2015/06/29

一番大事なもの




ある子供が質問しました。


「世界で一番大事なものって、なーに?」











母親
「良い会社に入って
良い生活を送ることに決まってるじゃないの」



教師
「その為に勉強しないといけないね。
だから一番大事なのは学び、勉強だよ」




社長
「いーや、それよりも独立して稼げ。
それがお前の人生を豊かにする」




フリーター
「そーかな、それよりも自分らしく生きなきゃ。
人間らしく生きないと、人生後悔するよ」




パスカル
「ではその人間らしい人生という
その人生とは何か。
それを知るための理性こそ、一番重要である。
我々は考える葦なのだから」




マズロー
「自己実現だよ!そんでもって
そこから先にある利他行為こそ、最高のものさ!」




ソクラテス
「否、我々が理性で把握できることなど限界がある
無知の知を知ることから、すべては始まるのだ」




カント
「否、人間が志向すべき最大のテーマは
普遍的な真善美である」



キリスト
「君らは誤解している。一番大事なのは愛、
隣人を愛する心なのだよ」




マルクス
「愛で空腹は満たされるか?
食欲こそ、我々に一番重要なものだろう」




医者
「偏食の君が書いた資本論のせいで、
世界中でいったいどれくらいの人間が死んだというのだ。
大事なのは健康、当たり前じゃないか」





フロイト
「いやいや、性欲だよ」



釈迦
「足りるを知れ」




ベンサム
「それを決定するのは最大多数によるものである」




アインシュタイン
「やれやれ、君らの言う絶対とは、相対的だね」







子供
「お前らうっさい、もういい。自分で探す」




「それ、正解」。









2015/06/25

水無月、誕生日に思う。




どうも、坂口です(゜゜)


今日は、僕の誕生日。
なんとか無事、39年生きることができました(笑)




週末、みんながお祝いしてくれるとのこと。
とても楽しみです^^




それと同時に、unreveも創業5年。
おかげ様で、すくすくと成長していますよ~





てなわけで、今日は超個人的な
自己回帰の記事でも。








今でこそ、矛盾だの加減だの書いてますが、
20代の(オタクだった)僕は、
人生には本当の答えがあると思ってました。



「時代も、国境も超えた普遍的人生論は客観的に証明可能か」




この「面倒な問い」に捕まってしまった以上、
半ば仕方なく、その答えをどうにか
証明してやろうと思ってたんですが、



調べれば調べるほどに、答えがなく、
底なし沼に落ちていくような感覚でした。



それと同時に、底(答え)に到達してしまうと、
そこから先には何もないという現実によって
生きる意味を奪われてしまうような恐怖もあった。




そこで求めながら、いざ手に入れることを
拒絶するという、矛盾に葛藤してたんですね。




まるで片思いを究極の恋愛と思う
青二才のように(笑)



☞☞☞



結論。「生きる意味には
絶対的な答えなどあってはいけない」。




多分に、終わりのない問いへと
向かう態度にこそ、本来があると思うのです。



知らないからこそ探求したいと願い、
手に入らないからこそ、強く求める。



つまり「欠けてる」ものがなくては
求めるという意思は成立しない以上、
ニコイチ、補完の関係性となっている、と。




例えば、一生満腹になる薬があったとすれば、
「食べる」という意味自体が消えてしまいますよね。




その都度、空腹にならなければ
満腹への意思は生まれない。そうじゃないですか。




☞☞




意味を失うということは、「停止する」ということ。




そして永遠の停止とは生きることではない。
鉱物であり、記号であり、化石、生きていない(=死)です。




この顛倒の真を知ったとき、長年
かかった問いの答えがようやく腑に落ちました。




生の絶対的意味を追及した先にあるのは
対極である「死」の絶対的定義であるという、
メビウスの輪を体験したわけです。




この回帰によって、僕は正解や絶対を
提示する輩に、「NO」を突き付けてきたんですね。




んな極端なことしなくて、
良い加減でいいんじゃないの、と。




☞☞☞




正解がないことが正解の世の中であれば、
多様で、それぞれがそれぞれの意味を見出せる
生き生きとした社会になるでしょう。




僕は理念を絶対的な幸福への志向性と
言ってるんですが、




現在、その正解を相対化し、一つか二つに
絞ってるからこそ、苦しいんじゃないですかね。
(上場とか、売上とか、規模とか)




多分、人間は放っておけば比較し、競争し、
支配するという、マキャベリズムのような思考を持つのでしょうが、




生き方や考えは、あくまでも自分の世界だけに
限定されるものであって、こうやって
ブログに書くくらいでちょうど良いものです。




ここに書いてるのは僕流の考えであって、
それは字面でしか表現できない以上、
様々な捉え方をされるのは当然のこと。




実際の対話は相手ありき、
言葉は頼るものであって、やっつけるものではありません。




これを僕は「思想の鎖国」と言ってますな(笑)







言葉は言の葉であり、事の端。




そんな噛み切った言割りであるからこそ、感応、感性といった
内部派生を大切にしてます。





生命は 自分自身だけでは
完結できないようにつくられているらしい 




花もめしべとおしべが揃っているだけでは不十分で 
虫や風が訪れて めしべとおしべを仲立ちする 



生命はすべて その中に欠如を抱き 
それを他者から満たしてもらうのだ 



私は今日、 どこかの花のための 虻だったかもしれない 
そして明日は 誰かが 私という花のための 虻であるかもしれない




吉野弘「生命は」より






2015/06/23

加速する時代を眺める②




先日は夏至。
もうすぐ6月も終わろうとしている。




水筒の水ではないけれど、今年も
あと半分しかない、と思う人もいれば
まだ半分もある、という人もいるだろう。



ただ、僕を含め「もう半分も過ぎたのか」と、
思ってる人が多いのではないだろうか。



まさに現代は「せっかちな時代」、
せっかちとは本来、「急き勝ち」のことである。



「勝ち」は勝ち負けではなく、癖のこと。
なるほど、我々はいつしか待つということが
耐えれない癖がついているのかもしれない。



ビジネスのリズムも早ければ、技術も速い。
見切りも早ければ、刈り取りも早い。
新卒者であっても、即戦力を求められる。



まさに、「プロ」の世界である。



しかし、酒の発酵や果実の熟成などは
必ず一定の期間が必要となってくる。




人間だってそうだろう。
十月十日という時間を待つことで、
命は形成されていくのだ。







経済成長という国家の壮大な理念によって
待てないことが正当化されている。



全ては成長の為に、と。
ただ、経済成長率のトップ10のほとんどは
リビアを始め、内戦や独裁国家、貧しい国である。



この「成長率」のをカラクリを
知らない人は多い。



我々は、成長と聞くと疑うことなく
「良いものだ」と思いがちであるが、



当たり前に使う言葉であるからこそ、
その意味を深く理解しなければならない。



☞☞☞



「いいじゃないか、それは良い未来を
早く手にしようとする積極的な態度だ」と
言う人もいるだろう。




確かにそういう面もある。
しかし、個人的にその「未来」の前提には
大きな間違いがある。



そういった姿勢は、実は本質的な未来を
視野には入れていないのだ。



なぜなら、それは自分の頭の中だけで
組み立てた枠内においての「未来」であって、
それを一刻も早く手にしようとする態度に過ぎない。



言わば、未来を待ち受けるのではなく、
迎えに行くようなものだ。



であるならば、それは未来ではなく、
予め決定した視野の中にある「計画」の決着と言えるだろう。



☞☞



フッサールは「未知は既知の一様態である」と
言っているのだが、本来のそれは不確定である。



もし、読者の皆さんの中に計画通りに
人生が進んでいる人がいるなら、一度お会いしたい。
多分、そんな人はいないだろう。



完全な「自主制作」など、できない。
自ら作りながらも、自ずから作られるものだ。



理念などの意思(志)というものは
不確定な未来に対する、志向性だけれども、
それは未来完了形の先取りではない。



紆余曲折するときもあれば、全然予想外の
方向へ向かってしまう事だって大いにある、
それが普通である。



そこで過剰に「確定」を求めれば、
些細な現象や変動を見逃すまいと
過剰に感応してしまう。



そうなると、事態の変化に対する過敏さによって
逆に認知そのものが不能になってしまう場合もある。




なるほど、
佐々木小次郎は「待つ」ことが純化しすぎて
待つ以外、考えれなくなったのだが、




そういった精神は現代の病理に
通じるものがあるような気がする。



☞☞




もちろん、これは流されても良いという
安易な答えではない。



それはひたすらの受け身である、
この「待つ」姿勢に対する、信仰と覚悟である。



例えば、育児ほどこの「待つ」が
求められるものはないだろう。



どんな子に育つのか、それはわからない。
期待と不安が入り混じったまま、親は待つのだ。



やがて待っていることすら、
忘れてた状態で「待っている」。



その時、我々は自分を超えたものに
従っているのだろう。




「後記」



現代はスピードの速さに体が慣れてしまい、
何かにつけ、飽きっぽくなっているようだが、



それは本来の人間ではない。
せっかち同様、時代から植えつけられた癖である。



大量消費至上主義において、
知らないうちに一つの物を使い続けることが
できなくなっているのだけでなく、



何かを継続して続けていくことができないのは、
時代の影響でもあるだろう。




消費者の感性が変わってくれば、
欲するものも当然、変わっていくはずだ。










2015/06/22

ハードとソフトの継承②




前回に続き、二回目です。





さて、何かが長く続けばエントロピーによって
無秩序へと向かってしまう。



そこで、生命は自ら古い秩序を
リセットするかのように破壊していると
前回書きました。



組織は秩序を維持しようとして、
固定してしまいますが、それでは逆に
形骸化、腐敗してしまう。




そこでこの国では、自然派生的な循環を
人為的な様式として、取り入れていたのです。




前置きが長くなりましたが、
今日もそんなところから。。。







変わらないために変わるという状態の維持とは
温故知新であり、決して保守主義ではありません。



守破離も次の創造のためにある。
つまり、伝統を守ることと、革新することは
対立概念ではないんです。




「式年遷宮」などもそうですね。
戦国時代を除き、1300年続いていますが、
これは常若(とこわか)といって、常に若さを保つためのものです。




そもそもこの遷宮は、モノ(建築物)を
残すというものではありません。



コトである知恵や精神をも受け継いでいる。
ハードだけでなく、ソフトも継承しているんですね。




弥栄の仕組みでお伝えしたように、
そんな回帰による温故知新の精神こそ、
日本流の根幹なんです。





☞☞☞



反面、西洋はモノ(ハード)だけを維持しようとしますが、
その技術を支える(ソフト)が抜け落ちています。



だから世界の遺跡は外見のコピー的な
再現しかできないんですね。謎のまま、ということ。



もちろん、パソコンがプログラムなしでは
動かないように、それでは建造物は生き返らない。



各自めいめいに解釈こそすれど、
根幹である「意味」はさっぱり分からないでしょう。




そりゃそうです。
肝心の支える精神がないんですから。




以前書いたように、
それを思い出さなくてはいけない。



☞☞



ハードとソフトの継承、温故知新。
この精神が本来の日本流ですから、
事業継承であるフランチャイズもそのようになるのが本来です。



しかし、今は形式上のマニュアル管理、
上記で言えば「目に見える姿形」しか継承していない。



これが近代、ことさら今の社会を
形成しているのですが、



そうなっているのには、
根の深い理由がある。



それは明治以降、西洋的であるハード重視の
精神が浸透していった頃まで遡ります。




明治維新は、江戸を植民地化するために
高い精神性である「大和こころ」を徹底的に
排除するためのものだったんですね。


「開国」という策略に、まんまとハマったのが明治の始まりなわけです。



「時代を変える革命」の真の目的は、
変わった後にやってくるものだった。


史実はネットで調べれば分かりますので割愛しますが、



こうして、明治政府の極端なまでの西洋化、
つまり富国強兵、中央集権、産業振興などによって
本来の精神性がどんどん排除されていきました。



そんな背景、学校じゃ学びません。
そのための画一化教育ですから。



こうして文明開化や近代化を目隠しに、
肝心のソフト、生きる様は失われていたのですが、



どっこい、根幹はそんなに軟じゃない。




☞☞



ちょっと話がズレましたが(笑)
unreveの日本流の根幹は精神の継承です。



伝統とは、たやすく受け継がれて
いくものではなく、努力して得るもの。
永遠の自己限定として創造するもの。



そして、創造的になるものは常に歴史的、
当時の精神を思い出すことでもあるんですね。



単に過去に従って生きるというものではなく、
懐柔的に振る舞うものでもない。



情報を持つことが「権力」になっていた時代は
もはや遠い過去のこと。



今の情報は、いつでも、どこでも、リアルタイムに、
簡単に、公に、拡散されていきます。



故に、自らの振る舞い方、あり方が
求められるという、一種の精神的パラダイムが
起こっているわけでしょう。





もうそろそろ回帰する時期に
入ってるんじゃないでしょうか。



ハードとソフトの継承①





メタボリズムは、1959年に黒川紀章や菊竹清訓ら
日本の若手建築家・都市計画家グループが開始した
建築運動。



新陳代謝(メタボリズム)からグループの名をとり、
社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。


wikiより。



こんにちわ、坂口です(゜゜)



今では中年太りの別名となったメタボですが、
かつては先進的な建築概念だったんですね。


メタボリズムは、新陳代謝によって
古い細胞が新しい細胞に入れ替わるように、



古くなったり機能が合わなくなったりした
部屋を新しいユニットと取り替えを可能にしようというもので、
当時、社会の成長や変化に対応できると思っていたわけです。




ところがどっこい
現在、この概念で作られた建築は一度も
新陳代謝することなく、老朽化しています。




なぜか。




それは「代謝」の概念が
表層的な部分だったからでしょう。




今日から二回に分け、
日本流の本質について書いてみます。



かなり深いところを突っつきますよ。




中銀カプセルタワービル



本来のメタボリズムとは何か。



それは変わらないようにする為、
常に変化し続ける状態を内包することです。



変わることで変わらない。
生命の動的平衡というものは、
上記のような表面上の入れ替えではないんですね。



エントロピーの増大によって
形あるものは崩壊し、金属は錆び、
熱あるものは冷める。



生命はそれに抵抗する為、
「あえて」自らによって破壊することを選んだのです。




率先して分解し、酸化したり損傷した細胞を
どんどん「吐き出す」ことで、動的平衡を
維持させてるんですね。




この概念があらゆる生命に該当するならば、
組織という人の集合体でも同じことが言えるのではないか。




ここに「本来の」日本流と、
その素晴らしさがあります。




さて、それはいったい何でしょうか。
続きは次回。




2015/06/21

右か?左か?




日本流というアイデンティティ、
君が代、日の丸、ジャパンイズム。



スシ、ゲイシャ、ニンジャ。
オーケー、ニホンゴ、チョットチョットわかります。




さてさて、日本流などと書くと言われるのが
「あなた、右なの?左なの?」というもの(笑)




あらら、それって翼ですか。
翼君のことですかね。





(゜゜) フム




僕は日本流という心性こそ、大事にすれど、
そういった観念というものが全くないんですわ。



僕なりの日本の精神が好きであって、
これが日本国家だと言われると、正直よくわからない。




当然、お国の為に死ぬ気などない。
200%、さらっさら、ない。





ちょっと真面目に説明すれば、
愛国心というものは、国家を愛すことです。


しかしこの国家というものが観念である以上、
頭の中にある共同幻想、フィクションなわけでしょう。



フィクションを愛せ、というのは
二次元の女性を愛せ、と言ってるようなもの。



「どこにあるの?」と言われたら、
はて、どこにあるのか。答えられない。




そこで「空気読めよ」となるわけだ。
そんな同調圧力によって、王様は裸ではなくなる。




国民もそう。一体誰を指しているのか。
誰も答えられません。



つまり「僕らって同じだよね」と思わせ、
イデオロギーが通過しやすいように
集団化させるための概念なわけでしょう。



スピリチュアルの言う「ワンネス」など、
特定の恣意がない以上、特に害はないので
放っておいてもいいのでしょうが、




これが一つの志向性を持つと、
何をしでかすか、わからない。



否、冒頭を見れば分かりますよね。



国を愛するもの同士が右と左に分かれ、
喧嘩するんですよ。




反面、伝統や文化というこの国の言語から
形成された歴史というものは幻想ではありません。



つまり現実に存在する、確かなもの。
だから愛せるし、大事にしたいと思いますが、



国家とはいったい、何を指すのか。
読者のみなさん、「国家とか何か」、答えられますか?



人工的に秩序を形成し、富の再分配を行う機関?
それ、やってますかね。実際。




そもそも、そんな「方法」をどう愛せと?




☞☞




その点、アメリカや中国などは人工的な
観念国家である以上、確固たる国家論もあるでしょう。



だから中国の故事成語には完璧があり、
アメリカには統一宗教があるのです。




なるほど、我の強い国ほど他人の
意見を聞き入れず、強く否認してしまうのは、



逆に整合性のある話を「作り上げてでも」
一つの世界を維持しようとする、やむにやまれない
心性の裏返しなのでしょう。





☞☞



しかーし、この国はそうじゃない。
一つの正義を目指す独裁者や、
完璧な秩序が馴染まない心性なのです。




この国は八百万。
あらゆるもの(多)に神性(一)を見ます。




さらに未完の美、余白の美がある
空白や余白をあえて作り、遊びや揺らぎをもたせているのです。




そういや、ツァイガルニック効果は
「人は完成したものより、未完成を好む」というものですが、




多分に、完成という概念自体が
同時に「崩壊」を内包しているのを
無意識的に感じているからかもしれません。




我々には、到達できないゴールの設定と、
到達できる地点の両方が必要なんでしょうね。






あっ、ちなみに冒頭の答えは「両手」です。





2015/06/19

じぶんの歴史とは



こんばんわ、坂口です(゜゜)
今日は歴史についての小噺でも。










前世を知りたい、過去世を知りたいという
人が意外に多いようです。



当然、この論理は輪廻転生というものが
前提としてなければ成立しない以上、
遊び心で捉えるくらいがちょうど良いのでしょう。



無になるのか、それとも消えることなく
輪廻する連続体としての有なのか。



本来のそれは、死というものを主観的に経験しないと
分かることはありません。



誰だって生きている以上、死について語れない。



臨死体験とか、死後の世界というものが
脳内で起こった現象なのか、そうじゃないのか
ハッキリしない以上、断言できるものじゃありませんね。



「子供は生まれてくる時、親を選んでいる」とか
言われてるようですけどね、これほど無責任な発言はない。



なぜ無責任かといえば
この「生」という偶然を「あなた」が
必然と捉えようとする解釈だから。



この考えがカーストを作ったわけでしょう。
それと同じパターンになってるわけだ。



個人的な物語を真理だと思う心性。
この物語というものの「語り」は「騙り」に他ならない。



以前「私の前世はどこぞの王国の貴族だった」と
いう人がいたんですが、




それがどうした、と。
それより現実の歴史の方がよほど大事です。



僕であれば、40年近い歴史の素材があって、
それによって、自分というものを知ることができる。



「今の」自分を見て自分を知ろうと思っても、
都合よく解釈するか、卑下するかの二択でしょう。



☞☞





過去を知るとは「心性」を知ること。
先ほどの例でいえば、そう捉えようとする「こころ」を
理解することです。



それは証拠を知ることではない。
そんなもの、考古学者のやることです。



古墳があった、文明の跡があった。
いついつ年に何々が起きた、と。


ただ、それらを集めても過去を知ったことにならない。



今で例えるなら、あの発明をした、ああいった発言をした、
あのようなビジネスを立ち上げた、を
知るようなものです。



そんな客観的証拠をかき集めたとしても、
その人の心性を理解したとは言えないわけだ。




そこに自分の主観的「解釈」があって
初めて、関心ごととして生き返る。




もしその人の発言に嫌いな部分があるとすれば、
なるほど、自分の中にもそういった部分が
あるのだろう、と知ることができますよね。




だから教師だけでなく、
反面教師も必要なんでしょう。



☞☞



日本流を理解する、ということもそう。
歴史的な証拠を知っても、何もわかりません。



前回書いたように、根底を流れる
純粋持続、精神を知らないといけない。




それは子供の頃の自分を調べるのと
まったく同じこと、単にその時間が長いか短いかの
違いに過ぎません。




例えば、昨日の自分というものは過去です。
今現在、どこにもありゃしない。



1秒前、1時間前、1年前、
どこを切り取るか、どのような切り取り方をするか。
そんなものは自由です。



ただ、それを「決定している」のはまさに
客観的に眺めようと思う主観であり自力以外にはない。



そこに反省や内省の本来がある。
過去が眺める今の「主観」が、即、客観になってるでしょう。




「あの時はあの人の影響を受けてたな」と思えば、
その時点で自分を客観的に知ったことになるわけだ。




つまり過去が今の自分を見ながらも、今の自分が
過去を見るという、二重の認識がある。




これって、当たり前のようですごく不思議です。
では、変わらない「ありのままのじぶん」とは、どこにあるか?



グラグラしてくるでしょう。
自我中心なんて、そんなもんです。




そんな移り気で、影響されやすく、
飽きやすい自分だからこそ、



変わらない、という「思い」を言葉に出す。
そうじゃないですか。




☞☞



絶対的な客観、客体などありゃしない。
常に人生は主観的客観、主客未分(自己中心)でしょう。




「みんなの世界は一つ!ワンネス!」。
「これが正義で、これが悪だ!」




そんなもの、犬に噛まれた経験のある人間が捉える
「犬の定義」と似たようなもの、嘘をつけだな。




本質を考えるとは、この「犬そのもの」について、
考えることに他ならない。






2015/06/18

加減と間の概念




こんばんわ、坂口です(゜゜)
今日は前回お伝えした「間の概念」について。









僕の好きな時間は、夜から朝になる「あいだ」







さて、太陽系の惑星は岩石ばかり、
また、極端に熱いか冷たいかのどちらかです。




地球とは全然違いますよね。
この星はまさに適度という状態を維持している。




生命は、そんな「加減」によって作られ、
我々は今の気温だからこそ、生存することができています。




なるほど、植物もあれば、動物もいる。
有機物だけでなく、無機物だってある。





静的と動的がこれほど混じり合ってるなんて
不思議だと思いませんか。




僕は、この宇宙で「あいだ」が自然派生していることに
只々、驚くばかりなんです。




複雑なようにみえて、実はシンプルな
規則に従っているようにみえますが、



このシンプルさというものの底が見えない。
その神秘性さゆえに、哲学者や科学者たちは魅了されたのでしょう。



☞☞



見れば、世界にはあらゆるグラデーションによって、
明暗のコントラストが生まれています。



馬が駆け、ライオンが走り、サイが突進する。
ラクダは歩き、ゾウやカメはゆっくり進む。



この「速い・遅い」というものは、
比較によって初めて認識できるもの。



全員が同じくらいの具合であれば、
それは早いとも遅いとも定義することはできないでしょう。



なぜなら、単体というものは
それだけでは「認識」できない。




美が醜によって成立しているのも、
世界が一面花畑になっているのを想像すれば
容易に理解することが可能です。




我々はよく負の側面を忌み嫌いますが、
それは性質上、必然のもの。



だからこの国は「儚し」というものを
否定的に捉えなかったんですね。



全てはコインの表裏の関係性であって、
裏がなくては表は存在しないじゃないか、と。





☞☞


このように、自然の働きに注目すれば、
宇宙の真実っぽいものを映していることがある。



それを我々は自然法則と呼びます。
自然派生こそ、理性を超えたものではないでしょうか。



例えば、どの惑星も丸く、自転している。
これはミクロの原子だってそう。




雪の結晶も必ず6角形の星形で、
デザインがそれぞれ違うようになっているのもそう、




多様なものの中に存在している
共有した「一つの」パターンが
「即、多」様性となっているのです。




故にリゾームはリーフありき。
そして、それらを超克したものが「間」の概念です。



理念は共有した一つのパターン(型)、
そこから多様性を生み出すのであって、


unreveは本部と加盟店を繋ぐための
「あいだ」なんですね。







現在、エコシステムと呼ばれる
経営手法が注目されていますが、
それは企業同士が協業すること。



その為に「あいだ」である中核企業が、
バランスを取る必要があるのです。




まさに関節であり、ノード(接合点)





この「あいだ」にこそ、
新しい市場の種があるのではないでしょうか。





2015/06/17

理念とパワー




坂口です(゜゜)
今日はちょっとお堅い口調のお堅い記事で。



理念に興味がある方だけ、どうぞ。



マンデラ氏の記事はこちら





理念とは何か。
それは端的にいえば思想であり、意思である。
これに異論はないだろう。



その思想が空想と完全に異なるのは、
そこに「力」があるかないか、その違いだといえる。



その力だけは自分で得るしか方法はない。



自分で考えているつもりで、その実、
何も考えていない大衆に対し、ニーチェは畜群と呼んだ。




なるほど、
自分で考え、判断し、責任を負うことを
放棄した人間(近代)を罵ったわけだ。




著書「力への意思」は、そんな彼の
思想の根幹である。



☞☞



行動の原理となっているものは見えない力、
終わりなき永劫回帰の中、向かう志向性が「力」である。




そんな見えない意思の強弱は計測できない。



腕力や握力などと違い、精神は数字では出せない。
だが、我々は他者の意思の力を「感じる」ことはできる。



例えば政治家は大声でマニフェストを声明するが
我々は「何も感じない」のは何故か。



まさに、そこには意思の力が欠落しているのだ。




意思の力は固定・断定的にはならない。
姿のない「それ」が狙いを定め、事挙げするのが理念であるが、
本来はそれを否定することで現れる。




なぜなら、理念の本質は「パワー」だから。
そして、その力と情熱の働きが「態度」として、ようやく姿を現すのだ。




継続は力への意識による態度か。




言わずもがな、そうである。




☞☞




現在の理論や体系を打破し、新たなる
ものへ向かおうとする態度は、現実との決別でもある。




現在ある理論や通念、権力。
なんでもいいのだが、現在あるものを超克しようと
試みる態度に力は宿っている。




結果、現実の実生活とは必然的に逸脱する。
理念が慣れ親しんだ現実を否定する以上、当然だろう。




企業理念は、現実をうまく渡るための処世術でもなく、
現状の分析や改善でもなく、強迫観念でもなく、
小説家がいうような、何の役にも立たないものでもない。




では何か。
ここから先は本人にしか、わからない。






「後記」



unreveは日本流の理念を
守破離によって定義している。



一見、伝統継承と現在の理論体系の打破は
矛盾しているようだが、そうではない。




繰り返しになるのだが、
守破離は部分だけでは意味がない。
一連の流れによって初めて型となるのだ。




「守」は先人の教えを学ぶ時期だが、
それは、新らしいものを生み出すための「元」である。




「元」の徹底次第によって破のあり方が決定する。
劣化コピーとなるか、二番煎じとなるか、



それとも、継承による創造(オマージュ)となるか。



ここに、自分を否定することで現れる
「ありのまま」の本来があるのだ。




この原理は、ニーチェの言う精神の三態、
ラクダ(盲信)から獅子(脱却)、そして子供(創造)という段階と同義でもある。




2015/06/16

贅沢な時間




坂口です(゜゜)




最近はもっぱらアマゾンで買ってばかりの
僕なんですが、久々に丸善に行ってきました。




やっぱり、実際歩きながら本を探すのと、
ネットでの中身検索は全然違いますね。




ふと見れば、新刊コーナーに「道徳」の本が。




なるほど、文部科学省は将来、
道徳を教科化しようとしてますからね。



道徳を評価するということ自体、
相当的外れなことを言っているって
気が付かないのかしらん。



良い悪いは覚えるもんじゃなくて、
自分の心だけが知ってるもの、



だから昔の人は自分の胸に手を当ててみなさい、と
言っていたわけでしょう。



そうじゃなく、暗記による点数評価で
道徳というものの力が決定するのであれば、


それはいかに自力で考えないか、という
技術に他ならない。




☞☞




そもそも道徳なんて、法と同じ。
これをやったらダメ、という禁止事項や
これをやりましょう、という推奨事項です。



もし、それが正しいんだったら
「罪と罰」なんて、ただの喜劇になってしまう。



善悪はそんなに簡単に割り切れるものじゃない。
だからこそ、悩み、葛藤する。そんなの当たり前じゃないですか。




例えば、中国人には良い人も悪い人もいる。
日本人だって同じです。



これが本来の考えの土台なんですが、
それを現代は「曖昧」と感じ、モヤモヤしてしまう。



それより「中国人は悪い奴だ!」と言い切った方が
分かりやすいので、スッとするんですね。



日本流、西洋式、農耕型、内と外など、
発想のベースを二項として考える場合、
上記のような言い切り型は(一応)使えるんですが、



善悪という極端なカテゴリー分けは
おかしなジャッジをしてしまいがちです。
(ここは僕も気を付けてます)



なぜなら「脳は楽をしたがる」から。




楽な方へ流されれば、
単純な直列回路を好むのは当然です。





「ああすれば、こうなる」のハウツー本が
ベストセラーになりがちなのは、




内容云々よりも、考えずに結果が
手に入る感覚があるからかもしれません。




ジャンクフードと同じですよ、
毒だからこそ、美味い。



占いとか、引き寄せとか、スピとか、
たまに食べるくらいで十分です。




☞☞☞




気が付けば外は真っ暗、
座って読む場所があるから、つい長居してしまいました。



お腹が空いてきたので、
ラーメンを食べに、ラーメンスタジアムへ。



選んだのは、熊本ラーメンの桂花。
実は今まで行ったことなかったんです。





なんか。。。。すごい。



こちらはマー油を生み出した店。
東京にもずいぶん前からありますね。




ちなみに、桂花で修行された方が独立したのが、
ご存じ、「味千ラーメン」です。




なるほど、食べて納得(゜゜)




こうやって、一つの型は継承されながら
多様に広がっていく可能性を持っています。




それは決してコピーではない。
弟子がいくら真似しようと思っても、
どうしても真似できないものが師匠の個性であって、



それと同時に弟子の個性でもある。




これは型を合わせ、重ねた結果でないと
見えてこないもの。




守破離が飲食業に組み入れやすい理由が
ここにあります。



肉肉って感じ




ラーメン一杯にも、たくさんの物語がありますね。



ご馳走様でした(-∧-)




☞☞☞




昼間と違って、夜はまだ肌寒いんですが
これくらいの気温が僕にはちょうど良い感じです。






夜道を一人ぶらぶらしながら、
様々なことに思考を巡らす。




なんだか、とっても贅沢な時間です。















2015/06/15

白黒と結構





運転中、交差点で
停止していたときの話。




ん。
後方がなんだか騒がしい。








ドド、ババ、んバババン。







でた。
大音量なのに窓全開のパターンだ。





こんなの





その車、車線を変更して
ちょうど僕の真横に止まりました。





今までの中で一番五月蝿い。
そして渋滞。





ドド、ババ、んババん。






(゜゜)





ドド、ババ、んババん゛。



(゜゜) イラッ





ドド、ババ、んババん゛。






(゜゜#) イライラッ










ドド、ババ、んババ・・





(# ゚Д゚)うっさいわー!移動式クラブか!





と、心の中で叫んだ僕でした。




☞☞☞




そういや、目立ちたい、有名になりたいという欲求って、
みなさんの中にありますか?




僕はないですね。
注目されたら、変なこと一つできやしない(笑)




そもそも世間に広く知られるってことは、
全員が好きになってちやほやしてくれるわけじゃなくて、




必ずそれと同じ数、もしくはそれ以上の
妬みとか、悪意が集まってくる。




結果、U字のグラフのように、
二極の格差が激しくなるということでしょう。




つまり清濁併呑のグレーな自分の評価が
いきなり白黒ハッキリするってこと。
中間値がどんどん少なくなってくるわけだ。




目立ちたい、有名になりたいと思う人は、
それを覚悟してるのかしらん。




そう考えると、ある意味凄いなぁと思います。




叩けば、少なからずホコリが出る僕からすれば、
標的にされたらたまりませんな。




☞☞



これは僕の持論なんですが、
他人に注目、賛辞されることで承認欲求を
満たそうと思っても、キリがないと思ってます。



本来、自分を認められるのは
自分の他にはいない。



誇れる自分、自信の源泉がない以上、
自己顕示欲が起こるのは逆説として
正しいかもしれませんが、




本来は内実が伴うことで初めて
自然と名が通るのが道理であって、




その内実というものの評価を
自分で定義できず、第三者へと
求めてしまう欲求の向かう先というものは、
当然終わりがありませんので、
絶対数の拡大を目的にするんじゃないでしょうか。




ネットで言えば、イイネの数とか、アクセス数とか。
フォロワー数とか。








内部か外部か、結果かプロセスか。



こういった命題の多くに明確な答えなどありません。



以前「金儲けのどこが悪い」と言った人に
誰も悪いと言えなかったように、一律で判断できない。




その判断基準は自分の心の中にある、
だから悩み、葛藤するわけです。



その点、西洋は潔いというか、単純というか、
必ず白黒ハッキリさせます。



「肉が食べたいのか?魚が食べたいのか?」
肉を頼めば、肉好きだと判断される。それだけです。




だから「我々の敵か?味方か?」と迫り、
敵だったら、すぐ戦争を仕掛けるわけでしょう。




まさにそこには、間がない。
横軸に進む勢いはあれど、サイの突進と変わらない。




昔の人はそんな人を「間抜け」と呼んだわけです。







この国は、そういったどっちでもあって、
どっちでもない、という絶対矛盾を自己とし、
同一できる言葉を生み出しました。



「結構」なんて、まさにそうでしょう。
「いいえ、結構です」と、否定にも捉えられるし、
「結構な眺めですね」といえば、肯定にも使われる、と。





人形浄瑠璃、歌舞伎の作者である
近松門左衛門も「真実は皮膜の間にある」という言葉を残しています。





というわけで、次回は「間の概念」について
書いてみようと思いますが、




実に無理やり、間抜けな入り方ですな(笑)







2015/06/14

競争的環境の中で輝く個性




文部科学省のHP内にある
21世紀の大学像と今後の改革方策について
書かれていた内容を見てたんですが、




「競争的環境の中で個性が輝く大学」と、
ひときわ大きな文字で書かれていました。




・・・・・(゜゜)




まあ、ほかにも色んなことが書いてますが、
この「競争的環境の中で個性が・・・」という文面が
国家の前提(内部)を端的に表しているんだなあ、と
改めて納得してしまいましたな。



文部省が個性とか自分らしくという解釈を
どのように捉えているのかはわかりませんが、




そもそも生徒や教師ではなく
大学という機関そのものに対する個性とは、
いわば相対比較の特殊性のことであって、




さらに「方策」と「個性」は矛盾する以上、
全く違う方向に向かうのは間違いないでしょう。




言葉だけ時代に合わせてもねえ。
というわけで、今日はそんなところから。。。










「個性がない」と「自分がわからない」を
同じように考えてる人は意外に多いようです。



そうなると、自分に合った、相応しい、
活かせるものさえ、発見すれば良い、という
図式が生まれるんですが、




以前書いたように、「自分がわからない」まま
「自分に合った」ものを探している時点で
そもそもの前提が間違っています。



そこで「じゃあ自分を知れば良いんだな」といって
高いお金払って、自分を探しにいく人がいるんですが、




まさに井上陽水の歌のまんまやないか、と。




☞☞




個性は自分や他人が作為的にやるものじゃなく、
自然派生。少なくとも僕はそう思っています。




他人と異なろうと思って発揮する個性など
個性ではなく、顔かたちの違い。特殊性と同じです。



血液型や指紋が個性と呼べないように、
そんなもの、全員違って当たり前です。



多分、環境がどうであれ、他人がどうであれ、
「自分はこれしかできない」という、
一種の宿命的なものの自覚ではないでしょうか。




どうしてもこうしてしまう、
どう足掻いても、こうする事しかできない。



それを自分であると肯定する反面、
ひどい自己嫌悪になることだってある、



好きと嫌いを兼ね備えたもの。
否、それを超えているものと言っていいかもしれません。



それを「ああ、これがこの人の個性なんだね」と
「他人が」見つけ出すものだと思うんですね。



☞☞☞



カントの認識論的に、赤いメガネをかけてるから
世界が赤く見えるのは当然でしょう、という人もいるでしょうが、
そうじゃない。



個性というのはいわば世界(外部)ではなく
自己(内部)をこの目そのもので見るということ。



ちなみにこのメガネは価値観という
外部のフィルターですから、



このメガネを外せたとき、
初めて対話ができるのです。



これをかけているという自覚がない人は
偏屈な主義者で、傲慢な人間になりがちです。



だからその人の「分からない・できない」は
前提が「分かる気が最初からない」のです。



反論してやろう、欠点を見つけてやろう、
言い負かしてやろう、と意気込んでいる人と
どうやって対話ができるというのでしょう。



んなもん、できませんよ。
だから君子はそんな人を「危うき人」として
近寄らなかったんです。




☞☞



閑話休題、いつもの癖です。
人は自分の見たいように世界を見る以上、
自分の内部にあるものを、自分の外部に見出します。



自分の内部を他人に投影していることを忘れ、
まるで他人がそうだと言わんばかりに解釈するのは、



人の見る目(見方)がその人の内部を
端的に表しているからなんですね。



まさに「自分と世界」ではなく
「自分が世界」ということです。



だから、人によって人生は体験であり、
遊びであり、ゲームであるという人もいれば、



修行であり、苦痛であり、地獄だという人もいるのでしょう。





冒頭に書いている
競争前提の個性の発揮という世界は
みなさんにどう映っているか分かりませんが、





僕には利用価値としての個性、
単なるヒエラルキーにしか見えませんね。






2015/06/13

知ることより・・・・




こんにちわ、坂口です(゜゜)




パソコンの買い替えに伴い、
ガサゴソと押入れを片付けていたんですが、
懐かしい本が目に留まりました。








「知ることより考えること」。



ネットがこれほど普及する以前、
10年くらい前に出た本です。



思えば、今になってようやく
この言葉の意味が分かってきていますよね。
情報だけを知っても、意味がないんです。




ただ、これからは(今だからこそ、付け加えれますが)
「知ることより、感じたことを考えること」でしょう。



もちろん、内容はまったく色褪せてはいない。
逆に今だからこそ、多くの人に読んでほしいですね。



☞☞



良書とは、優秀なコンサルタントのように
滅多に出会えることがなく、多くは隠れたままです。
(あくまでも僕にとっての良書ですが)



それを発見したとき、喜びを感じるのは、
なんとなく感じているけれど表現できないモヤモヤを
言葉によって表現しているからでしょう。



それによって僕の人生が確実に
変化するだろうという実感がある。




人との縁は偶然的必然ですが、
本にもそのようなものが働いているかもしれませんね。



それらの点が線になり面になって、
最終的に「円」になってるから、面白い。



まあ、いつの時代にも
似たような人はいるものですけど、



変わり者にとって、理解者がいるというのは
結構な救いですからね。




☞☞



そんなわけで、ペラペラと読んでたら、
意外と覚えてました。




つい最近、読んだような気もすれば、
ずいぶん前に読んだなあ、という気もする。
記憶なんて、年齢と一緒で曖昧なものですね。




自分は自分であるという自意識の側(理性)は
じっと居座り、動かないのに対し、年齢だけは勝手に先にいってしまう。



そんな超越的な意識と時間的(実在的)な体との差異。
このギャップにおろおろすんでしょう。



そういえば、小林は還暦というものに対し、
「年齢とはこれに進んで応和しようとしなければ、
納得のいかぬ実在である」と言ってましたが、



ごもっとも。仰る通りです(笑)



2015/06/10

時代の変化に合わせる



こんばんわ、坂口です(゜゜)



さて、現在こちらの総窓口として
やらせて頂いてまして、準備にバタバタしてます。



研修の一部もやらせて頂きますので、
来月からさらに忙しくなりそうですが、



ブログは更新していこうと思います。
ちょっとした息抜きなので(笑)




ちなみにこちら、トヨタの5代目社長さんや
その道の第一人者も参加されていますので、
信頼の基盤は確かなものがあります。



地方での講演やフォーラムの開催も非常に
集まりやすい仕組みを持っていますので、



既存の事業とマッチングしそうだと思われる方や、
防災士として活躍したいと思われる方は
お気軽にメールして頂ければ、と思ってます^^





インフォメーションはこれくらいにして、
今日のテーマに入ります。



猫の手も。。。






みなさんもご存じでしょうが、消費者センターへの
問い合わせは毎年ものすごい数です。



潜在的な被害者数はもっとあるでしょう。
そんな中、特定商取引法の見直しを検討する
消費者委員会の専門調査会が開かれたようで、



消費者庁は苦情の多い訪問販売や
電話勧誘販売について、規制強化策を提案してます。



数年前から不招請勧誘規制(飛び込みの訪販の禁止)
が強化されると言われてましたが、そろそろ決定するでしょう。



また昨年、ベネッセの件があってからか、
いわゆる「名簿屋」にも規制が入りそうです。



今までの通販販売はほとんど「テレアポ」でしたが、
これからどんどん厳しくなるのは間違いありません。



今後、あらゆる業界で
視点を変える必要が出てくるのではないでしょうか。



☞☞☞




今は消費者が選ぶ時代。



よく「営業は断られてからが始まりだ」とか、
「何度も足を運べ」という営業論がありますが、



やっぱり、いきなり売り込みされたら
いい気分はしませんよね。




ですから、以前お伝えしたように、
「集める」ではなく「集まる」方法が必要です。



ネット集客を主流で考えるなら、さらに
インバウンド(集まる)が中心になってくるのですが、



大半の経営者さんが、
この方法をお好きになれない。



「スパムだろうがDMだろうが、とりあえず
大量に送ったれ!そのうちいくつか食いつくやろ!」と、
まるで漁師の投網のようなイメージです。



マス的な方法がダメだというのではなく、
そんな無作為なことやってたら、そのうちネットで
「迷惑な企業」だと認定されてしまう可能性があるのです。



学問に王道なしと言われるように、
やはり、日々の誠意の積み重ねが信頼を生みます。



それがあって初めて方法が活きてくる。
その両輪を回すことが、今後必要ではないでしょうか。







テクニックが先行すれば、徳とか、人格とか、
責任というものが面倒なものに感じてくるのですが、




これらはこの国の美徳。
次世代へ繋げていくべきものだと思います。
(もちろん、堅苦しくやるんじゃなくて)



消費者へ安心、安全、信頼という
当たり前のことを当たり前にやれる。



そんな心の型を継承するお店が増えたら、
素敵だと思いませんか^^?




というわけで、全国で素晴らしい事業を
されている皆様のご参加もお待ちしてます。





2015/06/09

わたしはわたし!




こんにちわ、坂口です(゜゜)


そろそろ蛍の季節ですが、
さすがに花火と違い、一人ではいけませんな(笑)



ということで、来月から始まる
祭りラッシュを楽しみに、仕事を頑張ってます。



あっ、仕事終わりのビールもそうだった。
(と言いながら、飲みながらこれ書いてますけどね)




お疲れ様~






さて、unreveの日本流事業継承は
事業を持続させるための、いち方法論なんですが、




誰かのビジネスに対して、
「自分が作ったものではない」という理由から
抵抗がある人もいるかと思います。



どうせ独立するなら、じぶんが作った
独自のものを!ってね。



僕自身そういったタチなんですが、
僕の事業の場合この「じぶんが!」という主体と
「継承」という客体の折り合いが必要でして、



そのため、簡単に影響される半面、頑なに拒絶もする
一貫性のない「じぶん」を理解しなければいけませんでした。




unreveでは、そんな自我(エゴ)と自己(セルフ)を
明確に区別しているんですが、こういった背景があるんですね。




それは「自らを分ける」という意味である
「自分」という文字にもつながるんですが、




ここらへんの詳細はデカルトさんに
お任せして、次に進みましょう(笑)



☞☞☞




unreveではこの主体を
「ある主体」ではなく、「成る主体」と言っています。




例えば会話の際、「僕は」こう思うだの、
「私は」これが良いと思うなど、
いちいち主語を入れませんよね。




「この案とか良いんじゃない?」


「そうなると、こんな感じで進むのかな」


「あっ、ちょっと待って。こっちの方は?」


「うーん、それはどうかなぁ」




多分、こんな感じじゃないでしょうか。




このように、対話の場においては
主体(第一人称)優先ではなくなるんです。
一人称優先はディベート(討論)です。



ここが日本流の重要なポイント。
自分(部分)より場(全体)を重視しているということ。



手前、自分、己、僕、私、俺などなど、
日本はたくさんの「わたし(第一人称)」がありますが、



第一人称を二人称にも三人称にも
使えるようにした結果ではないでしょうか。




なぜなら、場というものは初めから
存在しているのではなく、作られる(成る)ものですから。





☞☞☞




本来、対話や場というものは、
個人の主義思想の優劣を決めるのではなく、
場にいる相手との協創が目的です。




逆に言えば場というものは、様々な
客体の寄せ集めの結果でもあるんです。




私と言わない地点に到達するのではなく、
私と言うか言わないかが、もはやまったく重要でないような地点に到達することだ。




これはドゥルーズの「千のプラトー」にある
一説ですが、自己中心とはまさにこの地点のことであって、



対話による共創は、「自分」を超えている。
だからこそ、その場は勢いや熱を持ちます。



理念や志向性や決定者が不在であれば、
それは単なるグダグダの会議なんですが、



明確な理想があれば、そこにキャッチアップする
勢いはダントツに優れているんです。




☞☞



これは集団ではなく個人でも
同じことが言えます。
(厳密にいえば差異があるけれど)



たとえば、僕の目指しているものは
今まで縦横無尽に読み漁った本の中から
「なぜか好きだったもの」が繋がり、編集されることで
作られているわけでしょう。




そうなると「自分の独自性」とは結局のところ、
今までの経験が集まってできた「結果」なわけです。



そしてその経験は曖昧な「感情」によって
無作為に選んでいる。




まさに確固たる「思想」が
最初に存在しない、証明でもあります。




理性と感性の違いは「ある」と「成る」の違いなんですね。







話がちょっと複雑になってきましたが、
ベルグソンの「持続」とは、そういった過去の
経験を常に取り入れながら進む「さま」のことです。



つまり過去の経験や記憶によって
今の「じぶん」が支えられている。



よく「過去は過去、忘れてしまおう」といいますが、
我々はそれをベースにして今を生き、成長する以上、
消えたり無くなったりするものではない。



逆にそれがなくては、
どこに進むかすら、わかりません。



今の「じぶん」が過去を見ているのではなく、
過去が今の「じぶん」を見ているんですからね。



そしてその過去というものは
それまでの経験の寄せ集めである以上、
始まりも終わりもありません。




それだけが一貫して持続している、と。
これを純粋持続と呼びます。




精神も宇宙もそのようなものだと言うのが
ベルグソンの哲学の根幹にあるんですね。




ちなみに、遷宮の常若もそんな概念でしょう。
僕はそれをフランチャイズに応用しています。




さて、「わたし!」と叫んでいる私とは、
いったい、何を指すのでしょう。




この不思議さを知ると、宗教や
スピリチュアルの誤りがわかりますよ(笑)





愛しとーと




小雨の降る中、仕事で唐津へ。
こっち方面での依頼は初めてですね。



ヒアリングが終わったのが11時。
ふむ。なんだか今日はお腹が空いてるぞ。





ということで、昨年オープン以来
気になっていたこちらに行ってきました。




すでに観光名所とまでなっている
コラーゲンバイキングレストラン「愛しとーと」さんです。




でかい





こちらはコラーゲン入りの料理が食べ放題ということで、
毎日女性客で賑わっています。





たとえばこちらの豆腐もコラーゲン入りです。



 かき揚げも。



なんとカレーまでも|д゚)





しかも普通のカレーと比べ、
カロリーは半分以下です。
(確か70~くらいとか言ってましたね)





その他にもたくさんのコラーゲン料理の数々。






こりゃ、明日の朝はプルプルだな、と
思いながら食べてたんですが、




ふと見れば、岩本社長がスタッフとして
働いてました(゜゜)アラ





「取材とか撮影がないときは入っとーよ」と。




姉さん、さすがです。





☞☞




そういや、最近のブログで
こんな素敵なこと書いてました。




「たまたま」というのは、
無駄になることをたくさんやっているのです。



準備の段階で無限の無駄をやったり、
無限の勉強をしています。



準備していないと「たまたま」には
巡り会えません。




「たまたま」の前には
必ず「コツコツ」があります。




岩本社長のブログはこちらから




テクニックで稼ぐのが主流になってる昨今、
やはり僕はこういった考えに惹かれてしまいますね。





お腹いっぱいになりました。
ご馳走様っす(-∧-)



☞☞




ちなみに、このお店には白蛇さんと
脱皮した抜け殻が祀られてまして。
(撮影禁止なので写真はお見せできませんが)





その脱皮した抜け殻と、清めた塩と米を
一緒に瓶に入れたものをお守りにして販売してます。




数がそんなに作れないらしく、
すぐに売り切れてしまうらしいのですが、
ちょうどタイミング良く、残ってまして、




「ご縁があったね~ラッキーやね~」と。
なるほど、唐津からの縁でしょうね。




こんなやつです。




クライアントさんの分まで買いたかったんですが、
買い占めるのはどうかと思い、2つだけ買いました。
(そもそも、数が足りなかった。。。)




ちょっとずつ、お送りしますんで
気を長くしてお待ちください(゜゜)





2015/06/08

近況とか



福岡の大名にある「Fish & Fish」さんに
行ってきました。


ちょっと前にできたお寿司の食べ放題のお店です。






こちらはただのお寿司ではなく、
アメリカ発のロール寿司を提供するんですね。





見た目がなんか、楽しいです。




僕的には味が複雑すぎたんですが、
サイドメニューは素敵でした^^




魚は壱岐から直送しているんで
カルパッチョとか、シュリンプサラダはすごく新鮮ですね。






二人用の席に案内されたんですが、僕一人です(笑)








アラ汁やフカヒレの茶碗蒸、
かぼちゃのスープが置いてあるのも珍しかったです。




最後のデザートはあっさりと
わらび餅とコーヒーゼリーで締めました。





ごちそうさまでした(-∧-)





☞☞☞



帰りに、セールやってたんで
ちょっと羽織る的なやつを探してたんですが、



マジかよというくらい気に入ったのを発見して、
嬉しさのあまり、そのまま着て帰りました(笑)




素材がサラサラっとして、触り心地が良い。
そして、何よりもゆるい。




まさに僕好み。
えー買い物したなぁ。






多分、この子は夏前まで活躍するでしょう。




2015/06/03

梅雨ですね




こんばんわ、坂口です(゜゜)
九州が梅雨入りしたようです。




ちなみに僕は梅雨生まれなんですが、
あの湿気の不快さは馴染めませんな(笑)




ということで、パーマが伸びきった髪を
バッサリ切ってきました。





もう少し切っとけばよかった。





その帰りに久々に「和かな家」さんへ。



こちらはさつま知覧の地鶏を使った鳥料理で
有名なんですが、ランチは地鶏を使ったハンバーグが人気です。



ソースは何種類かある中から選べるんですが、
今日は和風タルタルにしました。



トリオセットはハンバーグにチキンカツとエビフライがつきます。




半熟卵と一緒に食べると美味し。
大将が鳥にこだわっているだけあります。





ご飯が進むすすむ





あと、一日限定5食で
A5ランクの佐賀牛を使った佐賀牛重もお勧めです。
(すぐ売り切れるけど)



これで1500円は安いですよね。




ご馳走様でした(。・ω・)ノ




☞ ☞





帰ってきて、切った髪を鏡で見ていたら、
何本か白髪を発見(゜゜)





ありゃりゃ。
老いは、一気にくるものではなくて、
徐々に感じるというのはホントですね(笑)




まあ、年を重ねると言う意味では、悪くないです。





2015/06/02

本質観取



こんばんわ。坂口です。



6月に入りました。
今年もあと半分と思うと、焦っちゃいますね(゜゜)



さて、今回のテーマは「本質観取」、
ヘーゲルの概念なんですが、


この人の本はとにかく難解すぎる、
敬遠されている方も多いんじゃないかしらん。



自分で言葉を作ったりして、
どうにか可視化しようとしているんですが、
普通に読むとパンクしますね。




そういや、僕が起業した当時は
「本質」という言葉を書いただけでも、
重たい奴とかイタイ奴だと思われていたんですが、



最近、この言葉を頻繁に見ることから、
違和感なく使われてきているように感じます。




なるほど。
インクを大海に一滴だけ垂らしただけでは、
その色の変化に気づかないけれど、




それを繰り返すことで、
やがて色濃く浸透していく、世の常でしょう。










さて、unreveの「本質」とは根幹(リゾーム)、
つまり「そもそもの前提」に気付くことです。



しかし、簡単に出てきません。
それはタマネギの皮のように、多層的なのです。



その結果、多くが
「本質の手前」を原因だと捉えてしまいます。



例えば現在の問題点を解決する場合、
まずその原因になってるものを調べますよね。



QCではフィッシュボーンダイアグラムとか
使って重点要因を決定し、そこに手を打つし、
トヨタみたいに「なぜ」を3回繰り返したりするんですが、



こういったロジックでは、必ず
「見える部分」が阻害要因になってしまいます。



だからあり方ではなく「やり方」に
テコ入れしてしまうんですね。



これがビジネスなら(まだ)良いでしょう。
最終的には「ある秩序(システム)」と接触するので、
そこが(とりあえずの)改善点、ゴールなわけです。
(結局、システムとコストだけになるんですが)



しかし人間的な問題はそうじゃない。




実は、学問的真理の無力さも
そこにあるのです。




☞ ☞ ☞




例えば、道教では
「道(タオ)とはすなわち目的地だ」と言われます。




では、道そのものが目的ならば、
なぜその道を「歩いていかなくてはいけない」のでしょうか。




皆さん、分かりますか(笑)?




実はこれ、「なぜ」の究極領域なんです。
それ以上説明ができないもの。




例えばこれから科学がどんどん進歩して、
いつか宇宙の始まりを正確に説明できるかもしれませんけど、



「なぜ宇宙は作られたのか?」は
永久に説明できないでしょう。



意味はあるのか?ないのか?
ないのなら、「なぜ」それは存在するのか?



この行き止まりを解決する為に、
意味を求める人は「絶対的な価値」を作らなくてはいけません。




そこで登場したのが、
形而上の神や、真理なのでしょう。




☞ ☞



人間にとって神話が必要なのもそう、
我々にはこういった「神へ至る道」がなければ、
「意味の問い」に答えられない。




それによって普遍的な「物語」が生まれ、
無意味性に意味が付与されるということは、



言わば本質的な「無意味、無価値」を、
意味、価値として「再定義」していると言えます。



ただ、(誤解を恐れずに言えば)
宗教なんて神を相手にしたビジネスであって、



普通に考えると、良いことをした
「見返り」として、報酬を求めてる以上、
その善意には「意味」が付与されている。



ビジネス的な価値交換としてなら良いでしょうが、
「絶対的に善いこと」とは異なるもの。



また、そんな「善」が多数の圧力によって
最高の価値として観念化されれば、



その定義された「善」は必然的に
対立概念である「悪」も引っ張ってきます。



☞ ☞



その「善」の理由が限定化されれいけば
「自分の作った神(善)」を押し付けてしまい、



逆にそれをやっていない相手は「悪」、
やっつける対象となる。



当てる光が強いからこそ、影も色濃くなる。
これがあらゆる争いの根幹なのでしょうが、
何かの意味を付与する以上、避けられません。





逆を言えば、本質的な善は無償。
つまり損得もなければ、打算もないものだと言えます。
(詳しくは「行動と行為の違い」を)




子供たちの「遊び」などは、
意味や実利など全くありません。



しかしそこには「喜び」という志向性がある。
理念はそれに近いものがあります。





雑記




こんにちわ、坂口です(゜゜)



youtubeに動画をアップする時、
今使ってるアイフォン6のデータだと時間かかるから
昔の奴使ってるんですけど、




画像悪いですね。
まあアラを隠せるのでいっか、と思ってます(笑)




☞ ☞




思えば、昨年から動画も取り始め、
ずいぶんな数になりました。



この間、一年前に撮ったコンテンツを見てたんですけど
今とおんなじこと話してまして、一安心(?)してます。






2014年6月



この考え方は会社員時代の頃からのもの。
当時は石投げられそうなマイノリティだったんですけど、
今は逆転しそうな勢いです。





☞ ☞


今は二極化。
つまりそれぞれが「極み」に向かっています。



激動の時代と言われますが、
それは端的に揺り戻しの激しさのことでしょう。



もちろん、これが10年、20年続くかというと
そうは思わないわけで、




弥栄の流れからすれば、それが普及したら
次は対極の(しかも一段上がった)ものが到来すると思ってます。




そう考えると、これからの時代は
「良くなる」以外ありえない。





僕はそう思いますね。