2012/01/20

抑圧作用、魔女狩り反作用

女性にせよ男性にせよ、
親兄弟にせよ恋人にせよ、

何かを抑圧した時点で、それは破壊原理となる。


同じように、抑圧から生まれた社会は、
性質上「はけ口」を求める。


吐き出す事で昇華できればよし、
逆に、できなければ無意識にはけ口を求める。


これは自然の摂理でもある。
一方が受ける力と他方が受ける力は
向きが反対で大きさが等しい。



作用と反作用は必ず釣り合う。
よって抑圧すれば、同量の反発が生まれる。



メカニズムと書くと大げさだが、
感覚や感情はこの「反作用」を抑える事で麻痺していく。


それはやがて、心や体の問題となって現れる。
人によって症例や時期は様々だが、必ず起こる。


つまり、この仕組みを理解しておかないと
「人間関係、社会適応」という言葉によって自己が破壊されてしまうのだ。









この国は堪忍袋という単語があるように、
抑圧の国でもある。



当然、会話の潤滑油として使うなら問題ない、
しかし、納得いかない怒りまで、抑えなくてはいけない訳がない。




そんな事をすれば、内心は
抑圧でパンパンになるのは当然であって、
それは決して「良い人」ではない。



なぜなら、そうやっていると他人にも抑圧を強制し、
やっていない人を見れば、裁こうとしてしまうようになるからだ。



これが複数人集まったのが魔女狩りであり、
ムラ社会であり、全体主義、マクロの抑圧とは閉塞感の源泉である。


☞ ☞



極まり臨界点に達した時、
些細なきっかけがトリガーとなる。



風船を針で「パーン」と破裂させた状態は
理性のコントロールがきかない。



それはキレる、衝動的、ヒステリーである外部と、
鬱、自殺、ノイローゼである内部に分かれるだろう。




この状態にまで抑圧してしまった場合、
我々は逃げる(内部)か、戦う(外部)しか選択肢が見えないのだ。




そうなる前に、ガス抜きをしないといけない。
今すぐ。



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トルストイやガンジーは「非暴力・不服従」求め、
真の勇気とは忍耐から派生するといった。



「右の頬をぶたれたら、左を出せ」と。
しかし私は聖人ではない。反発しないと身も心も持たない。



だから僕は、少なくとも「抑圧」はしたくないし、
それを強制する相手に対しては「反」の立場をとっている。



この原理は子供でも分かるので、
抑圧癖のある方は、少しずつ、やってみてはいかがでしょうか。


2012/01/05

おかげ様、お互い様



「一即一切、一切即一」と言うものがあります。


それは全てが独立して存在しているのではなく
見えないものの「相互作用」によって生まれている、ということ。



個人主義が今の時代、ひとり歩きしていますが、
「全部、自分一人の意志で生きている」わけではありません。





例えば、あなたが地元でカフェをしているとしましょう。
開業3年目、常連さんも増えてきました。




そこで一人のお客さんが来ます。
どうやら初めての様子、



そのお客さんはスーツ姿、会社員のようです。
注文を聞くとアイスコーヒーを頼みました。



外は炎天下、真夏日です。お客さんは
おしぼりで汗を拭きながら、電話しています。



話している言葉は方言なまり、
どうやら出張でこちらに来ている様子。



電話を切ったお客さんはカバンから
手帳を取り出しながら、時間を見ています。


「わかりました、ではここでお待ちしてます」



どうやら、ここを待ち合わせ場所に使うようです。




☞☞




さて、一応この段階くらいにして、
ここからちょっと考察してみましょう。



まず、頭の中でもかまいませんから、
適当にこの辺が売上に「関係ある」と思う所と
売上に「関係ない」ところの「境界線」の部分をイメージしてみて下さい。



問題は正解うんぬんではなく、
どこからどこまでを境界線とするか、です。



境界線のラインは引けましたか?



では、その境界線の内側が売上と「関係ある」で、
外側は「関係ない」ではないということになりますよね。




では、自分の頭の中で、「関係ある」の外側にある
「関係ないもの」を全部取り去って、「完全に無の状態」にしてみて下さい。




例えば、電話もありません。炎天下でもない。
出張でもなく、その他一切のもの(条件)がない、とします。




どうですか?
そこに「アイスコーヒー」というものは「存在」できますか?




当然、それは成立しなくなって、消えてしまいますよね。




では、今度は、取り去ったものを一つずつ、
適当でいいですから、加えて元に戻してみて下さい。



なにか欠けている状態でも成立しますか?
成立しませんよね。



つまり、単体だけを加えたとしても
その「アイスコーヒー」は存在しないのです。




☞☞




あなたの頭の中で想定した内側と外側は
「複雑に入り組んでいた」のではありませんか?



そして、その「入り組み方」というものは、
無限に変化している(可能性があった)と言えませんか?



待ち合わせの相手のお腹が空いてたら
違う場所になってたでしょうし、



炎天下でなければ店に入らなかったかもしれません。




つまり、無限ともえいえる複雑構造によって、
「アイスコーヒーの売り上げ」は存在しているのです。



それだけではありません。
その提供したアイスコーヒー一杯にしても
たくさんの見えない人達が絡んでいます。



コーヒー豆を作る人、パッケージする人、
コップを作る人、それを販売する人・・・・



たった一つの出来事でも、このような条件が
無数に組み合わさって生成されている。



世の中に当たり前、というものは存在しないんですね。




これが「一即一切、一切即一」で、
そこから派生したのが、おかげ様、お互い様、と言う事です。




2012/01/03

経済道徳合一説



先日は世阿弥について書きましたが、
今日は日本資本主義の父と言われた
渋沢栄一氏をご紹介したいと思います。



日本流の事業を語る際、
この方抜きには語れません。






日本で初めて株式会社を作った渋沢氏は
現在のみずほ銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、
王子製紙、キリンビール、理化学研究所など、
約500社以上の企業設立に関わり、P・ドラッカーも氏を称賛しています。



そんな渋沢氏の生家である渋沢家は、
藍玉の製造販売と養蚕を兼営しながら
米、麦、野菜の生産も手がけるという半農半商
(と言うより、豪農豪商)でした。氏の父親は
教育に熱心だったことから栄一氏は幼少から
論語などの中国古典を学んでいたのですが
同時に商売も早くからやっていて大人顔負けの商才を発揮していました。


なるほど。小さいころから哲学(学問)と
商売の知識を同時に詰め込んでいたんですね。
それが後に「論語と算盤」の基礎となったのでしょう。


☞☞


やがて尊王攘夷に参加した渋沢氏は
紆余曲折を経て京都で幕臣となり、
「農業・哲学・経済・政治」という様々な
経験をもとに「和魂漢才」を編集させた
「士魂商才」の思想を生み出します。


それは「論語とソロバン」という矛盾した
存在を合一化するというもの。端的に言えば
武士の精神と商人の才能を兼備することです。


商売は多くの人に利益をもたらす営みであって
読み書きそろばんだけを学んでいた商人に対し、
自己本位の儲け主義に走ってはならない、と諭したんですね。


それが経済を発展させ、利益を独占するのではなく、
富は全体を豊かにする為に共有するものとして還元する
「経済道徳合一説」です。


論語と算盤/国書刊行
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現在、この国の成長政策と言えば金融や
財政、規制緩和ですが渋沢氏からすればそれは
「ソロバン」だけの話であって片手落ちなんですね。


現在行っている政策も数字だけの戦略、
GNIが増えれば消費も増える、法人税を下げれば
会社はそれを給与に回すという単純な計算でしょう
そもそもGNI(国民総所得)と給与を一緒くたに
する事自体的外れです。※日本の法人は約260万社中、約8割(200万社)は赤字ですから。


それでも「彼らは」ラーメン好きな人の
給料が2倍になったら2倍食べるだろう、と思ってる。


ビール好きな人は2倍飲み、
パスタ好きな人は2倍食べ、
3倍上がれば3倍飲み食いする、と。


んなアホな事はありませんよね。






戦前・戦後の時代を知る経営者は
一度は捨てそうになった人生を取り戻した
経験からか、自らを無にして本能に
大事な事が何か冷静に判断できる強みを感じます。



「幾たびか辛酸をへて志はじめて堅し」



そんな経験は、今の豊かな時代では
なかなか得難いものですが、unreveは
それを復活させたいと思っています。



懐古論ではなく、新しい価値を伴わせながら。





人生の行路は様々、
時に善人が悪人に負けたように見えることもあるが、

長い間の善悪の差は確然とつくものである