2013/06/25

即非と加減

unreveの間の概念とは
鈴木大拙の言う「即非」に近い。




「どっちつかず」という言葉は
一般的に優柔不断的な意味で使われるが、
即非は、それを「どっちもどっち」を説く。



どっちも自分であり、且つ
どっちもが断定できる自分ではない。



そんな矛盾の統合した理論が
即非なのだが、実はすこぶる日本流なのだ。



例えば「手前」と言う言葉がある。
「手前どもは・・・」という謙った時に使われるが、



喧嘩する時には「テメェ、この野郎」と
立場が逆になってしまう。



「貴様」と言う言葉も思えば変だ。
罵る相手に「あなたさま(貴様)」と書く。



己もそうだし、「ジブン」もそう。
つまり、日本流は主客がコロコロ変わるもの、



否、常に主客を「行き来」するのだ。
これは「I am 」を使う欧米人には分からない。



近代自我は、こういった自己と他者の
「間」という三人称概念から、一人称へのシフトである。



これが対立の根幹であり、多様性を
阻害していることは間違いない。


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加減の定義は即非的である。
対極二項が交わった所に、実体(真理)がある。



人間は善悪の混じった「状態」である。
宗教はそこに、スパッと線を引き、
白黒つけてしまうが、



本来、我々は境界線が実体である。
常に揺れ動き、葛藤する存在なのだ。



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世界は天秤のごとく揺れ動く側面があるが、
面の思考でとらえれば、メビウスの環である。










対立概念は、白と黒のように、別の所に
あるようだが、そうではない。




独善が悪に変わるように、
一極の先に向かうと、クルリと反転する。



つまり二項は同じ環の中にある、と。
ウロボロスの咥えているのは己の尻尾なのだ。





真理は矛盾の中から掴むもの、
いわんや思想をや。



2013/06/09

根幹を成すもの




「報道の自由は、民主主義を支える根幹」。




この「根幹に関わるもの」はよく使われますね。
社会の根幹、国家の根幹に関わるものだ、と。



基礎を成す「柱(屋台骨)」とも言いますし、
それがなければ、我々は飛ぶことも、
降り立つ事もできないことから陸とも言えるでしょう。



つまり秩序を維持する為の基本姿勢が
「根幹」なんですね。









さて、報道の自由が民主主義の根幹である、
という意見は確かにそうでしょう。



言論統制など、民主主義ではない。
当たり前のことです。



ただ、自由それ自体があらゆる根幹だ、
という意見に対しては僕はちょっと疑問が起こります。




時として個人を苦しめるもの。
それが自由でもあります。




「自由にならなければいけない」
と、逆に不自由になってる人もいますからね。



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自由をどこまでも渇望し、
そこへと向かう志向性を保ちながらも、



それと同時に「そうならないだろう」と
諦めを自覚した状態で起こる行為。



見れば、大小の共同体(イエ・ムラ・クニ)は
自然とそんな形に収束されています。



なるほど、それは単なる自由ではなく、
それを諦めた所による放棄でもない。



柳田国男の世間的・社会的自然が
「やさしい束縛」を持っていると
いうのは、まさにこういったことでしょう。



なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。
始めからなぜ自然に抵抗したのかと思った。


彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔の中に、
純一無難に平和な生命を見出した。


その生命の裏にも表にも、欲得はなかった。
自己を圧迫する道徳はなかった。


雲のやうな自由と水の如き自然とがあった。



夏目漱石「それから」より。




それは自然回帰でもなければ、
自然放棄でもない「内部」の状態変化です。




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誰しも主義があり、価値観がある。
それはその人個人の「陸」でもあります。



唯物主義だろうが、現世主義だろうが、
はたまた最近のスピリチュアルに傾倒しようが、



それを徹底するなら、立派な一つの人生。
誰も批判する資格はありません。



ただ、共同体における自然派生は
意識的な「ほどほどの人為的、不自由さ」が含まれます。



しかし、それによって共同体はむしろ
無意識的な秩序が現れる。



その意識こそ、慣習や古くから伝わる
「特定の個人の意思」ではないものであって、





これが日本流の根幹ではないか、と感じています。







2013/06/05

凹と凸



「らしさ」とは気質であったり、価値観、
場合によってはシンボルにもなります。



その「らしさ」とは中間値からの偏在ですが、
これは違いが「良い意味」で認知されるということです。


「この店らしいな」とか、「あの人らしいな」という
「らしさ」。



今日は「僕らしい小話」でも笑



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さて、東洋文化と西洋文化の違いを
動物性文化と植物系文化や
農耕型と狩人型などに分けられていますが、



芳賀綏氏は分かりやすく
「凹型文化と凸型文化」と言っています。



凸型の特徴は攻撃的、支配的な気質とされ、
文化圏はユーラシア大陸、南北アメリカや西欧先進国などがそう。



反面、凹型の文化は共生や共存、調和の気質。
日本や東南アジア、南アフリカなどは凹型の文化のようです。



そう考えるとなるほど、ですな。
日本でも同じような気質に分けれます。



氏によれば、それは環境が
原因で分かれたといいます。



例えば、乾燥した荒れ地に住む凸型の人間にとって、
自然とはまさに人間を苦しめるものだった。



水も不足しているので作物は育たない、
よって、生きて行く為には、牧畜を手段とします。



野生動物を家畜として「支配」し、飼い慣らす。
森を開拓し牧草地にするのも、生きる為の手段だったんですね。



それがやがて国家権力となり市民にまで及び、
「革命」によって、その支配や管理体制に抵抗していった、と。


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では、凹型民族の環境はどうだったかというと、
乾燥のない湿地帯(モンスーン)、つまり水が豊富ということ。



なるほど、植物もよく育つ環境ですね、
農耕が出来たのも雨季があったからこそですね。



よって自然は征服するのではなく、共存対象、
凹型の先祖は、そんな自然の恵みに感謝していたんです。



また、農耕によって自然だけでなく、他人との調和も
大事にされてきました。



その調和は洗練され、空気を読めるようになり、
「察する」という、超能力のような伝心術が生まれたのでしょう。



お互い様、という言葉も共生・共存に欠かせない
潤滑油のような思想は、こういった歴史背景があるんですね。



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さて、そうは言っても良い事ばかりではありません、
共生も行き過ぎれば、当然害悪となります。



例えば農耕は一人では出来ませんので、
従事する個人の「個」を抑えなくてはいけない。



それにより、主体性の欠如や排他的な
性質も生まれたのではないでしょうか。
「和」が「迎合」となることで、粘着的気質となったのです。




このように、歴史は凹凸の主導権争いが繰り返され、
なかなか「□」になることができません。





だからどちらも内包することで「超克する」、
unreveの加減の定義です。