2015/01/27

花伝書「序」

さて、我々人間には動物の生き方と、

植物の生き方の2種類があります。

それは「農耕」と「狩猟」の違いでもあります。





動物の生き方とは、例えば自ら目標を決め、行動し、

未来を開拓します。





空腹になれば他の動物と戦います。

力の差によって制する事もあれば、制される。





これが動物の生き方であり、今までのビジネスモデル。

男性社会とも言われるものです。





反面、植物の生き方とは女性性の生き方、

植物は自らが望んでその場所に生えたわけではありません。





誰かが植えたのか、それとも種子が風に乗って落ちたのが

「たまたま」その地だったのか。





自らの意志でその場所に、生まれているのではありません、

場合によっては劣悪な環境の時もあるでしょう。





しかし、いったん根を下ろせば、全力で大きく根を張り、

水や栄養を自らで吸収します。





枝を伸ばし 葉を広げ、そこから太陽の光を受けることで

静かではあるけれど、力の限り努力をします。





これが植物の生き方です。










木から離れ、独立している葉っぱというのは

あり得ません、構成する全ては木(全体)の一部です。





にも関わらず、我々は自分が独立した一生命体だと

時おり誤解してしまいます。





unreveではそれを「自我中心(ego)」と呼んでいます。

それは、我々にこんなことを囁き続けます。





「成長しなくてはダメだ」



「もっと強くあるべきだ」





常に不足感をもった「それ」は満たされることがなく、

お金、名誉、地位などで埋めようとしますが、

決して満たされることはありません。





「まだダメだ」



「もっと必要だ」





そう言い続ける自我とは樹木に対しては反の位置、

動物的な生き方といってもいいかもしれません。





だから動物には消えない欲求があるのです。

食べなくてはいけないし、寝なくてはいけないのです。



それに対して「自己中心」とは

樹木と「合一し、一(非)となる」ものです。





自分が「ある側面からすれば」他に全面的に

依存している完全な理解であって、

独立して生きていない、という絶対的な証明です。





それによって自我は根こそぎ否定されます、

まさに絶対自己否定からの「植え替え」が起こるのです。





この理解度が低いと、

怪しい宗教になるのでご注意のほど(笑)





☞ ☞





このように、利己的に、自己肯定的(自己正当化)で考え、

語り、行動するということはまさに独立した「葉っぱ」である以上、



独立した個人ではないと完全に理解すれば、

そういった考えはなかなかできないことです。





故に「動物の生き方」という独立した個人(男性性)の時代は

終焉(転換)を迎えている、のではないでしょうか。



☞ ☞



さて、この自我否定によって、

肯定的な自己は出てきようがない、と書きました。





しかしそれでは自己肯定感が低いじゃないか、と

思われる人も多いでしょう。





もちろん、これで終わりではありません。

なぜなら、自我中心であっても、全体として

反逆した一部としても、我々は生きていけるからです。





見れば、どこまでも我を通し、反逆する自我の世界と、

その自我をそのまま受け入れている世界があります。





ありのまま「の」自分を承認してくれている反面、

ありのまま「が」自分ではないと否定している。





言わば「否定の否定」、主役であり脇役、主体かつ客体。

これは(端的な)絶対矛盾的自己同一であり、



三浦梅園の剖対反比図一合、一即多、多即一の原理。





あらゆる宗教はその主人に神を持ちだし、

精神世界では宇宙とやらの大いなる意志を持ちだし、

科学ではその主人に数式を取り入れましたが、





上記のどちらも「100(絶対)」の証明であって、

同時や矛盾(無常)を絶対(常)としていないんですね。





悟りとか、目覚めとか大層なことをせずとも

そんな感覚さえ持っていれば、人に優しくできそうだと思いませんか?





長くなりましたが、

以上、花伝書「序」でした^^


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