2012/07/16

マルチチュードという主体




ルネッサンス期を代表する政治思想家である
マキャベリの著書「君主論」では、統治者が
権力を獲得し大衆を管理するために
何をなさねばならないかについて書かれている。



そこで出てくる「マルチチュード」という言葉、
これは欽定訳聖書の中にもある政治概念である。
(欽定訳聖書とは国王の命令によって翻訳された聖書)



マルチチュードとは、中央制御が及ばない、
多数性が主体になっているいうこと。
つまり特定の誰かではなく、どこにいるのかも特定できない。



つまりそれは「特異点を持つ者」の総称なのだ。



後にスピノザがその概念を引き受け
「国家論」や「エチカ」を、



またアントニオ・ネグリとマイケル・ハートは
スピノザとマルクスを融合させようと試み
「帝国論」として世に送り出した。



まとめようとしてもまとまらない。
今回はそんな「マルチ」な小噺(ちがうか)。




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一部の特権階級層がどうにかして
システム化(ツリー)にしようとしているのは
今も昔も変わらない人間の習性のようなもの。



しかし一部の人間が作る秩序(ツリー)に、
異質で巨大な無秩序(リゾーム)がぶら下がるような構造は、
本来、非常に不自然なのだ。



結果、それに抗うようにマルチチュードの反乱が起きる。
それは同一構造である限り、誰がやっても同じ結果だろう。



しかも、ツリーを切り落としても無秩序である根が、
同じように少数のツリーを作る、と。



なるほど「まとめる」という段階で
すでに落とし穴に入り込んでいるのかもしれない。


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テオドール・アドルトは個人の真理追及への願望は、
いつのまにか、「頑固な自己認識」へと変わる
可能性があると示しているが、つまりそういう事だろう。




一見正しい道へと向かうようだが、
「反」の精神性では、永遠に統一されることは
不可能ではないだろうか。



そもそも論で言えば集権化した思想は必ず墜落する。
エスノセントリズムという名の「独立運動」も同じ事だ。



価値ある創造とは、マルチチュードを解放する。
決して「一部のアンチ解放」ではない。




個人的にですが、そう思っています。



2012/07/10

かに座のヴィーコ



蟹座は直感と感性と母性の星座だと毎回言われる。
なるほど、確かに僕は論理より感覚で決定するタイプだ。


暇人な僕は、歴史上の人物で
一体どんな人物がいるのか調べてみた。



なるほど、ヘルマンヘッセやガウディがいる。
ルソーにサンテグジュベリ、ルーベンスがいる。


二宮尊徳にヘミング・ウェイ、カフカにジャン・コクトー、
極めつけは、ジャンバッティスタ・ヴィーコである。



改めて驚いた、
見れば全員、僕が好きな人ばかりではないか。

ということで(?)
今日は蟹座の偉人、ヴィーコについての小話でも(笑)


ヴィーコ - 学問の起源へ (中公新書)/中央公論新社
ヴィーコについて書くと、テンションがあがります。





さて、ヴィーコはスピノザ同様、
反デカルト主義である(もともとはデカルト主義)



数学信仰であるデカルト主義者の認識論に対し、
ヴィーゴは、必要なのは「認識可能なものと
不可能なものを区別する原理である」という立場を取った。



しかし、これは排除目的の批判ではない、
ヴィーコはそれらを統合させようとしたのだ。



つまり「閉じられたテキスト」だけではなく、
「開かれ、編集されるテキスト」も必要、と言う事である。




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当時はデカルトの教育手法がメインであった。
それは幾何学を取りれた「クリティカ」、


それは会話を削ぎ落としたシンプルなもの。
合理的でスマート、まさに現代の「システム」だ。


反面ヴィーコが取り入れたのは「トピカ」、
「発見の知」と言われ、共通する「感覚」への注目である。



見れば、デカルトとヴィーコは「相補的」であって、
対立ではなく「共存」しているのが分かるだろう。



完全なる知の秩序を目指したデカルト、
そして、その「裏面」であるヴィーコ、



そんな矛盾が裏表として同一化している。
まるでルパンと銭形警部である(笑)









ヴィーコは自身の学問体系「トピカ」を絶対化していない


「どちらの方法も欠点を持つ」、
ヴィーコはこう切り出した。



トピカは虚偽を捕らえ
逆にクリティカは真を捉えようとしない。



つまりどちらも「真理っぽいもの」に近づくことしか
出来ないのであって「そのもの」を手に入れる事はできないのだ。




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あらゆるものは相対、逆を言えば「相補」、


現代は理論(科学)へバランスが傾きすぎている
僕が世間に問いたいのは、この「偏在」している事実だ。





2012/07/09

巫女舞い



神子神楽では処女の巫女が、神懸りするのを巫女舞と言います。
つまり太古の踊りとは、降臨の儀式でもあったんですね。


巫女が交互に旋回運動をしだすと、やがてトランス状態となり
神が憑依し、神託を得る、と。


これは神招(かみお)と呼ばれ、古事記や日本書紀では
岩戸隠れにおいてアマノウズメが同じように神懸かりして舞った、とされます。








「舞」という言葉の語源は、この巫女舞の旋回から来ていて
踊りの原点だとも言われてますね。



意識を超えた行為を無我夢中といいますが
とても類似している気がします。



肉体が精神に近づき、精神が肉体となり表面化する。
純粋経験とはそんなものでしょう。



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最近、この状態が天職なのかもしれないと、
個人的に思ってます。アイデアや発想も
この時に降りてくるんじゃないかな。




つまり、その仕事自体が独立して存在しているのではなく、
人の生命活動が結果としてそういった名詞となっている、と思うのです。



一見、仕事と自分が分かれているようですが、
行為が「働いている」という、労働の形を取っているだけで、



それは本来、人間の生命活動の一側面であり、
一つの存在を別の角度から眺めた結果かもしれません。




我々は、何かいい「仕事」はないかな?とか
楽で稼げる「仕事」はないかな?と探したりします。



ただ、そんなものが独立して存在してるなら
その仕事をしている人全員が同じ状態になってないといけない。



弁護士や医者が全員金持ちかと言えば、
そうではない人も意外と多いと分かります。



つまり、同じ仕事なのに結果が違うと言う事は
仕事の結果とは「自己の表現次第」だという証明じゃないでしょうか。



「儲かる仕事」は存在せず、
あるのはが夢中になった結果、儲けたと。







何度か経験したけれど、最近は経験がない。




また、その領域に達してみたい今日この頃ですな。


2012/07/08

最近のグッさん

この間、タイのコンテンツ案内が届きました。
多分、あの人経緯で来たんでしょう(笑)






後援が経済産業省の中国経済産業局みたいです。
なんで中国なんだろ?



今月と来月は予定が埋まってるので
行けないんですが、こういった場所にいくのは好きです。



こっちのビジネスを持っていくだけでなく、
向こうのビジネスも取り入れる、相互交流って大事ですよね^^



資料を見れば、タイも映像技術を積極的に取り入れ
クオリティもとても高いものがあります。
(あとスパとか)



ただ、飲食店は接客を始め、
質においても、まだこちらの方が強い。




相互の啓蒙って意味では、グローバルも
大事ですよね^^



☞ ☞



さて、現在手掛けている案件も面白く(かつ壮大に)
なってきました。




前面に出て、バーンとやるのも良いですけど、
黒子でやる楽しさは、距離感が分かってないとできません。



良い意味で手から離れて行く。
やる人はやる、やらない人はやらない。
待つ人は待ち、諦める人は諦める。



主体は相手ありき、
それをコントロールする事はできません。
そういったちょうどいい関係だからこそ、
ここって時には、濃密な場が生まれるんですね。


男は40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たなければならない
リンカーンの有名なセリフである。



この間37の誕生日を迎え、
もうすぐ40だなぁ、と思ったらなんだかゾッとしてしまった(笑)


性格は変わらないと言うけれど、
毎朝、鏡で見る自分は日々変わっていく。


否、性格もまた、変わっているのだろう、
それこそ徐々に皺が刻まれていくように。



ちなみに、顔と言うのは
自分の内側から作られるらしい。


今日はそんなところから…




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日々私たちの容姿は変化する、
否、ほんの刹那の瞬間で変わることもある。



斬首刑を宣告されたマリー・アントワネットは一夜にして
頭髪が全て白髪になったというが、たぶん本当だろう。



我々はそんな経験はまず起こらないが、
痛みや苦痛の表情は誰だって経験している。



逆に嬉しい時は喜びの表情を、悲しい時は悲しみの表情。
感情と表情はまさに表裏一体である。



感情は一時的ではあるが性格はどうだろう?
個人的に人格は表情に現れると思っている。



目は口ほどに・・・・というように、
年を重ねるにつれ、容姿はその人の内面や本質を表している。



本来、人はそれが直感的に分かっていると思う。
その人の人格や生き様を多分、感覚では分かってるのではないだろうか?



だから冒頭に書いたようにゾッとする、
3年後、私は自分の顔に責任を持てるのだろうか、と(笑)



さて、偉大なる功績を残したり、天才的な才能を持った肖像画を見れば、
普通の人の容姿とは間違いなく異なっているのが分かるだろう。



特に文化や芸術分野の天才の顔、哲学者などは
その独創性からか、孤独や苦悩が昇華したような顔をしているし、



有名な経営者は人への感謝を心から知っている顔もあれば、
全ての人が自分より下だと思ってるような顔もある。



他人を信じられない、平気で裏切る顔。
正直すぎて騙される顔、信頼できる顔。



同じ顔は世界に2つとないけれど、不思議と共通する感覚知、
これは人間の無意識と意識の狭間の感覚なので表面化できる。



多分人の顔は見た目が良い、悪いといった単純なものではない。
第一印象、見た目とは外見ではない気がするのだ。




それはもっと深い所にある「フック」に何かが引っかかるようなイメージに近い。

2012/07/02

平櫛田中について

彫刻家に平櫛田中という名人がいます。
107歳まで生き、生涯作品を作り続けた芸術家です。


当時、平櫛の作品(そもそも彫刻)の依頼などなく、
何を作っても売れなかったと言います。


それでは生活がままならぬ、と言う事で
同業者を集め尋ねた先が、前回の記事にも書いた岡倉天心です。


岡倉天心の以下のようなアドバイスが
今後の平櫛田中の人生を変えます。


売れるようなものを作ろうとしているから売れないのです。



欲や自我にまみれた作品は二流である、
売れない物を作りなさい、必ず売れます。



資本主義の時代では考えられないセリフですね。
普通のコンサルなら「第一に顧客の需要を満たせ」と言われます。




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この言葉の意図はこうです、
売れる物を作ろうとすればすでに心が捉われている。
何とかして売ろうとすれば心は曇り、世事世俗の作品となる。




そんなものはかえって売れない。
はからいは捨てよ、捨てようとする意識さえも捨てよ、と。




高村光雲の技術指導と、そんな岡倉天心の教えを
平櫛は自己の思想に組み込み、構築しました。


それこそが、彫刻のうちに「理想」を表現するという田中芸術です。





有名な「幼児狗張子」





平櫛田中を名人たらしめたのは
こういった「師」がいたからこそではないでしょうか。




守破離の精神は茶道だけではなく、
日本流の編集文化そのものなのです。




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さて、芸術家と文化、ビジネスを結びつけるのは
ナンセンスだ、と思うでしょうが



現在、多くの企業が取り組んでいる「独自性」や
「クリエイティブ」な活動とは、まさにアーティスティックなもの。


無駄をそぎ落とし、極限にまで追求していけば
その製品は日本刀に代表されるような美しいフォルムの芸術作品となります。


コンサルの理論しかり、飲食しかり。
どんな業種・業態でもそういえませんか。



つまり日本流の仕事とは表現(アート)になる。



女性はフラワーアーティストやネイルアーティストなど
実に多様な分野で表現されていますよね^^




接客業であれば、お客様という観客がいて
師事する人達は演じる俳優のようなもの。



いかに観客を楽しませるか?喜びを表現できるか?
商売は究極、そこにあるんじゃないでしょうか。