2012/09/27

起業家の妙

ども、FCオーガナイザーグッさんです^^





そう言えば、店舗の内装ががらっと変えました( ´ ▽ ` )ノ



【グッさんの、一期一会ブログ】



【グッさんの、一期一会ブログ】


良い感じになったと言われ、ちょっと嬉しいです。





あと洋風のアンティークショップで

ソファーを衝動買いしました。



【グッさんの、一期一会ブログ】



よく考えると、これはカップルシートですね(笑)

まあ、一人で優雅に座ってコーヒーを飲むもよしです^^






さて、co-gateでは独立希望者に向けて

「zoro one」というサービスを行っています。



zero one、つまり「0→1」にすることが目的です。

例えば既存の事業にはない、まったく新しいビジネスモデル。



これを約3カ月で体制を作り、キャッシュを得よう、という

発明に近い起業方法です。




もちろん僕はそれに対するアドバイスなんて出来ませんが、

環境を貸す事ができますし、コストを押さえたツール提供も可能です。




「いいアイデアが浮かんだかも・・」という人は

気軽にお越しくださいね^^




さて、人生においては正解はひとつではないように、

独立の方法も同じく、決まった答えなんてありません。




いろいろな解釈、いろいろなアプローチが新たな可能性を生みます。

とにかく、自分なりにやってみる事が大切。




それが僕の考えでもあります。





例えば10個、ビジネスに着手して、結果1つしか自分に合わないとしても

自分に合った1つが分かっただけいいじゃないですか。


後はその1つを大事に継続して行けばいいと思います。




ちなみに僕の本業はそれとは逆、フランチャイズの魅力を伝える仕事です。

起業の始めの一歩は優良なFC加盟が最適だと思うのですが、




自分の中に「これだ!」というアイデアがあるならば

無理にFCを検討しなくてもいい、と思っています。




大事なのは継続してやれるかどうか、

儲かってもやってて苦しいだけなら会社員と変わりません。




自由な選択肢、そして自由な発想。

これが起業家の妙ではないでしょうか。





さて、次回の「イマココ会
」はそんな独立の一側面、

「フランチャイズ加盟」について語ろうかな、と思っています^^





私が絶対的な自信をもって紹介できる全国のFC本部さんや

無料でできる代理店さんについての紹介と





「そもそも独立って何が大事なの?」という内面の部分も含め

お話しできればな~と思っています。





次回は盛りだくさんな内容でっせ♪






2012/09/11

加減の定義

時は江戸時代。
徳川家康が武将達を集め、食べ物についてこう尋ねたという。




「この世で一番おいしいものは何か」。






武将たちの答えはそれぞれ。
酒と答える者もいれば、好きな菓子や果物の名前を挙げたという。


当然、家康は不満である。


そこで家康は、側室である、英勝院(お梶)に
「なにが一番、美味しいと思うか」 とたずねた。



お梶はこう答えた、
「一番おいしいものは塩でございます」 と。



家康はさらに「では、一番まずいものは何か」と尋ねた所、
「一番まずいものも塩でございます」 と答えたそうだ。



家康は、お梶の聡明さに大変感心したという。







さて、今でも塩は「味の決め手」である。
つまりあらゆる味を活かす素材だ。



よって、お梶が言うように一番美味しいものに間違いない。



また、全ての味を殺すのも塩だろう。
よって塩は一番まずいものでもあるのだ。




つまり塩とは「美味しくも不味くもないもの」。
こう定義できる。



このように、塩とはサジ加減一つで変化する
一番分かりやすい食材なのだ。



塩とはあらゆる素材をまとめる「部分」である。
その加減を知ってこそ、本質(肉や魚)は活かされる。



火加減もそう、ゆで加減もそう。
あらゆるものは「加減」によってその持ち味が際立つのだ。




☞ ☞ ☞



料理に限らず一流ほど、素材にこだわる。




しかし、どんなによい素材を手に入れても、
加減がなければ、その素材を殺してしまうだろう。




活殺はその人次第、「加減覚の知」。
これがリゾームで一番難しい概念だ。









多様の妙

日本流FC、場の理論について。







古来、市場は「市庭」が語源であり、
以前の場は「庭」と書いていました。




道と道が交差するのを「辻」とも言い、
市場は、どちらのものでもない辻でも行われたのです。



それは隙間であり、空間であり誰もものでもないもの。
しかしその無である「空間」が有を作るのでしょう。




☞ ☞



ちなみに脳内で情報を伝達するニューロン同士も
繋がっているのではなく、そこには「隙間」があります。




それをシナプス間隙といい、隙間を超えて
伝達する物質を神経伝達物質と言います。



つまりそこでも「辻」や「庭」のように
交流が行わているんですね。







それによって伝わり方は微妙に変換される、と。



これは、我々がそれぞれ異なる感覚や思考を
持ってしまう理由でもあるのですが、



そんな2つの自己は協調的な働きによって、
整合性を持つのです。



なるほど、両極の自己の中心が
それぞれを中心として成立・整合するように
誘導し合うということでしょう。



行ってみれば、それは
「二つの視点による中心の創造」です。



それぞれが中心でありながらも、それが軸として働き
互いに誘導され、影響を受け、



結果、どちらもが自立と自律に働く、と。
交差によって「相互自立依存」が成立するのです。



これは海で例えるなら、
海面と深海の違いでもありますね。
海面も深海も一つの海を形成しています。



波しぶきを見て「これが海だ」とは言えないし、
深海を見て「これが海だ」とも言えませんよね。




☞☞



そんな異なる自己を中心(自律的に)決める。
これが場の形成です。



しかし近代的自意識では、まず
「自分」というものが存在していて、
その「自分」が、何それをする(している)と
考えるのですが、そうではない。




他者だけでなく、自他の「間」による
交流によって、我々は自ずと変化している。





不思議ですが、
多分に我々とはそういう存在なのでしょう。



2012/09/10

卒啄同時、相対を超えて




近年の自己啓発セミナーで
取り扱っている主張の核、それは「心」。


悩まない、楽になる、思い通りに行く、
重荷が取れる、平常心で生きられる・・・etc



論じ方は千差万別あれど、
それが「あなたの心」である以上、
今感じている気持を押し殺すものではない。



そもそも我々は喜怒哀楽という
プラスとマイナスの感情を持っています。



まるで磁石のようなものであって、
どちらか一方だけは選べないんですよね。



当然ですが、N極だけの磁石は存在しません。
(人工的なモノボールは抜きにして)



そんな矛盾した「二項」との
付き合い方さえ、理解すればいいのかもしれません。



☞ ☞


例えば、仏教はもともと絶対自力だったのですが、
親鸞が絶対他力である仏教を広めました。



ただ、それを突き詰めていくと
単なる他力、単なる自力ではないものが見えてくるようです。




自力はただの自力ではなくなり、
他力はただの他力ではない。



つまり自力と他力は同体として、一なのでしょう。




禅も自力といいますが、同じくこれも「自他力」で、
それを表現したものに卒啄同時があります。



それは雛鳥と親鳥との関係に
見立てたもの。



雛が卵から出ようとするとき、
雛は殻の中(内)から卵の殻を突き、音をたてます。



「コツコツコツ、コツコツコツ」。



「もう産まれるよ~」と言う合図、
これを「卒(そつ)」と言います。



そこで親鳥がすぐに外から
殻をくちばしで破ります。



「コツコツコツ、コツコツコツ」。



「今出してやるからね」という行為、
これを「啄(たく)」と言います。



この「卒」と「啄」が「同時に起こって」
卵の殻が割れ、生まれることができる、と。




どちらか一方が遅くても、
逆に早くても雛は死んでしまいます。



よって、そのタイミングは「同時」であることが条件、
故に禅の自力も他力であり、他力は自力なのでしょうね。












2012/09/04

ふたつの欲求

unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます^^



さて、我々が生きて行く上で、重要なものは何か?
と聞かれたら、多くの人が「自由と安定」と答えるでしょうね。


しかしそれがなかなか手に入らない(ノ_・。)


そんな単純な命題を解決するのに
なぜこんなにも苦労しているかというと、

自由と安定という、「ふたつの欲求」、
その性質が根本的に矛盾しているからなんですね。



今日はそんな二項同体の小話を。














さて自由とは、束縛から解放される事。


お金からの自由、労働からの自由、
の自由など、色々あります。



で、安定とは一体何じゃらほい?というと、
マズロー的に言えば、何らかの共同体に帰属する欲求です。



まさに「解放(自由)」と「安定」が矛盾し、
相容れない根本原因がここにあります。



なぜなら、何らかの共同体に帰属先を求めれば、
個人の自由をある程度放棄しなければいけません。


解放(自由)を取れば、不安定になり、
安定を取れば、自由は制限されるというジレンマ。


これが社会性の生き物である人間が持つ、
永遠の「悩み」です。



お互いがある程度譲り合い、我慢するからこそ
「現在の」共同体が成立するという前提がある以上、




お互いが衝動の赴くまま、自由にやれば
当然、共同体は崩壊します。



逆に、だからこそ人は権力者になりたがるのです。
権力を持ち、共同体の中で安定と自由が手に入りますからね。



さて、あなたはどっちを選びますか?
それとも、どっちも欲しいですか?



独立起業と会社員もそうですし、
結婚と独身だってそうですな笑



ただ、これを選択するのって、
まさに「自由」なんですね。



☞ ☞




エーリッヒ・フロムの著書「自由からの逃走」では、
我々は完全な自由よりも、国家の権威や、
世間大衆と同一化することを望む傾向があると言います。




言わば「特殊な縛り」に身を投げ出し、
犠牲になることで、安定と共同体に所属するのです。




歴史を紐解けば、これが原因で多くの争いが起こっている。



見方を変えるなら、全員が「自由であり、
安心もできる帰属先」を作れないんですね。



おたーく、な僕はそれをもう少し
突っ込んでみました笑





☞ ☞

そもそも、自由とはそれ自体に有効性はなく、
呼応する社会の義務によって初めて有効なものです。




共同体での義務の観念が権利の観念に先立つ以上、
その権利は義務に従属します。



例えば無人島で一人の場合、
自由の権利を主張する必要はありませんよね。



誰からも承認してもらう必要がないので、
それ自体の意味も価値も一切無くなるからです。



つまり、この「自由」や「安定」とは、
社会(他者)ありき、客体なくして主体は生まれないんですな。




そう考えると、自由であり、かつ安心もできる
帰属先が必要ということ。




これを教義という「外律」で教えようとするのが
宗教・国家のような「権威」なんですが、



止めときましょう、足元を掬われるだけです。




というわけで、みなさんも暇な時に考えてみませんか^^
暇つぶしには十分すぎるテーマだと思いますので。


2012/09/03

人と自然の統合的秩序



「合理化・効率化」というキーワードは
最高の口説き文句であるが、成熟期においては
そこからいったん、離れる必要がある。



そもそも私たちの発想とは、実はかなり縛られている。
縛られた環境とはすなわち「不自然」であるが、
この「不自然さ」こそが経済の秩序を生み出しているのだ。




秩序は自然的に作られたものと
人工的につくられたものがあるが、



僕はこれからは自然派生的な秩序と
人為的な秩序の統合が必要だと思っている。




ヒュームは、人間の意図的な設計のみで作られたわけではないが、
人間の影響は受けている、ということから、
秩序は「自然でも人工でもない第三の範疇(中庸の選択)だ」とした。



機械的な閉鎖システムとは違い、
その秩序概念とは選択の結果であり、
多様性の相互触発である。



問題はその相互性がどれだけフラットかつ、
アン・コントロールで触発されるかだろう。



多くのマネジャーはそういった要因や関連を
考慮に入れず、議論することもなかったのだが、



このような態度は選択か必修かという
問題に対する関心の薄さでもある。



口では弾力性に富んだ、自由度の高い
状態が望ましいとはいうが、
現実問題それほど柔軟にはできない。



マネジャーはある種の「センス」が必要なのだ。
バランス感覚のような「感性」ともいえる。



☞ ☞ ☞


構築的合理主義者は、制度の意味を理性を駆使し、
明示的に命題を演繹して人工的に作り上げる事だと信じている。




この考えこそが複雑なシステムを構成するための
最初の原理ともいえる。



我々のような開放系相互作用システムにおいて、
「体系と効率」は演繹として使えないということだ。



かといって帰納かといえばそうでもない。
言わば「アブダクション」に近い。




2012/09/02

押しつけ


ども、グッさんです^^
9月に入りましたね。




もうすぐ僕の一番好きな季節「秋」が来ます。
この時期にお店(兼事務所)を新しくオープン出来るって嬉しいことです。





てなわけで今回のテーマ。
あくまでも個人的な意見なので暇な方はどぞ^^





○○○





アメリカのカルフォルニアでは法律で「フォアグラ」を禁止しました。
ガチョウの飼育方法が動物愛護からすると許せない、と。





また、ニューヨークではビッグサイズのジュースを
映画館や飲食店で出すのを禁止する方針だそうです。



日本とアメリカのサイズ比較 ↓








スモールサイズは日本が300mlに対し、向こうは700ml、
ビッグサイズは1300ml、





ビッグサイズの禁止の理由は「肥満防止」とのこと。
ちょっと笑えてきますね。





一番小さいのが700mlrって、そもそもが間違ってるだろって(笑)





まあこんな感じで、アメリカ行政は昔から
食べ物を始め、色んな事に干渉し
自分たちの理屈を押し付けるクセがあります。




1900年初頭にはプロヒビジョン(禁酒法)で
お酒の製造、販売を禁止してますね。
クジラだってそう、シーシェパードが「捕鯨反対」とか
よくやってます。



そんな余計な干渉とは本来独善的なものであり、
暴力を内包しているというのが個人的な意見です。
(余計な干渉と言うところがポイント)



日本人を始め、どこの民族だって自分たちの
食料を過剰に奪い絶滅させるようなバカな真似は普通しません。
しかしアメリカの場合、クジラは食べないけど「鯨油」はガンガン採ります。




クジラを捕っては油を絞り、その後どうするかと言うと
そのまま海へ捨てているんです。






昔からクジラを食料とし、クジラの供養をしてた
日本から見ると「動物愛護」という大義名分が、
実に独善的な勝手主義だと映りますね。





ちなみにライオンやワニは凶暴ですが、
例え空腹で死にそうになっても仲間は絶対に襲わないそうです。




食べる時も空腹を満たす以上はしない。
反面、人間はカニバリズムの歴史もあるし、
必要以上の食料を作っては捨ててるし、
戦争では殺人が正当化されるという奇妙な習慣さえある。




その点に限れば、人間は動物以下ですよ。




○○




しかし、当然それだけじゃぁありません。
それだと、とっくの昔に滅んでいます。






我々には相手の心を感じることができる
能力がある、それが共感です。




喜びや悲しみを自分の事のように感じれる。
先日のオリンピックでは国民が喜びを共有しましたよね。




会社で支え合い、励まし合って組織を作るのも
共感能力のおかげだといえるでしょう。





このように、人間は「暴力と慈愛」の
両方がセットという清濁併吞、グレーな存在です。



この狭間(バランス)で自己が形成され、
社会、やがて国家となる。




善悪併呑なのはマクロ的に見ても
ミクロ的に見ても変わらないんです。





だからこのバランスが今後重要になるだろうと
個人的に予測してますが、







それを書くとニーチェのようになりたくないのでやめときます(笑)




ではでは。