2014/11/30

自己中心でいこう

FCを展開する際において、
一番大事なのはやろうとする意志です。


その為には「人からどう思われるか」、
を克服する必要があります。


もちろん、我々は社会性を持っているので、他人の視線が
全く気にならない人はいません。


つまり「ある程度」は必要であって、
それを完全に消す自分になろうというのもまた、間違っています。


完全主義者や感受性豊かな人ほど
他者の視線や意見が気になるもの。


しかしいつまでも自分を否定し、不足感から
完全なものを目指す道を選ぶのは避けたいものです。


☞ ☞ ☞


さて、中小のフランチャイズ展開とは、同業他社からすれば
少なからず注目を浴び、視線を受けるものです。



応援するという歓迎的な視線ならいいのですが、
今の経済社会は全体主義に近いものである以上、
決して好まれるものだけではないでしょう。



自社の事を一番よく分かっているのが経営者ですから、
そんな他者の視線を感じ、自社のマイナス面に気を取られたりしますが、
先ほど書いたように、弱みにフォーカスし、
それを克服しようとしても完全なものは不可能です。



逆に克服しようと思えば思うほど、
余計に客観的なものが気になってしまいます。



これでは何かをやろうとする前に
神経が参ってしまいますよね。


☞ ☞


ビジネスに限らす、人間にだって長所、短所があります、
長所だけ、という人はこの世界に存在しません。


長所を別の視点で見たら短所に映るもの。
物事には裏と表がある以上、一面だけは取れないのです。


コインの裏を消そうと思っても消えません。
両面を同時に受け入れ、認めなくてはいけない。


しかし、そんな弱さをも認めることは、決して悪い事ではなく、
逆にその人の魅力に繋がるのではないでしょうか。


よく「2:6:2」と言われるように、人の評価は曖昧で多様。
どんなに素晴らしい人でも必ず2割の人からは嫌われると言います。


逆を言えば、そんな自然の摂理があるからこそ、
僕らはその多様性を失わないのです。


間違っていけないのが、騙し欺くことや
支配、独占のようなものは短所ではありません。


それはただの厚顔無恥であって、
商売をやる以前の問題です。


☞ ☞

恰好が悪くとも、デザインが良くなくとも、癖があっても、
前向きに自分流を貫いている人は、魅力的です。


他者へ向けた正当性は時として争いのタネになるけれど、
自己へ向けた正当性は自信や情熱のタネとなる気がします。


2014/11/19

対話による場の形成理論

unreveは対話による「場の形成」を提唱してますが、
それは対話する「言葉の内容」が大事なのではありません。



大事なのはメールや伝達文書や電話ではなく
お互いがその場にいる事で発生する空気感。


こう書くとなんだか非現実的な感じですが
逆ではこれは生まれないのです。
(生まれない、というかネガティブ・フィードバックになる)


例えばネット、距離が離れた相手が
文字だけで空気感が生まれる事は、まずありません。


賛同者なら集まるでしょう、ただそれは各自が持つ
それぞれの価値観と一致しただけのこと。


例えば、この国でもFBによってデモが起きているけれど
それは個の集約ではなく、集団からの派生です。



今日はそんなリゾーム派生「場と対話」について。



ヤン・シュヴァンクマイエルの作品



さて、言語化とはその性質上、どうしても相対、二分されます。



例えばある対象「A」を言葉によって名づけた、とします。
対象は名詞(太郎)でも良いし、形容詞(楽しい)でも何でもいい。



それを名付けた(言語化した)時点で、世界には
必然的に「A」の他に、「NOT A」が生まれます。


「太郎」を名付ければ、それ以外は「太郎ではない」、
「楽しい」は「楽しくない」がセットです。

よって「正しい」を叫べば、必然的に「正しくない(間違ってる)」
が派生し、それが違いとしてではなく「悪」に転じます。



よって自己が正当化されると、その対極には
敵(NOT 自己)がいるのはこの言語世界の原理なのです。



そしてこれこそ、人が対立する根っこであり、核心。
我々は言語から支配されているのです。

☞ ☞

例えば、原理主義は「絶対」を生み出します。
しかし、歴史上それが万人に認められた試しはありません。
理由は上記を見れば明らかです。

この罠に陥らない為には、まず多元的・両義的にすることです。



ざっくりとした分け方では二項対立するだけ、
お金だって「必要」と「不要」に分けたら、おかしな対立となります。

必要だけど、それほど必要ではない。
そんな「最適」の状態は自分しか分かりません。

よってできるだけ多くの状況を想定し、
それら関係性が複雑に結びついている事を、まず知ることです。



そうすると、言葉(言語)というものが
ある種の「ネットワーク形態」を持ちだします。


この状態が、ご存じ「リゾーム派生」です。


その為に様々なニュアンスを用いる


そのネットワークの結節点や揺らぎの部分に、
自分にとって、最適な思考やあり方が見えてきます。



「私はこの部分は賛成だけど、ここは違うな」とか。



それを発見するプロセスが「会話」であって、
それを他者が理解することが「場」の役割なのです。



あるでもない、ないでもない。
白でもない、黒でもない。



当然、最初は朧であり、曖昧模糊としたものです。
ただ、それが圧縮していくと、自然に法則性が出てきます。



これが「大体の志向性」を持つことで
その場にいた全員が「最適な立ち位置」によって
抑圧なく、足並みがそろうこと。




これをunreveでは「自己組織化」と呼びます。


2014/11/17

有と無と道

リゾームと言う全人格的な人間の相互作用の働く場では、
「場の可能性」を孕んでいる。


例えば芸術や文学、宗教などは、象徴や比喩を自然発生させ、
それはかれらの全人格によって生まれる。


反面、カースト的な階級ないし序列の体系とは
安定感こそあるが、維持が目的の為、
法律、政治的構造ではその可能性は薄い。



今の時代に限らず、
現状維持とは後退していると同じ事なのだ。


上司がリスクを負って革新的な事業に向かうのは
ドラマか漫画の世界であって、本来はリスクを回避する傾向にある。



可能性とリスクはコインの裏表であって、
可能性を提案するということは、言わば「リスクを提案する」事だ。


情熱の伴わないトップダウンのリスク、誰も回避したがるだろう。
ボトムアップからでも途中の関門によって、保留されるか、消される運命だ。


保留された水は淀み、腐る。
流動性のない場は、この階層区別とリスク回避が原因だ。


☞ ☞ ☞


一体なぜだろう。
それは前者は、数(量)で人を見ているからだ。
政党のように、「多いか、それとも少ないか」で区別・評価する。


後者は、平等な個人で構成される未組織(非構造)、
かつ相対的に未分化なである。


共同体や仲間集団において、
相互に構成し合い、相互に必要不可欠のものである。


階層派ともいうべき相手から見れば、
リゾームの存在は危険な無政府状態に見える。


それは多分、アンリ・ベルグソンでいう「閉ざされた道徳」のように、
本質的に限定され構造化された排他的集団のもつ規範の体系だからだろう。



オウムはまさに「閉ざされた道徳譜」を持った集団だった。
ただ、そこには教祖をトップとした秩序ある「階層集団」だったのに気付く。


階層派は、規定や法律といったシステム化。
つまり禁止や条件づけの防壁によって、その状態を維持しているのだ。



聖職者とヒッピーの集団はどちらが危険か?
スティーブ・ジョブスはヒッピーであり、
ジハードを正当化するイスラム教徒は聖職者である。



先入的なイメージには答えはない、
我々は本質を認識しなくてはいけない。



☞ ☞ ☞


システム論の本質とは何だろう?
システム論はいわば自己維持を目的論的対象とする機械論という考えだ。
反面、我々は動的な関連の中にあってこそのシステムである。


��仮に)人間を集合論で片付けるならば
分析によって正確かつ、絶対的な組織法則が出来あがるだろうが、
一体、それはどこにあるというのだろう?


つまりはFCに限らず、組織管理システムとは微分方程式、
「論理自体が非論理的」という笑えない話なのだ。



これからの組織論を考える際は、構成する「人」と、
「集合体」について再度認識を変える必要がある。


社会学者であるG・A・ヒラリーは、
「共同体」という言葉の定義を九十四種も再検討した。


そして、人々が共同体に含まれているという概念を超えては、
共同体の性質に関する完全な同意はない、と結論付けている。


リゾームが概念ばかりで、とらえどころがなく
はっきりと固定できない理由はまさにここにある。
それらは中心がない、中空的な構造をしているのだ。



老子はそれを車の車輪に例えている。
車輪を構成するスポークが集まっている中心は穴があり、そこは空所である。


車輪を動かすためには軸を入れる場所が必要で、
また、そこは無でなければ役に立たないのだ、と。


imagesCAA5PPI8.jpg


我々が日常使っているコップもそう、
真ん中に空っぽであるからこそ、中に満たすことができる。


水墨画の余白の間、枯山水の余白の間、
家でいう窓と扉、女性の子宮もそうだろう。



つまり無(空)は、単独で存在するのではなく、
有であるその物事に付き従って、その物事をしっかりと働かせていくという、
離れる事のできない「絶対的相互依存の関係」なのだ。



世の中の物は形あるものから生まれ、
形あるものは形ないものから生まれる、



老子の説く無とは「0」ではない。
あらゆる「1」を作る可能性をもつ「状態」なのだ。


☞ ☞ ☞



リーフ理論では「無(状態)」の概念として
「間・あそび・ゆらぎ」を取り入れている。



よって有である場所に「空間」を作ることで器が出来る、
否、勝手に出来あがる、というべきか。



空間は概念であるが、「強制しない状態」である。
やらざる場をつくるのではない、「やりたくなるような場」を作るのだ。



厳密には立場や役割りではなく、
老子で例えるならタオ(道)の働き。


名の無い「道」、そして名の有る「無と有」。
無は無でなく、無という名が「有る」。


やり方(方法)ではなく、在り方(状態)である。


反面、秩序だけで作ったものは中身がぎっしり詰まった
静的な立方体にすぎない。


そこに何が入ると言うのだろうか?
固定した部分になるしかないのは必然なのだ。


☞ ☞ ☞


労働基準法でいう「休憩1時間・週40時間労働」なんて決まりは
リゾーム化された場所では必要ない。


会議は1時間なんてものもないし、定例・定刻もない。
各々が思い立った時がまさに吉日だ。


このような非構造的な特質は中心が無い、
中心は無であっても、構造上の機能には「無」は絶対に必要なのである。



大手チェーンは手書きポップの活用が少ない、
現場を一番知っている店長の権限は少なく、会議は数字の発表会だ。



そんなチェーン店からは何も生まれる事はない。
中小のFCは逆にチャンスである。



他資本であるFCは(本質的に)リゾームに馴染む。
私はそう思っている。

2014/11/11

見えない秩序

知り合いの方から一冊の本を勧められました、
原広司氏という、建築の方が書いた本のようです。


集落の教え100/彰国社
¥2,625
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これは建築論、というよりも哲学。
まるでレヴィ=ストロースのような切り口です。



読んでいる途中、この本を勧めた理由が分かりました。
僕の構築論を暗喩的に表しているかのようです。



集落が好むのは、不動なるものではない。絶えざる変化であり、展開である



この分野でシビれたのはガウディ以来です^^


☞ ☞ ☞
氏の作品である「ディスクリートな社会」とは
全ての個人が自立し、全ての集団が自由に組み込まれるという、個人と集団が対等である社会。


言わばオーバーレイ、「重ね・合わせ」の世界です。






単一のシステムで社会がコントロールできないならば、
無数の価値観によって、社会は流動していきます。



つまり個人の思想には興味を示さない時代、
全体の批評性が消えつつあるのです。


ただ、それは見えざる秩序によって統御されています、
見えない秩序「ナニカ」がある。


曖昧だけれど、野放図ではない、
そんな、見えない糸のような秩序が全体を覆っているのだ、と。


それがオーバーレイの原則だと言います、
つまり求心的な空間の様相を作りだしているのです。


計算されつくしたデザインは矛盾から秩序を作り、
偶然性や自然発生的なものとなる・・・。



曰く、近代建築がある程度終焉を迎え、
誰も新しいイメージを提示できなかった際、


2つの方向性に分かれたと言います。
一つは今までと変わらない権威的なアーキテクト、
つまり寺院や宮殿のように、作り手が「ハッキリ」しているもの。


もう一つが集落や民家の様な
特定できない共有人格的に作られるアノニマス。


氏はどちらも肯定していますが、
秩序の作り方を後者(アノニマス)に求めたんですね。


うーん、すごい分かります。
建築は同じようなものを作ってはいけません、
という教訓なのかもしれません。


以前書いた、地方のロードサイドが
どこも同じ景観というファスト風土化論を思いだします。


☞ ☞



そこには境界というものが重要になってきます。
単に重ねるだけでなく、空気をも作りなおす。


やはり、場所には力がありますね。
unreveの場の理論にも取り入れさせてもらいます。




ありがとう、Y君。
また良いのあったらよろしくね(笑)


2014/11/10

繋ぐ

「自分のものだ」という所有欲が強ければ
事業の継承は難しい。



だからといって全てを
「あなたのご自由に」とするのも、どうだろう。



全ては借りもの、預かりもの。
次の世代へ、どう繋げて行くか。



この視点が大事だ。


そう思えば、自分はどうすべきか
考えれるようになる。



より良い世界の轍となるために、
何を残し、何を捨てるか、考える。




それだけで、不思議と仕事が面白くなる。


気合い抜いて行こう~

こんにちわ坂口です。
みなさん、肩こりとかありますか^^?


僕は生まれてこのかた肩こりというものを
体験したことがなく、周り(特に女性)から羨ましがられます。


中には「グッさん、あんま悩みなさそうやからね」と、
間接的に「バカは風邪ひかないから」的な意見を頂くのですが、



悩みくらいあるわ、ボケ(・∀・)



というわけで、
今日はそんなリラ~ックスな小話を。









そもそも、僕らは無意識的にも何かしら、
考えたりしているものです。



無意識の思考は1日5万とも6万とも言われます。
ですから、常に力んでいたり、緊張したり、と
過剰な負荷がかかっているんですね。



重力と同様、我々は常に「負荷」がある、
それも自ら進んで、重い方を選んでいるんです。



身体が軽いとか、調子が良い時とかは
この「負荷」が取れた状態なんですね。



よく「羽が生えたようだ」と言いますが、
そうではなく、「もともと羽がある」のです。



☞ ☞



「軽率にならず、良く考えろよ」と言われたり
「気合い入れて行こうぜ!」と言われますが、


これは正しい言葉に見える「負荷」です。
僕もたまに言っちゃうんですけどね(笑)



中には毎日気合い入ってる人もいますが、
そこまでのポテンシャルはありません(笑)



だから基本的に省エネ、
大事なポイントだけ集中します。



例えば、僕のエネルギーが100あるとします、
それが緊張した時点では、すでに50消費した状態です。

そうなると全力である100を出しても
最初の状態と比べると、残りは50しかありません。

逆に緩和して20の力でいるとします。
そうなると全力を出した場合、残りは80。



経験上、対象を深める、もしくは高いパフォーマンスを出す場合
その緩急の差が大きければ大きいほど、高くなります。


舞台の本番や営業活動もそうではないでしょうか。
硬直や緊張をすればするほど、上手くいかないものです。

よって「ここだ!」と思った時、いかに集中できるか、
いかにエネルギーを出せるか。



これが僕なりの理想状態です。


野生の動物をみればそんな感じかも。

気合い抜いて良いと思います。
しかも、タイミングや機を逃さない
「最適な状態」に留まるって、以外に難しいんです。


「よっしゃ、やったるぞ!!」という状態は簡単、
だけど数日ですぐ電池切れしちゃう。



だから「ルンルン」くらいの状態を常に維持する。
これも一つの自己管理だと思います。

また、そんなリラックスが理想状態だからこそ、
それがリソースとして再度使えるようになる。



ビジネス風に書くとそんな感じです。



そんなわけで、
今日もルンルンでお仕事します( ´ ▽ ` )ノ


2014/11/04

キラキラした人生

最近「キラキラ女子」という言葉を
耳にしました、遅いですな(笑)



おしゃれで、かっこよくて、お金も持ってて、
セレブ男性たちとの交流にも積極的・・・
そんなイメージのようです。



なるほど。俗に言う
「スーパーマン」ってやつでしょうな。



ただ、みんなスーパーマンに
なりたいんでしょうか?僕には到底無理です。




そういや、それに合わせてこんな記事も
載ってましたね。



アムウェイにキラキラ・ロハス女子が急増中で新たな危険性を指摘する声




若者の「やりがい」を餌にする企業が
最近目立ちますが、結局は同じことでしょう。



ホスピタリティ・やりがい・キラキラ・ありのまま・・・・


もちろん、それは素敵なことですが、
時として、強迫的な原理になってしまいます。



ポジティブは使い手を選ぶ、と。
そんなわけで、今日は加減の定義と組織論について。










ミエミエ


さて、我々はどうしてもモノゴトを
ポジティブに捉えたがる傾向があります。



先ほどの件にしても、都合良く
使われているにも関わらず、



「やりがい」や「利他の精神」を求め、
別に欲しくもないものを追いかけてしまう。



これが、すごくしんどいわけです。
「綺麗でキラキラ」ってやつは
目的として十分だ、と思いがちですが、
そんなわけありません。



そもそも、過剰な正義や純粋や愛の
行き着く先は、めちゃくちゃ硬直化して、
めちゃくちゃ生きずらい世界だと思いませんか?



それを頭の中だけで作ろうと思えば、
人間離れした漫画のようなモデルさえ生まれます。



そこに我々(弱者)全てを同一性として
回収しようという「強者の意図」、


それにもう、いい加減
気づいたらどうですか、と。



☞ ☞ ☞



世界が矛盾を無限に繰り返す以上、
答えは常に手探り。これはもう、どうしようもないこと。



故に「揺らぎ・遊び」を経験しながら
自分という唯我を、独尊に仕立てるもんだと
「僕は」思ってます。


仮に、ポジティブが絶対的なものになれば、
誰も、それに対して異論を出しません。



正義は正しく、利他の奉仕は絶対価値であり、
愛は地球を救う、と。



そして、いったんそれが定義されてしまうと
我々は考えることを放棄してしまうのです。



しかし、意図的に思考停止させる、ってことは
逆を言えば、誰かが思考して「そうさせている」ってこと。


そんなものを持ちだした、全体化である
ナショナリズムなんて、個人化にすぎない。



そこに代替可能な「キラキラ」を出せば、
代替不可能な「苦しさ」は隠れてしまいます。




その結果、「個人の疑問符」は消えることなく、
頭に棲みつく。



つまり共同体内にいながらも
個人はバラバラのまま、ということ。



それって、一人より
さらに孤独になってしまいませんか。




だから僕はSNSの光だけでなく、
同時に影も見るんです。



☞ ☞



昔流行った(今もか)自己啓発だって
出来ない個人の持つ苦しさや葛藤は
置いてきぼりなわけでしょう、



キラキラできない、けど求める。
やりたくない、けど、やらないと自己が保てない。


まさにアンチノミーが起きてるわけです。
そんなものに人を結び付けるような力はありません。



その反動でエゴイスティックな個人が
「変わらない自分」に価値を見出そうとしてますが、



それは、異端・異質・ありのままという
対極に向かっただけであって、同じ環の中にすぎない。




☞ ☞


本来、こういった経験はめんどくさいし
イライラするし、投げ捨てたいものです。



世間が当たり前だと思われていることに
一つ一つクエスチョンを投げ入れ、


そこから妥協点を探し、自己を変容させる。
この変化のプロセスが「自己中心」ですから。

しかし、そこで掴んだものが
本来の「手前(自前)の考え」であって、



自分のものでもあり、他人のもの、といった
主客未分の「慣習」であり、境界線になるわけです。



それこそ、加減でしょう。
「これ以上やったらダメだな」って感覚で分かる、と。




その素材すら持たずすでにある完成品を
丸ごと受け入れるのが、今の流れではないでしょうか。


なるほど、確かに今の若者は
面倒なことに対し、全く興味を持たないけれど、



何らかの共同価値に帰属していないと
「取り残される」とういことだけは感じているようです。


しかし、そこで夢中で掴んだものが、
ナショナリズムならば、元も子もありませんわ。


☞ ☞


我々が、普通に生きて行くならば、
他者の意見を受け入れ、組み入れないといけない。



これが独立(特に講師業)になると
他者の意見を排除する傾向が高まります。



だって、自分が先生になって
その意見を一方通行で聞かせる仕事ですから、



参加者から「その意見はおかしい」
と言われると「だったら来るな」で片付くわけです。



しかし、組織(共同体)で生活すれば
「その意見はおかしい」なんて日常茶飯事です。



故に、場を形成する必要性を
unreveではお伝えしています。




全員が講師業で飯を食うなんてありえない。
故に、共同体・組織論は経営の永遠のテーマなのです。


2014/11/02

場の論理について

現在の経済下で起きている大きな潮流とは「解体と統合」である。
大手を始め、この流れが加速している。


解体とはリストラだけでなく価値の提供システムの機能解体である。
つまり、新しい価値を提供する為に、外部組織と再構築する事だ。


端的に書けばそれは関係性ともいえる。
関係性のベースとなるのは顧客へ「何を提供するか」が共通言語としてなくてはいけない。
この認識なくして解体も結合も成り立たない。


分散型で機能する組織を作ること、いわゆる相似的なアメーバではないだろうか。
各自が独立した機関として繋がる、それは一枚岩ではなく、何重もの層で構成されているようだ。


この分散型組織にとって重要なことは、外部との調和である。
なぜなら自律分散型は、それ自体では提供する価値に限界がある。


よって従来タイプであるヒエラルキー型の組織ではない。
私は従来とは違うその組織を、リゾーム型と呼んでいる。



これは観念・概念的特質から、定型がない。
よって体系化できないというイメージから理想論だと思われがちだ。



しかし本質はここにある。
今回はこの分散型の集団で成功している例をご紹介しよう。



それは指揮者のいないオーケストラとして有名な
「オルフェウス室内管弦楽団」である。


1972年にアメリカで創設され、「音楽界の奇跡」と呼ばれている。
奇跡と書かれると何だか例外みたいに扱われそうだが(笑)


ただ、この例は組織を運営する手法としても経済界でも注目されている、
楽団の名前を取って「オルフェウス・プロセス」と呼ばれている。


日本にもオルフェスと同じ指揮者がいない楽団がある。
東京アカデミーオーケストラ、「TAO(タオ)」である。



これら2つの楽団の共通点は実に興味深い。
なぜなら私のリゾームと(ほぼ)変わらないプロセスだからだ。



それは「リーダー不在」ではない。
むしろどの組織よりもリーダーが多いのである。



例えば対話、指揮者がいない為、全てを全員で話し合っている。
これは私の言う「対話と共創」である。


当初、タオは発言する人としない人が決まっていたらしい。
自分の演奏を棚に上げて他人に意見することに、ためらう人が多かったそうだ。


納得、実に日本的である。
この空気感による役割と責任の押し付けは日本ならではだ。
船頭は一人で言い、この罪的側面が組織では当たり前であった。



そこでタオは演奏だけでなく、運営も入れた表裏両面のマネジメントをそれぞれが担わないと、
結果は伴わないということを体験的に知ったのだ。



それは「同じ景色が見えているかどうか」、それに尽きる。
例えば全員で絵を描くとしよう。それには全員が全体像(完成図)を知らないと何もできない。


自分の与えられた部分だけ塗っても何を作っているのか分からない。
絵なのか、ただの落書きなのかの区別すら付かないだろう。


そこで対話によって共有する部分を増やしたのだ。
泥臭いが王道なしである。


その結果うまくいったか?と言えば、答えはNOであった。


曲の全体像はわかっていても、テンポやコントラストなどの
方向性は共有できない、それは実際に合わせていく過程で分かったという。



結果、始めにそれぞれが思っていたのと違う絵になったのだ。
このプロセスは私も体験している、実にもどかしいし、正直めんどくさい。
しかしタオのメンバーはそれを「そこが面白い」というのだ。


言わばここが文化と経済の決定的な違いである。
ビジネスに置いて、ここは面白さではなく「リスク」なのだ。



しかし、各自が自立した状態で協働すれば、考え方や意見の違いはつきものだ。
それを曖昧にせず、意見を伝え合うことが大切なのだ。



私はそれを「場の創造」と呼んでいる。
見えないし体系化できない「場と空気」、これをデザインする為、
私は哲学を用いているのだ。




さて、次にオルフェウス・プロセスの定義を見てみよう。
ここでは道徳的な「外律」を用いている。


オルフェウス・プロセスの8原則

(1)その仕事をしている人に権限を持たせる
(2)自己責任を負わせる
(3)役割を明確にする
(4)リーダーシップを固定させない
(5)平等なチームワークを育てる
(6)話の聞き方、話し方を学ぶ
(7)コンセンサスを形成する
(8)職務にひたむきに献身する


批判ではないが、経済学という「手法」で体系化すればこうなってしまう。
「在り方」を「やり方」にしてしまうのだ。



権限・責任・役割・変動(固定しないことから)
そして平等・対話・一致(コンセンサス)献身。


これは内部と外部の混合された状態だというのが分かるだろう。
さらに自立と自律ができないと、机上の空論である。



これを帰納法にはできない、責任と権限と役割が伴う以上、
自由ではないし、無私でもない。


これをどこでも使えるようにシンプルに編集する、
これがunreveの意義であり私が回帰した結論でもある。



私がなぜ、教育だけでなくビジネスにも多様性を追及しているのかは、
本質が多様を前提とした統一、西田氏の言う「絶対矛盾的自己同一」から来ている。


生命物理学、清水博氏の著書「生命知としての場の論理」内には
「場の情報は場所を超越的観点から見たときに、自己の中に生成する情報だ」とされている。


超越と聞けば首をかしげるが、つまり質のことである。
量から質へのシフトなのだ。



ただ、これに異論がある人もいるだろう、
「そんなの、結局仕事ができる少数精鋭の集団じゃないか」と。


つまり全員の能力が平均して高いからこそ、実現するのだと言いたいのだろう。
しかし私はこれに異を唱える、そんな単純なものではない。


能力がバラバラである事は、質の悪いリンゴの集まりではない。
リンゴだけでなく、ブドウやミカンやパイナップルの集まりとして捉えるのだ。


現在の人材マネジメントを見れば成果を出すために特化した「足し算教育」である。
リーダーやエリートの育成にばかり目が行き、成果重視である。


それを否定しない、否定しないが積極的に肯定もしない。
意見がないのではなく、それを編集し、日本に馴染ませるのが正しいのだ。


なぜなら我々日本人の多くは強引なことに弱い。
押し付けや強引さは窮屈に感じてしまい、どこか引いてしまう気持ちがあるだろう。


それはこれが我々の特質だからである。
されたら否定するはずが、現在は肯定的態度になっている。
この矛盾点に気づかなくてはいけない。



松岡氏には積極的な引き算という概念がある。
合理主義者の目から見れば、すぐにでも排除すべきものであるが、
その無駄があることで、モノ・コトとしてのありようが安定性、強靭性をそなえるものという定義である。



車のハンドルの「あそび」のように、引くことで本来導き出したいことをより引き出す。
私はこの意見に大いに賛同する。



当然、「あそび」は行き過ぎれば文字通りの「遊び」となる
映画「釣りバカ日誌」みたいにはいかない(笑)



だからこその編集作業だと思い、
私はsv不要、つまり「指揮者不在」というカリキュラムを作っているのである。



それは日本の美徳である。格差はあるが、差あるものを切り捨てない。
それを社会や集団という組織に組み入れていく、という寛容さがある。



現在それは競争原理の為、格差があらわになっている。
原因は男性原理である体制主義や保守、利己的なヒエラルキー構造だからだ。


ひとごと目線では誰もが「なあなあ主義」となる。
それは無縁社会で起こっている解体のような気がする。



解体と統合について書いてたら、いつものようにまとまらなくなってしまった。
言語化とはそんなものだ(笑)

みんなで孤独、何も共有していない者たちの共同体

最近、アルフォン・リンギス氏の著書、
「何も共有していない者たちの共同体」を読み終えたのですが、



心理学的観点から見た他者との関係性と、
哲学的観点から見た他者との関係性の対比は興味深い予測が生まれます。






はい、完全にオタク的な趣味です(笑)







今日は共同体にある社会対人について。
あくまでも個人的な意見です(。・ω・)ノ゙







マサチューセッツ工科大学の教授で臨床心理学者
Sherry Turkle氏は著書「Alone Together」でこう警告しています。




SNSなどのソーシャルテクノロジーが感情的な危険を犯さずに
人とつながることのできる関係を築く手助けをしてくれているようにみえる。



しかし、そんなのは完全な幻想であり、
実際にはより孤独であり、より精神的なプレッシャーを与えている。



また、自ら物理的で雑多な、混沌とした生活から
抜けだそうとすることによって、私たちは外に出て
新しいことに挑戦してみる姿勢を失ってきている、と。





みんなで一人(孤独)という言葉は
なるほど、的を得ていますね。



「みんなぼっち」ということでしょう。
繋がることで、僕らはますます孤独になる。



ちょっと極端かもしれませんが、
大事なのはその「繋がり方」、まさに方法でしょう。



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昔の血縁、地域縁、社会縁の組み合った共同体が
崩壊と言われずいぶん経ち、社会は現在、対人の社会サービス基盤を渇望しています。



関わり方がますます閉鎖的になると、
さらに加速するでしょう。




結局インターネットでは心の隙間、
人と人との「間」は補完してはくれないようです。



つまりツール(枝)であって、基盤(幹)ではない、と。



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今までは道路やらセクターやらの
産業重視の基盤を作ってばかり。



肝心の「対人基盤」を置き去りにし、
目に見えるインフラばかりに目が行ってました。



共同体のシンボルを所有することで人は必然的に満足するだろう、と。




ただ、家を買えば家庭円満にはなりません。
確かな基盤とは、見えないところから派生するのではないでしょうか。




そもそも「関係性」というものは
タダで安心できるものではなくてはならない。




ツールに目を向けても本質は変わらない、
必要なものはそれとは違う場所にある気がするんですね。





時には煩わしくもあるけれど、
安心できる場所。




この「安心感」はお金では買えないものだと思います。