2015/01/29

花伝書「急」

白と黒が折り重なるように、

ミクロとマクロが同じ環の中にあるように

同時に考えなくてはいけない時代です。







つまりこの転換の先にあるもの、

今回一刀両断する「その先」とは、統合の入り口です。





柔軟な関節と強固な骨、その矛盾したものを

どこまで内部最適に保てるか。








花伝書のクライマックス「急」、

ビジネスでFC化を考えている方や

理念の意味を知りたい方は必見です。




☞ ☞






これまでの我々はこうであった、

これからの我々はこうなるであろう、

なぜなら「これこれ」と言われているから。





日本の知識人はこの手の命題を語るばかりであって、

その先を提示すれば、批判される空気があります。







「ではこれからの我々はどうあるべきか?」

といったイシューになると、途端に口を閉ざしてしまうのです。







あるべきヴィジョン、あるべき姿。

こういった一歩踏み込んだメッセージを発信するとなると、

反射的に思考停止に陥ってしまう。







なぜでしょう。

その理由は、「破」に記載した精神性によるもの。







つまり自前の経験によって自前の言葉で作られた、

自前の思想で語る経験が少ない。







なぜ自前の思想でやっていなかったのか?

それは保証する人がどこにもいないから。







口では冒険だ、挑戦だ、独自性だと言いながらも

心の最優先事項は安心、まず前例を求めるのです。







原発問題を始め、あらゆる問題に対し、

必ず、諸外国から「キャッチアップ」する「成功事例」を求めます。







チェーン理論であれば、アメリカが「本場」だ、

サッカーであれば、「ブラジルに学べ」、





これが教育になれば「フィンランドのメソッドを」となります。

これは国内でも同じように、繰り返されています。







では、上記の学ぶ対象自体は

どこの誰から学んだのでしょうか。









もちろん、それは思考錯誤や淘汰の末、

生き残った自前の思想であるのは間違いないのです。









☞ ☞







語ることなく、従属することが常態化した

この国は、相対的優劣性で語ることが常態化されています。







「世界の松阪」や「世界のホンダ」等

当たり前のように使ってますが、本来は異常な事なのです。







「世界のロナウド」や「世界のスターバックス」と、

本国メディアは言わないでしょう、そう言う事です。







これが政治の世界となるともっと酷く、

完全に世界における「順位」でしか見ていません。







学歴順位や、経済ランキングといった相対指標でしか、

自国を語れないのです。







比べ、取り入れ、編集することが悪いのではありません。

問題なのは、それがすべてにおいての「指針」になっている事、







つまり、育て方や編集は誰よりも知っているけれど

肝心のタネを持っていないのです。







☞ ☞







そもそも、物事には順序があって、

本来、一番最初に作るべきものとは、

理想像(ヴィジョン)の確立です、それがないと始まらない。







そこから、思考錯誤による具体性やリスク、

取り決めやルールが作られるのが自然な流れであって、

いきなり具体性(方法)が生まれることはありません。







歴史を見れば、未だかつて誰も実現していない

壮大なもの、不可能なものに挑戦し、多くの人が達成してきたはずです。







故に、原発問題で「廃炉」のビジョンを語るのは

現段階では、未だ現実化していない壮大なヴィジョンであって、

具体的方法なんて、誰も分かりません。







その段階で「廃炉は現実的じゃない」というのも、

「では具体的にどうやるのか」というのも、

当たり前の大前提を武器に、語っているだけ、







部分だけを切り取って批判するのは卑怯です。

大事なのは、まずそれを「打ち出さなくてはいけない」。





しかし、上記批判があるから極端に恐れてるのです、

なぜなら境界線のアイデンティティ重視だから。







この国は方法こそ優れていますが、

肝心の目的(原点)は常に借り物からの派生だった。





よって「私の正しさ」について、語ることができず、

その正しさを実現する精神よりも、「あの人の正しさ」を求めるのです。







☞ ☞







そんなやり方でしか語る事ができないという

慣習や性質に全く気が付いていません。







だから「よし、これから欧米のように発信しよう」とか

「いや、それでは中国のようにはなってしまう」と。







その時点ですでに外部を意識しています。







この無意識的依存心にどれだけ気がつけるか

これが理念の作り方であり、「らしさ」の創発です。




☞ ☞






内部領域を外部によって確信を持つ慣習により、

下手すれば、理念でさえも他人に作ってもらおうとしますが、







これは真っ赤な嘘、まず信用しない方が良いです。







「御社の理念を作ります」というコンサルがいますが、

理念は絶対に自分にしか分かりません。







当然、その花が咲く保証もありません。

その行為や判断の正しさは後世にしか分からないのです。







しかし、それでもやろうとする無意識的「意志」、

この態度が必要なのです。







この意志は豊かさの代償でもあります。

外部から見れば、それが意固地さに映り、

つい自前ではない「正義」を語りだします。







裏を返せば、自分が帰る原点がない証拠であり、

それを持っている人に対するある種の嫉妬なのです。







それよりも市場を見よ、実績を出せ、と。

それは「軸のない人」の消えない劣等感を

分かりやすいお金や名誉で補完しているだけなのです。





☞ ☞





「そもそも、私は何のためにこの会社を作ったのか」

という、根源的なものを形式化したのが理念です。





よって、企業が困窮した時は、一旦、この理念へ

原点回帰します、言わば憲法のような役割なのです。









定言命法であり、ダルマ。

反面、外部であれば仮言命法やドグマとなります。









unreveがFCに理念がないといけないと伝えているのは

まさにこの絶対命法を生み出す事であり、









その主語(自己中心)があって初めて、

この述語(場所中心)であるこの国は超克できます。







なぜなら、確信が深く内面化することによって

「これが私のビジネスの価値だ」と、スパっと言い切る事で、







「これが世界に提供できる価値なんだ」と、

言い切る事もできるからです。







この国の企業が独自の目的を持ては強いです!













長くなりましたが、以上

花伝書「序破急」、ビジネス篇でした。










2015/01/28

花伝書「破」

日本人にはアイデンティティがない、

これはずいぶん昔から言われる事です。







しかし、これは厳密には異なります。

本来は、場の空気をアイデンティティより優先させているのです。







ルース・ベネディクトの「菊と刀」でも、

この国に脈々と流れる精神性が露わになっています。







それは美であり醜の根源性でもあります。

ここにこそ、我々に必要な答えが隠されているのです。







全体の俯瞰によってその欠片を探してみましょう。









と言う訳で、リーフ理論、花伝書「破」、開演でござーい











さて、この国は、取り入れ、問い、編集し、出す、

を繰り返す事によって、常に変化し続けています。





この国が「方法の国」と言われるのは、こういった

同一主語を繰り返し回帰し続けているからです。









丸山眞男は外来思想を度々修正する、という

変化の仕方が変化しないのがこの国の特徴であり、





その意味で日本人は常にキョロキョロしている、と指摘します。







つまり、常に新しいものを外部に求めながらも、

その求めている自分自身は一向に変わらない、と。









これがこの国の「振る舞い」であり、

この国の基本パターン、と言う事です。







☞ ☞







「いや、俺は完全に自分ルールで生きている」と

反論する人もいるでしょう。







しかし、この「いや、俺は・・・」のような

反応こそが、なによりの証拠なのです。





本当に自分ルールだけで動いている人間は

「外部の意見」なんて、気にも留めないし、反応もしません。

こういったブログも見る事はないでしょう。





そんな事から、この国は外部の世界の変化に

対応することに、なんら躊躇いがありません。





それは自己同一性の精神が高い為、

自己と他者の境界線が曖昧になっているのです。







鬼畜米英から、アメリカ万歳、と。

その変わり身の早さはピカイチなのです。







これが欧米のような絶対的な原理や、厳密性を

追及するようなものであれば、必ず対立するでしょう。







それが絶対であればあるほど、その溝は埋まらず、

訴訟であったり、力によって押し通そうとします。







反面、この国はその「溝」を重要視しているのです。







己の一貫性よりも集団の場の親密性、

長いものに巻かれる、という態度は日本人のお家芸、







それは受動的な態度による親密度の表れであり、

丸山眞男の言う「超国家主義の心理」の事です。









絶対的な価値対象に「寄り添う距離」によって、

自分の役割や力関係を決定する、と。









自分で正しい道を探し、判断を下すのではなく、

「正しい判断をしてくれる人」を探し、その身近にいることを優先するのです。



☞ ☞





こんなことは何年も前から分かってます、

多くの研究者が指摘してきているのです。







しかし、そんな貴重な意見や知恵を自己に取り入れ、

繰り返し言及することがなかった。







常に「より新しい情報」ばかりに目が向き、

それを取り入れる事だけが目的化してしまった。







つまり、常に新しいものを探しまわり、

それに対し「そこそこの編集する」、







そんな日本人の本質は変わっていないのです。









不幸な事に、世界の基準には順応できるけれど、

肝心の自己からは「世界基準」を提唱していない。









相対的な優劣性や劣等性が養われた反面、

絶対的な価値対象を自ら提示することができない。







外部には答えはない。それでも外部に求めてしまう日本。











実にもったいないとは思いませんか?















さて、いよいよ次回、これを一刀両断、断絶します。













花伝書「急」、お楽しみあれ。








2015/01/27

花伝書「序」

さて、我々人間には動物の生き方と、

植物の生き方の2種類があります。

それは「農耕」と「狩猟」の違いでもあります。





動物の生き方とは、例えば自ら目標を決め、行動し、

未来を開拓します。





空腹になれば他の動物と戦います。

力の差によって制する事もあれば、制される。





これが動物の生き方であり、今までのビジネスモデル。

男性社会とも言われるものです。





反面、植物の生き方とは女性性の生き方、

植物は自らが望んでその場所に生えたわけではありません。





誰かが植えたのか、それとも種子が風に乗って落ちたのが

「たまたま」その地だったのか。





自らの意志でその場所に、生まれているのではありません、

場合によっては劣悪な環境の時もあるでしょう。





しかし、いったん根を下ろせば、全力で大きく根を張り、

水や栄養を自らで吸収します。





枝を伸ばし 葉を広げ、そこから太陽の光を受けることで

静かではあるけれど、力の限り努力をします。





これが植物の生き方です。










木から離れ、独立している葉っぱというのは

あり得ません、構成する全ては木(全体)の一部です。





にも関わらず、我々は自分が独立した一生命体だと

時おり誤解してしまいます。





unreveではそれを「自我中心(ego)」と呼んでいます。

それは、我々にこんなことを囁き続けます。





「成長しなくてはダメだ」



「もっと強くあるべきだ」





常に不足感をもった「それ」は満たされることがなく、

お金、名誉、地位などで埋めようとしますが、

決して満たされることはありません。





「まだダメだ」



「もっと必要だ」





そう言い続ける自我とは樹木に対しては反の位置、

動物的な生き方といってもいいかもしれません。





だから動物には消えない欲求があるのです。

食べなくてはいけないし、寝なくてはいけないのです。



それに対して「自己中心」とは

樹木と「合一し、一(非)となる」ものです。





自分が「ある側面からすれば」他に全面的に

依存している完全な理解であって、

独立して生きていない、という絶対的な証明です。





それによって自我は根こそぎ否定されます、

まさに絶対自己否定からの「植え替え」が起こるのです。





この理解度が低いと、

怪しい宗教になるのでご注意のほど(笑)





☞ ☞





このように、利己的に、自己肯定的(自己正当化)で考え、

語り、行動するということはまさに独立した「葉っぱ」である以上、



独立した個人ではないと完全に理解すれば、

そういった考えはなかなかできないことです。





故に「動物の生き方」という独立した個人(男性性)の時代は

終焉(転換)を迎えている、のではないでしょうか。



☞ ☞



さて、この自我否定によって、

肯定的な自己は出てきようがない、と書きました。





しかしそれでは自己肯定感が低いじゃないか、と

思われる人も多いでしょう。





もちろん、これで終わりではありません。

なぜなら、自我中心であっても、全体として

反逆した一部としても、我々は生きていけるからです。





見れば、どこまでも我を通し、反逆する自我の世界と、

その自我をそのまま受け入れている世界があります。





ありのまま「の」自分を承認してくれている反面、

ありのまま「が」自分ではないと否定している。





言わば「否定の否定」、主役であり脇役、主体かつ客体。

これは(端的な)絶対矛盾的自己同一であり、



三浦梅園の剖対反比図一合、一即多、多即一の原理。





あらゆる宗教はその主人に神を持ちだし、

精神世界では宇宙とやらの大いなる意志を持ちだし、

科学ではその主人に数式を取り入れましたが、





上記のどちらも「100(絶対)」の証明であって、

同時や矛盾(無常)を絶対(常)としていないんですね。





悟りとか、目覚めとか大層なことをせずとも

そんな感覚さえ持っていれば、人に優しくできそうだと思いませんか?





長くなりましたが、

以上、花伝書「序」でした^^


2015/01/21

経営哲学について

経営哲学とも言える回帰論に関して前日書いてみました。


こういったものを書いているのは、
今後、芯の通った経営が求められると予想しているからです。


それは決してコンプライアンスなどのドグマを絶対化した
非人間化・非個性化・画一化の道ではありません。


それは相手に強制するものではなく、人間中心設計、
個性・多様といった多彩なものを表現する為に
己の色を明確に打ち出す、ということです。

マス最大化の時代は終焉を迎えつつあります、
また、利益を追求することが第一目的としている企業では
これから先、苦戦を強いられるのは間違いないでしょう。



ひたむきさを取り戻す、と書くと大げさですが
それがこの国ならではの強み、独自化の第一歩です。


今日はそんな小話を。

仕事の哲学 (ドラッカー名言集)/ダイヤモンド社
¥1,512
Amazon.co.jp
岡山県にあるデニム販売会社「KAPITAL」、
この会社は高級ジーンズを生産販売している企業です。

代表は平田俊清氏、根っからの職人気質で、

例えば主要商品であるデニムを「作品」と呼び、
藍染めには一か月以上染色するというこだわりようです。


また、新入社員にはまず半年間、工場で製品を作らせ、
そこで実際の製造工程を学んでから各ショップへと配置されるようです。


作り手から売り手へ、という教育フロー。
もちろん、その無形効果は言うまでもありません。


そのこだわりは世界へ広がり、
かのベッカム選手も愛用したのだとか。


僕も一着だけ持ってます(写真は別もの)



さて、そんな平田氏は哲学がまず先にあって、
その結果として圧倒的なファンが増えたのです。


哲学なき企業とは戦略なき戦術のようなもの。
軸なき理念では、「自分を生きた」という軌跡そのものが信じられません。


だから自分の色が分からない、
分からないから他の成功者の出す色に染まりやすいのですが、
それはその人の色であって、自分が馴染むとは限りません。


また、それは「強み発掘」でもありません、
強みは戦術レベルにおいて、その効果が発揮されます、
つまり短期的な目標レベル達成において意味があるのです。


逆に戦略は構想であり理念、あるいは価値判断の基準です。
その戦略の段階で「最善だ」と言えるものを作るのが「リーフ理論」です。

だからこそ、それを考えるのはとても価値があることですし、
それは自分でやらなくては意味がないのです。


組織内に置いては短所とも言える反骨心や謀反心は
この場合においては長所と言えますね。


2015/01/20

根をもつこと



女性哲学者は、その数こそ少ないけれど
その思想には、ある深淵さがあります。


それは多分、女性性の方が男性よりも
見えないものや抽象的な物事である本質を
掴みやすいからかもしれません。



しかし、「巫女薄命」というべきでしょうか。
神がかり的な女性ほど短命です。


池田晶子氏が46歳、シモーヌ・ヴェイユ氏は34歳、
金子みすゞは26歳・・・・あまりにも早い死です。


今日はそんなヴェイユの小話。

根をもつこと(上・下) (岩波文庫)/岩波書店

池田晶子はカントのように人間の義務は
善への志向性としました。


同じくヴェイユもそうでしたが、その志向性は
ちょっと語りにくいもの。


そのまま、ありのまま。
そんなラディカルな美の形而上哲学とも言えます。


強いから、美しいから、
善いから愛するのではなく、
愛すべきものを自己に取り込もうとするのではない。



対象への支配ではなく逆であり、
(自己)否定からくる(自己)無化的な
人格を純粋な美(善)としたのでしょう(多分)



美意識は千差万別ではあるけれど、本質的な
それ(美)は真理へ至る道だとヴェイユは言います。


☞☞


彼女からすれば、金や名誉、権力などの
享楽への美や愛は単なる享楽であり、間違った美しさです。



本質の美とは、何かを加えたり、
減らしたいと思わないもの。



つまり理由が一切なく、
それ自体が目的として存在している、と。



例えば、自然のありのままの美しさを見た時、
「もっと美しいものがあるはずだ」と比較することはありません。



なぜなら、それ自体がすでに目的として
存在しているという絶対的なものなのですから。




端的に、それを「全力の表現」 と
言えるのではないでしょうか。



☞ ☞ ☞



最近涙もろくなったせいか、小さな子供たちの
運動会を見ていても涙が出そうになります(笑)


全力があまりに神々しいからかもしれません。
ヴェイユ自身書いてはいないのですが、
全身全霊こそ美しさではないでしょうか。



それくらい、力いっぱいというものは人を惹きつけるものです。








ただ、これだけではヴェイユを語ったといえません。



彼女は自己を無化すると同時に
形而上の善へと向かう「人格」があった。



それは「ない」ものを求める「存在がある」という
パラドックスでもあります。



ストイックなまでに真理を追及したヴェイユにとって、
それは耐えがたいものだったのでしょう。



多分に、「根を持つ」ことだけではなく、
「枝を伸ばすこと」も必要であって、




地に足をつけることと、羽を生やすことという
相反する状態が補完的である証拠ではないでしょうか。




ただ、これを書いちゃうと
内容が変わってきますね(笑)




ん・・・・ちょっと書く気がなくなっちゃいました(・・。)ゞ



また機会があれば記事にしようと思います、はい。
(全力で書け)


2015/01/15

栄枯盛衰の発見5

栄枯盛衰の組織論、
今回で最後となります。




さて、長い事書いて気付いたのだが、
この国には有名な「組織論」が少ない。





今日、組織論だと言われているものは
組織の「管理制御」といった合理的統制、



もしくは個人に特化した
「一時的活性化手段」である。





マキャベリの君主論しかり、 フローしかり、
マグレガーのXY理論、バーナードにドラッガー
(ゼークトは論外)など、




大半が西洋的・軍隊的マネジメントであるが、
編集なくしてこの国への移植は不可能、




だからこそ、実践的組織論は
今後必須の学問だと言えるだろう。




☞ ☞




今回は歴史を振り返りながら
組織の興隆と衰退について考察したのだが、




組織論の本来の目的とは
端的に言えば「良い企業」を作ることである。
これは誰も異論はないだろう。



しかし、多くの組織が自らを
良い企業だと、自信をもって言えない。



なぜなら、その「良さ」の定義が
はっきりしていないからだ。



規模が多ければ良い企業か?
利益が高ければ良い企業か?



例えば、「大きい組織」が良いとしよう、
その大きさとは、従業員の数、資本、シェアや売上などだが、



仮に「ヒト」を増やせば、その分
「バショ」も広がり、「キョリ」も離れる。



そうなれば、全体の情報を
共有するのが困難になってしまう。



つまり「量」は増えるが「質」が下がる。
(管理という概念において)



では逆に、規模を広げず「質」を高め、
帰属意識を高めれば、 どうなるだろう。



質を高めるということは、組織そのものが
閉鎖的になる、ということである。



意図的な「情報の遮断」である以上、
「外部環境への適応」ができなくなってしまうのだ。



例えば戦時中の日本軍は
過剰な閉鎖的意識によって多くの死傷者を出した。




探知装置があるにも関わらず、
白兵銃剣の戦術を執拗に繰り返していたのだ。




そこに臨機応変がなかった。
つまり、そういうことだろう。




☞ ☞


unreveは剛柔併せ持つハイブリッド(超克)な
組織、いわゆる「最適化」を提唱している。




開くときもあれば閉じるときもあり、
堅く集中することもあれば、
分散し、広がることだってある。



つまり体制ではなく「状態」の構築、
それは対話と場の自発的な参加から始まる。



構造はその後、勝手に出来あがるのだ。
これ、すなわち自然派生である。



現在、フットワークの軽さが求められている。



社会の主観は時代と共に変化するもの、
例えば、豪華な柄が入った服が流行の時、
シンプルな服は物足りなく、貧相に見えるだろう。



しかし、時代が変わってシンプルな服が
流行になれば、柄の入った服は逆に野暮ったく見える。


そんな「社会主観が変わった際」、
即座に対応できる状態保持に加え、




いくら環境が変化しても
「変わらない理念」を持つことが大事だ。




つまり「間」にこそ、閾値(しきいち)があるのだ。






成長志向性を否定するのは難しい、
下手すれば、社内のモチベーション低下
だけではなく、規律や秩序が崩壊する可能性だってある。





故に、倫理的な目標によって、
内部成長性を限りなく高める必要がある。



鮮明な理念はその為にあるのだ。


2015/01/14

自己と非自己2

unreveの坂口です、

先日に続き、二回目です。








前回は免疫を「自己」と「非自己」に分け、

自己を決定しているのは脳ではなく免疫系だとお伝えしました。





これはナポレオン・ヒルあたりの成功哲学を

神話化している人にとってはちょっと納得いかないでしょう。





なぜなら、この説から考えれば

思考は実現「しない時もある」のですから。







意識は脳が支配しているのではないという事実、

逆を言えば、我々は単純な直列回路ではないのです。





だからと言って、脳が他臓器と同じというと、

そうではないんですけどね。





ここらへんは長くなるので置いときます。







☞ ☞ ☞





さて、異質を自己として取り込むという行為は

言わば「異物を自己組織化してしまう」ということです。





自己と非自己の境界をなるべく曖昧に設定し、

非自己を受け入れる器を拡大させるのが、免疫力とも言えます。





そう考えると、この国は多様な文化を

自己化していますので、免疫力のある国だとも言えますね。

(実際は自己組織化の為、編集しているのですが)





なるほど、日本が長寿国なのも納得できますな。

長寿の秘訣とは排除とは逆の、「受け入れる力」ではないでしょうか。







ただ、今はちょっと変わってますね。

競争による格差社会は異質を排除する西洋原理です。







もう少し、自分にも他人にも寛大になれば、

もっと楽な社会になるんじゃないかな。







それが一番難しいんですけどね。









☞ ☞





閑話休題

この免疫からくる自己組織化なんですが、

ビジネスに凡庸化する為、リゾーム派生概念としています。



「ある程度の」方向性は決まっているけれど、

「状況」に応じて柔軟に流動することができる。





これは自己の定義です、端的に言えば、

自己には明確な目的がないのです。







unreveの「場の理論」もそうですね、

対話によって自己言及するのが目的です。







そんな曖昧な概念は男性原理(理論主義)には

ちと、フラストレーションが残るものかもしれませんが、





その根拠をもう少し、聞いて下さいな。







☞ ☞





そもそも、人間の基本形は「女性設計」です。

それがY染色体のTDF遺伝子によって、男性に「変質」します。





つまり僕は「無理矢理男」にさせられている、と言う訳です(笑)







(性染色体だけで考えた場合)世界で生存するのに

必要な染色体は、女性の方が二倍あるんですよ、







そりゃ男性は勝てませんわな(笑)









否、役割が完全に違う、とも言えます。








なつかしの「猟奇的な彼女」





多田氏は「女は存在だが、男は現象にすぎない」と言います。

氏の言う「存在」とは、いわゆる実体です。



つまり女性はリアル、現実的とも言っていい。

反面、男性は現象、夢見る夢男ちゃんという訳ですな。





「そんな事はない、女性の方がロマンティズムだ」

と思っている男性諸君、残念。(笑)



男性が家族を養っていく為、額に汗し労働しているのは

一見リアルな実体のように見えますが、





それはあくまでも時代の通念であって、

実際は男性の方が何倍も子供っぽいんです。







例えば、出世競争を好むのは男性性が大半ですが、

自分だけの世界で生きていると言っても過言ではありません。







だから頑張って出世したところで、いざ蓋をあければ

家族を犠牲にしたあなたとは一緒に居られない、と

離婚届を付きだされる・・・・てな結果になるんですな(笑)







つまり「自分がこう思うから、相手もそう思うはずだ」

という、勝手な妄想の世界の中に生きてるんですね。

(もちろん、全員ではないのですが)





部長や社長などの肩書きや売上の大小など、

抽象的なものに捉われやすいのもそう、







社会的な役割はすべて抽象概念、実体はありません。

しかしオス性とは、回りくどい筋道を好むのです。







僕が回帰論を書いているのも、そういった背景なんです、

さあ、男性諸君、一刻も早く回帰しましょう!





・・・と言いたいところですが、

これは役割の違いです、抽象度を上げるのは男性なんです。







理想に燃え、世界に飛び出す男と

家庭を見守る女性というのは、古臭い通念ですが、







生物学的に言えば、ちゃんと根拠のある

役割分担なんですね。

(もちろん、例外が悪いのではなく)









ビジネスにも野球にも「女房役」ってあります。

これは差別ではなく、違いを区別した隠喩だと思うのですが、







これ以上書くと、女性の敵を作りそうなので止めときます(^_^;)


栄枯盛衰の発見4

栄枯盛衰の組織論、

今日で4回目です。




秀吉の朝鮮出兵は大敗し、

結果、組織の結束は大きく乱れてしまった。





その後、有名な関ヶ原の戦によって、

歴史上最大の組織は事実上、崩壊してしまったのだ。







金でも名誉でも何でもそうだが、

満たされない欲望を内部に作れば、

成功体験によって、やがて埋没してしまう、





つまり対象の最大化である。







前回書いたように、最大化が志向性である

組織が取る道は、必然的に「市場開拓」しかない。





大手FC、特にCSVを見れば明らかなように、

エリアを海外に向けるのが一番手っ取り早いのだ。







海外出店自体が問題ではない、

状況が変わっても、同じやり方をするのが問題なのだ。





成長の内部圧力がある組織では

比較的確率が高いものが採用されがちである。







以前も書いたが、誰もがウエイター・ボーイ

となることで、リスクや責任を回避してしまうのだ。







つまり成功確率ではなく「安易性」を

選んでいるにすぎない。





☞ ☞







実務の世界において、

確かにそれは「現実的」かもしれない。







しかし、本当に必要な現実的手段とは

目的達成のシナリオ」であって、







リスク回避のシナリオでもなければ

着手しやすいシナリオでもない。







そんなものほど悪手である、

リスクのないものほど、大きなリスクが隠れている。







価格競争は安易的戦術の最たるもの、

今の時代、これをやろうとする企業は

内部に相当な圧力があるのだろう。







株主、成長志向が高い役員、

キャッシュフロー自体が声を上げている場合だってある。







昔はそれを「正当なリスク」としていた。

崖っぷちに立ってこそ、本気になる、と。









ただ、その正しさは「半分」である。

自転車操業的なビジネスは私はお勧めしない。









というわけで、次回で最後となります。


2015/01/13

栄枯盛衰の発見3

栄枯盛衰の組織論、

3回目です。









これまで、現代企業の組織原理は、

昔とさほど変わっていない、と書いた。







企業だけでなく、世界的なスローガンに

この「成長志向性」があるのはなぜだろう。







多分、組織には常に「拡大したい」という

本能的な欲求が備わっているのだ。





それは個人であっても同じ事である。

拡大・成長自体が目的化されているのだ。





それによって豊臣秀吉は成功し、

同時に、崩壊の原因となった。





同じように、今の時代では

拡大の方程式が逆効果となるのだ。





例えば、軍隊的な売り込みの

セールスマン育成によって成長した企業は、

現在、その「売り込み」によって、衰退している。







インターホンとネットの普及により、

直接話す機会さえなくなったのだ。





現在、通販会社の戦術は

固定電話であるが、これも時間の問題だろう。







世の中の前提なんてすぐに壊れてしまう。

もしかしたら、SNSでさえもそうなるかもしれない。





よって、拡大・成長志向性の高い企業が

「ある成功法則」に特化したと同時に、

大きなリスクを内包しているのだ。





これはロバストやトレードオフの概念にも通じる。

過剰な集中はリスクと対価交換なのだ。







☞ ☞







では、そこでダメージを負った企業は

どうするだろうか。







そのまま前進するか、後退するか、

立ち止まるか。





それとも進路を変えながら進むか。









組織が成長を継続させるには、

大きく分けて3つしか方法はない。







一つは新規事業による多角化、

そして組織のモデルそのものの変質、







最後は、全く頭を使わない方法である

同じやり方を「違う場所でやること」。







すなわち、現代でいう海外進出である。

そう言えば、秀吉も最後は朝鮮に出兵した。







次回に続きます。


2015/01/12

自然派生と揺らぎ・遊び

こんばんわ、坂口です。
先日は綺麗に月蝕が見れましたな。



月をゆっくり見るなんて久しぶりです。
忙しい時は空すら見ることもない。



気が付けば年の暮・・・にならないように
したいものです(笑)




前置きが長くなりましたが、
そんなわけで、前回の続きでも。







さて、ビジネスにおいての「守」とは
芸道のような高尚な形式美でなく、


人が学ぶ際、すべてにおいて通じる
学習のプロセスを指します。



我々が身につけるには反復あるのみです。
ギターに一回だけ触れただけでは演奏なんて
できない、これは議論するまでもありません。



こういった、学ぶ基本である反復において
必要なのが「型」、というわけです。
プロセスであってゴールじゃない、と。


例えるならば、脱皮するヘビみたいなもの、
成長にはこの「型」が邪魔になるんです。


そういやニーチェは脱皮できないヘビは
滅びると言ってました。



なるほど、成長の定義は違えど
言い得て妙ですな。



☞ ☞
これを現代人は間違えて捉え、
完全にマニュアル「至上主義」になりました。

マニュアルとは始点であり終点、
変わらない原理ってこと。


今のオペレーションなんて、完全に
機械と同じことさせようとしてるでしょう、
あれじゃそのうち、本当のロボットになっちゃう。


「これをすればこうなる」と、
あらかじめ正解が用意されてるわけです。



当然そうなってしまうと、
自ら考える余地なんてありません。


やっても怒られるのがオチです。
特にチェーン店は例外を嫌いますから。


ただ、それで創意工夫は生まれますか?
生まれるわけがありませんよ。



だから前回書いたような「正常」って
概念が生まれてくるのも、ある意味当然ですわな。


その状態では統計的に数字も取りやすく
管理だってしやすいでしょう。



しかしそれ以上のパフォーマンスは
一生起きないわけです。



そんな状態にさせておいて、今さら
「主体性」とか「イノベーションを」なんて、
ことを言ってるのが今の組織なんですが、



いやいや、主体性を無くし、
思考停止でも稼働するシステムを
作ったのは、あんたらでしょうが、と(笑)




こうなると、組織は進化したのか
退化したのか、分かりませんよね。




だから守の次には創意工夫である
「破」が必要なんです。




ん、長くなりましたな。
次回へ続きます。


栄枯盛衰の発見2

露と落ち露と消えにし我が身かな

浪花の事は夢のまた夢









これは、豊臣秀吉が死ぬ間際に詠んだ句と言われる。





一代で最高権力を手にした者にしては、

ずいぶんと悲しい辞世の句である。







栄華を極めた結果、何が見えたのだろうか。

成長を繰り返した結果、どうなったのであろうか。





秀吉ほど「急速に」自己を変質させた人物は

今後出てくることはないだろう。







農民である「木下藤吉郎」が、織田に仕え、

それが「秀吉」となることで自己の質はどんどん変わっていく。







毛利攻めに向かう時は「羽柴」となり、

最終的に天下を取った時には、

朝廷より「豊臣」の姓を授かった。







遂には関白太政大臣、「太閣」となる。







この最終的に変質した自己を、

秀吉は「朝霧のように儚い」と言うのだ。







前置きが長くなりましたが、

第二回目の始まりです。





☞ ☞ ☞





さて、組織の規模によって、

トップと現場との距離はどんどん遠くなってしまう。







また、構成しているのは人であるはずなのに、

やがて人ではなく、「機関」として構築される。







機関とは、言わば制度を作るシステムである。

こうなってしまうと、相互の人間的な距離感はない。







これは規模の拡大による

トレードオフの原理である。







一つの組織原理(一人の経営者)が

構成し、行動できる限界は、一説によれば

数十人~多くても200名が上限だと言われる。







我々が短期的に記憶できる数字は、

7ケタ程度だと言われるが、それと同じである。







つまり、全員の顔や気心が分かるのは上記が

限界であり、それ以上増えれば目が届かないのだ。





故に「管理機関」を作る、

つまり組織を把握する為だけの機関である。







そして、これが千人を超えれば、

管理機関を管理する組織が必要となり、

ここあたりから「規制や標準化」が生まれるのだ。







20店舗程度のアーリーステージである

FC本部が、規制と標準化を作りたがるが、

これは大間違い。







小さな段階では、そんなシステムは不要なのだ。





☞ ☞







組織は「構造」と「志向性」、

この2つによって作り出されている。

体質と気質と言ってもよい。







その構造にロバスト性を持たるのが

リゾーム派生式であるが、多くの組織は

一つの構造だけしかない。







そこにこそ、最大の弱点がある。









例えば、拡大志向を持った企業の内部構造は

成長が続いている間は非常に大きな力を生み出す。





それを生み出すのが「外部報酬」であって、

今も昔もそれは変わらず、収入と肩書き(地位)である。





戦国時代においては、合戦で手柄を立てれば、

領土を増やしてもらえる、という動機で家来を鼓舞させた。







昔の経済成長時代でも、仕事を頑張れば

その分、役職が上がり、収入が増えた。







これが強さ(成長)の源泉である。

言ってみれば、その源泉は「経営資源」に帰結する。







源泉は枯れることも、変わる事もない、

という前提ありきである。





☞ ☞







豊臣秀吉はこのやり方で

ベクトルを強め、どんどん拡大していったのだが、

然、その勢いは永遠ではない。







九州を征服し、小田原の陣が完了し、

各地の様々な動乱を治め、遂に秀吉は全国を征服したのだが、









その時点でゲーム理論で言う

ゼロサムになったのだ。





ゼロサムとは損失と利得の総和がゼロ、

オセロで全てを埋め尽くした状態である。





つまり、各武士たちからすれば

全国にはもう領地を広げる余地がない、







人生は映画やゲームではないので、

これでハッピーエンドでは終われない。







武士たちは領土拡大の為に

雇い入れた家来が大勢いるし、







さらにその家来たちは将来の拡大を前提に、

人生設計を立てているのだ。







これはまさに現代と同じ状態である。

組織内には「永続的な成長原理」が

志向性となって、歯止めが利かなかったのだ。













長くなったので続きます。


2015/01/11

栄枯盛衰の発見1

歴史を学んでいる人からすれば、

もはや当たり前のことであるが、







文明は、それが興隆した「理由」によって、

滅びることになる。







これを人生に置き換えれば、

我々は成功した事例の記憶によって失敗する、

ということになる。







ある状況下でうまくいった方法が、

別な状況下でも通用するとは限らない。

そもそも通用しない方が普通である。





今の成熟時代には

定型的な正解は用意されていない。







よって、これからは既存のモデルを容易に変革し、

創造できるフットワークの軽い組織を目指そう、というのが

リゾーム派生のざっくりとした目的である。







これから何回かに分けて、過去の歴史と

現在の組織の類似的問題点を探ってみたいと思う。





☞ ☞ ☞





さて冒頭で、文明はそれが興隆した理由によって、

滅びることになる、と書いた。





滅びる最大の理由とは「志向性」である。

ベクトルや目標といった、向かうべき「着地点」を指す。





現在、大手企業が合併統合を繰り返しているが、

実は「着地点」が戦国時代の原理と全く同じなのだ。







どちらも志向性(着地点)が「成長・拡大」、

刺激的な言い方をすれば「制覇・征服」と言える。







日本の歴史上、最大の急成長を遂げたのは

ご存じ、豊臣秀吉が作り上げた「豊臣家」である。







豊臣家は滅亡した。

後継ぎがいなかったことが大きな原因だが、





私はそれよりももっと根本的なものが

組織に内包していたのだと思っている。







それが豊臣の組織に共有されていた

「拡大と成長の志向性」である。







これがこそが「興隆した理由によって滅びる」

最大の原因である、と思っている。













長くなったので続きます。


2015/01/06

自己組織化について

教えてないのに自然に秩序がうまれてくることを「自己組織化」という。
自己組織化は現在、多くの企業が取り組んでいる。


私の提唱するFC構造は自己組織、リゾームである。
リゾームといってもただの根っこではない。
各人の目的達成があり、例えるならば「種イモ」のようなイメージである。



さて、私が取り組もうとしている「リゾーム組織構築プログラム」の抱える問題は、
現状、この産業がないに等しいということである。


つまり、製品化にもできないので利用者がいない。
利用者がいない為市場は掴めないし、収益構造だって生まれない。



まるで荒れ地を耕す移民のようである(笑)
ただ、好きでやっているのでこれはビジネスというよりも普及活動に近いかもしれない。



ハイポニカのトマトよろしく、私の想像したように種イモは勝手に育つのだろうか?


そんなこんなで今回のテーマ。


☞ ☞ ☞


さて、自由な環境でこそ自主的な秩序は生まれるのだが、
それは官僚主義の組織では、ほぼ不可能だ。


力が中央に集権化されるとき、
そこには奴隷制度とほとんど等しい状態が出現してしまう。


だからといって集権化が絶対的に悪いのではない。
要は集権化された場合、その権力の取り扱い方なのだ。


自己組織化は取り扱いが難しい、
なぜならキッチリと厳密に定義できない。


歴史を見れば、自由主義という名を借りた社会主義にすぎず、
現在の日本でも、人が人を監視するという全体主義へと向かっている。


これでは一昔前の「村社会」と変わらない
自由の脅威とは、監視者の裁きすら自由だという事だ。


私は、それを防ぐためにルール(規律)を作る必要があると考えた。
それ以外である、状況や環境に依存する全ては、個人の自由に任せるといったものだ。


ただ、ここからが問題である。
リテラシーレベルはあまりにも多様なのだ。


ちなみにドゥルーズは多様性について以下の5つを倫理とした。


・自分の遺伝子を発現させすぎない
・他者と共にある自分を発現させすぎない
・他者を発現させすぎない
・発言したもの全てを世界に住まわせる
・私達の世界を多様にする


この5つだけが倫理的な愛であるとされる。
一般的な愛の概念とは違う、全てを受け入れはするが、
自分や他人を「発現させすぎない」というのだ。



つぎに以下の条件を見てみよう。
これは渡り鳥の自己組織化に関するプログラム(枠)だと言われている。


・近づき過ぎない
・離れ過ぎない
・同じ方向を向く


渡り鳥の秩序はたったこれだけ、とても分かりやすい。
秩序を維持するにはシンプルであればあるほど良いのかもしれない。



上記ルールは抽象的ルールである。
逆を言えば秩序の抽象的側面にのみ力を発揮するのであって、
具体的な側面については力を持たないのだ。



それは時々、個々のケースによって変わるもの。
状況によって当てはめる事で初めて効果を発することが前提である。



つまり厳密かつ具体的な条項を規定せず、抽象性を重視するのだ。



ほどほどに合わせ(抽象的集合)、ほどほどに揃える(抽象的秩序)。
この抽象的な概念が科学や数式では絶対に定義できない「状態の定義」であり、
発現させ過ぎないというドゥルーズの多様性の概念である。



ここで「例外処理や対応はどうするか?」という課題が生まれる。
概念的な大まかな枠である以上、何が正解か分からず混乱する恐れがある。



よってヒューリスティック(自己発見学習)的に蓄積させるという事が必要である、
包摂アーキテクチャと書くと機械的だと批判されそうだが、
抽象概念であるリゾームを理解する為にちょっと触れておこう。




包摂アーキテクチャは、複雑な知的振る舞いを多数の「単純」な振る舞いモジュールに分割し、振る舞いのモジュールの階層構造を構築する。各層は何らかの目的に沿った実装であり、上位層に行くに従ってより抽象的になる。各層の目的は下位層の目的を包含している。例えば、食物-食事層による前進行動という決定は、最も低レベルな障害-逃避層の決定でもある。それまでのAIの技法とは異なり、包摂アーキテクチャではボトムアップ設計を採用する。

例えば、ロボットが持つ最下位層として「物体を避ける」という振る舞いがあり、その上位層として「うろつきまわる」という振る舞いがあり、そのさらに上位に「世界を探索する」という振る舞いがある。このような階層の最上位にあるのはそのロボットの究極の目的である「地図を作成する」という振る舞いかもしれない。各層は全センサーのデータを参照でき、アクチュエータを操作できる。ただし、他のタスクが入力を横取りしたり、出力を上書きしたりすることもある。この場合、下位層は高速な適応機構(反射)に相当し、上位層は本来の目的に沿って行動を導く制御を行う。フィードバックは主に環境を通して与えられる


��wikiより引用)



ここで重要な点は「フィードバックは主に環境を通して与えられる」という部分。
つまり先に設計図が書けない性質がリゾームなので常に流動させる必要があるのだ。



そのプロセスで学習するという「プロセスからのスタート」がリゾームである。
ピンと来ないかもしれないが、やりながら目的を掴む、という事だ。



そこではいくつかの「トリガー」が必要となる。
その一つがHPやこのブログにも書いているフィロソフィー、経営哲学だ。



もちろんそれだけではない、そこにはビジュアル化できない
「枠や間や拍子」、「適度な距離感」もある。



このように、概念を見えない暗黙知として広げるだけでなく、
最小公約数の認識をいかに可視化させるかが重要である。



googleを始め、facebookやウィキペディア、
アップルストアは全てリゾーム式である。



グーグルの企業価値は時価総額約12兆円以上、
さらに社員数が2万人と少ないことから、従業員一人あたり時価総額は6億円(!?)である



ちなみにアップルは約5億円、日本のトヨタは約3000万である。
端的に言えば、リゾームはツリーの何十倍ものポテンシャルを秘めているのだ。




☞ ☞ ☞



現在の人材マネジメントや組織マネジメントのコンサルタントは
既存のツリー組織においては優秀な成果を与えてくれるかもしれない。




しかしツリーはいつになってもツリーであって、自然と変わるものではない。
新しい組織を構築する為には一度、全部チャラパーにする必要があるのだ。



我々が考えるべきは、やって失敗するリスクと、やらずにいることのデメリット、
どちらのほうが大きいのか?ということだろう。

型にはまる

こんばんわ、坂口です。


新潟行きが、ちょっと延びそうですが、
寒くなる前に行きたいものですな(笑)



さて、前回に続き3回目となりました
守と、自然派生の揺らぎ・遊びについて。



相変わらずの長文ですが、ではでは・・・




☞ ☞



守とは言わば型であり元であって、
自然には派生しない、とお伝えしました。


そこから来る「破」であり「離」こそ、
自然派生であり、主体的な創意工夫なわけです。



よって守だけ、型だけで固定してしまうと
今のような「答えを欲しがる人」が増えてしまう。



これが「型にはまった」状態です。
それが楽だから、安住してしまう、と。



ただ、世の中答えがないものが大半ですし
幸せは「型」の中にはありません。



それでも楽な「型」を選んでしまう。
これは現代病なのかもしれませんな。





今の時代は片手で結果が出る時代、
マウスをポン、スマホをポン、チャンネルをポン、です。



下手すれば人との関係性でさえも
「イイネ」をポン、と押せば出来ると思ってる。



そんなバカなことはありません。
それで繋がる関係性って、脆いもんですよ。



だから頭だけでなく、実践によって
体験することにこそ、守の意味がある、



僕はそう思っています。



☞ ☞ ☞



これは教育の土台でもあります。
言わば、今ある議論のもっと前の部分です。



だって教育は思想の建造物ですから、
思想が変に偏っていたら、教育も変に偏るわけです。


じゃあ、その変な偏りとは何なのか?というと
なんと、国家の偏在でもあるんですな。



戦後教育とか言うじゃないですか。
あれで国民の意識がゴロっと変わったわけです。



意識が変われば社会は変わり、
やがて無意識的な型を作りだします。



親がそのまま「型」にはまれば、
当然、子供もそうなります。



だから初めは型ありき、なんです。
モラルの欠如とか言われますが
モラルなんて、まさに共通した「型」でしょうが。




よって、「正しい型」を共有した多様性、
これが正しい。


☞ ☞


最近「子供は抑えつけないで自由に」と
言ってますけどね、正しいのは半分以下ですよ。

だってそうでしょ。
頭に入ってない状態で脳が勝手に
「善悪の区別」を作りだせるわけない。


野良ネコみたいに道路に飛び出すし、
高層マンションのベランダに出たりと
危なっかしくて目が離せません。


だから最初は教え込むわけです。
これはやったらダメ、これは危ない、ってね。



「ちゃんと座って食べなさい」とか、
「お行儀よくしなさい」とか、
いちいち、わざわざ、繰り返すんですが、



子供って親の言う事は聞かない反面、
親のやることは、言われなくとも上手に真似します(笑)


つまり「躾」とは頭にいれる知識じゃなくて
身体的な「表現」ということ。



よく「様になる」っていうでしょ。
それって、その人の立ち振る舞いから
形式美を、感じてるわけです。



それは面影として残ります。
子供はそれをベースにして、模倣するんです。


☞ ☞



身体と心は繋がってますから、
精神的なものは、高度化されます。
それがいわゆる「恥」という概念です。


「これをやっちゃー、人としてお終めーよ」
ってやつ、いわゆる応用です。



なぜなら「人として」という型がある、
ただ、肝心の「ヒト」の定義が分からないと
身につきません。



これも人工的でもあり、自然なもの。
だから昔は「恥」を教え込んだんです。



今はどうでしょうな。
どうも自由に負けちゃってる気がします。





村上春樹の「アンダーグラウンド」には
駅員のインタビューが書かれてましたが、
なるほど、言い得て妙です。


駅員が掃除し、掃き終えた所に
タバコをポイ、と捨てる人がいる。



そんな社会でサリン事件が起きたのは、
不思議な事じゃない、と。



現代はモラルより自我主張が強い、
結局はそこに繋がる気がしますわ。


とまあ、最後は仕事の守とは全く違う
方向に行ってしまいましたが、



まあ、ブログは僕の部屋ってことで、
ひとつご勘弁のほど・・・(笑)


縁と所縁(ゆかり)

この間、千葉雅也氏の著書
「動きすぎてはいけない」をamazonで購入しました。

動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学/河出書房新社
¥2,625
Amazon.co.jp

サブタイトルはリゾームの生みの親である
ジル・ドゥルーズ。

内容紹介にはこう書かれています。

もっと動けばもっとよくなる
もっともっとつながりたい



……動きすぎ、関係しすぎて、ついには身動きがとれなくなった世界でいかに生きるか。待望のドゥルーズ入門。


なるほど、過剰接続と言われる
SNS社会の警告でもあるようです。
(まだ届いてないんですよね)


今日はそんな繋がりについての小話を。





さて、人類がまだ農耕をしらない時代では祖先を同じと信じる者同士が寄り集まり、部族を形成したと言われます。



男は狩猟、女は採取。共通項の神話や伝承があり、象徴や紋章を結集の証として、同族意識を高めました。これは今もなお、未開の地に住む遊牧民に見る事ができます。


やがて文明が生まれ、農耕が伝わります。農耕の起源はいくつも諸説があるのでここでは省きますが、それによって共同体の形態が一変します。



今まで血縁をモニュメントで色濃く繋いでいたのが、それよりも同じ土地を耕す者同士を結ぶ「地縁」が重要になったのです。


それは形而上とも言える「創作的繋がり」から、生産手段としての「合理的繋がり」という、形而下での結合。


農耕社会はこうやって「場所的な繋がり」を色濃くし、排他性を持ちます。それがいわゆる「村社会」です。


なるほど、「水は血よりも濃い」という言葉は
土地と水利を守っていた時代を象徴していますね。






そこから産業革命により血縁や地縁に縛られた人達は解放されました。否、崩壊と言うべきでしょう。マルクスのいう「何物をも持たないという意味で自由な労働者」です。



ただ、我々は経済だけで繋がるほど強くありません。物質や労働力の交換とは違う「共有意識」が必要です。それが血縁や地縁に代わる新しい縁(職縁)なんですね。単なる労働交換の場ではなく、公私が入り混じった共同体です。


これが一番馴染んだ(?)のがこの国だと言われます。なぜなら、この国には宗教意識が非常に薄い事が考えられます。また民族性が単一に等しく、人種差別もない。話す言語も(方言はありますが)共通です。


多くの人が都市部へ向かった高度経済成長期には
地縁も血縁も、あっという間に崩壊したんですね。


逆を言えば拠り所にする場が「職縁」のみ、となったのです。


昔、「24時間働けますか」というコピーがありました。サラリーマンが仕事熱心なのは企業への忠誠心や勤勉気質だけではありません。それは職場と言う共同体に「安心感」を求めているのです。


帰省ラッシュの様子




ただ最近のリストラや倒産、企業30年説を見ればこの「職縁」も崩壊しようとしています。だからでしょう、冒頭のような「過剰接続」は無意識的に、どこかに安心感を求めているような気がします。



現在、そのどこか(インフラ)がないまま
SNSによって「繋がる」インフラが先に作られています。



そこで生まれたのは緩やかな「全体主義」かもしれません。



もっと動けばもっとよくなる
もっともっとつながりたい


動きすぎ、関係しすぎて、
ついには身動きがとれなくなった世界でいかに生きるか



昔は「しょーがない奴だな」で片付いていたのですが、
批判、吊るし上げ、炎上は日常茶飯事です。



自由に縁を生み出せるツールも
場合によっては監視・管理の手段となります。
適度な距離感(ほどほど)が一番難しい。



それは、安心できる拠り所がないまま繋がることで起こる
一種のジレンマなのかもしれません。




新しいインフラは何でしょう。
僕らを縛るもののない共同体は何でしょう。




それを提示する為にも多様を認め合うリゾーム派生を考えてたりします。






2015/01/01

分と加減2

前回に引き続き「分と加減」です。



僕が伝えている加減の定義とは色々な意味を含んでいるものをメタファーとしています。それは最適化であり分別であり了見の事です。この分別の「分」というものは、この国ならではの美意識です。それは暖簾分けの「分」であり、自分であり、気分であり、分担を表します。



前回、二宮尊徳は仕法と分度の思想を伝えたと書きました。収入を上回る支出は必ず破綻する。よって「分を弁え」それに応じた生活や事業を行う事が分度の意味です。




例えば、8代目将軍である徳川吉宗は庶民的な感覚、質素倹約の精神を持っていたと言われ、享保の改革を行いました。改革を行った理由は商人達を抑える為だといいます。家康も江戸の活性化の為、商人(商売)に重心を置いていた反面、商人を一番警戒していたと言われています。


商人が諸外国の貿易によって分を超え拝金主義へ傾き、お金によって人を支配するようになることを恐れていたのです。人の心性なんてものは今と何ら変わらないのですね。



その後、家康の予感は当たり、商人が起こした江戸資本主義によって今の政治家ともいう立場の武士は金を湯水のようにつかい、幕府の財政はどんどん悪くなっていきます。これをどうにかしようとして行った改革が享保の改革なのです。



そもそも江戸時代の国作りの基礎となっていた「士農工商」は身分差別ではなく、それぞれが分度のように「分をわきまえる」事が目的。お互いが尊敬し、各自がお互いの役割に誇りを持つことで、調和するためのものでした。よって(武士以外)希望すればどの職業にでもなれたのです。


吉宗の政治は一部の問屋商人からは嫌われた将軍なのですが、庶民の声を聞く目安箱を見るように、積極的に下の声に耳を傾ける人でその功績から後に「中興の祖」と言われます。まあ、吉宗には色々と黒い噂はありますが、結果として潰れそうになった幕府を立て直した名君ですね。



ちなみに織田信長も活性化の為に商人の楽園を作った人です。有名な「楽市楽座」は安土に来た商人は無税とし、商人達にとって楽園のような場所にしました。まるでコモンズの悲劇ならぬ喜劇です。その影役者には蒲生氏郷という天才経営者がいて、彼が西川利右衛門を始めとする近江商人や会津商人を育てたと言われます。



蒲生氏郷がまた男から見ても惚れそうな仁義の持ち主で、有名な話に「蒲生風呂」というものがあります。蒲生氏郷は貧しい大名時代でも、たくさんの優秀な家来をもっていました。当然、他の大名は不思議に思います。なぜ給料が満足に払えないのにそんな優秀な家来がたくさん集められるのか、と。
なぜ集まったか、というと蒲生は誠意を家来に示していたのです。手柄を取った家来を家に呼び、自ら風呂を沸かし、湯加減まで見ていた。今でいう社長の立場である人がそうやって態度で示したのです。当然、家来達は心を打たれた。蒲生の家来達は結束力が抜群に高かったそうです。



先ほどの商人たちが金に狂ったのと同様、
人の心は何年経とうが変わらないですね^^


☞ ☞


最近、右だ左だ、やれ中央だと世間がやかましいのですが、どっちにせよ、極へ向かえば悪くなるのは世の常、理です。歴史振り返れば、自我欲求による勢いが強まる時、必ず方向性を最善にする動きが起っています。振り子は必ずバランスを保つ、中空構造でいう「ゆり戻し」です。それはまるで日本版の「神の見えざる手」のよう・・・理性だけではなくこういった人間精神では説明できないものがあるんだと、最近思います。




余談ですが、カントは理性を批判し、ヘーゲルは理性側に着きました。個人的にはカントの方が分を弁えていたように見えます。哲学の限界を知り、その境界線をスパッと引いたのですから。






「吉宗って聞くと暴れん坊将軍が出てくる・・・」と思った方は
office unreveの公式ホームページも、ぜひ一緒にご覧くださいませ(笑)


分と加減

無頼派文豪である坂口安吾は裕福な家に生まれながらも、薬物中毒で躁鬱病でギャンブル好きという破天荒な人生でした。自我だけを愛し、自我と共に生きることを正当化した著書が「堕落論」です。


~私はただ人間、そして人間性というものの必然の生き方を求め、自我みずから欺くことなく生きたい、というだけである。私が憎むのは「健全なる」現実の贋(にせ)道徳で、そこから誠実なる堕落を恐れない事が必要であり、人間自体の偽りざる欲求に復帰することが必要だと言うだけである。人間はもろもろの欲望とともに正義への欲望がある。私はそれを信じ得るだけで、その欲望の必要的な展開については全く予想がつかない~(堕落論p128)


安吾氏が様々な思想や哲学によって回帰した答えではあるけれど、僕は賛同できません。結果論から見れば、これは単なる快楽主義です。「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」というのが自論だった坂口安吾は49歳にして亡くなりました。はたして、彼は自らを救えたのでしょうか。



プロセスは分かる、けれど拒絶する・・・
そんな矛盾した答えが僕の中にあります。


今回はそんなとこから分と加減の小話を。








西洋思想の根幹をなすエゴ(自我)は人間の一部であり全体である以上、捨て去るものではなく、向き合わなくてはいけません。問題はその「向き合い方」、エゴは拡大するだけで加減を知りません。



料理で例えるならば、アメリカは塩をドバっと入れてその帳尻を合わせるためにまたドバっと水を入れるようなもの。必然的にアメリカは大味で、それを良しとしている所があります。基本的に加減を知らない為、繊細な味は出せない(出したくない)。ボリュームとカロリーだけはやたらと高い(笑)




そんな帳尻合わせが大の苦手なもんだからグローバル化したりFRBで無尽蔵にお金を刷ったりしながらでもどうにか合わせる(合わせるけれど重ならない)。
「微妙で曖昧」なものを、「チマチマしている」と思っているので、食べ放題、取り放題、やりたい放題というものが自由だと思ってしまってる、端的に言えば彼らは「放題」が大好物なのだ。だからぶつかればお互いの主張は強いし、止まらないので弁護士が白黒付けないと気が済まない。「しつけ係」の宗教でさえ、取りこんでしまっているのだから、余計にタチが悪い。



ただ、この方向性が上手く行けば、ロケットとか特効薬とか新技術をバンバン作る「革新」になるし、排他的・閉鎖的じゃないオープンな関係性だって作れる。大事なのは方向性です。



日本の生活様式も今まではデジタル化、いわゆる白黒論を優先していました。それは合理的で効率的な選択しなのですが、そういった判断は、無味乾燥なものと表裏一体です。だからでしょう、最近、白黒ではなく灰色といった曖昧な答えや、それに伴った「気遣い・心配り」が目立ちます。



多様な自我を最善へと向ける。
そんな矛盾したものを合一させるのはこの国のお家芸です。



二宮尊徳の思想「報徳」は裏を転じて表にするという循環性を説きました。元々は論語から来ています。報徳には勤労、分度、推譲の3つのルールがあり、分度とはunreveの加減。自ら判断し、ブレーキをかける事で、そういった自律的な加減をこの国では「裁量」とも呼んでいます。


そんな自我を抑える自己、利己を抑える利他はマクロもミクロも過去も今も変わらず続いているのですが、継続性を考えると「分や裁量」という自律の精神はこれから大事になってくるのではないでしょうか。


長くなったので次回に続きます^^


unreveの事業内容について




                        
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初めまして、中小・個人向けフランチャイズ支援を行っているunreveです。



では簡単にunreveが支援する内容をご説明いたします。

少しの間お付き合いください。





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「うーん・・・最近倒産が多いな・・・・」




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グッさんの一期一会ブログ

「ん?フランチャイズ展開か・・・・そんなノウハウも知名度もないよな・・・」



「・・・・けど、どこでも最初は個人自営だったりするもんな」



「・・・・。」







「聞くだけ聞いてみるか・・・。」






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「どーも、担当の○○です」



「宜しくお願いします」



「大丈夫ですよ、フランチャイズの事ならお任せ下さい」





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「え!構築費用1000万!?」




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「社長、契約書のリーガルチェックからシステムからマニュアルまで作るんですよ。確かに高額ですけど一度作ればFCという資産が出来あがるんですから」。




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「うーん。。。しかし失敗した時を考えると・・・・・」




グッさんの一期一会ブログ



「そんな弱気でどうするんですか」



「あわわ・・・・」



「大丈夫、当社にお任せください」



「や、ちょっと・・・・・」



「加盟金を高く設定すればすぐに回収できますって」



「・・・・・・。」



「さあ、今ならモニター価格で安くしますから」



「・・・・・・えっと・・・ごめんなさい」



グッさんの一期一会ブログ

「ヤバいヤバい。FCの知識が足りなかった」





「契約書は確かに大事だな・・・・・」





「急激な展開をして失敗、訴訟問題か・・・そりゃそうだ」





グッさんの一期一会ブログ




「加盟店の売り上げが上がって本部も成長するのが基本だよな」



「つまり加盟店とは運命共同体だ」



「構築費用なんて加盟店には関係ないもんな」



「とにかく実用主義で安くしよう」






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「ども。unreveのグッさんです」





(・・・・なんだか頼りないな・・・・・)





「何だか頼りないな、と思ったでしょ」



「・・・・・・・」



「直接訪問でお話しを伺いますか?必要なければ費用は一切頂きませんので」



「はぁ・・・・。ではお願いします」



数日後
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「宜しくお願いします」




(・・・・やっぱ頼りないな・・・・・・・)





「やっぱり頼りないな、と思ったでしょ」



「・・・・・・・」



「ちなみに加盟店募集営業はやってないんですよ」



「えっ?それは何故?」




「自論なんですが結婚相手を他人が探すのと同じような気がしませんか?」



「・・・・・」




「そもそも加盟店募集と教育こそがFCビジネスの基幹業務です。

これが
自力で出来ないというのであれば、 FC展開は難しいかも知れません」

「うー・・ん・・・じゃあ何をしてくれるんですか?」



「それ以外は全部します。成果報酬型なら募集もしますが」



(だからこんな価格設定なんだ・・・・)




「そうです。この形が一番理想だと思うんです」



(・・・)


「ロゴの製作、契約書、法廷開示書、各種マニュアル・プレスリリース・説明会プレゼン、研修資料、管理システム、名刺、ユニフォーム、SVの指導方法等、全てご用意できます」



「・・・・どうやって希望者を集めたらいいんですか?」




「それも含めてアドバイスします、強制は一切ありません」




(・・・・ちょっと期待できるかもしれんな)




「ちょっと期待できるかも、って思ったでしょ?」




「・・・・・・・」




「では、ヒアリングさせて頂きます」




゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚




実際ここまで馴れ馴れしくはありません(笑)





以上の流れでFC展開をしています。

損金計上なので税金対策で将来の資産を作ってみてはいかがでしょう。




仕組みを作れば将来の選択肢が増え、結果事業安定化に繋がります。

イメージが「一大事業」だと比例するように費用が上がるのが特徴のFC展開。




通常、同業界でのコンサルティング料金は、

¥3万~という相場設定。





実際に同業種の内容を調べてから依頼するのをお勧めしています。

当然金額だけなら、まだ安い所はあるかもしれません。






unreveはFC本部を構築・展開していくためのノウハウを提供し、

アドバイスをしながら、作業代行、経過チェックのサポートまで行います。





アフターフォローは3ヶ月です。

年間契約という縛りはありません。新規事業でお考えの場合、社員を雇用するとなるともっとコストとリスクは膨らむでしょう。




初心者の方や、業界へ興味を持ちながら参入への不安を感じている所は多いです。




特に、興味はあっても、なかなか周囲に相談できる人が少なく、壁が高かったと思います。



それがインターネットの普及によって、その壁は取り払われました。





当然直接会った方が理想です。

直接訪問、直接支援もスケジュールが合えば自ら出向かせて頂いています。

そこでご縁があれば時間の許す限り支援させて頂きます。




機密保持契約上、守秘義務を徹底していますのでご気軽にご相談ください。