2012/11/20

道化のいる場所




文化人類学者である山口昌男は文化構造について
「道化論」という概念を提唱しました。


「道化」とは神話において、神や王のような
絶対者の言葉をひっくり返す異質な存在、
混沌と秩序の境界を明確に劃するものであり
自由の境界線にいるトリックスターとも言えます。


内部と外部が反転する「どちらでもない場所」に存在し、
秩序(外部)の中に潜む痴愚性や、愚かな現実性を露わにするもの。



だからでしょうか、道化であるジョーカーは
カードゲームでは「最強」でありながら
「最悪」の役割を持っています。


ピカソが道化師を好んで描いたていたのは、
なにかしら共感するものがあったのかもしれません。







世界で対立する二項には道化の位置、
境界線が必ずある、個人的にそう思ってます。
そのどちらにも属さない仲介者である
「異質者」が存在し、二項を調和・統合しているのだ、と。



N極とS極を分ける「あいだ」しかり。
「N極」のアイデンティティが確認されるためには
「S極」が必要であり、「N極とS極」の
仲介者である「境界線」はどちらにも属さない異質、


道化は極端を嫌う。



いとも容易く、ひっくり返す。



不思議な現象ですが、多分にそういう原理なんでしょう。



✍✍✍


我々は生きている以上、必ず他者(彼ら)と出会います。
同化する為ではなく、他者との差異を知り、調和する為に。



そんな多義と一義は表裏一体、切り離せないもの、
かのチャップリンは、笑いと哀しみは表裏一体、
分かち難いものであることを演じました。




もしかすると彼は「境界線」を演じていたのかもしれませんね。




2012/11/13

両成敗



運命と宿命、偶然と必然。
長い事生きていると、上記について考える事はよくある。



ライプニッツは可能世界において
根拠律(必然性)と矛盾律(偶然性)を分けて考え、
カントはそれは理性では解けないアンチノミーとした。


さて、あなたはどちらを信じるだろうか。



例えば、男性と女性が互いに惹かれ、愛情を持つ、
というものは、自然の必然的法則である。



しかし、どの男性とどの女性が巡り合うかということは、
運命的出会いという表現があるように、自然の偶然的法則である。



よって、自然の必然性は内的に偶然性が含まれる。
我々が何を選ぶかは、まさに我々に委ねられるが、
運ばれてくるもの自体には委ねるしかない。



このことから、科学が森羅万象を
完全に予知する時代は決して訪れないと断言できる。



逆に科学が進歩すればするほど、驚きや賛嘆、
さらには畏怖としての「生命の神秘」を覚えるだろう。



今日はたまたま、そんな小話をしようか、と(笑)






☞☞






さて、西洋の自我はものごとを判断するとき
「どっちか一方を選ぶ」傾向がある。



西洋宗教はそこから絶対性、必然性を目指した。
それが唯一無二の一神教、である。



例えば、キリスト、イスラムなどの一神教において、
我々人間の本性は「悪」である、と定義される。



なるほど、悪であるから善いことをしなければ
我々迷える子羊は天国には行けないとする教義と、



善い行いをしようがしまいが、神によって天へ行けるものは
すでに決まっている、という教義がある。



まあ、いずれにしても人間の本性は
前提条件では悪である、ということだ。



よって、聖書の御言葉に従うのみ、
そんな完全な外律型が西洋宗教の特徴だといえよう。



つまり絶対(悪))から絶対(善)へのシフトが
神を信仰することにより、可能となるのだ。




こういった原理主義は理性を外部に委ねているため、
いち人間の説得なんて、通用しない。



逆を言えば、だからこそ大義名分が成り立つのだ。
まさに蛙を睨む蛇のごとく、である。


現在、「この国の為」という幻想によって
ありえない大義が発動されているのだが、


これでは原理主義と全く変わらないのではないだろうか。





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話は逸れたが、西洋のそれと比べ、
日本の精神性はそれとはちょっと異なる。



それは対立二項のどちらか一方を選択するのではなく、
矛盾したそれを統一しようとする超克的意識である。



曖昧な態度とは、こういった精神性の
発達が未熟な状態とも言えるが、特質なのだ。



自分だけでなく他人も含めた「どっちも」を選ぶ、
人間の意味は「ヒューマン(人)」ではなく、世間である。


つまり我だけではなく非我への配慮があるのだ。
これはこの国ならではの「美点」であろう。



例えばあの大震災において、
暴動や略奪はほとんど起きなかった。




海外メディアは賞賛しているのだが、
当の日本人からすれば、ごく自然な「行為」である。



そしてこれが加減を間違えると
個人を認めないムラ社会となり「汚点」となるのだが、



本来、この国は個人と集団を両立できる
一段高い精神性を持っているのを忘れてはいけない。



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近江商人の3方良ししかり、お互い様の精神しかり、
また、日本には室町時代に作られた「喧嘩両成敗式目」がある。



両成敗とはつまり「争う」という事自体をやった以上、
互いの言い分はどうあれ、どちらもルール違反とみなされる。


今のガザ地区のような復讐の連鎖は
この制度からすれば、お互いが悪だ、と言う事だ。


当然、不公平になる場合もあるし
先に手を出した方が悪い、という場合もあるが、



我々の本質は清濁併吞、善悪は揺れ動くものである。
その善悪の境界線は、常に必然と偶然によって変動する以上、


場合によっては立場が逆になる場合だってある。
これを仏教では「縁起」・「因縁」と呼んだ。



何が起こるか分からないが、そこから何かを成すのだ。



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過去の慣習法によって身に付いた必然性は
ホメオスターシス的な恒常性を持ち、マスキングされ、アドレスを持つ。



世界はそんな「必然的」による選択と、
そのアドレスから派生した主観によって構築される。


言うまでもなく、現実とは選択の連続である。
我々は選択と対応によって現実(運命)を作り上げている。



宗教の説くように宿命的な流れにただ流されているのではなく、
その流れから、能動的に、主体的に対応しているのだ。




何処からともなくやって来る偶然的現実(実在)に対し、
我々がそれを必然的現実に再変換していると言える。


働く意味はあるのか?


最近、ネットで炎上するのは
多様化に伴い、共感力が足りないからと言われます。



共感できない相手を攻撃しないと、
自己のアイデンティティが保てないのだ、と。
時代・性別を超えた共通テキストの不在、とでも
言うべきものでしょうか。



でも、それがないのは昔からですよね
「近頃の若者は・・・」というのは今も昔も使ってますわ(笑)



イデオロギーから自由になりつつある現代、
そんな所から、今日は労働と共感についての小話を。



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さて、フリーター増加が社会問題となり、
「働くことの意味がわからない」という悩みを抱えた人が増えました。



現在の「働く意味」というものは、多分に
順調に働いている人だけしか分からない。



言わば成功している時にしか、
その意味は通用しないのではないでしょうか。



なぜなら現在の労働とは
不自由で不寛容なものが多いですからね。



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一説では、働くことの本質は
「贈与すること」だともいわれます。



それが仕組みとして稼働してないから
現在はボランティアとしてみなされてるのだけれど、
これで共同体が成立するなら最高じゃないですか。



個人的に、人間は本来優しく、
相手の幸せを願う気持ちを無条件に備えていると思うんです。







結婚式に出席した方なら分かるでしょうが、
あの場は全員が幸せです。



結婚するのは友人や知人であり、
自分の幸せには全く、関与していませんが、



「あなたが幸せなのは、私達にとっても幸せ」という、
原理的に解けない場が、そこには発生していますよね^^



もちろん、人間は営利や損得によって
社会が形成されたのは構成要因としては間違いない。



しかし、その根底にはこういった
「無条件に相手の幸せを願う心」があったはず。



そして、これが共同体を結びつけるものであった、と
個人的に思っています。



「働くことの意味がわからない」という悩みは、
もしかすると、こういったものが失われているからかもしれませんね。




2012/11/12

加速する現代を眺める

年を取ると時の流れは早い、
とくに現代の社会ではことさら早く感じる。



社会人となって仕事をしている方も同じ気持ちだろう。
「もう?」と言いたいくらい、一年は過ぎる。




それは仕事というものが「未来予測」に基づいているからかもしれない。


以前、プロジェクトの語源が「前方へ投げる」という意味だと記事に書いた。
しかし、考えてみればビジネスそのものが前方である「プロ」で作られている。


例えば商売においては購買の見込みを予測する。
この「見込み」とはプロスペクトだ。


そして見込みに対し、計画する。
計画はそう、プロジェクトである。


販促するのはプロモーションであり、生産することはプロデュース、
そして契約とは約束、プロミスである。


結果、利益(プロフィット)が生まれ、
企業はさらなる進展(プログレス)をする。



商売の一連の流れを西洋の言葉で訳せば、
なるほど、仕事とはまさにプロプロプロ。
「前へ前へ」の時間に支配された連続行為であることが分かる。



文明は前進することで飛躍的に進化した。
ただ、前向きと「待てない事」は同じではない。



しかし前のめりな「プロ」は待つことを拒絶する。
現代人は、「待てない病」になりがちだ。



コマーシャルなんて見てられない、
手紙から携帯メールになり、
さらにレスポンスの早いLINEが浸透している。



これらはそこまで影響は(今のところ)ないが、
深刻なケースもある、それは「子育て」である。



今は待てないのか何なのか、子供がちょっとでも親が思うイメージと
異なった行動をしただけで、恐ろしく過敏になってしまってる。



すぐに育児書やらなんやらを持ち出して軌道修正に入ろうとする。
さらには「前もって」予想できるように、先に手を打つ始末である。



不安前提、これでは先に神経がまいってしまう。
これも以前書いたように、子供とは本来自然であるからコントロールできない。



だからといって「0・100思想」で在りのままに育てても上手く行かない。
子供は宝であるが、王様ではない、ここを勘違いしてはいけない。



子供であれ大人であれ、人間の本質は同じだ。
色んな場面にぶつかった結果、考え、学び、育つ。



これが待てないのだ。
予想できないものに対し、楽しみに待てないのだ。




待てない社会は必然的に
「待ってくれない社会」を引っ張ってくるのだが、




マイペースな僕からすれば、
これがどうにも息苦しく感じてしまう。




個人的に「プロ」以外のビジネス用語で
やっていける社会が望ましい。







根幹を変えよう






さて、リゾームを構築するには理念は必須ですが、
その理念は絶対命法でこそあるけれど、



内部派生である以上、教義化した時点で
閉鎖的な組織構造を作ってしまいます。




教義化すれば、必然的に純血主義となります。
それがもたらす閉鎖性はトレードオフとなる。



もっと閉じたり開いたりするには
どうしたら良いか。




例えば、アレグザンダーのセミラティス構造の
パターン数は実に253、だからこそ
ナラティブ構造であるといえるのですが、




この微妙なサジ加減を知ること、
やはり個人のバランス加減が大事なんでしょうね。



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数年前、理念を愚直に守らせている
管理職がいる現場を見たことがありますが、
ちょっと異様なものを感じたのです。



それは均質性というか、同質性というか、
まるで、恣意的な「一枚岩」のようにも見えました。




その現場には、なんというか
「楽しさ」を感じることができなかった。



楽しさというと誤解がありますが、
言わば、個人の積極的な「意思」です。



それは管理・抑圧されればされるほど、
得難いものだな、とその時に感じたんですね。







レールを敷いて、「さあ、自由に走って下さい」
というのは自由ではありません。



なぜならそれは、レールという条件があって
初めて意味を成しているのに過ぎないからです。



その背景には、相変わらずの排除の理論があり、
全体主義があり、画一化の意図が感じられます。



まず、この大前提・本音の部分を破壊しなくては
真の意味で多様な組織は作ることができない。



現在、それが破壊できないからこそ、
組織は変化と固定のジレンマに陥っているのであって、




ここをいかに変えるか?というと
やはり理念の共有になる、と。



つまり厳密的・原理的・純血主義的な
ものにしない為にやるべきことは、




理念ではなく、その対象を見ている
「あなたのフィルター」の認識なのです。





長くなったので続きます。



2012/11/11

習い・稽古・工夫

暗黙知についての考察。


実際の所、形式化できない部分である「暗黙知」を
言葉で表現するのは、大変難しい。


なぜなら、それを5感覚で認識・判断し、行動するまでの
理論体系を表現する為には言葉による論理では非常に甘く、


さらにその認識には、事実から乖離した各人の思い込みや
バイアスが大小差はあれ、多少なりとも含まれているからです。


そもそも実際に起きている事実をそっくりそのまま
言語化し、記述すること自体が不可能であるのは言うまでもありません。


それをいかに伝えるか、
歴史上の「求道者」を紐解けば、その知の結晶を借りる事ができます。



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新陰流では形(型)の事を「勢法」というそうです、
つまり、形稽古と呼ばれるものは、「かたち」自体を学ぶのではなく、
その動きの中にある武術の理論を学ぶ方法だというのです。 


「形」をひたすら稽古する事で動きの本質を学び、
それを習得し、最終的には自由・自在に動ける身体を追求する、


まさに「守破離」の精神ですね、
あらゆる道において、最終的な到着点は「自由」なのでしょう。



勢法にもう少し触れますと、そこには心身の姿勢「身構え」や
手足の働きを練る事「手足」、


そして太刀筋を使い覚える事「太刀」の三点に重きを置き、
勢法を実践することで、間積り・拍子を体で覚えます。


それは言わば「感覚的な心持ち」を経験する事であり、
日々の「習い・稽古・工夫」は欠かせないのはその為です。


最終的に「自分の技が絶対に正しい」と思えるまで・・・・。
そこへ至るにはやはり、実践による経験則が必要なのでしょう。


つまり端的に語る事が不可能な働きである以上、
観念のうちにあるのではなく、行為そのものの中から掴むのです。


☞ ☞ ☞



摂理と書くと大げさでしょうが、
(彼らは)その自然の摂理に従うことを目指したように感じます。


それは、生存価値の善悪や正誤に左右されるものではなく、
その価値は、続けること自体にある。


また、見えないそれら「心の型枠」を
ギリギリまで論理的に表し、示すことが
暗黙知を見つめる人の役割かもしれませんね。



これも偏に心の時代だからこそ・・・
オタクならではの楽しみでもあります^^



2012/11/07

In-der-Welt-sein

こんばんわ、unreveの坂口です。
今日はそんな趣味の分野から一冊、
ハイデガーについて書いてみます。



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人間は、楽しいことや、嬉しい事が
ずーっと続いていたとしても「なんとなくの不安」を抱えています。


インナーチャイルドを癒そうと、
豊かでワクワクで素敵なパートナーがいて
好きな仕事で成功している人生であろうとも、です。


それはなぜでしょう。
そんな「何となくの不安」を考えた哲学者が、
マルティン・ハイデガーです。








死へむかって開かれた自由のみが、 
現存在に端的な目標を与える 




ハイデガーの未完の著「存在と時間」の一説、
これは我々がどうやって本来的な生に立ち戻り、
人生を送れるかについて書かれています。
(実際はもっとたくさんありますが、省略して・・・)



「いつかは死ぬだろうが、それは明日ではない」
そんな気持ちで、私達は生きています。
これが何となくの不安の正体なんですね。



慢性的な不安は、死を直視していないから
起こっているのです。



不思議だと思いませんか。
 「死」は全ての生物に必ず訪れるもの、
この世界で唯一、絶対と呼べるものですが、


それを我々は考えているのを日々、
避けているのですから。



☞☞


確かに「それを考えてどうなるの?」と
言いたくもありますし、 そもそも
「どうやって考えるの?」という気持ちもあるでしょう。



しかし、それをやって初めて、
人間は孤独であり、 同時に
自由でもあることを知ることができるのです。



「死にむかって開かれた自由」、
まさにそれを 認識することで、我々は
世俗的な気遣いや苦労から解放され、


 「私はこの人生を使い、何を成すべきか」を
 自分自身によって委ねられる。



それこそが本来的な生き方であり、
可能性が開かれた世界だ、というのです。


それを端的に書けば、
人生という映画の役者から逃げられない
人間の宿命そのものを俯瞰し、裸の自己と出会うもの。



我々人間が、投げ出されている存在(形式的指標)であり、
それだけが存在(ある)しているのだ、という視点の変化です。


調和と同一の違い

人類学とは他者性を自己に取り込む学問、
言わば「出会いの学問」と言える。


自然人類学を始め、文化・言語・社会・宗教・経済と
様々な生態の角度から自己を刷新する学問だろう。



それは哲学が受け持つ存在性の探求などとは違った意味での
ラディカルなポピュリズムを知ることができる。


個人の自由と、それを抑える社会性との葛藤、
権威による抵抗や二項対立を中和・統一する「ナニカ」。



それはベルクソンの「笑い」や、
今年亡くなった山口昌男の「道化」として表現された。



閉ざされた集団による「笑い」には、他者への優越性が内包され、
道化は笑いによって日常の秩序から抜け出す役目を果す。



つまり内部と外部が反転する境界線であり、
秩序(外部)の中に潜む痴愚性、その愚かな現実性をあらわにするのだ。



それはひとえに「機械的役割」なのだろうか。



サーカス芸人であるピエロは、生涯をさまよい、旅を続ける。
土地に縛られない自由人である。



冷徹な批判者であり自由の境界線にいるトリックスター、
大きな権力(秩序)に向かい、敗北しながらも笑いを求める。



神や王のような絶対者の言葉をひっくり返す異質な存在だ。
パブロ・ピカソが道化師を描いたていたのは、
なにかしら共感するものがあったのだろう。






さて、個人的には「二項対立」と無縁になりつつある、
二項同士の「反」の先には何も見つからないと分かったのだ。



「我ら」のアイデンティティが確認されるためには
「彼ら」は必要であり、



「我らと彼ら」の仲介者である「ナニカ」が
どちらにも属さない異質であるのは当然のことなのだ。



相手を責める、他者の意見を持論でひっくり返す。
これは正しさの戦いでありミクロ的な宗教の始まりである。



同じ意見を集め、共感し合う。とても大事な事だが、
個人の主観(我ら)である以上、必ず宗教的な要素を含んでいる。



私は共感や繋がりは必要であるが、
主観に対する完全な一致は不可能であり誤りだと思っている。



中心における「秩序」は「排除の原則」の上に成り立つ。
よって強烈な共感には危険な思想を孕んでいるのだが、
それが一番共同体を強く結びつけるものでもある。



その両義性、混沌と秩序の境界を明確に劃する異人が道化なのだ。
チャップリンは笑いと哀しみは表裏一体、分かち難いものであることを演じた。



我々は生きている以上、必ず他者(彼ら)と出会う。
同化する為ではなく、他者との差異を知り、調和する為に。



なぜなら「我らと彼ら」は切り離せないのだ。


☞ ☞ ☞

100年続く企業はある、200年続いている企業もあるだろう。
しかしさらに長い間、例えば1000年続いている共同体はあるだろうか?


西洋ではそれが「宗教」にあたる。
宗教は共同体を永続させる「システム」でもあるのだ。



しかし宗教は共同体の差異を認めない。
その絶対的な基準を共有する事によって、同化させる。



ただ、人間は絶対的な良識・道徳・正義を必要としてはいるが、
それに従うことをも拒むようにできている。



多様と一義、我々はどちらにも染まれないのだ。



では、宗教以外で千年続くような共同体は存在しないのだろうか。
否、調べればここ日本にはあるのだ。



大阪の宮大工である金剛組(578年創業)
池坊華道会(生花教授・京都府・587年創業)、



他にも旅館を経営する西山温泉慶雲舘や古まん、
善吾楼などは全て創業以来、千年を超える。



金剛組の578年創業なんて、今から1400年以上前。
古墳時代の創業だ。



世界最古の企業は全てこの日本にある、
これは誇れる部分ではないだろうか。



☞ ☞ ☞



この国の仕事には神道的な精神性がある、
それは中空構造であり「我ら」も「彼ら」もない。



論理的整合性ではなく、美的な調和感覚。
無為の中空とはどちらにも属さず、異質なのだ。



第三者がいるだけで、二者の関係は相対的となる。
それは世界の監視者であり、変化のバランスを受け持っている。



そのフラクタル構造を模したのがunreveの三位一体構造だ。



☞ ☞ ☞


継承とは拡大ではない。
また、宗教や思想のように絶対性を繋げるものではない。



私のフランチャイズは和魂を継承する事、
ここが他社と大きく違う部分だ。

2012/11/06

濃霧と無風

どれだったか忘れましたが、
以前読んだ本の中にこんな言葉がありました。



「船乗りは暴風や時化(しけ)を怖がってたら三流だ」


「じゃあ、一流の船乗りが一番恐れるものってのは何だい?」



「決まってるだろ、それはな・・・・濃霧と無風だ」



うろ覚えですが、確かそんな内容でした。








例えば、北の海の濃霧での航海は
氷山や流氷に衝突する危険があります。


また、無風海域に迷いこめば、船自体が動きませんので
照りつける日差しにやられ、干からびてしまいます。


これが航海時代、もっとも恐れていたものです。
今でこそ、レーダーや蒸気船の開発でその危険は克服されましたが、



経営において、この「不透明と無流動」を
克服できていない所が多いのではないでしょうか。


テーマに書いた一番怖いもの、
それは経営の「濃霧と無風状態」です。



☞ ☞ ☞



ある意味、物価の乱高下や同じサービスの増加は
嵐や時化のようなものです。



それよりも、見通しが立たない「不透明」さと、
それに伴う売買の先細りといった「無流動」は始末が悪いもの。



何だか知らぬ間に、徐々に売上が落ちている。
なぜだろう、理由が分からない。



理由が分からないから手を打てない、
仮に手を打とうとしても徒手空拳で推進力がない。


経営には先を見通すレーダーもなければ、
お店が勝手にお客を連れてくるような蒸気機関もないのです。



☞ ☞ ☞



地方の商店街の多くは無流動化から抜け出せません。
シャッター通りが増え、新しい店舗が入らず、
入ったとしても、人の流れ自体がない。



そこには先を読み、明確なビジョンを見せる人がいません、
「不透明性」だからこそ、流動が起きないのです。




成熟期に当たる今の経済社会を巧みに生きるには
まず成熟社会がどんなものか、美化も卑下もなく知っておく必要がありますね。



2012/11/05

自己組織化と散逸構造





エントロピー増大則とは、世界は常に秩序から
混沌に向かっており、新しい秩序は生まれないといったもの。



ただそうなると、世界は常に壊れ続けるだけであり
宇宙すべての秩序はいつか消滅し、無意味世界となるだろう。



「世界(宇宙)はやがて静止する運命なのだろうか・・・?」



それに異を唱えたのが科学者である
イリヤ・プリゴジンである。



氏は「逆エントロピー」である無秩序から
秩序の事象転換が生じるという非平衡熱力学を提唱した。



無秩序(カオス)状態では決定論でない
選択が無限に連鎖することで、外部へエントロピ-を
流出させ、もう一つの秩序を作りだすことができる、と。



氏は、その構造を内部でエネルギーを
消費(散逸)させることから散逸構造論と名付けた。



この革命的な発見により、
宇宙は無秩序の海にならないという事が分かったのだ。



☞☞☞



ちなみに散逸構造では超局所的に小さな秩序を作る
可能性となる「ゆらぎ」が起こるという。



一見、その小さなゆらぎはほんの僅かな影響だが
「確実に」周囲に影響を及ぼすことができるのだ。



その小さな影響は、さらに周囲に影響を与え、
それがまた影響を与え・・・・と、連鎖的な反応を起こし、



そんな僅かな秩序を中心とした波及が
全体の構造に影響を与え、さらにその影響された周囲は、
中心である「最初の秩序」を強化するように働く。



これが「ポジティブ・フィードバックによる自己組織化」、
突如として大きな秩序が生まれる前には
小さな「変異」が生まれている、ということだろう。



これはミクロの世界においても
同じ現象になるのではないだろうか。
(塩沢由典氏も経済は散逸構造だと言っている)





最初は小さな産声かもしれないけれど、
それが時代の舵を切る可能性かもしれないのだ。