2015/06/14

競争的環境の中で輝く個性




文部科学省のHP内にある
21世紀の大学像と今後の改革方策について
書かれていた内容を見てたんですが、




「競争的環境の中で個性が輝く大学」と、
ひときわ大きな文字で書かれていました。




・・・・・(゜゜)




まあ、ほかにも色んなことが書いてますが、
この「競争的環境の中で個性が・・・」という文面が
国家の前提(内部)を端的に表しているんだなあ、と
改めて納得してしまいましたな。



文部省が個性とか自分らしくという解釈を
どのように捉えているのかはわかりませんが、




そもそも生徒や教師ではなく
大学という機関そのものに対する個性とは、
いわば相対比較の特殊性のことであって、




さらに「方策」と「個性」は矛盾する以上、
全く違う方向に向かうのは間違いないでしょう。




言葉だけ時代に合わせてもねえ。
というわけで、今日はそんなところから。。。










「個性がない」と「自分がわからない」を
同じように考えてる人は意外に多いようです。



そうなると、自分に合った、相応しい、
活かせるものさえ、発見すれば良い、という
図式が生まれるんですが、




以前書いたように、「自分がわからない」まま
「自分に合った」ものを探している時点で
そもそもの前提が間違っています。



そこで「じゃあ自分を知れば良いんだな」といって
高いお金払って、自分を探しにいく人がいるんですが、




まさに井上陽水の歌のまんまやないか、と。




☞☞




個性は自分や他人が作為的にやるものじゃなく、
自然派生。少なくとも僕はそう思っています。




他人と異なろうと思って発揮する個性など
個性ではなく、顔かたちの違い。特殊性と同じです。



血液型や指紋が個性と呼べないように、
そんなもの、全員違って当たり前です。



多分、環境がどうであれ、他人がどうであれ、
「自分はこれしかできない」という、
一種の宿命的なものの自覚ではないでしょうか。




どうしてもこうしてしまう、
どう足掻いても、こうする事しかできない。



それを自分であると肯定する反面、
ひどい自己嫌悪になることだってある、



好きと嫌いを兼ね備えたもの。
否、それを超えているものと言っていいかもしれません。



それを「ああ、これがこの人の個性なんだね」と
「他人が」見つけ出すものだと思うんですね。



☞☞☞



カントの認識論的に、赤いメガネをかけてるから
世界が赤く見えるのは当然でしょう、という人もいるでしょうが、
そうじゃない。



個性というのはいわば世界(外部)ではなく
自己(内部)をこの目そのもので見るということ。



ちなみにこのメガネは価値観という
外部のフィルターですから、



このメガネを外せたとき、
初めて対話ができるのです。



これをかけているという自覚がない人は
偏屈な主義者で、傲慢な人間になりがちです。



だからその人の「分からない・できない」は
前提が「分かる気が最初からない」のです。



反論してやろう、欠点を見つけてやろう、
言い負かしてやろう、と意気込んでいる人と
どうやって対話ができるというのでしょう。



んなもん、できませんよ。
だから君子はそんな人を「危うき人」として
近寄らなかったんです。




☞☞



閑話休題、いつもの癖です。
人は自分の見たいように世界を見る以上、
自分の内部にあるものを、自分の外部に見出します。



自分の内部を他人に投影していることを忘れ、
まるで他人がそうだと言わんばかりに解釈するのは、



人の見る目(見方)がその人の内部を
端的に表しているからなんですね。



まさに「自分と世界」ではなく
「自分が世界」ということです。



だから、人によって人生は体験であり、
遊びであり、ゲームであるという人もいれば、



修行であり、苦痛であり、地獄だという人もいるのでしょう。





冒頭に書いている
競争前提の個性の発揮という世界は
みなさんにどう映っているか分かりませんが、





僕には利用価値としての個性、
単なるヒエラルキーにしか見えませんね。






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