2015/06/09

わたしはわたし!




こんにちわ、坂口です(゜゜)


そろそろ蛍の季節ですが、
さすがに花火と違い、一人ではいけませんな(笑)



ということで、来月から始まる
祭りラッシュを楽しみに、仕事を頑張ってます。



あっ、仕事終わりのビールもそうだった。
(と言いながら、飲みながらこれ書いてますけどね)




お疲れ様~






さて、unreveの日本流事業継承は
事業を持続させるための、いち方法論なんですが、




誰かのビジネスに対して、
「自分が作ったものではない」という理由から
抵抗がある人もいるかと思います。



どうせ独立するなら、じぶんが作った
独自のものを!ってね。



僕自身そういったタチなんですが、
僕の事業の場合この「じぶんが!」という主体と
「継承」という客体の折り合いが必要でして、



そのため、簡単に影響される半面、頑なに拒絶もする
一貫性のない「じぶん」を理解しなければいけませんでした。




unreveでは、そんな自我(エゴ)と自己(セルフ)を
明確に区別しているんですが、こういった背景があるんですね。




それは「自らを分ける」という意味である
「自分」という文字にもつながるんですが、




ここらへんの詳細はデカルトさんに
お任せして、次に進みましょう(笑)



☞☞☞




unreveではこの主体を
「ある主体」ではなく、「成る主体」と言っています。




例えば会話の際、「僕は」こう思うだの、
「私は」これが良いと思うなど、
いちいち主語を入れませんよね。




「この案とか良いんじゃない?」


「そうなると、こんな感じで進むのかな」


「あっ、ちょっと待って。こっちの方は?」


「うーん、それはどうかなぁ」




多分、こんな感じじゃないでしょうか。




このように、対話の場においては
主体(第一人称)優先ではなくなるんです。
一人称優先はディベート(討論)です。



ここが日本流の重要なポイント。
自分(部分)より場(全体)を重視しているということ。



手前、自分、己、僕、私、俺などなど、
日本はたくさんの「わたし(第一人称)」がありますが、



第一人称を二人称にも三人称にも
使えるようにした結果ではないでしょうか。




なぜなら、場というものは初めから
存在しているのではなく、作られる(成る)ものですから。





☞☞☞




本来、対話や場というものは、
個人の主義思想の優劣を決めるのではなく、
場にいる相手との協創が目的です。




逆に言えば場というものは、様々な
客体の寄せ集めの結果でもあるんです。




私と言わない地点に到達するのではなく、
私と言うか言わないかが、もはやまったく重要でないような地点に到達することだ。




これはドゥルーズの「千のプラトー」にある
一説ですが、自己中心とはまさにこの地点のことであって、



対話による共創は、「自分」を超えている。
だからこそ、その場は勢いや熱を持ちます。



理念や志向性や決定者が不在であれば、
それは単なるグダグダの会議なんですが、



明確な理想があれば、そこにキャッチアップする
勢いはダントツに優れているんです。




☞☞



これは集団ではなく個人でも
同じことが言えます。
(厳密にいえば差異があるけれど)



たとえば、僕の目指しているものは
今まで縦横無尽に読み漁った本の中から
「なぜか好きだったもの」が繋がり、編集されることで
作られているわけでしょう。




そうなると「自分の独自性」とは結局のところ、
今までの経験が集まってできた「結果」なわけです。



そしてその経験は曖昧な「感情」によって
無作為に選んでいる。




まさに確固たる「思想」が
最初に存在しない、証明でもあります。




理性と感性の違いは「ある」と「成る」の違いなんですね。







話がちょっと複雑になってきましたが、
ベルグソンの「持続」とは、そういった過去の
経験を常に取り入れながら進む「さま」のことです。



つまり過去の経験や記憶によって
今の「じぶん」が支えられている。



よく「過去は過去、忘れてしまおう」といいますが、
我々はそれをベースにして今を生き、成長する以上、
消えたり無くなったりするものではない。



逆にそれがなくては、
どこに進むかすら、わかりません。



今の「じぶん」が過去を見ているのではなく、
過去が今の「じぶん」を見ているんですからね。



そしてその過去というものは
それまでの経験の寄せ集めである以上、
始まりも終わりもありません。




それだけが一貫して持続している、と。
これを純粋持続と呼びます。




精神も宇宙もそのようなものだと言うのが
ベルグソンの哲学の根幹にあるんですね。




ちなみに、遷宮の常若もそんな概念でしょう。
僕はそれをフランチャイズに応用しています。




さて、「わたし!」と叫んでいる私とは、
いったい、何を指すのでしょう。




この不思議さを知ると、宗教や
スピリチュアルの誤りがわかりますよ(笑)





0 件のコメント:

コメントを投稿