2013/01/24

今を生き抜く力3

坂口です、こんばんわ。
今日から大寒ですね、寒い寒いあせる





この寒さを超えれば春ですね、





さて、山形市には「鶴岡食文化産業創造センター」
という地域団体があります。



市の職員である
鶴岡食文化創造都市推進協議会 が昨年から進め、



「食」から「職」の創造をテーマとした、
雇用の拡大を目指しています。
(ホームページはこちら


「人づくり」と「事業づくり」を柱にされたこのセンター、
食文化を支える為の人材育成や、

鶴岡市の食文化を盛り上げるため、
食と異分野との連携による新しいビジネスやイベントなどを開催しています。



山形の食文化継承がメインなのですが、
ビジネスの要素も取り入れてますので今後、楽しみですね^^



鶴岡食文化創造都市推進協議のみなさん




ここ福岡でも、福岡県庁がフランチャイズを
展開支援するという全国初の試みがスタートしています。



今後、各地方行政の横断的な連携が
もっと増えてくるでしょうね。



☞ ☞ ☞



さて、その鶴岡食文化創造センターでは
来月セミナーを予定していまして、



その講師として、クライアントである
ハンズバーガーの髙橋社長が講演されますo(^▽^)o


他にも地元で活躍されている各経営者さまが、
「店舗継続」や「新規立ち上げ」についてリアルな声をお届けしますよ♪


詳細は以下のようになっていますので
近隣の皆様、ぜひこの機会をお見逃しなく!



■講座
「飲食店経営者に学ぶ、独立開業の道」


■日時
2月17日(月)・2月19日(水)
14:00~16:00(質疑応答あり)




■定員
各30名(申し込み多数の場合は選考にて)


■参加費
無料


■対象者
・飲食店新規立ち上げをお考えの方、
・飲食店従事者・経営者の方



参加ご希望の方は電話かメール、
こちら をダウンロードしてファックスでお知らせ下さい♪



※担当の今野さん、
丁寧なメール対応、ありがとうございました!



☞ ☞ ☞



ちなみにブログのテーマである「今を生き抜く力」、
実はクライアントさんの商品に対する思いなんです。


それは「今この瞬間」を生きるという
生命力そのもの。



既製品や機械化や進み、
合理的な食事提供が溢れ、


偽装問題や某企業の農薬混入事件など、
最近の食に対する不安が多い中、



作り手の心のこもったものを食べれば、
無意識的な部分では、きっと感じるものがあると思います。



この思いを全国へ広げていきますので、
一緒にやって頂ける方のご連絡、お待ちしています^^


※ハンズバーガーは宮城・福島・岩手の方限定で
加盟条件を大幅に変えてます。



飲食店だけでなく、他にも志の高い経営者達が
あなたの独立を支援しますよ♪



「中小企業の力を合わせて復興するぞ!」という方は
office unreveの公式ホームページ も、ぜひ一緒にご覧ください!





~PS~



帰る途中、牛タン食べてないことに気付き、
お昼を食べたばかりなのに、牛タン屋さんに行ってから帰りました(笑)



「タン先」「タン中」「タン元」「タンサガリ」が
全部入ってますアップ


美味し( ̄▽+ ̄*)ハライッペ






2013/01/23

遷宮とパラダイムシフトとエントロピー

ども。unreveのグッさんです^^

今、雪を見ながらブログ書いてます。




こう書くと、なんだかカッコいい感じですが。









こんな感じデス(笑)

ハア・・・春はまだですかね。





☞☞



さて、今年は伊勢神宮と出雲大社の遷宮が同じという

珍しい年でもあります。



遷宮(せんぐう)とは簡単に書くと「新築移転」、

修理とか新築する時、一時的に神体を移動します。




定期的に遷宮することを式年遷宮といい、

この行事で古いもの全てを取り壊し、また新しいものに変える、といったものです。




ちなみに寛文7年、出雲大社は朱塗りの旧本殿から、

白木の新本殿へ。



この遷宮により出雲大社からは仏教色が取り払われ、

また、周辺の地域でも仏教施設が取り除かれてます。




そこから出雲大社周辺が

「神道之地」と呼ばれるようになったんですね。




つまり「思想ごと変えちゃおうよ」と。

考えたら一大行事ですね。






さて我が国には、このように破壊と再生を繰り返しながら

永続的に世界が続く、弥栄(いさかや)の概念があります。




宇宙には始まりもなく、終わりもない。

ただただ弥栄に栄えていくのみ、と。




元来、日本人には「終焉」といった言葉がなかったんですね^^

「終わりが無い」という事が終わりの答えだ、と。




ただ、その流れの中には大きな転換期があって、

それが巷で言われる「パラダイムシフト」なのかもしれませんね。





冒頭の遷宮だけに限らず、

今は大きな「転換期」だというのは間違いないです。




昨年の冬至はマヤ歴で終焉だと言われてましたが、

人類滅亡ではありませんでした。




そのせいでネットを始め各国でも一時パニックになったり

買占めが起こりました。

(ノアの箱舟みたいなやつも売りだされてましたね)




若い世代の中には逆にそれを望んでたり。

言いかえると破壊の後の再生を期待していたのかもしれません。





個人的にはマヤ歴って、世界の「転換期」を指していると思うんです。

遷宮のように「ガラリと全く変わる時代の節目」である、と。





オカルティズムに傾倒するわけではないのですが、

新しい時代、すでにシフトしているのではないでしょうか。





だとすれば、これからの時代の変化、

とっても楽しみじゃないですか^^?




完全な利他へのシフトとは思えませんが、

今年は今までの非常識が、常識になる気がしてならないんですね。




ただ、おかしな思想や説法が蔓延っている感は拭えません、

自分の目も養わないといけないな、と改めて感じます。




次回、これについて、

個人的な考察を書こうと思います^^


2013/01/14

シェイクスピアとマニュアル

人間は泣きながらこの世に生まれてくる。
阿呆ばかりの世に生まれたことを悲しんでな
」。


これはw・シェイクスピアの言葉であるらしい。
いやはや、なんとも豪胆な。


シェイクスピアと言えば、ご存じ世界一有名な劇作家。
ロミオとジュリエットやハムレット、リア王なんて誰もが知っている名作である。


私は劇場で見たことはないが、
映画大全集は持ってるんだなぁ(笑)



作品の全てがドキッとするくらい人間の内面を表現しているので、
個人的には心理学者や哲学者に近い気がする。


全ての人間が持つ原罪である猜疑や嫉妬、
マクベスはこれを鮮明に描き出した。


喜劇と史劇と悲劇・・・。
今回はそんなシェイクスピアにまつわる小話。


☞ ☞ ☞


シェイクスピアは活字を使わなかったらしい。
台本は個人のパートだけ与えられ、全体の物語を読むことができかった。


当然、観客も作品を見る事ができない。
つまりは耳でしかその舞台は体験できないものだったのだ。


実際の舞台と俳優のセリフを覚えながら各自、
一連の物語を再構成するしか、方法はなかった。


よって観客を始め、俳優たちそれぞれも、
各々が自由にその世界を感じたのである。


よってシェイクスピアの舞台そのものは
一義ではなく、多様な物語なのだ。











何と不親切な・・と思うだろうか?
私はそうは思わない、むしろ逆にこれこそが醍醐味である。



我々がその一部始終を目にできるような俯瞰的な視点とは
逆を言えばそのリアルな「場」から切り離された傍観者でもある。


そして客観的な場に居座れない代わりに、
我々は常に参加し、受け入れ、相互に影響を与えあうことができる。


内側から眺める視点、これがunreveの「場の創造」なのだ。


文字(テキスト)が存在すれば途端に内部から外部となる。
まるで台本を読む傍観者のように。



つまり全員が参加するには「文字」が邪魔なのだ。



岡目八目は立ち位置として重要だと書いたが、
その視点を自由に変える事ができるのが前提としてある。


☞ ☞ ☞

シェイクスピアの演劇は没後、その「曖昧さ」から
数学者からなる王立協会によって批判された。


それは数学者やプロテスタント(カルヴァン派)が求める
「万人共有」の対立概念だったからだ。


17世紀は「多様から一義へ」変わって行った時代ともいえる。


シェイクスピアの没後、世界中の人々が作品を共有した。
印刷技術とは、世界で初めての大量生産した「知の共有」である。


つまり今ある活字本とは、均質にして反復可能であり、
編集によって多くの人々が共通する意味を持てる、という
「再現性を売る商品」なのだ。



否、持てると勘違いさせてしまう商品なのである。



☞ ☞ ☞


フランシス・ベーコンは言語が個人の偏見(イドラ)によって
作られているとし、


デカルトは観念を正確に伝えうる言語以外の記号を考えた、
言語が記号である以上、解釈は一つではないのだ。


フランチャイズのマニュアルも当然「イドラ」である。
その台本を俯瞰しても捉える「フィルタ」が違うのは当然だ。



我々は自己完結、つまり「勝手に納得(解釈)」してしまう。
(解読と解釈の違いは前回書いた)



シェイクスピアはそれを危惧して、
あえて台本を書かなかったのかもしれない。
多様な捉え方そのものに価値を置いた気がしてならない。



つまり受け手が多様である以上、
一つの台本を作ったとしても、その解釈は多様のままなのだ。


unreveは「参加型マニュアル」を推進している。
それは本部と加盟店によるフラットな編集作業だ。



イノベーションが求められる時代において、
既存の閉鎖的になりつつある専門性や、俯瞰的マネジメントは台本である。



台本に当てはめ、再現し、大量に作る。
それはもう通用しない。



現在、時代を先読みする地図はない。
管理する設計書もない。



今はコンパスだけが頼りなのだ。
それは関係性の中から生まれる気がしてならない。

平和のノウハウ

さて、僕は最近全くテレビを見ないので
流行りの歌もアーティストも分からない
という、残念なやつなんですが(笑)



このところお気に入りが
「世界の終わり」でして。



歌詞の意味を問わないものが
多い中、すてきな歌詞書くなぁ、
と思いました。



「天使と悪魔」っていう曲の中に
「大人vs大人の正解、不正解のバトル」
って部分があるんですが、



確かに、大人って理性の塊だよね、
って感じたんです。



今日はそんなところからの小話でも。







さて、昔の僕もそうだったんですが、
矛盾する対立二項は統一したいものです。



矛盾して悩んだり葛藤したりするより、
科学みたく、スパっと断言したほうが
確かにスッキリします。



ただ、ずいぶん前にそれは止めまして、
統一ではなく回帰による統合、
超克的な組織構造論にシフトしました。



統一とは意図的に同じ状態を
作りだす画一化であり、



統合とは相互矛盾し、バラバラなものが
一つになる、調和的なもの、
似ているようで全く違います。



☞ ☞ ☞



ちなみに物理学は統一したがりますな。
例えば、素粒子を一本のヒモに統一したら、
そのヒモが5本に増えてしまった。



真実が5つあると困るもんだから、
11次元の膜で統一したのがM理論なんですが、
それでもパラドックスは消えてません。




なぜ矛盾が消えないか、
それはこの1400グラムの脳が
理性で考えてしまうからですわ。



だからさっきの歌詞の様な
「正解、不正解のバトル」になる。



それじゃあ部分の正しさが
全体にとって悪になる、ってことで、
両成敗式目が慣習化されてたんです。



これができたの、世界で日本だけ。
我々の文化は平和のノウハウを持っています。



☞ ☞



子供を見れば、正解を求めないし、
比べることもありません。



ただ、自分ができたことを
親に褒めて欲しいわけです。



比べ出すのは小学校くらいですな、
ちょうど理性が強くなる頃です。


誰々ちゃんの家は大きいだの、
誰々くんのお小遣は多いだの。



僕もよく言われてましたわ。
「他所は他所、うちはうち!」ってね(笑)



ここからなんとなく記憶が
ハッキリしてきませんか?
これは理性が働いているからでしょう。




☞ ☞



身近な統一理論は他にもあって、
歴史上、最も古いと言われる
西洋宗教なんて、まさにそうですな。




キリスト教、ユダヤ教、イスラム教。
それぞれが唯一無二の神を譲らない、と。



それじゃあさっきのヒモ理論みたいに
真実がいくつもある、って話になってしまう。



だから互いに仲が悪いんですな。
ただ、根の部分はまったく同根なんですがね。



フロイトだって世間の心理を
個人の心理に当てはめてるわけでしょう、



小林秀雄から怒られそうですが、
社会の心理が個人の心理のはずがない。
それならベルクソンの方がまだ分かる。




成功哲学のマーフィーもそう。
無意識を意識でコントロールできる、
と思っている。



つまり意識で統一するって事でしょ、
そんなもん、不自然かつ危険極まりない。



寝ている時は無意識なわけです。
その時、呼吸や心臓は勝手にやってくれてます。



逆を言えば、我々は「無意識」がないと
おちおち寝ることすら出来やしないわけです。



だから陰陽両面を陽で統一するんじゃなくて、
陰陽を統合する生き方は自然だと思うんです。



☞ ☞



そんなわけで、僕は原理主義が
どうしても苦手なんですが、



それすらも、極端になれば
「反原理主義」という原理を持ってしまう。
これじゃあミイラ取りがなんとやら、です。



ほどほどが一番ですな。
原理は太陽と一緒で、長い間見るもんじゃない。



客観的整合性がある原理は
あるかもしれないし、無いかもしれない。



しかしそれは理性では分からない、
逆に、故に、だからこそ、



我々は大いなる原理の存在みたいなものを
感じる事ができるんでしょう。





【後記】

とはいえ、僕の定義では
どうしても存在の悪、というものがありまして。


例えばそれは白痴のムシュイキン侯爵のような
純粋な存在だったりします。



純粋なものは美しいとは限らない、と。
まあ、この辺は難しいですね・・・

70億の波



「能力主義」は対象者を管理させるのみらならず、
人間を数値化し、価値を下落させる単なる「技術」になってしまう。



この事実が言わんとしているのは、
「システム」が本義から逸脱したのではなく、



その「管理機能」が社会に埋め込まれている
証拠であり、その影響から逃れられないことにある。



近代社会は「標準化・規格化」が常であり、
技術産業の域を超え、財務、情報、セキュリティ、教育にまで及んでいる。




標準化とは安心ではあるが規格外は排除される、
つまり規格とは、恣意的な選別の篩(ふるい)なのだ。







リゾームはそれら規格化への反対運動ではなく、
対立同化である。




すなわち既存構造の容認であり、
規格外である異質と共存できる環境作りであって、



主体でもなく客体でもない「場」へと向かう
「開かれた一つ」の再生である。




私は、我々のすべての活動には何らかの
創造的機会が潜んでいると思っている。
誰もが表現者であり、アーティストなのだ。



だから、もっと自己を表現できる世界を作りたい。




それが他者と共鳴し、それが集まり、
何かを達成し、元へと戻っていく。




まるで一つの海から派生する
70億の波のようである。



☞ ☞




他者から見る自己に反発し、独自の自己像を追求しても
他者の痕跡だけが浮き彫りになるだけにすぎない。



なぜなら自己の「固有性」や「特殊性」を、
他者とは反対の場所に位置づけてしまうからだ。




つまりそれらは差異の反発によって出来る
天邪鬼的な自己にすぎないのであって、




「独自性」を否定するつもりが、
逆に「独自性」を主張してしまい、
根本的な矛盾を孕んでしまう結果となってしまうだろう。



そんな無理強いなんて、本来は必要ないのだ。




☞ ☞


様々なタイプがいることは望ましいこと。
似たようなものばかりがいるより、互いに学びあえる。



同じ者同士ばかりが集まる環境下では
知的・文化的な視野は狭くなってしまう。




反面、多様体であるリゾームは、
別の多様体と接触された時、
その主体(自己)の性質を変えていく。




それは馴染む場所から異なる場所へと向かう
絶えない矛盾や葛藤による思想的変化を暗示している。




よって多様とは枠が広がるだけでなく、
混在した場における相互作用により、思想の質的な向上が起きるのだ。




縦と横が交差し、織りなす一つの「多様体」。
そこは常に開かれているので始まりや終わりという概念がない。





そんな世界は混沌ではない、逆に幸福という秩序がある。




2013/01/07

初心不可忘


office unreveの坂口です。
九州の元旦は天気にも恵まれてたようですね(^O^)



さて、本年最初の記事。
何を書こうかと迷ってましたが、


やはり正月と言えば決意表明ですね(笑)


と言う事で、
今日は「初心」についての小話でも。。。









さて、我々の意志はとても脆弱なもの。
これは個人差というよりも「人間」というものが、元来そうなのです。




「いや、私の意思は強い!」と思う方も多いでしょう。





しかし、ある簡単な質問でそれが違うと言う事が分かります。





ちょっと試してみましょうか^^
僕が今から書く内容を強い意志で跳ね返して下さい。





ではいきますよ。



















3分間、お金のことを一切考えないで下さい」。



















。。。。いかがでしょうか(笑)











僅か3分ではありますが、
お金のことを全く考えないでいれるほど、意思を強く保てたでしょうか。




ちょっと難しいですよね、
世阿弥はこのことがよく分かっていたのでしょう。




☞ ☞ ☞




さて、能楽を大成した天才、世阿弥は
秘伝「花鏡」において、その伝統を継承・発展させるため
初心不可忘」を説きました。




残したと言われる風姿花伝や花伝書、花鏡には
存続させる為のノウハウが詰まっています。
(「序・破・急」はアニメ「エヴァンゲリオン」の題材にもなりましたね)




世阿弥自身、仏教である「色即是空」や
禅宗(不立文字)の影響を受けていた。



つまりその秘伝は形式知ではなく暗黙知、
「言葉の先にあるものを掴む」ものではないでしょうか。



☞☞





世の中のタイミングを表す「時節」や「男時・女時」。


内省や俯瞰による「離見の見」、


慢心が人を朽ちさせるという「情識」。



これらはどんな時代の、どこの国にも当てはまるもの。



世阿弥の説く「継承からの創造」の原理は、
まさに「最高の暗黙知」なんですね。




よって知識として知るのではなく
身をもって感じる事が大切です。



それを踏まえ、根底にある精神の型を覚える。



世阿弥のいう初心とは失敗と苦労の末、身に付けたもの。
つまり「直接的な経験を忘れるな」と言う事なのですね^^




「初心の意味がわかった!!」という方は
office unreveの公式ホームページを、ぜひ一緒にご覧ください!




2013/01/03

急いで掘り起こさない

「現状がどうであれ、悲観することは一切ない」
人生とは何があるか分かりません。




そんな説法的な話を聞いてもいまいちピンと来ないのが
私たちの正直な感想ですが、





過去の成功者を見れば、
なるほど、と思わずにはいれません。







現在の有名FC企業もそういった歴史があります。
そして創業者は順調に成功していた訳ではありません。





例えばリンガーハットの米濱社長は小学生の時に
親の鮮魚卸会社が倒産、





大学受験に失敗した社長はその後兄と共に
トンカツ屋を創業、これが後に「浜勝」という巨大チェーンに成長し、
長崎ちゃんぽんもチェーン展開して成功します。





カレーハウスココ壱番屋の宗次社長、
孤児院で育ったのは有名な話です。





24歳で不動産と喫茶店を経営、その時喫茶店で奥さんが作った
カレーがヒットし、今の「ココイチ」となってます。





カギの110番で有名な上野社長も
27歳の時に始めた出張鍵屋、いわば露天商からのスタートです。







当時、まさかここまで巨大な企業に化けるとは、
誰も予想しなかったでしょう。







チェーン店(フランチャイズ)の元祖とも言えるKFC、
ケンタッキーの創業者であるカーネル・サンダース氏自身も
65歳で起業してあのような巨大企業になってますね。







「どん底の経験なんてしたくない」、「周りからバカ呼ばわりされたくない」。
現在、リスクばかりが先行し、そういった事を避ける傾向があるのですが、





どんなものにしろ、チャレンジするのは素晴らしい事だと思います。
いくつになってもその精神がある人は幸せです。





どん底を知っているからこそ、強くなれる。
何もない状態から始めたからこそ、実力が養われています。







最初から成果を期待しなくとも、
継続すればやがて実がなる、あとは時間の問題です。







FCチェーンの特性がスピード重視なのですが、
私は反面、継続重視のFCを提唱します。







トマトのタネを蒔いて、次の日に掘り起こして
食べる人がいないように、







FC構築が出来たとしても、
それがすぐにたくさんの実を結ぶ事はありません。





短期間に育てようとして、失敗している本部は
それこそたくさんあります。







ちゃんとした種をまき、それを大事に育てましょう。
経済成熟期にはそれが一番重要ですから。


2013/01/02

過剰な保護






植物はそれぞれに適した環境があって、
それを無視すれば、通常のような
生命力の強さは期待できません。





例えば植林のように
人工的に作りだした場合、




例えば杉なら杉だけ、
ヒノキならヒノキだけのように
一種がキチンと規則的に植えられます。



これは手入れをしやすくすることで
「効率よく短期間」で成長できるようにする為です。





ですがその木、その森を育てるには
絶えず人が手入れをしなければいけません。





また、何年、何十年もそうやって
手間暇かけて育てたとしても、
ちょっとした大雨や台風、地震や津波なんかで
簡単になぎ倒されたり枯れてしまうそうです。





成長が早く、背の高い木でも
根が浅い為」に保水力が低い、と。




☞ ☞



松の木も同様、
根が横に伸びる為、本来は地震や津波には弱い。




それに比べ人の手が入っていない通常の森では、
草木は太陽の光や根を張る為の場所を確保する為に競争します。



下の草が地面に根を張って低い木を支え、
その低い木がさらに高い木を支えるような関係性になっています。




まさにこれこそ自然の「共生」でしょう、
地球上で40億年続いている掟とも言えます。





まー、これについては色々と意見もありますし、
必ずしも上記のような環境が最適だとは言えませんが、






それを書きながら掴んでいこうかと^^







2013/01/01

加減を忘れた倫理の先

ドイツで長年に渡って「禁書」とされていた
「わが闘争」の著作権が来年切れるということで、話題になっている。


わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)/角川書店
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全体主義の代名詞であるナチズム(ファシズム)。
この原理には歪んだ「正義」が潜んでいる。


誰もが正しいと「思ってる事」を厳守するのは正しいだろうか?
正直、私にはそうは思えない。


私自身、倫理やらなんやらと言ってはいるが、
それらも極端に走れば当然、弊害が起る。


例えばナチス時代のドイツ、
来日したナチス青年団の印象は倫理的で規律のある青年達だったそうだ。



その倫理性や規律の正しさでホロコーストを引き起こした。
それは矛盾した行為ではなく、その性質の延長線にあったのだ。


日本も同じである、戦時中は戦争反対などといった
反イデオロギーは許されなかった。


また、戦時中には愛国婦人会という団体があり、
若い女性がパーマをかけていたりすると、注意していたらしい。


当然化粧もダメ、さらには髪の毛が長いとハサミで切ってたと言う。
レースや刺繍のついた服も「その場で」切り刻まれていたのだ。


精神的に未成熟なのは昔だけではない、
倫理と名を付け「勝手な自己判断」で裁く類は未だに多い。


お互いが罵りあい、軽蔑しているのだ。
良い意味で「放っておく」事ができないのかなぁ、と思ったりする。


タカもハトも極端な倫理性の向かう先である。
だからといってリベラルも同じである。


以前私はリバタリアニズムであったが
目指す概念とちょっと違うな、と感じるようになってきた。
また、今の政治構造ではリバタリアニズムは不可能ともいえる。

前提そのものを疑う必要があるのだ。


☞ ☞ ☞


現在道徳を普及させようとしているのか
慎ましさや品格といった、武士道的な精神性を復活させようとしている。


もちろんそれらは美しくはある、
しかしそのような復古論や懐古的な教育手法は私は懐疑的だ。


そもそも背景が違う、現在はバターナリズム(父権主義)ではない。
これは平和な時代の副作用であるというのが個人的な感想である。


物事には必ず「功罪の側面」がある。
それを理解し、罪的側面も受け入れるという覚悟が必要なのだろう。



理想なんてものを設定するからおかしくなる。
物事には必ず「毒と薬」が一緒くたになっていて、



一流と言われる人はその毒が必ず回っているのだ。



その毒が上まらないよう、浄化し続けることで
均衡を保っている、これは道を極めた人に共通している。

バランスを保つには、自己否定もまた必要なのだろう。


☞ ☞


よって今は考え抜かなくてはならない時代である。
言い方を変えれば、そうしないとどうにもならない所まで来たのだ。



我々はやり尽した終着点にいて、根源的なものを確かめているように見える。
また、そこには新しい価値が内包されている気がするのだ。



最近読んだ本に坂口恭平氏の「独立国家の作り方」というものがある。
最近もっぱら古典ばかりだが、これは久々に読んだ現代著書の中でイチオシである。



著書内にとても響いた言葉がある、
最後にそれを引用したい。


独立国家のつくりかた (講談社現代新書)/講談社
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この無意識だらけの無思考な社会が、居心地がいいわけがないのだ。
そこにはたくさんの無視が存在している。
差別が存在している。階級が存在している。貧困が存在している。



それが苦しくないわけないのだ。
僕の症状は自然な精神であれば、当たり前の事だと気付いてきた。


だからこそ、行動に実行に実践に、
結びつけなくてはいけないと決める事ができた。
とはいえ、障害はやはり障害である。
死ぬかもしれないという可能性もある。




だから新政府を立ち上げた。こんな事を社会に表明しちゃったら、
多くの人も応援してくれているし、死ぬわけにはいかない。



つまり「死ねない」。
これ、すなわち「生きる」である。



生きるというのはそう言う事だ、仕事で成功するとか
いい会社に入るとか、有名になるとか、資格を取るとか、出世するとか、
お金を稼ぐことではない。



「生きるとは死ねないこと」。
死ねない環境を作る、これが「生きる」と言う事だ。