2013/03/31

夜桜あはれ

「さまざまのこと思ひ出す桜かな」
かの有名な芭蕉の句です。



この間、ちょうどオフの日が
一心行の桜の満開日だと言う事で、熊本まで見に行きました^^










日本は古来より、桜を観賞するのを好みます、
遡れば万葉集や日本書紀にも桜は特別なものだったようですね。



つまり1000年以上も前から、桜は美の極みとして
それぞれの時代の人々を魅了してきたのですが、



その魅力とは桜の持つ、その儚さと潔さにあるのではないでしょうか。


満開と同時にサッと散っていき、来年にはまた新しい花を咲かせる、



そんな「無常観」は日本が持つ独自の美意識に通じていると思ってます。



西洋は「永遠」を追求するその姿勢に美を感じますが、
この国は逆に、移ろいゆくものに美を感じます。


この世に永遠なんてものは存在せず、
光と影は常に寄り添い、変化しているのだと
無意識的に感じているのでしょう。


小林秀雄は「世界は進化しているのではなく変化しているのだ」
と言いましたが、確かにそうかもしれませんね。



☞☞


小林秀雄が晩年まで没頭した、
本居宣長の思想「もののあはれ」の「あはれ」は、
哀れではなく深く心に感じる言葉、



喜びだけでなく悲しみもある、
まさに奥底の感情全てが含まれているのです



それは我々の感覚より先行して存在している、「ナニカ」から派生しているんでしょうね。



20代の頃には全く分からなかったものが
最近分かってくる・・・いやはや、年を取った証拠です笑



2013/03/20

行動と行為の違い②

こんばんわ、坂口です。
前回に続き、2回目です。




さて、これはビジネスだけに限らず、
人間のあらゆる活動原理に当てはまると思っています。



結婚を焦っていないけど、周りから言われ婚活する、
テストで良い点を取らないと怒られるので勉強する、



仲間外れにならないように、FBで「いいね」を押す、
書きたくない内容だけど、集客の為にブログを書く、


誘われたから行きたくないセミナーに通う、
読みたくない本を読む・・・etc



これらの行動原理はある種の破壊性を伴います。
結果を求めるあまり、あなたの「感応」を抑圧・否定しているんですね。



肯定(自覚)ありきの破壊なら問題ないのですが、
否定ありきの破壊であれば、それは無意識の抑圧となる。



例えば、遅刻癖のある人の言い訳は芸術的ですよね(笑)
同じように、ビックリする所から「やれない材料」を見つけ出します。



これは自分の「根っこ」が否定しているんです。
この状態でやっても、無理してますからどうせ続きません。



やりたくない」事を無理矢理「やっている」と、
こういった慢性的な不安から抜け出せなくなります。



一度「根こそぎ」リセット(破壊)するか、
本来のやりたい事に回帰(創造)するか、どちらかしかないんですな。




こいうったありのままの「感応行為」を目的としたものが
リゾーム派生概念でもあります。


リゾームの意味って「根っこ」ですからね。




☞ ☞




行為とは感応によるものです。
やりたいからやる。これだけです。



そこには善も悪もないし、打算や損得感情もない。
他人の目も気にならないし、評価も必要ない。
未来の不安もないし、過去からの執着もない。



さらに言えば、利他的な「与える」と言う概念すら、ない。


そもそも、与える、受け取るというのは、
本質的に奪うことと、同じ環の中にあります。



人間だれもがサイババのように、
0から無限に作り出せる能力がある(?)なら話は別ですが、




あらゆるものは循環形態を取っていて、
取る、取られるを繰り返していますので、次元は同じ、



ただ、その方向が変わってるだけです。




反面、感応行為とは瞬間から瞬間へと
自然に湧き出て来るものです。




そんな現瞬間(今ここ)に対する感応行為は創造的です、
直感(ピンときたら動く)、感じるままに反応する。



それで上手く行かなくても、
好きでやってるから、結果なんて関係ないんですね。



感応で動いている人を他人が見れば
すごい「努力している」ように映るのですが、
実際本人からしてみれば、まったく苦ではない。



そんな目指すものではなく、達成するものでもない
ありのままの状態へと「戻す」。



当然、ビジネスでは営利(リスク)が含まれますから、
幼稚園のような「遊び」にならない(あそび≠遊び)ような場を作る、




脱マネジメントという加減の定義を持ってきているのは
こういった理由からです。



☞ ☞



長くなりましたね、
そろそろまとめます。




というわけで、
誰もが感応的自由のもとに生まれにもかかわらず、
束縛の中で死んで行きます。




社会性が入り込んで来た時点で、
規則やルールや掟や道徳という「外律」が作られるからです。



それに雁字搦めになってしまう前に、
心の声を取り戻すのが、リゾームの概念です。




最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
何かの役に立てれば、幸いです^^


2013/03/19

リゾーム派生 方法序説「理」


フランチャイズを始め、何か物事をスタートする時は
なんでもそうなんですが、大事なのは正しい軸を作り、
あとはそれをひたすら肯定することです。





一番ダメなのは、コロコロ変わる無難な答え。
経験上、ほとんどの確率で断念します。





そもそも、否定や批判は誰でも出来ます。
不安の材料なんて、そこらじゅうに転がっているのですから。







反面、肯定は違います。
本質を知らなければできません。





だから100人中99人が反対や否定する中で、
本質を知っている人だけが肯定できるのです。





自分にも、他人にも、ビジネスにも・・・







週末なので、今日はマニアックな
日本流フランチャイズ方法序説「理」について。





☞ ☞ ☞









さて、僕の提唱する方法序説なんですが、
特に大事にしているが、度々書いている理念(軸)です。









理念の主軸は、縦軸と横軸、対立する二項を
回帰(メグリ)することによって、作りだすもの。





ちなみに、これは古神道では
三十字の理と、言われます。







オカルトみたいですか(笑)
まあ、気にせず進みます。







この理とは、男(縦軸)と女(横軸)によって
子(産土力)が生まれるように、陰陽の対極の
組み合わせがエネルギーを生み出す原理です。





この理、日常を見れば、
たくさんあるのが分かります。







例えば、有機物である「お米」を
無機物である「お椀」に入れますよね。







この状態で陰陽(プラスとマイナス)の組み合わせが生まれ、
中にあるものは「中性」状態になる、と言われます。







中性とは、純粋なエネルギーです、
食べ物は器に入れると美味しく感じるのではなく、
実際、美味しいんですよ。




☞ ☞





話を戻します。
unreveの主軸(理念)の構成とは、
こういった意味の対立二項の統合です。







ここで多くの人が「一面」だけしか見ようとしません。
頭のどこかに「もう一つの面」を出さずに、隠しているのです。







人によって「プラス面(自己抑圧)」だったり
「マイナス面(自己欺瞞)」だったりするのですが、





それが「本当の自分(本質的な正しさ)」だと
思っているんですね。





しかし、それは勘違い、
ありのままの本質とは、「両面」の先にあります。





☞ ☞



その「ありのまま」の認識をするのを
「ゲシュタルト」と言います。





これはよく騙し絵で例えられるんですが、
我々は、2つを同時に捉えることができないのです。





有名な「ルビンの壷」、この絵は壷でもあり、
顔でもあるのですが、同時には見れません。












それは、見えないもう一つが「ない」というわけではなく、
見方によって「ない」が「ある」に「成る」のです。





ゲシュタルト(全体性の統合)はこのプロセス。
全体像として認識する、ということです。





この世界だって、安定しているように見えますが、
実際は観察によって日々「決定されている」とも言えます。





これは我々が「観察者」だからこそ、分かるもの。
主軸とは、この観察者(メタ)視点の事です。





日々プラスになったりマイナスになったりする人や
決断ができないで前に勧めない人は、





「今日はこっちの絵が正しい、明日はこっちの絵が正しい」と言っているのです。







これを永遠と繰り返しても答えは出ません、
答えが「両方」である以上、無限ループに陥ってしまいます。







この事実を知ることが前提の否定、
リゾームで言う「根っこ」の入れ変えであり、
志向性(理念)の決定であり、







冒頭に書いた「本質的な肯定」です。





☞ ☞







松下電器は当初、競争が激化する業界において
常に何が正しいかを考え、淡々とその道を歩いたといいます。





創業者、松下幸之助が説く経営理念は
単なる個人の拡張や利害欲求だけではなく、




人生観から俯瞰し、社会観、国家観、世界観、
さらに自然の摂理と言う所から芽生えるものだとしました。





そんな精神は、論理やテクニックや盲信ではなく
もっとラディカルな部分から派生していると思います。







FC展開に関し、理念が明確でない方は
一度、この概念から作ってみてはいかがでしょう^^











【後記】



ゲシュタルトが出たので、最後に有名な一節を。






私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。





私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。    





そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。    





もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。    





出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。








行動と行為の違い

こんばんわ、unreveの坂口です^^


今日は何もせずにぼー・・・・・っとしてました。
僕の「ぼー・・・っと」は、そりゃあもう達人のレベルです、
ええ、完全なる空気の一部です。



下手すると鼻に綿詰められるレベルです。
って、死んでないっちゅーねんヾ(・ω・;)オイオイ



そう言えば、何も行動しない人を見て、
「まず動け、行動しろ!」というコーチやコンサルがいるのですが、



人間が動く原理には、2つあります。
一つは「行動」、もうひとつは「行為」です。


「ん?一緒じゃん」と思うでしょうが、
全然意味が違います、行動原理と行為の原理は全く正反対の性質です。



なぜなら、行動は思考からくる破壊(自我)原理であって、
行為とは「感応」からくる創造(自己)原理なんですね。



行動すればするほど、逆に苦しくなる場合がありませんか。
あれは外部強制からくる一種の自己破壊なんです。




今日はそんな小話でも。



☞ ☞ ☞




みなさん、例えば全然お腹が空いていないのに
何かを食べ続けてる人を見た際、ちょっと暴力的に映りませんか?




僕は「食べ物を破壊している」ように見えます。
事実、いらないものを消費しているんですからね。



しかし、こういった人は結構いるものです。



欲しいものが無いのにもかかわらず、
街へ出て、買い物を続ける人、



これといった用途もなく、情報を詰め込んでいる人、
不要な物で囲まれたごみ屋敷、



愛のないたくさんの愛人、死ぬ間際に達成した一億の預金、
親しくないけどSNSで繋がっている数百人の友達・・・・




落ち着きのない心、欠けたものを埋めようとする心、
それは過去から運んで来た落ち着きのなさを、現在へ注ぎ込んでいるのです。







行動とは、場合によっては自己の「悪習慣」を止めれますが、
これが常態化すると暴走してしまいます。




しかも、壊しっぱなしで創造しないのですから、
当事者意識も生まれませんよね。



内面的に落ち着かない為に起きる反応というのは、
状況否定から来る一種の強迫観念です。



よって、行動したあらゆる意味の背景には、
欠如感を埋める為の口実が必ずセットになっています。



繰り返しますが、これによって惰性を無くし(破壊)、
その後、感応行為を取るのであれば、問題ないのですが、




惰性ではなく「本来の自分」も誤って破壊してしまうと、
その後はずっと、自己破壊のままです。



僕は腰が重いクライアントさんを見て、それが
「本来望まない事」なのか、「惰性からくる否定」なのかを判断しています。




ん、長くなりましたな。
眠たくなったので、次回に続きます笑


メグリ、メグル



さて、僕は回帰論という仰々しいものを
経営哲学として取り入れているのですが、


端的に書けば、対立項を
同義(補完)関係として捉えるというものです。



「メグリ、メグル」仕組み。



最近、やっとサイトが完成して時間があるので、
そんな個人的な小話でも。


波紋と螺旋とフィボナッチ: 数理の眼鏡でみえてくる生命の形の神秘/学研メディカル秀潤社
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こういった分野に興味を持ったのは
今から約10年以上前の事。



神道あたりの本を読んでいた際、
始めも無ければ終わりも無いという
「弥栄(いやさか)の理」を知りました。
(日月神示にもありますよね、個人的にはちょっと苦手ですけど)



そんな無始無終の概念は、昨年の出雲・伊勢神宮で
行われた遷宮と同じものでしょう。



こういった螺旋状に「メグル」ものはたくさんあって、
例えば遺伝子や素粒子もそうですし、風や海の流れ(渦)もそう。



四季や干支だって一つの周期が終わり、
そこからまた「メグリ、メグル」。



たとえその速度が速くとも回転運動である以上、
戻って来る(回帰)のです。



回帰論とはその繰り返される状態であって
その繰り返し運動(思考)は創造性(志向性)を
持っているのだと考えています。


☞☞



ちなみに聖書では世界(宇宙)が創造主によって
作られた、と言われていますね。



つまり明確な始まりがあるということ。



ただそうなると、その創造主がどうやって生まれ、
そしていつから存在しているのか、という疑問や、
その神は一体誰が作ったのかという疑問が出てきます。



マトリョーシカ人形で例えるなら、
「一番大きな人形を作ったのは誰か」、と言う命題。



そして「なぜ、それを作ったのか」
今でもそれは根本的に矛盾のまま、
哲学が引き受けています。



個人的には、こういった絶対性というものが
存在しないというわけではなく、



人間にはそれを掴む(定義する)ことは
できないのではないかと思うのです。



だからこそ、絶対は無限性と有限性を
内包した「ナニカ」である、と。



☞☞


近代科学は、光の絶対性を支持していましたが、
光の速度自体、有限(光速=秒速30万キロ)です。



そうなると光の絶対性は無条件ではなく、
条件つきになってしまいますよね。



絶対が無条件である以上、光の速度は
無限大(∞)でなくてはいけない。



仮にそうでないのなら、宇宙は秒速30万キロに限定された 
条件つき絶対性でしか説明できないという証拠です。 



ニュートリノが光よりも早いと発表されたとしても、
その速度が秒速40万になったとしても有限でしょう。



どうも、この「有限性の絶対」を
信仰する事がなかったんですね(笑)




しかし「始まりもなく、終わりもない」という
円環螺旋は時空間の干渉を受けない。



春を始まりとしているのは人間ですからね。
そんな自然の中にこそ、実体がある気がします。




2013/03/18

トリアーデ



詩人、茨木のり子氏の73歳の作品に、
「倚りかからず」というものがあります。




倚りかからず (ちくま文庫)/筑摩書房


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もはや できあいの思想には倚りかかりたくない 

もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない



もはや できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや いかなる権威にも倚りかかりたくない





ながく生きて、心底学んだのはそれぐらい





じぶんの耳目、じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合のことやある





倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ









強い女性、誰にも依らない生き方。



彼女はそれを目指したのでしょう、
以下の詩にも、そんな強い意志が表れています。



自分の感受性くらい/花神社


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ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな




みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを、友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか





苛立つのを 近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし





初心消えかかるのを暮しのせいにはするな

そもそもが、ひよわな志にすぎなかった





駄目なことの一切を 時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄







自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ











うー・・・・・ん、



池田晶子氏もそうですが、
人に頼らない生き方を選んだ女性は確かに美しく、
本質的な真善美を掴んでいます。



ただ、誰でも彼女らのように強くは生きれない。
それは決して、惰性からではない場合もあるでしょう。




もちろんわかる、非常にわかる。




ですけど・・・・という感じです。




☞ ☞ ☞





僕自身「自立と自律が大事ですよ」
と言っていますが、
その持論を、誰でも彼でも押しつけたくはありません。





食材をどんなに細かく切り刻んだとしても、
食べやすく調理したとしても、



本人が咀嚼しないなら、喉を通らないじゃないですか。




スプーンで口まで持って行こうと、
口の中に入れようと、「食べる意志」がないと意味がない。



その「意志」だけはどうにもできない。
否、「どうにかしようとしてはいけない」と思うんです。



彼女らのように凛とした生き方は
美しくはあるけれど、



そう思っている人がいれば、
どうしてもそう思えない人がいる、



僕はこれ、良い事だと思うんです。
良いと言うより、仕方がない。



もちろん、近にいるとカチンときますけどね(笑)
それが反面教師ってやつでしょう。




2013/03/07

フロー三昧

以前、動機について記事にしたのですが 、
今年に入ってずいぶんと認知度が上がってる気がする。



「好きレベル」から「ハマるレベル」へ。
これってなかなかどうして、再現性が難しい。


ただ夢中、ただ無心。


今までの人生で2度ほど、経験したけれど記憶は朧。
説明しようにも、何となくの感覚しか分からない。


ただ、明日はどうなるかとか、この国がどうだとか、
顧客がどう思ってるかとか、 お金がどうだとか、一切頭になかった。



時間の概念もあやふや、
なるほど、だから夢中なのだろう。



そんな直覚を仏教では「三昧」と呼ぶ。
フローもまた、同じような状態である。


何かに対し、無我夢中になっている際、
人間には自ずと働く知がある、それが三昧だ。


この状態においては「我」が発生していない、
ただ、意識がなくなるのではなく、我が対象に埋没しているのだ。




つまり主客未分の境地だと言える。


この対象の移入による「主客一体」の状態で
人間が認識しているものこそが、真の「現実(実体)」だと言われる。



これは建前のない動物の生き方であり、
あらゆる哲学者が「美」の象徴にしている。


それ以外の状態では、前回カントを例にしたように、
必ず思考のフィルターにかけられ、現象となる。


つまり、ありのままの現実を見るためには
フィルターが邪魔であって、逆を言えば我々は本来それが出来るのだ。


創造と三昧を同一化してはいけない。
創造とは客観的世界に存在しないものを生み出す事であり、


三昧とは「すでに存在しているものの潜在性を取り戻す」事。



そして直観による行為を伴った時に初めて、
根源的倫理と呼べるものがあるのだ。


2013/03/05

XY、そしてZを超えて





モチベーションアップの手法はいくつかあって、
大半は西洋から生まれましたが、
その中にXY理論というものがあります。



提唱者はダグラス・マグレガー、
性善説と性悪説のようなものです。



x論は「人間は強制しなければ自ら進んで仕事をしない」とし、
Y論は「人間は本来、仕事を進んでやりたがる」と。



XとY、どちらも正しく、どちらも間違っています。
その両方を持ち、どちら側にも流れるのが人間ですからね。



今日はそんな小話でも。








さて、ウィリアム・オオウチ氏は
相容れないXとYに対し、Z理論(セオリーZ)を提唱しました。



氏は日本企業文化を「J型」、
アメリカ企業を「A型」とし、



日本経営「J型」とは、X理論と
Y理論の両方のメリットを取り入れている、といいます。



それは終身雇用や能力主義ではなく、
専門性に偏らない人事。


さらに集団責任や、職場だけに限らない
内外的な関わり等だと言います。
(J型の特質は他にもあるようです)




こういった細かなことが
二項の調和には必要な素材なんでしょうね。



☞ ☞



ただ、Z論が上記のような条件が
必要である以上、終身雇用が崩れた現在、
どうやって回復するか。



多分、非雇用者と企業の関係は
数年で変わってくるでしょうが、
肝心の信頼関係は戻らない。




下手すれば賃金(外部報酬)だけが
高くなって、内部は全く変わらないかもしれません。




僕は復古論ではなく、やりがい(内部報酬)と
それに見合った賃金(外部報酬)のバランスこそ、
必要だと思ってます。




独立採算のFCもプリンシパル・エージェンシーと
考えるのではなく、根幹の部分を考えてみませんか。