブログは
ほとんど飲みながら書いています(笑)





「古蔵」は安くて美味い、お勧めです。





ビールもワインも焼酎もいけるのですが、最近はもっぱら日本酒ですね。





そのせいか、外食も和食が増えまして、
お気に入りの割烹をグルグル回ってるんですが、



この年になって、味わい方を
覚えてきたのかもしれません。




☞ ☞




夏に飲むキンキンに冷えたビール、
寒い日に食べる熱々のおでんと焼酎など。




「あー、生きてる!」って気がしますわ。
僕の幸せはとても安上がりです。
(同じ幸福なら、安い方が良いに決まってる)




なるほど、理屈抜きの幸せというものは
対極にある二つが調和した様でもありましたね。




苦労して掴んだ成功や
挫折からの栄光だってそうだもの。




まず最初に対極がないといけない。
それがあるからこそ「より輝く」。




思えば、過去の苦労は全てが
良き糧、良き思い出となっています。




☞ ☞



至福の時間はとても儚く、「あはれ」なもの。



ビールも一口目が最高であって、
寒い日に入る温泉だってそうです。




そんな刹那の幸福を感じる為、
我々は日々、一生懸命に生きている。




つまり僕らの日常にある苦とは、
そんな一瞬の幸福を「より味わいたい為」にあるのでしょう。




そして、その事実を「味わう」時間を
持つ事ができるのも、また別の幸せ。




日々是好日。
人生は愉快だ。







2015/05/05

天才のおんなまたちから



努力とは何か。



努力は天才でも凡人でも誰でもできるから
ある意味公平かもしれません、



そしてこの「努力」を必要としない
成功があれば、誰もが努力をしないと思いがちですが、



ゲーテは天才とは
「努力し、得る才能」だと言ってます。




なぜ天才には努力がセットなのか。





今まで僕がイメージしていた天才は
先天的な能力、特別な人のことだと思ってました。



例えば資料一回見ただけで
内容を全部覚える、とか、



並はずれた身体能力を持った
スポーツ選手とか、美しい声とか。




しかしどうもそうじゃない。
今日はそんな所から。。。。










ゲーテは天才の努力とは
発見(もしくは開拓する)為の精神だと定義しました。



我々が簡単で容易だと思っている所に、
世の天才たちは大きな壁を見るのだけれど、



それは容易だと思える事を複雑に
こねくり回しているのではなく、



「一見容易に見える」事に対し、
違った視点で「それ」を眺めているようです。




目の前にある既成品では満足せず、
常に作りだそうとする精神が努力の源泉だ、と。



☞ ☞



「それ」を発見したか、してないか。




まるで、自己の力を試す機会を
積極的に探しているよう。
そう考えると、天才ってストイックですね。



本人は単純に楽しんでいるだけなのかも
しれませんけど、そこには当然圧縮された抵抗がある。




逆を言えば、その抵抗なきところに
創造などはない、と思っているのかもしれません。



その抵抗に耐えうるほど追求したいものを、
万人が持つことが可能かどうかは分かりませんが、



その自己中心の精神さえあれば、
世間の競争とか比較には巻き込まれない。



つまり劣等感もなければ、不足感もない。





あるのは・・・・なんでしょうな。
多分、主客の消滅した純粋精神への止揚でしょう、




それが弁証法によって回帰する。
つまり振り出しに戻ることで、
有るけれど無いという精神になるというのは、
守破離の「離」の境地かもしれません。






2015/05/03

一道万芸




宮本武蔵や世阿弥は一道(一芸)万芸、
すなわち「一つの道を究めれば、全ての道に通じる」と説いています。



徹底的な「一」と万芸である「多」は
同じ環の中にあり、繋がっている、と。



多分に、内に向かうことで外に抜ける
メビウス構造を、無意識的に知っていたのでしょう。



万物は流転して同一、
それを弁証法として捉える面思考、



これはunreveの弥栄モデルであり、
円環回帰であり、「一即多」の概念ですが、
こういった内部派生と外部派生の統合でもあります。



今日はリゾーム派生概念
「リーフ」について。





宮本武蔵「枯木鳴鵙図」




さて、徹底的な「一」とはどういうことでしょうか。



武蔵はそれを千日稽古(鍛)、
万日稽古(錬)だとしています。



以前書いたように、「稽古」というものは
「古(いにしえ)を稽(かむが)える」こと。



世阿弥の守破離も「型稽古」、
同じ様に一道へ向かう過程を表していますが、
どちらも初めに型がある。


この型は技術だけでなく、精神も含まれる。
故に形式知と暗黙知の習得が必要です。



そこから(自由)自在となる離へと
到達して初めて「一道」は「万芸」へ通じるのであって、



孔子が70歳にして辿り着いた範の境地、
「心の欲する所に従えど、範を超えず」なのでしょう。




これは芸道のような高尚なものではなく、
我々の日常にこそ、発見できると言います。



士農工商の時代においてもそう。
武士の武士道、商人の商人道とは
日々の生活によって形成されるのであって、



そこから派生した探求心である道心さえあれば
日常生活は何も問題ない、と最澄は説いています。



「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」



余計な心配は無用。
ただ、ひたすらに一隅を照らせ、と。



☞ ☞




以前、日本人は仕事を通じて自己を
見つめている、と書きました。



ユングよろしく表層的な自我(ego)ではなく、
もっと深い所にある自己(self)。



そこで出会うものこそ「無私」。
驚く事にそこには確固たる「じぶん」がない。



滅私ではなく(限りなく)無(に近い)私。




そんな固定した実体がないものが
「なぜだか」現象として生起され、成り立っている。




親鸞はこの「自(みずか)ら」と「自(おの)ずから」
から成り立つありのまま(自然法爾)を悟ったのでしょう。




自分と他人、偶然と必然の統合されたものによって
作られた「今」。





故に自他円満に導く精神を得てこそ「自在」。
商人道の「三方良し」はここから来ています。




【後記】




よく「自分には何の才能もない」と言う人が
天職やら自分の強みを発見できる、という類の
セミナーに行ってるようですが、




この「じぶん」というものを知らないまま、
答えを探すと言う行為とは、
「分からないものを探しに行く」ようなもの。




そもそも探すものすら分かってないのに、
どうやって探せるのでしょうか。



分類好きな西洋のメソッドによって
表層的な適職や強みなんてものは
簡単に出てきますが、それは星座占いのようなもの。




「あなたは魚座だからこんな仕事が適職です」
と言ってるようなものです。



相対的に「好き」だという、比較選択で
仕事をやるなら全然良いでしょうが、



徹底的な道へと向かう為の
前提(根幹)となる問いの立て方は
煎じ詰めれば、自力ではどうにもできない。





故に、
僕にはやっぱり簡単だと言えませんね。




2015/05/01

青い鳥






「それは一体、何のためか」。




本田宗一郎は、技術屋は技術を究めるが、
何のために技術を使うのか、その原点を哲学せよと言ってます。




難しいですね、「何のために」。
「何となく」と答える人が多いのも頷けます。




書き言葉にした時点で意味は
多様に広がり、肝心のものは失われるけれど、




とりあえず書きたいので書いてます。




☞ ☞




さて、原点回帰は昔からの癖でして、
それはビジネスだけに限らず、
実生活でもそんな感じです。



僕はつい「意味」を求めてしまう。




哲学なんて堅苦しい学問の話じゃない、
ただただ、知りたいだけ。



この「知ること」で得るものが、目的。




中には意味もなく、目的もなくやっていることこそ、
俺の魂が、まいそうるが喜ぶんだ、という人もいますが、




無意味、無目的にやることなんて、
一体、どれくらいあるのかしらん。




否、正確に言えばあると「言えば」ある。
ないと「言えば」ないのでしょう。




例えば上記だって「魂を喜ばすため」という
大きな目的があることに気が付いていない、




「何となく」にしても、何かが「良い」と
感じているわけで、




「何となく嫌」が成立するのもそう、
説明できないのと説明しようがないのは同じじゃありません。




そんな上位の目的を突き詰めれば
必ず精神が欲しがっているものへと辿り着くんですが、




その精神があまりにも
「当たり前すぎて」、なかなか気付かない。




その当たり前の精神を
「あっ、そうか」と、いちいちわざわざ理解して、



それを回帰によって明確な
志向性にするのが、unreveの理念なんですね。



☞ ☞



上位概念の目的、
それは本来、隠れているもの。



その本来の目的に気付かず、
手段を追いかけてしまう人がいるのですが、



戦略と戦術同様、
手段は決して、目的を補完してはくれません。




例えば、
「お腹が空いたから釣りをする」場合。




手段と目的の誤認とは、
空腹で釣りばかりやるようなものです。




それを「釣りはワクワクするから最高」とか、
「魚を釣ることこそ、真実だ」とか
言ってる人がいますが、





そんなわけありません。
もちろん、釣りをする目的は、
「空腹を満たすため」でしょう。





さらに言えば、
あなたは「食うために生きてる」のでしょうか、
それとも「生きるために食う」のでしょうか。




そして、食うことで維持される「その生」には、
一体何の目的があるのでしょうか。










もしかすると、手段を目的にしている時、
人は違和感を感じてしまうのかもしれません。




例えばお金は悪くない、
良いことをして、結果手に入れるなら全然悪くない。




反面、お金を忌み嫌う人がいます。
一体なぜか。




まさにそれを目的にしているからでしょう。
無意識的に手段を至上の目的にしていると
感じ取っている、だから「違和感がある」と。




僕はそう思いますね。
まさに上記の釣りのようなもの。




では、その先には何があるのか。




自己優越でしょうか、安心でしょうか、
豊かさでしょうか、自由でしょうか。




しかし、これらは全てお金という
「条件付き」である以上、有限なもの。




条件付き、制限つき、有限である
目的というものは、




言わば
「魚釣りをしないとお腹は満たされない」。





そんなわけありません。
手段はいくらでもありますし、





もしかすると、家に帰って冷蔵庫を
開けるだけでいいのかもしれませんから。









対話編 ~深夜にて~






「独自の価値を出しましょうって
この間、セミナーの講師さんが言ってたけど、
よく考えたら難しいことだよなぁ」。




「価値を一緒くたで教えるからだ」




「またいつもの独断が始まった(笑)」




「独断結構じゃないか」。



「じゃあ、その独断の価値を分かりやすく教えて」。




「まず一つ目に、価値には二種類ある。
一つは相対価値、もうひとつは絶対価値だ」




「最近よく絶対って言葉でるね」




「なぜ僕が絶対的価値を重視するか。
それは価値が変わらないものを支援するだからだ」



「ん、どゆこと?」




「例えば、スタバのカフェモカのグランデは
どこに行っても同じ値段だよね」




「今のとこはね」



「そう、福岡で飲んでも東京で飲んでも
値段は同じ、つまり商品価値は同じだってことだ」




「どこでもそうじゃないの」




「いーや、地方のディスカウントで買う缶コーヒーと、
コンビニで買う缶コーヒーは同じじゃないだろ」。




「確かに、コンビニは高いよね」




「高いんじゃない、相対でそう感じてるだけだ」




「安売り店ありき、ってことね」




「相対的に商品を流通すると、
それ自体の価値がとても曖昧になる」。




「あーね、缶コーヒー自体の価値なんて
そういや考えたことないかも」




「そう。コモディティは何でもそうだろ。
高いか安いかだけが基準になってる
まさに学歴はこれと同じ原理だ」。




「それをFCは防止している、って言いたいの」。




「それが可能だってこと、もちろん
価格競争のFCだってたくさんあるけどね
本来、ブランドってものは価値を唯一無二にするってことだろ」。




「偏差値50のどこそこ大学卒の私じゃなくて、
「この私」ってことか」。




「まさに希望小売価格ならぬ
絶対商品価格の多店舗展開だ」。




「でも海外だとそうはいえないよ」



「海外なんて知らないよ。
ただ、僕は「価格競争から脱却」といってる割には
商品自体を比較前提に作ってる気がする」。




「チェーン店のPB(プライベート・ブランド)とか」。




「うん、流通が閉鎖的にも関わらず、
メーカと比較して、ちょっと安くしてるのが多い」。




「ポテチとかビールとかそうだね」




「だろ、当然消費者は比較しかしない
まさにお得か、そうじゃないかだけ」。



「でも、セブンのコーヒーは美味しいよ」




「あそこは多店と差別化なんて考えてない。
徹底的なユーザー目線を自社の絶対価値基準から作ってる」





「へえ~、珍しくコンビニほめてるね」





「商品哲学だけはね」




「なんか偉そうだ」




「媚が売れないだけだ」




☞ ☞



「これだけ色んなもん消費してたら
良いものって無意識的に分かってくるよね。
てことは、無意識的な価値基準が上がってるってこと?」




「そう、本来はそれ自体に価値を感じないと買わない。
物珍しさで最初は買うかもしれないけど」




「ちょっと高くしてプレミアって言っても
全然イケてないものあるもんね」




「最近、プレミアって言葉が安っぽくなってるね。
そもそも、心の贅沢はそんなもんじゃない」。




「観客の必要な見栄張ってもね(笑)
やっぱり、自分がどう感じるか、ってことになるよね」




「そりゃそうだよ、商品に価値を感じるってことは
その「モノとコト」に惹かれる、「ココロ」があるかないか、ってことだから」



「まーね」。



「だから何かを売ろうと思うなら、
まず自分の信じる価値を出すしかない。
こりゃある意味、覚悟の問題だね」。




「でも自分の為に作った商品なんて売れるの?」




「職人とか芸術家は対象を通じて自己を見てた。
つまり商品は物質であって精神の映し絵でもあったんだ」。




「だから何」




「それは生活より先に来てた、
だから売れる、売れないはあまり頭になかったはずだ」。




「そりゃ困る、生活ができない」



「だから覚悟の問題だろ」



「覚悟で空腹は満たされないよ」



「だったら売ることを追求することだ」



「言われなくったって、全員そうしてるでしょ」




「消費を結果にするのか、
結果、消費されたかは大きく違う。
売るのを目的に書かれた本なんてあるか?」




「でも、話題になってると
内容知らなくてもつい買っちゃう」。



「ふん、つまりそれが売れる原因は
売れているってことだ」。



「なんだそれ、めちゃくちゃだ」



「それと価値は全く関係ない。
売れてこそ、選ばれてこそ価値などと言う人は
僕は信用しないね」




「そうかな・・・僕はそう思うけど。。。」




「じゃあ、100万枚売れた一発屋のCDは
あまり売れていない古典音楽よりも価値があるってことだな」




「あっ・・・・」




「そうなると、ゴッホの絵画も宮沢賢治の本も
生きてる時と死んだあとでは価値が変わったということだな」




「・・・・・・・・」




「問題は感動の内在的な意味なのだ。
マンネリを打破した斬新さでもなければ、
時間をかければ価値が上がるもんでもない」




「価値の捉え方は二種類なのだ。
一つがわたしはそれに価値を感じない
もう一つがわたしはその価値を理解することができない」。




「・・・・・・・」





「多くが価値を見出すということは
この「私はその価値を感じる」という敷居が低い場合がある。
だから簡単に消費される。まさに流行はこの原理だ」。



「ビジネス書はすぐに絶版になって、
ドラッガーは生き残ってるようなもの?」。




「その本については僕は分からないけど、
売る目的だけで書かれた本は生き残ってない」。




「生き残る基準とかあるの?」




「そんなもの分からない。ただその商品を作り手が
「良し」と感じるかどうかが先決だ。
残るかどうか、売れるかどうかは最終的には
神のみぞ知るってやつだ」。




「自分が納得するか、ってことか。
だから陶芸家って作った作品投げちゃうのかな(笑)」。




「彼らが見てるのは、自分自身だ。
売れた量的側面ではなく、質的だから壊すのも無理ない」。




「うわー、自己満足やなぁ、オタクだ」。




「良いじゃない、誰にも迷惑かけないなら。
それに僕の人生だ」。




「たぶん結婚できないよ、君」



☞ ☞



「つまり絶対価値は非言語ってこと?」



「僕はそう思う」



「だからセミナーに行って人に聞いても
作れない、と」



「僕はそう思う」



「その答えは自分だけが知ってる、と」




「僕はそう思う」




「これだけ引っ張っといて、
明確な答えがないって・・・読者は怒るよ」




「いや、逆に解放したと思うよ。
答えがないってことは、「自分で価値を決める」ってことだから」。




「それを広げるのはまた別の問題ってことだね」




「そう、後はそっちのプロに任せるよ。
売るためには消費者の納得が必要だからね」





「説得じゃなくて納得か。
まさに、お互い欠けたピースってことだね」



「いいね、80点やろう」