2013/02/13

アフォーダンスについて色々と。。。

今日はアフォーダンスについて。


アフォーダンスは「○○ができる」という
アフォードが語源で、 アメリカの知覚心理学者である
ジェームス・ギブソン氏が作った造語です。
 (ミームーみたいなもんですね)



アフォーダンス理論からすると、 
僕らは目や耳で感じているようで、
実は感じていないと言います。


目で確認していないし聞いて確認しているのではなく、
○○だろうと認知させられている、と。



つまり、モノ自体がそれをどうやって
扱えばいいのか メッセージを対象者に与えている、というのです。




例えば椅子があったとして、
僕がその椅子を初めてみたとします。
(仮にですよ)



「おっ、なんか木でできた作り物がある」。


「何本かの棒で板が支えられてる」。



まあ、そんな感じに思うでしょうね(笑)
しかし、アフォーダンスによれば、
僕が椅子の使い方を知らなくても、それを見れば座るというのです。




つまり「椅子自体」が「僕に」使い方を教えた、と。
誰からも教えられていないけれど、何となくそう思った。



これって面白いですね。
自動ドアのボタンを初めて見たとしても、
我々はつい、押してしまうようですから。



この「なんとなく・つい」ってやつは、
まさに「自分にとって意味のある情報」を
無意識的・身体的に掴もうとしているわけでしょう。




つまり「自分の持つ情報以外」でも、
我々は意味を感じる事ができるんですね。



☞ ☞




よく市場の声(ニーズ)を掴め、と言いますが、
このアフォーダンスのように、見えないものもあるわけです。



マニュアルだってそう、ブラッシュアップした答えこそ
唯一の道であるように言う人もいるでしょうが、
本来、自分流は自然派生的に見つけ出しています。



例えば人ごみの中を歩いててもうまくすり抜けれるのは
まさに「すり抜ける道すじ」がその人にアフォーダンスされているからでしょう、




これをもっと活用することをお勧めします^^
最後に、僕がアフォーダンスの達人だと思ってる
スティーブ・ジョブス氏の有名セリフでも。




美しい女性を口説こうと思った時、
ライバルの男がバラの花を一〇本贈ったら
君は一五本贈るかい? 


そう思った時点で君の負けだ。
その女性が本当に何を望んでいるのか、見きわめることが重要なんだ










2013/02/12

中空均衡構造




河合隼雄氏は日本の文化構造を
「中空構造」と定義しました。


それは、西洋の統合・統一理論とは異なり、
対立する原理の共存が前提としてあるのです。



二項を対立させ、勝ち負けによる
排除を行うのではなく、調和といった均衡点を探すというもの。



歴史を遡ればアマテラスとスサノオといった、
この国の古事記のよる神話構造も中空均衡といった
構造で描かれています。




八百万の神に中心はない、
ツクヨミ がいわゆる「均衡点」なのです。




日本は対立するあらゆる問題を解決するに当たり、
極論である統一論理ではなく、
やじろべえのような安定しない軸を中心とした
均衡モデルを展開している民族性があるのです。



中心が空であるということは、中心は「有且無」である
不安定な状態であり、相対的です。


これはまさに仏教の色即是空と同じ原理、
対立する原理は情況で変化し、それに伴い均衡点が変化するというもの。



相対立するものや矛盾するものを排除せず、共存するという「状態」を重視し、
原理を持ちだし、正解を導き出すといった考えではないんですね。



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日本人が意見を持たず、決定する事が
できないと言われているのはそんな歴史的背景から。




「正解はたった一つ」という考え方が
西洋の考え方ですが、この国は「複数の正解を持つ」と。




ビジネスだけに限らず人生において
真に大事なものはたいてい答えがありません。
それを問う事自体(プロセス)に意味が内包しているのです。



つまり「問い続ける」事が答えであり、
時と共にその関わり方は変化する、



まさに「中空均衡構造」はあらゆる場面において
相似的役割を果たすものではないでしょうか。



場を創造する、これがoffice unreveの提唱する「リゾーム式FC」の骨子です。

2013/02/07

饗宴



美意識というものがある、
今では廃れてしまった概念だが。



「恋愛とは美しいものに心惹かれること」、
これはプラトンの言葉であるが、



それは自己の中にある無意識的な「欠けたもの」を
対象に見出し、それを得たいという根源的な欲求なのだろう。




そんな、より完全なものに近づこうとする本能。
これがエロスというわけだ。





今日はそんなエッチな小話(違うか)




☞☞




我々が原理原則に忠実に従いたいと願うのは
我々がこういった「美」に心惹かれるからだろう。




そうなると原理(理性)は美の表象だと言われそうだが
あくまでも「理性的」ということだ。
(これはゲーテを引用するまでもない)





では理性的な美、とは一体なんだろう。




「潔し(いさぎよし)」というのも美意識である、
自決とはそんな美意識の忠義心から生まれたのだろう。
(半分は理解できるが)




生きようとするがゆえに、死を覚悟する、
なるほど、武士の嗜みとはそんなものなのだろう。




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僕はそんな強要は好きじゃない。
よって、馴染みや心地を重視する。




住み心地、夢見心地、居心地、履き心地、
着心地、人心地、生きた心地、呑み心地など、




日常でも頻繁に使われているこの心地であるが、
源氏物語(平安時代)にも、その言葉は使われている。



そんな約1000年の時を超えた言語であるから、
その発声自体にさえ、何かしらの心地良さを感じる。




(詳しく記述は割愛するが)
言葉には少なからず言霊という波が起きてるのだろう。
いやはや、仮名(神名(かむな))とは面白い。





知ることを知る大切さは、この歳になって分かるものだ。







閑話休題

そんなわけで心地の概念は概ね、そんなところだが、
これ以上は語る事ができない。




それは美を正確に語れないのと同じである、
そもそも、男の美学や美意識とは語るものではない。




逆を言えば、こうやってブログに書いている時点で
独りよがりの美意識にすぎないのだろう・・・・南無三、なむさん、と笑